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こえしば  作者: YB
8/16

#08 瞬間全力ガチ恋

☆月島鏡果


「本当についていかなくていいの?」

 玄関でこないだ買ってあげたローファーのかかとを踏む娘に問いかける。

「いいって。高校生になって親と一緒とか恥ずいから」

 月華はそう言っては立ち上がり玄関の扉を開けて、靴底を蹴って飛び出していった。

 高校に進学して三ヶ月、月華はまた私の知らないあいだに別の月華になっていた。

 そのことを私はいまだに子供の成長と認められずにいる。

 月華がこえしばを初めた頃、何かに取り憑かれたように毎日、月華は別人になった。

 私はそんな月華が恐くて、どう接していいのか分からず甘やかして育ててしまった。

 学校に行きたくない日は休ませたし、嫌いな食べ物は残してもいいし、よほど高価な物じゃなければ買ってあげるし、勉強は‥‥‥本人にやる気がないならしなくてもいい。

 しかし、月華がはっきりと私に望んだのは『こえしばの大会についてきて欲しい』というものだけだった。

 歳の離れた妹の琥珀も甘やかされて育った女の子だった。

 歳が離れていたこともあって、私は琥珀を可愛がった。琥珀が学校で一番美人な女の子と呼ばれることを私は誇りに思っていた。

 琥珀が私と母に内緒で大阪の浪花崎高校に進学を決めた時、「この子は特別なんだ」と私は呑気に思っていた。琥珀が家を離れることを渋った母を説得したのも私だ。


「琥珀は大河ドラマとかに出るような大女優になるよ、きっと。だから、応援してあげようよ、お母さん」


 当時、仕事も慣れて婚約もして全て順調だった私は、母がこれ以上渋るなら琥珀の学費をだしてあげていいとさえ思っていた。

 その結果、琥珀は声優になった。そして、東京の家賃五万円のアパートで死にかけてしまった。

 それから私は声優という仕事を恨んでいる。

 月華が琥珀の影響を受けて声の芝居を始めて、日本一になっても素直に喜べないのは私が声優を憎んでいるから。だから、異常なまでに声の芝居に執着する月華がいつか声優に殺されてしまうんじゃないかとさえ思えてしまう。

 月華を私の手の届く場所に置いておきたかった。できればこのまま一生、二人だけでもいいから。

 私は私のわがままで月華を手元にとどめておく代償に仕事を辞めて、月華と一緒にいる時間を増やそうと考えていた。

 そんな矢先、高校で月華に友達ができたらしい。

 中田紀子さんと松野こあらさんという二人の女の子は、月華がいないと何もできない残念な女の子で、すぐに月華を頼り友達にして欲しいと泣きついてきたらしかった。

 毎晩、中田さんとこあらさんの話を聞かされて(何故かこえしばではなく野球をしている)、さらに月華は先輩からも頼りにされて忙しいと愚痴をこぼしていた。来週からこあらさんの実家のお寿司屋でアルバイトを始めるという。

 やはり、私は月華のことがこれっぽちも分からなかった。母として願うのは、ただ娘が普通の女の子になって欲しい、それだけだった。

 それはそれとして。声の芝居と見た目以外、母親の私から見てもかなり残念な女の子の月華が残念と呼ぶ中田さんとこあらさんを一目見たい。私は今から変装して月華に気付かれないようにこえしばの地区大会に出掛ける準備をする。



☆平村優乃


 何を隠すことがあろうか、わたしはどこからどう見ても普通の女の子である。

 小学生の時に友達の付き添いで始めたこえしば部を高校三年になった今日まで続けてこれたのも、わたしが普通の女の子だってことを自覚している普通の女の子だからだ。

 アニメは好きだし、声優さんも好きだし、流行りのポップソングも好きだ。

 他人の心を動かしてしまうような才能を持った人が好き!

 有名人を見かけたら学校で自慢してしまうぐらいわたしはミーハーだって自覚している。

 隣駅の近くにある総合体育館に時間通りついたのはわたしだけだった。

 昨日、あれだけ「遅刻すんなよ!」と口を酸っぱく言っていた月島先生すら来ていない。

「のりちゃんは来ると思っていたんだけどな」

 わたしは一人呟き、総合体育館の玄関口に向かっていく他校の生徒を眺めていた。

 時刻は九時過ぎ。高等学校こえしば大会地区予選の開会式は九時半開始だ。

 すでに、体育館から発声練習する音が響いている。しかし、わたしに焦りはない。どうせ今日で引退するのだから、今さら練習したところで運命は変わらない。

 わたしが足をブラブラさせてスマホをいじっていると、ようやく月島先生と二年の真田さんがやってきた。

「部長、チースッ!」

 校則違反の前髪をあげた金髪ロングヘアー、日焼けした肌色の真田さんが片手をあげる。

「チース、芹奈ちゃん」

 わたしも片手を伸ばして真田さんの手に触れる。彼女がこえしば部を辞めず、こうして大会に出場するとは思っていなかった。あんなに退屈そうにしていたのにここ最近なんだかいきいきしている。

「おい、優乃! 一年生はどうした? ゴホッ、ゴホッ」

 両側の横髪を乱暴に結んで肩に垂れ下げた月島先生がわたしを睨んでくる。先生の髪型はヤンクミを意識しているらしいが‥‥‥まあ、美人は何しても似合うのでずるい。

「まだ来てませんよ。月島先生、一週間ぐらい咳止まりませんね」

 わたしがのど飴を差し出すと、先生は躊躇わず口に放り込んだ。

「夏風邪だろうな‥‥‥教師は雑務が多すぎるんだっつうの、ゴホッ」

 先生が頭をかいて「あんだけ遅刻すんなって言ったのに」とぶつくさ呟く。あなたも遅刻ですよ、というツッコミは心の中だけでとどめた。

 少しして、まるで何事もなかったかのように月華さんがやってきた。

「月華、遅刻!」

 先生がそう叫ぶと、月華さんは「開会式まだでしょ」と言ってあくびをした。

 先生は拳を握って言い返そうとしたが「ゴホッゴホッ」と咳こみ、持っていたペットボトルの水を飲んでお説教は不発に終わった。

 月華さんが真田さんに「あれ、紀子とこあらは?」と声をかける。「知らにゃい」と真田さんが答えた。

 月華さんと真田さんはいつの間にか仲良くなったらしい。真田さんにジェラシーを感じる。わたしも月華さんと仲良くなりたかったのに。

 わたしは「よしっ」とささいな覚悟を決めて、月華さんに恐るおそる声をかける。

「月島さん、お願いがあるんですけど‥‥‥」

 月華さんが「何?」とこちらに振り向く。アシメショートの光沢のある黒髪、切長の一重まぶた、整った顔、整ったスタイル、そこらのアイドルよりずっと綺麗な月華さんと目が合う。わたしは吐きそうになるぐらい緊張してしまう。

「(わあ、テレビの中の人だ)‥‥‥あの、わたし今日でこえしば部最後だから記念に月島さんと写真撮りたいなって思っておりまして」

 わたしは自分のスマホを指さし、こうべを垂れて言った。

「写真? なんで?」

 月華さんが淡々と言った。二個上のわたしに平気でタメ口なのもカッコいい。

「月島さんが声優さんになって、もっと有名になったら自慢させて欲しいんですけど、いけませんか?」

「別に有名になりたくないけど。写真ぐらい、いいわよ」

「じゃあ、あたしが撮ってあげる!」

 わたしは真田さんにスマホを渡して、総合体育館をバックに月華さんと並んだ。

「こっち見て‥‥‥ポチッとな!」

 真田さんの合図にわたしは小さなピースを作った。

「月島さん、本当にありがとうございます。こえしば続けて良かったあ‥‥‥一生の宝物にします!」

 わたしは月華さんに言った。

「別に写真ぐらいいつでも撮っていいけど」

 月華さんは首をかしげて呆れたように言った。わたしはそんな月華さんすら、カッコいいと思ってしまう。

 わたしたちの近くにタクシーが止まり、ジャケットを羽織った厚着姿ののりちゃんが降りてきた。

「運転手さん、どうもです」

 のりちゃんは丁寧に頭を下げて、わたしたちの方へのそのそとやってくる。

「すみません‥‥‥ゴホッ、ゴホッ。解熱剤が効くまで時間がかかってしまいまして」

 月島先生がのりちゃんに近づいて、おでこに手を当てる。

「熱っ! 紀子、こんな日に風邪ひくかあ?」

 月島先生の風邪がうつったのでは‥‥‥わたしと同じ結論に至ったのか、のりちゃんもじとりと月島先生をにらみつける。

「ヤバくなったらすぐ言えよ。あとは、野球バカだけか、ゴホッ‥‥‥とりあえず、体育館の中に行っとくか。そろそろ、開会式の時間だ」

「先生、アップはしなくていいんですか?」

 わたしは素朴な疑問を投げかけた。

「え? あー‥‥‥まあ、やってもやらんでも結果は変わらんから、やらんでいいだろ」

 相変わらず適当な先生だ。この人が昔アイドル声優として人気だったことが信じられない。

 総合体育館のアリーナに足を踏み入れると、視線がわたしたちに集まる‥‥‥いや、訂正。会場にいる全ての人が月島月華に視線を奪われた。

 月華さんは特に気にすることなく、「紀子ってほんと間が悪いわね」とのりちゃんに絡んでいた。

「昨日、月華さんが風邪気味なら走り込めって無理やり走らせたんですよ」とのりちゃんが言い返す。なんだかその光景が安易に想像できて笑ってしまう。

「白真弓商業高校っ!」

 突然、怒れる声がした。声の主は老年の男性で、ズカズカとこちらにやってきた。

「月島先生! あんたのとこの生徒が勝手にグラウンド使って、施設管理局からこえしば運営委員に使用料が請求されそうになっとるんだが」

 老年の男性の隣には野球ユニホーム姿のこあらちゃんが不機嫌そうに立っていた。

 月島先生も察したように、「こあら、お前‥‥‥」と口にする。

「ほんっと、すみませんでした‥‥‥ゴホッ、ゴホッ。風邪をひいてしまって、生徒に目が届かなくて」

「今回は特別、使用料がかからないようにしてもらったが、二度とこんなことがないようにしてくださいよ!」

「はっ、はい! こあらも謝れ」

 こあらちゃんは不貞腐れたように野球帽を脱ぐ。

「‥‥‥んごぉ」

 こあらちゃんの謝罪に老年男性は目をパチクリさせたが、諦めたように嘆息を捨ててこの場から離れていった。

「こあら〜、学校じゃないんだから勝手にグラウンド使うなよ」

 月島先生が当たり前のことを言った。

「なんでや! 中学校の時は自由に使ってよかったんご!」

 こあらちゃんが納得いかない様子で言い返す。

「それは野球の試合の話だろ‥‥‥こえしばの大会でグラウンドは使わん」

 こあらちゃんが唇を尖らせてそっぽ向く。

「じゃあ、駐車場でやればいいんじゃない? わたしもちょっと体動かしたいし、こあらキャッチボールしよ」

 わたしと真田さんと月島先生が同時に「え?」と月華さんに顔を向けた。

「ええやん、やろやろ」

 こあらちゃんと月華さんが体育館の出入り口に向かおうとする。

「ちょっと待て! お前ら駐車場って‥‥‥ボールが車に当たったらどうする気だ?」

 月島先生が正論を言った。

「さっきのジジイの車だったら当ててもいいっしょ、なんかムカつくし」

「せやせや。ジジイの車に当てたろ」

「頼むから大人しくしてくれ! 紀子、お前がしっかりしないから‥‥‥って、紀子! 大丈夫か?」

 のりちゃんはその場に座り込み、半目で気を失っていた。月島先生が肩をさすると、ハッと目を覚ます。

「え? え? 開会式は終わりましたか?」

 あー、もうめちゃくちゃだよ。わたしが今日、引退することなんて誰も気にも留めていないんだろうな。



 そして、一回戦。形式はソロ。対戦相手は荒岐高校、昨年わたしたちが負けた相手だ。

 総合体育館アリーナの舞台の上にマイクが一台、舞台下には長机に座る審査員が五人。

 舞台には女性の主審が一人立っている。芝居の開始や、芝居を間違えた時は主審の判断でリテイクがかけられる。リテイクは三回出した時点で終了。そこまでの芝居で評価されることになる。

「白真弓商業高校、先鋒の月島さん舞台へ」

 主審の女性が声をかけると、月華さんが「はいはい」と舞台へ上がる。

 地区予選一回戦にも限らず、観客用のパイプ椅子はほとんど埋まっていた。こんな光景、去年ではありえなかった。もちろん、観衆は月華さん目当てに集まったに違いない。

 舞台に上がった月華さんがマイクの前に立つ。月華さんが姿勢を正しタブレットを目の高さで構える、美しさが三億倍は増す、女のわたしでも惚れてしまう、カッコいい。

「じゃあ、三十秒のマイクテストをしてください」

 主審がそう言うと、月華さんは「いらないんで本番やって」と言った。

 主審の女性は眉をひそめたがマイクテストを飛ばすことはルールで認められている。主審の女性がノートPCを操作して、「では、演目『雪女のバカンス』お願いします」と言った。

 舞台センターに立つ月華さんの背後にあるスクリーンが五秒前のカウントダウンムービーを映す。月華さんは目の前に設けられた小型モニターに注視する。

 3、2、1‥‥‥アニメが始まる。

 月華さんが一声上げた瞬間、アニメのキャラクターがわたしの目の前に飛び出してきた!


「勝者、白真弓商業高校月島月華さん、五票獲得です」


 荒岐高校の先鋒の女の子はわたしも中学生の時に対戦したことがあった。わたしと同じ三年生、今日負ければ引退だ。彼女は月華さんに負けたことを「最後の大会で月島月華に負けたんだ」って自慢するのか、それとも黒歴史として記憶を心の底に封印するのか。わたしなら負けたことを自慢する、絶対に。

「ツッキー、ないっす〜!」

 真田さんが舞台から降りてきた月華さんとハイタッチを交わす。あー、ずるい。わたしも月華さんとハイタッチしたい!

「芹奈、分かってる?」

 月華さんがそう言うと、真田さんは「裏技いける!」と答える。

 二人が秘密の訓練をしていることは知っていた。ただ、裏技とはなんなのか。月島先生ですら聞かされていない。月華さんが言ったのは「わたしの次は芹奈にして」だけだった。

 次鋒は荒岐高校が先攻だ。これまた見知った女の子が演目『怪しい傘地蔵』を演じる。

 明らかに月華さんの芝居を意識していて、彼女のいつもの芝居ができていなかった。途中、涙を浮かべセリフを飛ばしてしまい、アニメ映像が停止されてリテイクが一回かかってしまった。わたしの知る彼女から想像できない失態であった。

 主審が後攻に声をかけて、真田さんが軽い感じで舞台に上がる。

「あ〜、あたしもマイクテストいりませーん」

 観衆がざわつく。そりゃ、金髪の日焼けしたギャルがでてきて、月華さんと同じことをしたら「何だこいつは!」ってなるに決まっている。

 真田さんは口角を上げて楽しんでいた。自信に満ち溢れていた。月華さんの芝居を聞いて、なんで余裕でいられるのだろうか? 気持ちを安定させることが月華さんの裏技なのかも知れない。

 アニメが始まる。すぐに観衆は舞台上の演技に目を見開いた。何故なら、真田芹奈の芝居は月島月華に似ていたからだった。それは月島月華の芝居に当てられたわたしたちが、どこかで求めているものでもあった。


「勝者、白真弓商業高校真田芹奈さん、五票獲得です」


「わたしの芝居を録音して芹奈に渡したの。芹奈って真似が上手だから」

 隣に立つ月華さんが当たり前のように言った。真田さんが『真似が上手』だなんて、わたしは一度も気付かなかった。そんな裏技があるなら、わたしにも伝授して欲しい。

「いよっしゃ〜! ツッキー、あたし初めて勝っちゃった! こえしばってこんなに楽しいんだ!」

 舞台から降りてきた真田さんが月華さんに抱きついた。真田さんの目から涙が落ちたことをわたしは見逃さなかった。なんだかわたしまで泣きそうになる。つまらなさそうにしていた真田さんを知っていたから。


「勝者、荒岐高校安西翔子さん、五票獲得です」


 中堅戦があっけなく終わる。意識が朦朧としたのりちゃんはなんとか芝居をやり切ったが声が全くでていなかった。舞台から降りた今、パイプ椅子に座って力尽きている。

「紀子、もっと声だしなさいよ」

 月華さんがのりちゃんの足をげしげし蹴って言った。そんな鬼な月華さんもカッコいい。ちなみにのりちゃんの隣で月島先生も座りながら眠っている。


「コスプレ禁止、リテイク一回」「台詞を飛ばした、リテイク一回」「台詞を改変しない、リテイク一回」「‥‥‥んごぉ」「勝者、荒岐高校竹内琴枝さん、五票獲得です」


 こあらちゃんがとぼとぼと舞台から降りて戻ってくる。ソロ課題で三回リテイクを出して途中降板する人を初めて見てしまった。こあらちゃんの着ている中学時代の野球ユニホームがコスプレ扱いされたことにはさすがに笑ってしまった。

「こあらのくせになに緊張してんのよ」

 月華さんがこあらちゃんの肩を叩く。それは仕方がないことだ。わたしなんて舞台に上がると今でも緊張してしまうのだ。初めて舞台の上で演技をしたらそりゃ台詞の一つや二つ飛ばしてしまう。まあ、普通だったら主審さんが気を利かせて最後までやらしてくれるものだったりするけど。

「こえしば、おもんない」

 こあらちゃんはそう言うとのりちゃんの隣に座って野球ボールをいじりはじめる。

 こえしばを初めてちょうど九年、こんなめちゃくちゃなチームは初めてだ。去年だって勝てなかったけど『こえしば部』はやれていた。

 大将戦、先攻、わたしの番がまわってくる。

「部長、ファイト〜」

 真田さんが声をかけてくれる。他の白真弓メンバーは誰もわたしのことを見ていない。現時点で二勝二敗、わたしが負けたら地区予選敗退、わたしはこえしば部から引退。そのことに誰も気づいていないのだろうか?

 舞台に上がる。マイクテスト三十秒をしっかりとこなす。

「演目『あの子と魔法の太鼓』お願いします」

 主審の女性がそう口にすると、カウントダウンが始まる。『あの子と魔法の太鼓』はわたしがこえしばで一番最初に覚えた台本だ。この作品で引退できるなら本望だと地区予選の課題アニメが発表された時から思っていた。

 3、2、1、アニメスタート


 ───あれ、わたし全然緊張していない


「勝者、白真弓商業高校平村優乃、四票獲得です」



☆月島月華


「ちょっと、トイレ行ってくる」

 地区予選一回戦を勝っただけで浮かれている部長をよそ目にわたしはトイレに向かった。アリーナを後にして、エントランスを横切って女子トイレで用を足す。手を洗ってからトイレを出る。エントランスからアリーナに戻ろうとしたところで名前を呼ばれた。

「月島月華、ですよね?」

 野太い掠れた声がして振り返ると、見た目が不衛生な太ったおじさんがいた。いわゆる、キモオタって感じの人で、わたしは覚えのない目の前の男を警戒する。

「何か?」

「自分、月島月華のファンで、フヘヘ‥‥‥今日も埼玉から応援しにきたんですよ」

「はあ、そうですか‥‥‥」

 わたしは自然といるはずのないお母さんを探してしまう。こういうとき、いつも守ってくれたのはお母さんだったから。

「さっきの演技もすごかったね、フヘッ‥‥‥高校になっても月島月華ここにありだね」

 キモオタは汗をかいていて、鼻につく人間臭い匂いが不愉快だった。気持ち悪かった。

「ありがとう‥‥‥ございます。わたし、次の試合があるから」

 わたしはきびすを返して、アリーナに向かおうとする。その瞬間、手首に痛みが走った。すぐにわたしの手首をキモオタが握ったのだと気づく。背中から指先にかけて悪寒がする。気持ち悪い、気持ち悪い。

「ぼ、ぼ、僕もこう見えても声優で、専門学校も卒業していて」

「あの‥‥‥離してください」

「今はちょっと声優活動は休止してるんだけど、月島月華の芝居を聞いたら、また再開しようかなって、フヘヘ‥‥思ってさ」

「勝手にすればいいじゃないですか」

「でね、ぼ、ぼ、僕の芝居を月島月華に評価して欲しくて、フヘヘ‥‥‥トイレに行くのを見かけたから、ちょうどいいなって‥‥‥僕の芝居を聞いてくれる?」

 わたしの手首を握るキモオタの力が強くなった。痛い、気持ち悪い、でも逃げれらない、どうしよう‥‥‥助けてお母さん!

「‥‥‥離してっ」

「しっかり聞いてね───」

 キモオタが日曜朝に放送されている女児向けアニメのセリフを裏声で叫んだ。それは、芝居でもモノマネでもなかった。狂気だった。その狂気は子供からアニメを奪うオタクの狂気だった。

「どうだった? ぼ、ぼ、僕、思ったよりやるでしょ?」

 視界が揺れている。呼吸で肩が浮いてしまう。気持ち悪い、恐い、もしかして殺されちゃうの、わたし?

「そんな演技じゃ評価できないよ」

 突然、第三者の声がした。全然、知らない男の人の声。わたしはどうしたらいいのか分からず、まぶたを閉じて怯えることしかできない。

「男性声優さん、評価して欲しいならもっと冷静に、ね?」

「お前には言ってないだろ! ぼ、ぼ、僕は月島月華に評価してもらうんだ!」

「うん、それはたいした問題じゃないんだ。絵のない芝居をいきなりしても評価なんてできないってことだよ」

「プニキュアを馬鹿にするなっ!」

「違う違う、そうじゃない。君が声優だったら、自分の演技をするべきだって話だよ。とはいえ、ここにはアニメもマイクもない‥‥‥じゃあ、どうするか? そこで、僕が作った『一言お芝居カード』」

「勝手に進めるなよ!」

「このカードはね、表に絵が書いてあって、裏にセリフが書いてあるんだ。全部、僕の手作りだよ。ま、ただの紙芝居なんだけど。ほら、声優だったら急にお芝居をしたくなる時があるでしょ? そんな時にこのカードの出番だ、さあシャッフルしたよ。カードを一枚選んで」

 キモオタがわたしから手を離した。わたしは一歩引いてから、いきなり現れた男の顔を盗み見る。学ラン姿の短髪で、大きな瞳がギラギラと輝いていた。何もかも見透かしてしまうようなダイヤモンドの瞳だった。

 呼吸を乱しながらキモオタがカードを一枚選ぶと、単発の男がこう叫ぶ。

「さあ、絵に合わせて一言台詞で演じるんだ!」

 カードに描かれていたのは電車の中、窓の外に竜が翔ぶ、少年は竜に手を振る、吊り革が揺れている、吸い込まれそうな、本当に竜がいるかのような絵だった。

「お前は一体なんだ! ぼ、ぼ、僕は‥‥‥ギャラの発生しない芝居はしないんだ!」

 キモオタがそう叫ぶと、学ラン姿の男は瞳をギラギラと輝かせて台詞を、芝居を、演技をする。

「今日、雨振んのかよ‥‥‥傘、忘れたな。竜が翔ぶならそう言えよな」

 たった一言のセリフだったのに、いつの間にかわたしは電車に乗って吊り革が揺れるのを眺めていた。そして、窓の外に目をやると、可愛らしい竜が飛んでいて、どうやらわたしも傘を忘れてしまったらしい。


 ───え、この人わたしよりも上手い?


「ぼ、ぼ、僕は‥‥‥もういいっ! 帰るっ!」

 キモオタはフゴフゴ鼻息を鳴らして、逃げるように総合体育館の出入り口へ向かっていった。

「えー、一緒にアニメ作ってくれないのか」

 男は心底、残念そうに言った。

 わたしは前髪を整えて、男と対峙する。心臓が高鳴っている。恐怖じゃない‥‥‥じゃあ、この高鳴りはなんなんだ!

「あの‥‥‥助けてくれてありがとう」

「え、なんのこと? 楽しそうにアニメの話をしていたから混ざりたくなっただけだよ。あ、迷惑だった?」

「迷惑ではない‥‥‥なかったです。本当に助かりました」

 男はニコリと微笑み、ギラギラと輝く瞳でわたしを見つめる。

「まあ、助かったのなら良かったよ‥‥‥おっと、そろそろ戻らないと。また一緒にアニメ作りたいね」

「待って! あの、名前教えて」

 わたしがそう言うと、男はポケットからカードを取りだす。

「売り出し中なんだ。じゃあね」

 わたしがカードを受け取ると男は揚々と歩き去っていく。わたしは名残惜しみながら、もらったカードを確認した。


  アニメ監督 柿本虫可(かきもとむしか)


 それは名刺だった。わたしは名刺に書かれた名前を口にする。

「柿本虫可」

 心臓の音が大きくなる、奥歯が痛いぐらい! 虫歯はないはずなのに!



「ねえ、紀子。この人知ってる?」

「え、それを聞くために死にかけているわたしを叩き起こしたんですか?」

「そんなのいいから、教えてって」

「あー、月華さんも知ってる人ですよ」

「はあっ? わたしは柿本‥‥さんのことなんか知らないわよ」

「カラオケで一緒にやったじゃないですか。高校三年生の超天才アニメーター監督、『嫌われ者と好かれ者』のKAKIMUSHIさんですよ。確か、今日の地区予選のネット中継のゲストで来てるはずです」

「えっ! 柿本さん、わたしの芝居を見てるってこと」

「そりゃあ、月華さんを見るためのネット配信みたいなもんですから」

「嘘っ! どうしようっ! さっきの芝居、芹奈に合わせるために手加減しちゃった! 柿本さんに下手な奴って思われたかもっ!」

「‥‥‥ちょっと月華さん、話が見えないのでとりあえず休ませてもらっていいですか?」

「紀子っ! ささっと治しなさいよ! 次、負けたら許さないから!」

「うぅ、熱が‥‥‥」

「紀子、どうしよう! どうしよう!」


 本当にどうしようっ!



声優さんは変な人が多いです。声優になりたいなら、変な人になればいいのです。というか、変な人になるために頑張ったから声優さんは変な人が多いのです。変な人になることを頑張らない人は声優になるのは難しいですね。僕みたいな凡人は変な人にもなれません。

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