#04 感情のビート
☆月島月華
わたしの前を走るこあらが大声で口にする。
「イッチ! ニー!」
続けて、わたしと紀子が大声で口にする。
「ワッショイ!」
放課後、わたしたちこえしば部一年生は白真弓商業高校のグラウンドで軽めのジョギングをしていた。
「イッチ! ニー!」
「ワッショイ!」
先頭を走るこあらは垣内中学と刺繍された野球ユニホーム姿で、わたしの隣を走る紀子は下は高校指定のジャージで上はフードのついたスポーツブランドのジャージ姿だった。フードの中には紀子の長い髪の毛が収まっている。ちなみにわたしは高校指定のジャージ上下を着用している。
「イッチ! ニー!」
「ワッショイ! ‥‥ってか、この掛け声なんなのよ!」
グラウンドにはわたしたちの姿しかなかった。どうやら担任の先生が言っていた『うちには厳しい部活ないから』というのは本当だったらしい。
白真弓商業高校は放課後になると、学生の姿を手品のように消してしまうようだった。
「イッチ! ニー! 声出しっ! すんねやろっ!」
息を切らしたこあらが言った。
「ワッショイ! 言ったけどさっ! こえしば部ぽくないっ!」
さほど乱れていない呼吸のわたしが答える。これぐらいの有酸素運動なら余裕だ。わたしは体力だって誰にも負ける気がしない。
「ワッショイ! まあまあ月華さんっ! いい練習になりますよっ!」
不健康そうな見た目とは反対に紀子は余裕そうに言った。
「イッチ! ニー! 声ちっさいっ!」
上下に揺れるこあらの背中が生意気に言う。わたしと紀子は反射的に一番大きな声を出す。
「ワッショイ! ワッショイ!」
わたしはその勢いのまま、走るスピードを上げてこあらを抜いて先頭に躍り出た。
「遅いのよっ! もっとペースあげなさいよっ!」
わたしが「ワッショイ! ワッショイ!」と口にして、しばらく走っていると紀子の声がする。
「月華さんっ! 月華さーんっ! もう終わりみたいですよーっ!」
遠くから聞こえた紀子の声に立ち止まり振り返ると、こあらも紀子もすでに走るのをやめていた。
「勝手にやめんなっ! ワッショイ! ワッショイ!」
わたしはそう叫びながら、二人の位置までダッシュして体当たりした。
体当たりしたわたしも、体当たりされた二人も、こういうことをやったことないのが丸わかりの「お、おう」みたいな反応をして、気まずい空気になってしまう。
わたしがむず痒い思いをしていると、こあらがグラウンドの隅に置いてあったスポーツバックから野球のグローブ二つとバットを持ってきた。
「次は声出しながらキャッチボールやっ!」
「勝手に野球部にすんなっ!」
わたしがこあらに抗議の声をあげると、紀子が「まあまあ」と言ってこう続ける。
「体動かしながら声出すのって、こえしば部の練習の理には叶ってると思いますよ」
「ふーん、紀子がそう言うなら、まあ‥‥‥」
わたしは腑に落ちなかったが、声の芝居が上手い紀子が言うならきっとそうなんだろうと無理矢理納得した。
こあらが「ほれ」と言って、わたしにグローブを渡してきた。あまり使い込まれていない分厚くてでかいグローブだった。
「紀子の分は?」
わたしはグローブを左手にはめながら言った。
「わたしは野球やったことないので、とりあえず見学で‥‥‥」
紀子がそう言い切る前に、こあらが「ノッリは素振りや」と金属製のバットを渡した。そして、紀子に簡単にバッドの振り方を教える。
そのあいだわたしはグローブの付け心地を確かめたり、ボールを投げるふりをしてみたりする。実は中日ドラゴンズの試合を見てから、野球をやりたいと思っていた。
「ツッキ、声出しながらキャッチボールするんご!」
こあらがわたしに向かって白色のボールを見せびらかした。その後ろでは、紀子が「イチ、ニー、サンッ!」と真面目に素振りをしている。
「さっさと投げなさいよ!」
わたしがそう手を振ると、こあらからボールが飛んでくる。
わたしはパシッ! と音をさせてイメージ通りにボールをグローブの中に収めた。
そして、わたしは想像する。バンテリンドームで躍動していたプロ野球選手の一足一動を。まさに、演じるように。
足のつま先から、手の指先まで、わたしは野球を芝居する。
思いきり振った腕から風切り音がして、指先を離れたボールはこあらの胸の位置にまっすぐと飛んでいった。
「ナイッピッチ!」
ボールを捕球したこあらがわたしの投球を賞賛する。
「‥‥‥バッチコーイッ!」
わたしはグローブを叩いて、大きな声で返事をした。確かに野球はこえしば部の練習として理にかなっているかも知れない。
しばらく、キャッチボールを続けていると、こあらが次の指示を出す。
「ツッキ、キャッチャーやってやー」
「キャッチャーって座ってる奴のことよね」
わたしは中日ドラゴンズのことを思い出しながら、キャッチャーの姿勢をとってみせる。
「こんな感じでいいのーっ?」
「ええやで! ノッリ、バット持ってバッターボックスに立ってやー」
こあらがそう指示を出すと、わたしの左手前に紀子が立つ。
「ここでいいんですかー? わたし、まだバットの振る自信ないですよー」
「立っとるだけでええよー‥‥‥ふぅ〜」
こあらは呼吸を整えながら小石まみれで整備されていないグラウンドの土を蹴った。
「月華さん、野球やったことあるんですか?」
棒立ちの紀子がわたしに言った。
「え、ないけど。でも土曜にプロ野球見に行ったのよ。それが意外に楽しくてさ」
「ええっ! 野球経験ないんですかっ! なんか、普通に野球してません?」
「別に、こんなの上手い人の真似してるだけよ」
「そ、そうなんですね‥‥‥」
わたしと紀子がそんな会話をしていると、精神統一を終えたこあらがこちらに向かって叫ぶ。
「しっかり捕ってなーっ‥‥‥ンゴッ!」
小さな体を隅から隅まで使って放れたボールは綺麗な直線を描きわたしのグローブに収まった。
「‥‥‥なんか、思ったより速くないわね」
わたしはそんな感想をこぼしてからこあらにボールを投げ返す。
「‥‥‥ンゴッ!」
「‥‥‥もっと、速く投げてもいいわよー」
「‥‥‥ンゴッ!」
「‥‥‥手加減しなくてもいいってー」
「‥‥‥ンゴッ!」
「‥‥‥わたしのほう速いいんじゃない」
「‥‥‥ンゴッ!」
「‥‥‥もう、本気出しなさいって!」
「ちょっと、月華さん。たぶん、こあらさん本気ですよ」
左目の前でバットを持って立つ紀子が焦ったようにわたしに言ってくる。
「はあ? どこが? 中日ドラゴンズの選手のほうが全然速かったわよ」
わたしは呆れながら言い返した。
「そういう話じゃなくてですね‥‥‥こあらさん、走ってる時も、少し変でした」
「いや、こあらはずっと変でしょ。なんなのあのダサいエセ関西弁は」
「そうじゃなくてですね‥‥‥たぶん、どこか怪我してるんじゃないでしょうか。投げる時も、ずっと何かを気にしているようですし」
「ふーん、紀子はよく観察してるのね」
わたしは紀子が声の芝居が上手い理由を少しだけ分かった気がした。紀子はよく他人を観察しているのだ。人間観察は声優にはとても大切なことだとお姉ちゃんが言っていた。
わたしはそんな感心を覚えながら、立ち上がって大きな声でこう口にする。
「こあらー、怪我してんだったらわたしがピッチャーやったげようかー!」
「ちょっと、月華さん! もう少しだけ、こあらさんに投げさせてあげましょうよ」
紀子がまた焦ってわたしに言った。
「怪我してんでしょ? わたしのほうが速く投げれるわよ」
「応援してあげましょう、こういう時は‥‥‥こあらさーんっ! バッチコーイでーす!」
紀子がバットを振りまわして大きな声を出した。
こあらは黙ったままうなずぎ、投球フォームに入る。
わたしは釣られるように、中腰に構えてグローブを前へと突き出した。
パスッ、と遅いボールがグローブに収まる。
わたしはボールを握りながら、なんて声を出そうか躊躇する。
「応援ですよ、応援」
紀子が小声で教えてくれた。
わたしは「なんでわたしが‥‥‥」と文句を言いながら、ボールを返球する時。
「ナイッピッチ!」
そうやってこあらに声をかけてみた。
そしたら、こあらはどこか楽しげにボールを受け取り、瞳を潤ませて投球を続けた。
こあらのボールが速くなることはなかったが、わたしの声は自然と大きくなっていった。
☆中田紀子
「全然だめ! いい? 声の芝居っていうのは、無色透明じゃないとダサいの。なんていうかなー、声優の色が絵に混ざっちゃったら汚いじゃない。絵の具を混ぜてたら、最終的に灰紫になるみたいな感じ。それって、観衆に媚びてんのと一緒なんだって。そもそも、あいつらって雑音で邪魔なの。髪の毛一本ですら音を吸収しちゃって‥‥‥って、別にハゲがいいわけじゃないわよ。ハゲだって、音を反響させるから邪魔になるんだから」
わたしの世代なら一度は憧れる月島月華がどういう風に声の芝居を教えるか大変興味がありました。しかし、いざ始まればずっとこの調子です。こえしば歴六年のわたしですら全く理解できません。
「おーん‥‥‥」
グラウンドの片隅に忘れ去られたように設置されたペンキの剥げたベンチイスにわたしとこあらさんは座り、その目の前で仁王立ちしながら声の芝居について熱弁する月華さんを見上げていました。
野球をしてたくさん汗をかいたわたしには、春の風は冷たくて困ります。
「ねえ、紀子もそう思うでしょ?」
唐突な月華さんの問いかけでしたが、どこに共感ポイントがあったのかわたしには理解できませんでした。
「月華さん、基礎から教えてあげませんか。こあらさんが退屈して、さっきから自分の爪を見つめていますよ」
わたしは誤魔化しながら答えました。月華さんとの会話は気疲れこそしますが、言えば分かってくれる素直な一面があることを知りました。それは、こえしばの大会で演技をしている月華さんからは想像できない一面でもあります。
「声の芝居に基礎なんかないでしょ」
月華さんが恐ろしいことを言いました。
「いや、さすがにありますよ。ハゲ頭が音を反響することより、教えるべきことはたくさんあります」
わたしは地雷を踏まぬように慎重に言いました。
「ふーん‥‥‥こあらはわたしの言ってること分かるわよね?」
どうやら月華さんはまだ納得いっていないようです。多数決で勝負をしてきました。
「わからん」
こあらさんが即答で返しました。
松野こあら、という癖の強い小柄な女の子は、癖が強い分、その癖を受け入れてしまえば関係の築きやすい女の子でした。
声優に憧れる癖の強い女の子に囲まれてきたわたしですが、こあらさんの癖の強さはまた少し違います。
もちろん、月華さんの癖の強さも今までに経験のないものです。
他人に合わせることが得意なわたしですら、二人はなかなか手強い女の子でした。
「‥‥‥別にどうでもいいけど。じゃあ、紀子のターンね」
月華さんは露骨に不貞腐れながら、わたしの隣に腰をかけました。
「ターンって、カードバトルじゃないんですから」
わたしはそう言って、ベンチから立ち上がりタブレットを手にしました。
「こあらさん、さっそくですが声の芝居をしてみましょうか」
「ええやん、やろやろ」
わたしの問いにこあらさんが足をブンブン振りまわして答えます。
「こあらさんに演じてもらうのは、課題アニメ『革命前夜』のB子です。月華さんはA子をお願いできますか?」
わたしはタブレットモニターに『革命前夜』のタイトル画面を表示させて言いました。
「別にいいけど」
月華さんはまだ拗ねています。本当に気の抜けない女の子です。
「月華さんはお手本になってあげてください。よろしくお願いします」
わたしは丁寧に頭を下げた。
「‥‥‥ま、紀子がそこまでいうなら」
とりあえず、月華さんは攻略できました。ここからは、こあらさんに声の芝居を好きになってもらわなくてはいけません。これは、なかなか難しいことです。
わたしはポケットからスマホを取り出して、こあらさんに渡しました。
「セリフは台本アプリで確認してください。あとで、アプリの詳細は教えますので、今はわたしのスマホを貸します」
「サンキュー、ノッリ」
こあらさんはスマホを受け取り、モニターに映る台本を確認しました。スマホの操作も問題ないようです。
「月華さんは自分のスマホで台本を確認してください」
「今からやるのって『革命前夜』でしょ? 台本なんか見なくてもできるわよ。大会の課題になりそうなのはほとんど暗記してるから」
「そうなんですね‥‥‥」
わたしは心を揺さぶられてしまいます。『課題アニメになりそうな作品』が一体どれだけあるのか。その全てをほとんど暗記するなんてどういう思考をしているのだろうか。気になって仕方がありませんが、今はこえしばの普及活動に集中しましょう。
「わたしがこのタブレットでアニメを再生します。こんな感じに」
タブレットモニターに声のないアニメが映ります。
アニメは昭和絵柄で、特徴のない顔の女の子二人が夕暮れの放課後の教室にいるだけです。
「こあらさん、キャラクターの下の位置に『A子』『B子』というテロップみたいなものが順番に映るのが見えますか」
こあらが「んご」と頷く。
「これは『セリフボールド』といいます。キャラクターがセリフを口にするタイミングです。台本のセリフをボールドに合わせて声に出せば、誰でも声優になれます。では最初から再生するので、一度やってみましょうか」
わたしはタブレットを操作して、アニメを再生しました。
月華さんが不機嫌に立ち上がり、釣られてこあらさんも立ち上がりました。
そして、アニメのA子がセリフを口にします。
「わたしらって地味だよなあ。このまま、卒業してもいいものか」
A子のセリフを月華さんが読み上げると、ざわっと鳥肌がたちました。上手な声優さんがアニメのキャラクターに命を吹き込む瞬間、この鳥肌はいつでもやってくるのです。
続いてB子のセリフボールドが表示されます。しかし、こあらさんから声は返ってきません。
「おーん、どこ見ればええか分からん」
わたしはアニメを停止して、こあらさんにこう教えます。
「アニメと台本、どっちを見ればいいか分かりませんよね。こあらさん、自分の目より少し高い位置でスマホを持ってきてください」
わたしは「こうです」と姿勢を作ってみせました。
こあらさんはわたしの真似をして、背筋の伸ばしてスマホを目より少し高い位置にしました。
野球で鍛えた下半身のおかげか、こあらさんの立ち姿は様になっています。もちろん、下半身の体幹と声の芝居は関係ありません。
「こあらさん、タブレットを見てください。どうですか? 台本とアニメが同時に見えませんか?」
「見えるんごー」
「はい、ではもう一度やってみましょうか」
わたしがアニメを再生して、月華さんがA子のセリフを読み上げました。そして、こあらさんのB子です。
「たしキャに‥‥このまま卒業した‥‥けた‥‥なるな」
「なんかさ、大事件を起こしてみたくない? 地味なわたしらが」
「お、おーん‥‥いい‥‥事件‥‥かっ」
「そうそう、大人も巻き込んで、新聞とかテレビでも報道されるの!」
「それいいね‥‥んご‥‥‥あっ‥‥‥もう、分からへん! ちょっと喋るの早いわ、アホ! ボケ!」
「あかんすよ」
「ちょっと、二人ともセリフを変えるのはアニメに対する冒涜です。わたしたちは、お芝居をさせてもらってる身分なんですから、セリフを勝手に変えちゃいけません」
わたしは停止ボタンを押して、一息ついた。
「ノッリ、そのボールドってやつ早すぎやわ。追いつかん」
こあらさんが唇を尖らせて拗ねたように言いました。
「そうですね、いきなりボールド通りにセリフを読み上げられる人はいません」
「わたし、初見でも合わせられるけど」
「ちょっと、月華さん。プレッシャーになるようなことは言わないでください」
「はいはい」
わたしはこあらさんの見やすい位置に手に持つタブレットを合わせました。
「こあらさん、次はセリフを読み上げずに台本とボールドを目で追いかけてみましょうか。ボールドは視線の片隅に捉えておくだけでいいです」
わたしがアニメを再生すると、こあらさんは食い入るように見つめます。
「アニメを見ながら聞いてください。───演目『革命前夜』俵町米三監督の代表作です。主役になれなかった地味な女子生徒が放課後の教室で何か事件を起こそうと悪巧みをします。特徴のない女の子たちがとんでもない悪事を考える対話劇です‥‥‥この課題アニメはモブキャラのような地味な女の子二人の掛け合いだからこそ、声優に作品が委ねられています。つまり、好きに演じていいですよってことです」
わたしがそう説明をすると、アニメもちょうど終わりました。
「こあらさん、どうですか?」
「おーん、もう一回」
「では、再生します。そのまま聞いてください。ボールドを怖がる必要はありません。ボールド、セリフのタイミングはアニメ監督さんからのラブレターです。『このぐらいのタイミングだったら好きに演技していいよ』というタイミングもあれば『このセリフは絶対にこのタイミングで読んで欲しい!』というタイミングもあります。課題アニメに選ばれるような作品は、監督さんのわがままでボールドのタイミングが決められていることはありません。きっと、監督さんからわたしたちに『こういう芝居をして欲しい』という思いがあります。監督さんからの思いはラブレターのようなもので、声優はお芝居で返事をするのです」
また、アニメが終わりましたがこあらさんは難しい顔をしたままでした。
わたしは昔の自分を見ているようで、楽しくなってきました。ただ、ボールドのタイミングに合わせてセリフを読むだけなのに、とんでもなく難しいのです。
「では、こあらさん」とわたしは言います。「今度は、アニメを見ずにセリフだけ読み上げてみましょう。ボールドは気にしなくていいですよ。国語の時間です。ただ、音読をするだけです」
月華さんが「ふーん、回りくどいことするのね」と言って、ベンチイスに座りました。はい、今は大人しく見守っていてあげてください。
こあらさんはスマホを目よりも少し高い位置のまま、B子のセリフを読み上げます。
「確かにー、このままー、卒業したらー、負けた気分になるー」
「おおー、いいな大事件、起こしたいなー、全校生徒を巻き込むようなー」
「それいいねー‥‥‥‥うぅ‥‥恥ずかしいんご、全然あかん」
こあらさんがセリフを読み上げることをやめてしまいました。ええ、分かりますよその気持ち。
わたしは「コホン」とわざとらしくしてから、こあらさんに問いかけます。
「恥ずかしいのは、自分の芝居と月華さんの芝居を比べてしまったからですね?」
こあらさんは口をへの字にしてうなずきました。
「何が違うか分かりますか?」
「わい、棒読みになってまうわ。せやから‥‥‥なんか‥‥‥恥ずい‥‥‥」
「棒読みになってしまうのは、セリフの感情を刻めていないからですよ。さて、ここからがこえしばのお時間です」
わたしはタブレットを操作して、『革命前夜』の台本を表示させました。そして、タッチペンを使ってセリフの行間にこう記していきました。
B子「(深く納得しながら)確かに。このまま卒業したら(悔しい)負けた気分になる」
B子「(驚き)おぉ、いいな(強調)大事件。起こしたいな、(悪人の口調)全校生徒を巻き込むような」
B子「(A子に共感)それいいね。(妙に冷静になる)でもさ、わたしらが事件起こしても(ちょっと自虐)誰も犯人だなんて(くすくす笑い)気付かないよね」
わたしは行間に感情を記載した台本をこあらさんに見せます。
「わたしなりにセリフの感情を刻んでみました。これなら、棒読みから少しだけ抜け出せそうです。台本を頂いた声優は、セリフの行間に隠れている感情を探します。台本以外に、アニメ映像の中にも感情は隠れています。もしかしたら、別のところにも感情は隠れているかも知れません」
そうわたしが説明しても、こあらさんはフクロウの子供のように首を傾けるだけです。
「わたくしので大変、恐縮ですが。わたしなりに感情の記したこの台本で、セリフを読み上げてみませんか?」
こあらさんは恐る恐ると、わたしのタブレットを見つめてセリフを読み上げます。
「確かにー、このままー、卒業したらー、負けた気分になるー‥‥‥って、むずいわっ! アホ! ボケ!」
月華さんが「あかんすよ」と座ったまま言いました。さっきから、それなんなんですか?
わたしはこあらさんが声の芝居を恐くならないように丁寧に問いかけます。
「どこが難しいか分かりますか?」
「全部むずいわ。いきなり、感情がどうとか言われても分からへん! そもそも、わい、国語苦手やで」
「なるほど‥‥‥少しお待ちください」
わたしはタブレットを操作して、白紙のメモアプリを表示させました。そして、そこにこのように書き記しました。
こあら「(怒り)全部むずいわ。(戸惑い)いきなり、(開き直り)感情がどうとか言われれも(さらに怒り)分からへん。(諦め)そもそも、わい、(おふざけ)国語苦手(エセ関西弁)やで」
わたしは再び、タブレットをこあらさんに見せました。
「先ほどのこあらさんのセリフに感情を探してみました。これが正解しているかどうかは分かりませんが‥‥‥」
───こあらさんはこうして話している時、自然と感情を刻んでいるんですよ
「だから、声の芝居ができないなんてことはありません。お芝居をすることを意識し過ぎて、感情を刻むことを『忘れている』だけなんですから。今日、こあらさんと一緒に過ごしているあいだ、こあらさんはずっと感情を刻んでいましたよ。だから、自分の感情をアニメのキャラクターに分け与えてください」
こあらさんが耳を赤くして、土のついた野球のユニホームで顔を隠しました。
その恥ずかしいって気持ちはわたしにも経験があります。
別の誰かになりたくて、声の芝居を始めたのに、いつの間にか自分の感情ばかり探してしまう、なんとも言えない恥ずかしさ。
「こうしてセリフの感情を刻むことを、こえしばでは『ビートを刻む』といいます。こあらさん、わたしたちと一緒にこえしば部がんばっていきましょう」
「‥‥‥(照れくさい)ええで」
世の中にはこんなにも感情的な人がたくさんいるのに、なぜお芝居をしないんだろうって、ふと思ったことがあります。町を歩いていて耳に入ってくる赤の他人の会話は、心地良いぐらい感情を刻んでいます。しかし、いざマイクを前にすると感情が刻めなくなって、棒読みになります。友達と夢中になってお喋りをしている、そんな瞬間を大切にできる人は声優に向いていると思います。僕は友達がいませんでした。