#02 瞬きのタイミング
☆月島月華
そして、わたしは高校生になった。
家から自転車で通える白真弓商業高校は一学年に男子が数人しかいない女子校のような高校だった。
用水路に流れる桜の花びらを猫が肉球で撫でていた。肌寒い風が吹いて、わたしの耳に触れた。どこかの羽毛が桜に紛れて浮かんで消えた。
事務的な入学式が終わり、教室に戻り、これから担任の先生になる丸眼鏡の女性教師が「一年生は部活強制です。来週までに入部届を顧問の先生に届け出てくださいね」と伝えた。
えー、と気怠そうな女生徒たちの声が沸き立った。担任の先生は「うちは厳しい部活ないから」と生徒を安心させるように微笑んだ。
そうして配られた入部届にわたしは迷いなくシャープペンシルを走らせた。
『こえしば部』
数年前、創設されたばかりの白真弓商業高校のこえしば部は県大会にすら出場したことがない。
自宅から通える高校であるなら、五年連続地区優勝している羽島山高校に行きたかった。しかし、羽島山高校は県下でも有数の進学校で、声の芝居しかやってこなかったわたしが中三の秋から勉強をして入れるような高校ではなかった。
こえしば部があって、わたしの学力でも通える高校、それが白真弓商業高校だった。というか、ここしか無理だった。
わたしは机の上で入部届を眺めて、これから声の芝居を続けていくことに一抹の不安を抱く。
教室の窓からモンシロチョウが迷い込んで、廊下に逃げていった。あぁ、そっちは外ではないのに。
しかし、予想外のことはすでに起きている。わたしは入部届を握りしめて、自分を奮い立たせるように勢いよく椅子を蹴った。
そしてわたしは、離れた席にいる予想外の彼女に声をかけた。
「あのさ、中田紀子さんでしょ?」
「ひゃいっ!」
誰かに声をかけるなんてしたことがなかったから、彼女が驚いたことにわたしは戸惑った。
「そ、そ、そんなあなたは月島月華さん?」
「はい、そうですけど‥‥」
わたしと彼女は目が合うと同時に視線を明後日に流した。いざ、話かけたはいいものの、どうやって会話を続けていいか分からない。
中田紀子は地面について余る長い長い黒髪をフードの中に詰め込んだ変わった女の子だった。
わたしは紀子の長い髪がまだ腰ぐらいの頃から彼女のことを知っている。
小学四年、初めて出場したこえしばの大会の一回戦の相手が紀子だった。
わたしはその年の全国大会低学年の部で優勝することになるのだが、紀子との地区予選一回戦が一番記憶に残っている。
紀子との声の芝居は楽しかった。なんとなく声の芝居をはじめたわたしが今なお続けているのは、初めて対戦したあの楽しさを忘れられないでいるからだった。
「わたしのこと覚えていてくれたんだ?」
わたしは紀子に言った。紀子と一緒ならこの高校でも声の芝居を続けていくことが出来る、そんな淡い期待を抱きながら。
「そりゃあ、月華さんは有名人ですから」
紀子は長いまつ毛のわたしに向けた。制服の下に着込んだパーカーの紐が胸元で揺れている。
「中田さんがいてくれて良かった。入部するんでしょ、こえしば部に?」
「えっ、しませんけど」
わたしは近くにあった机に思いきり手をついた。
「は? なんで?」
紀子は手を組んで親指をぐるぐるを回しながら口にする。
「いえ、入部しないこともないんですけど。自分から入部するぞ、ってテンションだと空回りしてるみたいで恥ずかしいじゃないですか。だから、誰かが『こえしば部に入部したら?』って言われたら『しょうがありませんね』って答えて、期限のギリギリに入部届を提出する予定なんです」
紀子の饒舌な日本語は聞きやすくて、つい耳を奪われてしまう。
「なにそれ、めんどくさい」
わたしは耳を振り払って紀子に言った。
「というわけですので、お疲れさまでした」
紀子はカバンを肩にかけて背中を向けた。
「ちょっと待ってよ!」
わたしは紀子のカバンを掴んだ。
「キムタク風に言うと?」
「ちょっ待てよ‥‥‥って、なにやらせんのよ」
「さすが月華さん。キムタクの声真似も完璧ですね。それで、まだ何かありましたか?」
「こえしば部に入部しようよ」
「そんな、とってつけたように‥‥‥」
「紀子うっさい、さっさと入部届出して行くわよ!」
わたしは紀子のカバンを引っ張った。
「いきなり呼び捨てですか? ですが、わたしは『お前もタメ口でいいから』って言われても敬語を使い続けますよ」
「紀子ってめんどくさい?」
「ズケズケくる月華さんは空気が読めないおなごなのでは?」
「別に空気よんだって芝居が上手くならないし」
「わたしはけっこう空気よみますよ」
「あ、そう。じゃあ、空気よんで一緒に入部届出しに行きましょう」
あれ、わたしってこんなキャラだっけ?
紀子があまりにも自然と入りこんできたから、わたしはつい自分を疑ってしまう。
紀子のカバンを引っ張り歩く廊下の途中で、モンシロチョウが窓から外へ飛んでいった。
☆ ☆ ☆
雑多なデスクが並ぶ職員室でそこだけは綺麗に整頓されていた。わたしはその光景を見て、潔癖症は治っていないんだなと胸がちくりと痛んだ。
「やっぱりお前たちが来たか」
白真弓商業高校のこえしば部の顧問の先生は頭を抱えてそう言った。
わたしと紀子は整理されたデスクの横に並び入部届を提出したばかりだった。
「とりあえず、スケジュール表と練習メニューください。部活が始まるまでに仕上げてくるんで」
わたしは機械的に言った。
「練習メニュー? そんなものはない。それより、月華。昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んでくれ。そしたら『こらこら、学校では先生だろ』って言いたいんだ」
お母さんの妹であり、わたしの叔母である月島琥珀は元声優で現教師で白真弓商業高校のこえしば部の顧問だった。三十五歳、未婚でもある。
「‥‥‥月島先生、いつから部活は開始しますか?」
わたしは他人行儀でそう言った。隣で紀子が「え? え?」と目をキョドらせている。
わたしと月島琥珀が親戚関係にあることに驚いているらしい。
月島琥珀はお母さんと同じ切れ長の目をしているがキツイ印象というより、温和な顔をしていた。月島の女は太りいくい体質らしく、月島先生もスレンダーな体型をしている。
ちなみにわたしは二人を足して、二倍かけたような顔だとおばあちゃんから言われている。
「我が校のこえしば部は現在、二年一人、三年一人、合計二人だけ。活動もまともにやってない。ってか、月華にしろ中田にしろ、芝居を続けるならなんでうちなんだよ。ただの公立高校だぞ」
月島先生はため息を捨てて、呆れたように言った。
「わたしだってこんな高校嫌だったし」
わたしがそう言うと、月島先生は「ばか」と焦って口にする。
「職員室でそんなこと言うな。ったく、お前は‥‥‥中田はなんでうちに?」
紀子はビクッと肩を震わせて、小さな声でボソボソと口にする。
「強豪校でレギュラー取れない甲子園球児より、軟式野球でレギュラーとりたい精神で白真弓商業高校を志望しました」
月島先生は首を振って「これだから声優は‥‥‥」と独りでこぼしてこう続ける。
「一年が三人以上入部しなかったらこえしば部は二年生の卒業と同時に廃部って職員会議で決まってるから。理由はどうあれ、うちで芝居がやりたいならもう一人誰か連れてこい。言っとくが、私はやる気ないからな‥‥‥分かるだろ? 芝居を辞めた人間が中途半端に関わりたくない気持ちぐらい」
その言葉を聞いて、残念ながらわたしはこう言わざる得ない。
「だっさ」
「ちょっと月華さん!」
隣にいた紀子がわたしの腕を掴んだ。
「紀子行こ、辞めた奴の近くにいたら芝居が下手になっちゃう」
わたしは紀子を連れて職員室をあとにした。
「月華さん、あんなこと言っちゃ駄目ですよ」
下駄箱を前にした時に紀子が言った。
「どうして? 辞めた奴がダサいのは当たり前じゃん」
「性格悪いですよ」
「別にどうでもいいし。それよりさ、今からカラオケ行かない? 最近、やってなかったからなまっちゃって」
わたしは下駄箱からおろしたてのローファーを取り出して言った。
「部員集めなくていいんですか?」
猫背で丸まった背中の紀子が答える。
「あと一人ぐらいなら誰かしら入るでしょ。それより、カラオケ」
紀子は「うーん」と呻いたのちにこう口にする。
「かまいませんけど」
そうして、わたしと紀子は自転車にまたがって駅前のカラオケ店へ向かった。
☆中田紀子
わたしは声の芝居をやめるつもりでした。叶わないと分かっている夢を追いかけるのは痛いのですから。
───声優になりたい
その言葉の意味の知ったのは小学四年の時でした。
わたしは近所の公民館でやっていた子供声優教室に通っていました。声優ブームですから、同じクラスの友達も通っていて、わたしは大勢の中の一人でした。
声優教室に通っていたみんなが「声優になりたい」と口にしていたと思います。だから、わたしもそれを願ってしまいました。
小学四年の冬でした。声優教室のみんなでこえしばの大会に出てみようということになりました。熱心な親御さんもいて、とりあえず全員で参加してみようとなったのです。
わたしは声優教室の皆勤賞でしたので、それなりに自信はあったと思います。むしろ、声の芝居ぐらいしか自分には取り柄がないとさえ考えていました。
そして、大会当日。一回戦でその人と出会ってしまいました。
───月島月華はかっこいい女の子でした
同じ背丈の女の子が会場の空気を一変させるような声の芝居をしたのです。わたしは驚きよりも、憧れを抱いてしまいました。
もちろん、わたしは一回戦敗退。わたしには才能がないと自覚してしまいました。
そして、月島月華のような女の子が声優になるんだと気付かされました。
その年の全国大会で月島月華が優勝してくれたことで、幾分、気持ちは楽になりましたが。
それからわたしはずっと声の芝居をやめるつもりでした。明日には辞めよう、明後日には忘れようと念じながら眠りについていました。
しかし、いつの間にか声優になりたい今日のまま高校生になってしまいました。
夢を諦めたタイミングで切ろうと思っていた長い髪は、今ではパーカーのフードに収まらなくなってきています。
わたしは今度こそやめるつもりでした。高校デビューして髪を切るつもりでした。
そう願い進学した平凡な商業高校で、ひときわ存在感を放つその人は気難しそうな顔をしていました。
───あのさ、中田紀子さんでしょ?
わたしは心臓が止まりました。いっそ、このまま死んでしまえば楽だったのかも知れません。
月華さんに声をかけられて、わたしは世界一かっこいい女の子と一緒に芝居をしたら、もしかしたらわたしでも声優になれるかも知れないと淡い希望を抱いてしまったのです。
わたしは美容院と芝居をやめることをキャンセルしてしまいました。
☆ ☆ ☆
月華さんに半ば強引に誘われて駅前のカラオケ店にやってきました。
こじんまりとしたボックスルームの固いソファにわたしと月華さんは腰を落ち着かせました。
「カラオケ誰かと来るのはじめて」
月華さんが備え付けられていたタブレットを手にして言いました。
左右アンバランスなセミショートの黒髪、一重のまぶたに瞳孔がが大きな瞳、ファッション誌の読者モデルをやっていそうなスレンダーな体型、他人を寄せ付けないナイフのような人。
わたしとは別次元にいるであろう月華さんとカラオケボックスにいることをまだ受け入れられないでいます。
「わたし、ドリンク取ってきますよ。月華さんは何がいいですか?」
わたしは戦々恐々と言いました。月華さんはタブレットを操作したままこう返します。
「メロンソーダ、なかったらシュワシュワしたの」
わたしは頷き、部屋から出ました。カラオケ店のところどころ黄ばんだ廊下を歩きながら、わたしは「普通、一緒に来ません?」って思いました。
こえしばの大会で月華さんを見かけると、いつも一人でいるか母親といるかで友達といるところを見かけたことがありませんでした。
わたしはその理由を理解しました。教室でも口にしましが、月華さんはとんでもなく空気の読めない女の子なのでした。
わたしはドリンクサーバーの前で身震いしてしまいました。
月華さんのような声の芝居をするには、ほとんど初対面の同級生にドリンバーを取ってこさせることを何とも思わないぐらい気丈にならなくてはいけないということなのです。
わたしは部屋に戻り、月華さんの前にメロンソーダを置きました。月華さんは「やっぱ、二人だしデュアルよね」と言いながらストローに口をつけました。
「‥‥‥うっす。やっぱ、五百円のカラオケは駄目ね。壁も薄いし」
わたしは烏龍茶を一口飲んで、月華さんというめちゃくちゃ声の芝居が上手い人を観察しようと心に決めました。それで声優になれるなら、わたしは何回でもドリンクバーを注ぎに行こうと思います。
「ねえ、紀子。デュアルでいいよね?」
月華さんはタブレットを眺めながら言いました。
「は、はい。お手柔らかにお願いします」
わたしはふぅーと呼吸をしました。小学四年のあの日以来、月華さんと同じ舞台に上がったことはありません。しかも、対戦形式はデュアル───対話劇。中学生までは大会ルールがソロ(一人芝居)でしたので、他人の芝居に引っ張られるということはありません。しかし、対話劇は相手に合わせ、生かし、対戦ですから時に殺すこともしなくてはなりません。
「わたしさ、大会の課題で選ばれるようなアニメって好きじゃないのよね。古典的っていうか、ダサいじゃん。フリー配信されてる課題アニメの方がやってて楽しくない?」
こえしばには課題アニメが無数に存在しています。プロもアマチュアも関係なく、多くのアニメ作家が趣味で、もしくは自分を売り込むために、声のないアニメを配信サイトで公開しています。わたしたちはその課題アニメをお借りして芝居の勉強をさせてもらい、時には競い合うのです。
アニメ作家にとっても自分の作品に声がつけられ、二次配信されることは再生数増加につながりますし、知名度の向上にもなります。
こえしばの大会には出ないけど、課題アニメに声を当てて二次配信するインフルエンサーも存在しています。
有名なアニメ作家さんにもなると、こえしばの課題アニメを五分一億で制作することもあるそうです。
こうした時代背景が声優ブームにさらなる拍車をかけていると言っても過言ではありません。
「紀子、『嫌われ者と好かれ者』やろうよ。わたしが嫌われ者ね」
月華さんはそう言うと、わたしの返事を待たずにタブレットを操作して課題アニメを予約しました。
いや、普通は相手がやれるかどうか確認しませんか? カラオケに一体いくつ課題アニメが登録されていると思っているんですか。数千はありますよ!
そう心で叫びながらも、わたしも好きな課題アニメだったのでおとなしく従いました。
わたしと月華さんはスマホを取り出して、台本アプリからこれからお芝居するアニメの台本を表示させました。
部屋の大型モニターに簡単なアニメの紹介文が映ります。
───演目『嫌われ者と好かれ者』
新進気鋭のアニメーターKAKIMUHIの話題作。二人の魔法使いが嵐の中で戦いながら、会話で駆け引きをする対話劇。雨や風も全て手書きで描かれており、CGを使っていないことで有名。第二十五回こえしばアニメ部門最優秀作品受賞。
アニメが始まると同時に部屋の中は台風の目になった。豪快な風の音、叩きつける雨の音、枝葉がしなる音、部屋の隅々が効果音で満たされる。
わたしと月華さんは固いソファから立ち上がりました。
そして、月華さんは左手にマイク、右手にスマホを持って嫌われ者を演じます。
「俺を嫌ってくれ! 俺は嫌われたらその分、魔力が高まる秘術を体得した。今や、この世界で俺を好きな奴はいない。俺こそ最強の魔法使いなのだ、ガハハハ!」
嫌われ者は杖を振り回し、魔法で風を強くしました。
わたしも立ち上がり、マイクを握って好かれ者を演じます。
「僕を好いてくれ! 僕は好かれたらその分、魔力が高まる技術を会得した。今や、この世界で僕を嫌いな奴はいない。僕こそ最強の魔法使いだ、アハハハ!」
好かれ者は杖を振り回し、魔法で雨を強くしました。
不意に月華さんと目が合いました。月華さんは「ついてこれる?」と言いたげな微笑みを浮かべ、芝居を続けます。
「俺は皆から好かれているお前が嫌いだ! 実力は常に拮抗、そのくせやることはいつも正反対! いつも、俺の邪魔ばかりする!」
わたしはつい呑み込まれそうになる。月華さんの言葉の刃がわたしを切り裂き、心を破いてくる。
───あぁ、せめて作品を完成させたい
わたしは一心不乱でした。例え、圧倒的な戦力差で負けようとも、アニメは勝ち負けで作られていません。どれだけわたしが惨めでも、作品が完成しない理由にしてはいけないのです。
「僕だって皆から嫌われている君が嫌いだ! 実力は常に拮抗、そのくせやることはいつも正反対! いつも、僕の邪魔ばかりする!」
「こんな時だけ気が合うな。そろそろ決着をつけよう! 好かれ者、俺のことを嫌いになれ! お前が俺のことを嫌って秘術は完成する!」
「こんな時でも気が合うな。望むところだ! 嫌われ者、僕のことを好きになれ! 君が僕のことを好きになって秘術は完成する!」
月華さんは試合では見せたことない可愛い顔して芝居を続けます。
「どうした、なぜ俺のことを嫌いにならない? これでは決着がつかないではないか!」
わたしは月華さんをもっと可愛くしたくなってしまいます。
「どうした、なぜ僕のことを好きにならない? これでは決着がつかないじゃないか!」
アニメの中で台風は次第に弱くなっていく。
「好かれ者、もしかしてお前は俺のことが好きなのか?」
「嫌われ者、もしかして君は僕のことが嫌いなのか?」
月華さんがわたしに顔を近づけて、上目遣いでセリフを口にする。
「俺はずっと嫌いだと言っている! しかし、お前は俺のことを嫌いだと言うくせに嫌っていないではないか」
わたしは吞み込まれないよう、彼女に忠誠を誓うようにセリフを口にする。
「君だって本気で僕のことを嫌ってくれているのか! みんなが僕のことを好きだから嫌気がさしていたんだ」
魔力によって作られた台風の目が霧散して消えた。青空が輝き、二人の魔法使いの世界は広がる。
それからも、わたしは月華さんを必死に追いかけ続けました。
少しだけ、彼女に触れた気がした。
☆ ☆ ☆
わたしは絶え絶えの呼吸が整わぬうちにこう言いました。
「月華さん、手加減してくださいよ。流石に合わせるのに精一杯で死にそうになりましたよ」
月華さんはわたしの腕をとりました。それは、彼女らしくない振る舞いでした。
「紀子やっぱ最高だわ! 久しぶりに本気で芝居できた!」
そう言ってわたしを覗き込んだ月華さんの瞳は無邪気な子供そのものでした。
「お世辞はやめてください‥‥‥あ、採点が出ますよ」
部屋の大型モニターが二人の芝居に採点をつける。
マイクA99点
マイクB89点
「ええっ! 月華さん、99点って‥‥‥わたし、こんな点数初めて見ましたよ」
わたしは月華さんにつけられた得点に興奮してしまい、彼女の腕を握り返しました。
「別にAIの点数とかどうでもいいでしょ。それよりさ、紀子‥‥‥わたしの芝居、どこが良かった?」
「月華さんってカット割りのタイミングで瞬きしてますよね?」
「え、分かんない」
「してるんですよ。カットが切り替わる瞬間に、まぶたが一コマの狂いもなく動いているんです。それってすごいことですよ」
わたしが師範から教わったことでした。
───上手な声優は演出と瞬きが重なるんだぞ
「紀子って芝居しながらそんなこと考えてんの?」
「わたし、声でお芝居する人が好きなんです。だから、上手い人の仕草とか体の使い方とか見つけるのが好きでして」
「ねえ、紀子。わたしたちだったら団体戦でも全国いけるって思わない?」
「ええっ! でも、月華さんに言われたらいける気がしてきました‥‥‥」
「でしょ! 二人で全国行って大暴れしてやろう!」
「月華さん!」
「こえしば部、廃部するって」
翌週の放課後、わたしと月華さんは月島先生の職員室デスクに呼び出されました。開口一番、月島先生は残酷な現実を一言で口にしたのでした。
「なんでよ!」
隣の月華さんが大きな声で抗議します。
「お前らなー、部員集めしなかっただろ。月華と中田以外の新入部員はなし。よって、廃部」
わたしの目の前は真っ暗になりました。
月華さんと一緒に芝居を続ければ、もしかしたら声優になれるかも知れない。そんな、甘い話があるはずもないのです。
わたしは二人の月島さんに頭を下げてこう言いました。
「これで、わたしは解放されるんですね‥‥‥お疲れさまでした」
そして、廊下へと駆け出しました。美容院の予約をしなくてはいけません!
☆月島月華
突然の引退宣言と同時に走り去った紀子の背中を見送って、わたしは呆然としていた。
「中田は声優向きの性格してるな」
くすくす笑って月島先生が言った。
「じゃなくて! なんとかなんないの? 紀子とだったら団体全国もいけるんだって」
わたしは月島先生を睨みつけた。
職員室のコピー機がモーター音を鳴らして、次々と紙を排出している。
「だったら、なんで部員集めしなかったんだ?」
「めんどかったし」
「いい加減、芝居以外のことにもちょっとは興味を向けろ。一応、高校だぞここは」
「はいはい、そんなことはどうでもいいから、どうすればこえしば部が活動できるか教えてよ」
月島先生は頭を抱え息を吐き捨て、デスクの引き出しを開けて一枚の紙をわたしに渡した。
「ほら、これ」
わたしは紙を受け取り、内容を確認する。それは、入部届だった。希望する部活の欄にこう記載されている。
『やきう部』
「野球、じゃなくて、やきう? てか、字が汚い」
わたしは首を傾げて月島先生に言った。
「ちなみにやきう部も野球部もうちにはない」
「じゃあ、なんなのこれ」
「私のクラスの子なんだけど。その子だけ、まだ部活が決まってないんだよ。そりゃあ、うちに野球部ないから当然なんだが」
「あー、そいつをこえしば部に入部させればいいわけね」
「そうなんだけど。その子、かなりの変わり者で、性格とかそれ以前に日本語が通じないから、まともに話せないんだよ。正直、私もかなり困っていて‥‥‥月華がその子と仲良くしてくれたら、めっちゃ助かる」
「そいつと仲良くしてあげるから、顧問しっかりやってよ」
月島先生は手を仰いで「はいはい」と口にした。
「もう月華に教えられることなんてないけどな」
「それでも、お姉ちゃんとまた一緒に芝居したい」
わたしはそう言い残して職員室をあとにした。
その日帰宅して、お母さんと二人で夕食を食べている。旅行好きのおばあちゃんが家を空けることは多く、お母さんと二人の食卓がうちのデフォだった。
わたしは白米を食べながら改めて『やきう部』と書かれた件の入部届を眺めていた。
「やきう?」
お母さんがそう問いかけてきた。
「あなたの妹に変な奴、押しつけられて困ってんの」
わたしは不機嫌に答えた。リビングの空気洗浄機がパワーを上げて音を鳴らした。わたしは別に臭くない。
「こえしばなんかやめて、料理クラブでも入ったら?」
「料理なんか暇な女がやることじゃん」
「お母さんの料理食べながらよくそんなこと言えるわね」
「別にどうでもいいし」
お母さんが「そういえば」と口にして、箸を置いて立ち上がり戸棚の引き出しを開けた。
そして、二枚のチケットをわたしの前に置いた。
「新聞屋さんがおばあちゃんにってくれたんだけど。おばあちゃん旅行中だから、月華に渡しておくわ」
わたしはチケットを手にする。
「中日ドラゴンズのデイゲームじゃん。こんなの誰が見たいのよ」
「こら、中日ドラゴンズだって頑張ってるんだからそんな言い方失礼でしょ」
「だって中日ドラゴンズだよ? おばあちゃんだってファンのくせに体調崩すから試合は見れないって言ってたじゃん」
「そりゃあ、中日ドラゴンズだからねえ」
わたしは『やきう部』と書かれた入部届と中日ドラゴンズの観戦チケットをひとまとめにした。
「まあ、中日ドラゴンスの観戦チケットでもないよりはましか」
わたしは「ごちそうさま」と言って立ち上がった。
翌日の昼休み。わたしは高校の食堂に訪れていた。例のやきう女は食堂の一番隅っこの席にいるから、すぐ分かるとのことだった。
食堂を見渡すと、明らかに浮いている子を発見した。その子の周りだけ、席が空いており入学して一週間少しでここまで孤立しているのは逆に感心する。
わたしはその子の席に近寄り、向かいの席に座った。
その子は青色の野球帽をかぶっていた。わたしが座ったことには気付かずに、タブレットをまじまじと見つめながら、ノートを広げてボールペンを手に持ち、空いてる方の手で寿司を食っていた。
お酢の甘酸っぱい匂いがわたしの鼻まで届いている。なんとなく、ここの近くで昼食をとりたくない気持ちが分かった。
「ちょっといい?」
わたしは野球帽に声をかけた。
「んご」
「‥‥‥んご?」
わたしは戸惑いながらも、入部届を差し出してこう口にする。
「これ、あんたのでしょ。うち、野球部ないんだって」
「おーん、そんなん、あれやんか」
「え?」
「やきう、やりたいんごねえ」
野球帽はDのイニシャルが刺繍された青色のものだった。わたしはポッケから二枚のチケットを取り出す。
「あのさ、こえしば部に入部してくれたら野球の観戦チケットあげるけど、どう?」
「おん? ドラゴンズのデイゲームやんけ! やきうできんねやったらなんでもええわ! チケットくれや!」
野球帽はエセ関西弁でまくしたてるように言った。まん丸とした小柄な女の子だった。
「こえしば部に入ってくれるの?」
わたしがそう問いかけると、野球帽はスンと感情を失くし、唇を尖らせた。
「チケットもらっても行かれへん。マッマがドラゴンズファンは凶暴やから、一人で行ったらあかんって」
わたしはこのままではこえしば部の存続の危機だと思い、とっさにこう口にする。
「じゃあさ、わたしと一緒に行く? こえしば部に入ってくれるなら付き添うけど」
「マ?」
「ま、ってなによ」
「お前もちな中なんか?」
「お前じゃなくて、わたしは月島月華。ちなみに中日じゃない」
「サンキュー、ツッキ! 久しぶりに現地や!」
わたしは素朴な疑問を口にする。
「あのさ、声優って知ってる?」
野球帽はチケットを手に取りひらひらとさせて遊んでいた。
「副詞君やろ!」
「いや、誰よ」
「声優ゆうたら副詞君のことやんか」
「‥‥‥まあ、いいわ。連絡先教えてよ、あんたの名前は?」
「こあら! ドアラとちゃうで。ドアラの一文字違いや!」
声優さんに人間性を求めるのはかわいそうだなと思います。声優になりたい子はたくさんいるけど、マイクの前に立つほど声優になりたい子はそんなに多くはないです。そして、マイクまで辿りつくような声優さんはやはり人間性が終わっています。だから声優になりたい『わたし』が主人公の今作、登場する女の子の性格はみんな悪いです。