#19 文學、聲に伏す
☆澤野美登
───神さまに出会った
五月の季節風が埃を舞い上げる。そんな白真弓商業高校との練習試合で、わたしはそれを見た。
平凡な体育館の舞台のうえで、月島月華はたった一拍のうちにわたしたちの心臓を奪い去ってしまった。
血の気が引いていく伊吹山高校こえしば部の面々と違って、わたしは月島月華に祈りをささげてしまった。
あの日以来、耳裏に熱がこもっている。まさに聖痕のように。
だから、わたしは県大会で月島月華と対峙することを自ら望んだ。そして、すぐに後悔した。
神さまを前にどんな演技をすればいいのか、分からなかったのだ。
その答えをわたしはたいして悩むことをせず、声声教団の次期団長である従妹の澤野神秘に電話で相談した。
『月島月華の声を教団研究室に解析してもらいました。基本周波数は187Hz、第1フォルマントは通常より1オクターブ低い、第2フォルマントは極端に安定 していて、舌運動が制御されていません。いわゆる、脱構築的母音です。特筆すべきは、ノイズ成分がほぼゼロ。ブレス音が除去されているわけではなく、月華の声自体が呼吸音を吸収していると結論をだしました』
「‥‥‥お姉さま、それって?」
『月華は芝居をしているあいだ息をしていない。死んでるといっても過言ではありません』
「どうやって声を出しているのですか?」
『月華の声は吸気発声でも、無声摩擦でもない。外界の静寂を逆共鳴させて音にしています。音声学的には不可能。だからこそ、われわれ声声教団の神学的には完全に正しいと言わざるえません』
電話口の神秘の声は狂気と理性の境界を歩く人間の声だった。
「神学的に正しい‥‥」
『強いて言えば、NeurophonicVoice。脳波のスパイクそのものが音声波を生み、言葉にする前に音になる。月華の声は発声ではなく発火。思考の断面をそのまま音にしていると考えられます』
「そんなの神さまじゃないと‥‥」
『神さまの再現‥‥‥いいえ、再生。人間の声では存在しない領域』
「‥‥どうやって勝てばいいの?」
受話器の向こうの神秘は少し黙った。呼吸の代わりに、紙をめくるような音が聞こえる。
『美登ちゃん、月島月華に“声”で勝つことはできない。けれど、人間の記憶は持っている。月島琥珀の声を聴かせなさい。“声の原点”は、琥珀にある。もし神を地上へ引きずり下ろしたいなら、人間だった頃の声を聞かせるのよ』
神秘は冷たい音で笑い続ける。
『簡単な話でしょう? あなたは芝居で“琥珀の声”を演じるだけです。それが、声声教団の導き出した答え』
電話の通話を切ったわたしは、従姉の言葉を信託として受け取った。
そして、県大会決勝。わたしは二言目のセリフを待たずに、月島月華に殺された。
殺されてからの記憶は残っていない。わたしの前にマイクはなかった。
おぼつかない足取りで舞台を降りる。
伊吹山高校のこえしば部の顧問、小太りなおばさん体形の出光先生がわたしの腕をつかみ、引っ張る。
そして、破裂音と同時に頬に焼けるような痛みが走った。
「素晴らしい芝居だった‥‥それをあんたが台無しにしたっ!!!」
わたしの頬ははたかれたのだった。しかし、痛みよりも惨めさのほうが苦しい。
「こえしばを舐めるなっ! 小手先で演じてんじゃないっ! あんたは月島と菊池の芝居を間近で聞いて、何も思わなかったのかっ!」
「わたしは勝とうと思って‥‥」
「どこかだっ!」
今度はわたしの頭に痛みが走る。叩かれた頭は痛いけど、痛いだなんで言えない。
「あんたは勝負から逃げてるだけだっ! 億分の一の確率でもあるなら、真っ向から戦え馬鹿者っ!」
出光先生がわたしの腕を突き放す。わたしは態勢を崩して、膝から崩れ落ちてしまう。
月島月華対策でアリーナを離れていたこえしば部のみんなが戻ってくる。サツマイモ色ジャージのおかっぱ頭の常勝軍団だ。
部長の井上絵里がわたしの肩にそっと手を置いた。
「もしかしたら、わたしたちは今日、引退かも知れないから。美登に応援してもらいたいな」
───わたしはなんてことをしてしまったんだ!
───神さま、助けて!
☆澤野神秘
風は、神の息。
雪は、神が吐いた祈りのかけら。
ここは北海道の北の果て、天地を分かつ白の聖域。
わたしと柊木神子は、聖域の入口に立っていた。
空は重く、風は凍り、山は眠る。
眠る神々の静脈の上。
突如として、森の闇から巨影が現れる。
ヒグマであった。
山の守護にして、血を啜る獣。
その金色の瞳に、わたしたちが映り込んだ。
「逃げませんか? 死にますよ」
わたしは静かに言った。
雪の上で発せられた言葉は、風に乗って揺れる蝋燭のようだった。
だが、神子は笑う。
「大丈夫、あたいってほら主人公だから。こんなところで死なない」
そう言うと、少年漫画から飛び出してきたような神子はヒグマの鼻に人差し指を添え軽く弾いた。
ぽん、と乾いた音。
それを合図にしたかのように、獣の瞳から殺気が消える。
「な? 主人公が簡単に死ぬわけない」
そう言って得意げに振り向いた神子の背に、再び黒い影がのしかかった。
グオオオオォォッ! と二メートルを余裕に越えるヒグマが神子に襲い掛かる。
わたしは神に捧げる唄を歌う。
「あるー日、くまさんにー、出会ったー♪」
古い童歌。
幼児の記憶にだけ残る、無垢なる調べ。
それを“声”としてではなく、音の“波”として発する。
風はたちまち静まり、雪が止む。
ヒグマの首が傾く。
まるで、その旋律を懺悔として聞くかのように。
そして、獣は退いた。森の闇にへと吸い込まれていった。
残された静寂の中で、神子が笑う。
「また、助かってしまったか」
「死ぬところでしたよ」
わたしは答える。天から借りた声で。
「死んでねえじゃん」
神子がせせらせらと笑う。こえしばを始めてわずか二年で、個人戦の全国大会決勝まで勝ち残った神子はわたしから見ても不思議な女の子だった。
わたしは神子に話しかける。
「従妹の美登ちゃん、全然駄目だった。やっぱ、半端モノは使い物にならないなー。神子ちゃんだったら、月島月華に勝てるかな?」
神子は頭の後ろで腕を組んで、口笛を吹きながら歩き始める。
「お前らがグチグチうるさいから、月島の芝居見たけどさ‥‥正直、恐さはないよ。それより、わたしは古館戦姫に借りを返さないと」
「常陸岩のサラブレット、ですか」
「あぁ、冬の個人戦では一票差で負けちまったからな。主人公は最後の大会でリベンジを決めるもんさ」
その瞬間 わたしは天を仰ぐ。
空が鳴った。
それは雷ではなく、聲そのもののうねりであった。
頭上から光が降る。
声声教団が言うところの『声の神の断片』の降臨。
それは信仰の到達ではなく、理の果て。
「声の神さま、そこにおわしますか。あと少しです。迷える子羊を開放する聲を得るまで」
風が、祈りを裂く。
少し前を行く神子が豪快に笑う。
「だははっ、神秘、そのセリフまるで悪役だな」
「救済とは、常に悪の貌をしているのです」
そう言い、わたしたちは再び雪道を歩き出した。
彼方、空と大地の境に光が差す。
聲による世界の救済まで秒読み。その鍵はわたし。
☆中田紀子
タブレットに映る台本が全く頭に入ってきません。疲労と緊張とそのほか色々のせいで、わたしはどう考えてもお芝居をできるような状況ではありません。
必死に台詞を口に出してみますが、舌から滑ってしまい絶望的な状況です。
「あ、わたしの番」
隣に座っていた日焼け金髪ギャルの真田先輩がそう言って、席から立ちあがりました。
思わず、のぞき込んでしまった真田先輩の表情は真っ青でチアノーゼ状態のボクサーのようでした。
月華さんが舞台から戻ってきます。ほんとにこの人はもう‥‥。大会前夜に家に押しかけてきて、めちゃくちゃしたことなど全てチャラにしてしまうようなお芝居でした。敵じゃなくてよかった、ほんとうに。
月華さんが真田先輩とすれ違います。
「あ、芹奈ごめん。楽しくて、つなげるの忘れてた」
「え? あっ‥‥あはは、そっか‥‥うん、全然大丈夫。ツッキーお疲れ?」
「別に疲れてないけど」
「そ、そ、そだよね! 頑張るのはわたしかっ!? あはは?」
「キモ」
「あはは‥‥はは‥‥」
真田先輩が肩を落として舞台へ上がっていきます。かわいそうに、完全に月華さんの芝居に当てられています。伊吹山高校と飛騨乃花高校が対策した『月島月華の芝居を聞かない』は成功したとも言えます。わたしも含め、月華さんの芝居を聞いた白真弓商業高校のこえしば部はめちゃくちゃ影響を受けてしまっているのですから(会場の外に行ったきり帰ってこないこあらさんを除く)
そんなことより、わたしは自分の課題アニメの台本を思い出さなくてはいけません。あんなに必死に覚えたのに、今となって思い出すのはマリオパーティーのことばかりです。完全に記憶が上書きされてしまいました。あと、浜松のうなぎ。
「紀子~、柿本さん‥‥虫可から返信ないんだけど」
隣に座った月華さんが話しかけてきます。
わたしはタブレットで顔を隠し、必死に台本の文字を目で追いかけます。
しかし、月華さんが強引に肩をゆすってきました。
「紀子~、虫可わたしの演技見てくれたかな~」
「‥‥知りませんって」
「でも、本気出してないからなー。虫可って監督じゃん? さっきのわたしの演技見たら失望しちゃうかも」
「しないですって! あんなの月華さんにしかできないんですから!」
わたしは柄にもなく声をあげてしまいました。
「‥‥ふーん、そうなんだ」
月華さんが唇を尖らせて、まんざらでもない顔をします。いやいや、月華さんが無理やり言わせてるんですからね!
わたしは助けを求めるように、琥珀先生のほうへ目をやりました。
ほげぇー、と覇気のない顔して壁にもたれかかっていたジャージ上下の琥珀先生がわたしのもとに歩み寄ってきます。
そして、目の前に立ち、わたしのことを見つめました。
「中田‥‥‥私ってあんなんだったか?」
一瞬、琥珀先生が何を言っているか分かりませんでしたが、すぐ伊吹山高校の澤野さんの芝居が琥珀先生をオマージュしていたことを思い出します。
「いえいえ、あんなの付け焼刃にもなっていませんよ。先生は元プロ声優なんですから、ドシッとしていてください。高校生がちょっと真似したぐらいで、再現できるものではありません」
琥珀先生は口角を釣り上げて、「そっか? ま、そうだよな。私、プロだもんな」と言って、わたしの肩をビシビシと叩きました。
「紀子~、やり直しってできないの? さっきのやっぱ微妙だったかも」
月華と琥珀の二人の月島に挟まれたわたしは諦めたように「‥‥ふふふ」と肩を揺らして、タブレットを閉じました。
こんなことなら、白真弓になんか絶対に進学しなかったのに!!!
『月島~っ! いや、会場のおまえらっ! 岐阜の一年は月島だけじゃねーーーぞ! あたしは飛騨山脈の帝王、針原律子だっ! は・り・は・ら・り・つ・こ!』
突然、会場にキーの高い独特な声が響きました。
舞台に目をやると、金髪サイドテールの派手な見た目な女の子がこちらをにらみつけています。
中学時代、月華さんに毎回敗れ万年二位、桜森ルナの下位互換と呼ばれた針原律子さんがマイクテストの時間を利用して叫んでいました。
『月島~っ! 中学時代のわたしだと思うなよ! 菊池先輩の仇はとってやるからな!」
「うわっ、針原じゃん。あいつ、髪染めたんだ」
月華さんが珍しく舌を出して苦い顔をします。しかし、どこか嬉しそうでもあります。月華さんは追いかけられたら嬉しくなってしまう系の女の子なので自然な反応とも言えます。
わたしも針原さんとは三回ほどこえしばの大会で対戦したことがあって、もちろん全て完敗。針原さんは月華さんがいなければ全国常連になっていてもおかしくない実力者でありました。
そして、飛騨乃花高校一年針原律子は有言実行してみせました。
月華さんと菊池さんの芝居で浮ついた会場の足を地につけるような王道な芝居を披露し、見事に5票満票獲得で次鋒は飛騨乃花に軍配が上がりました。
ちなみに、対戦対手の伊吹山の石川さんと白真弓の真田先輩は無投票でした。
針原さんは派手な見た目の目立ちたがりですが、お芝居は真面目で王道。そして、飛騨乃花の先鋒、菊池叶夢さんの演技が会場の空気をわずかに飛騨乃花有利にしていたことも手伝っていました。先鋒戦は月華さんの圧勝とはいかなかったのです。高校県大会のレベルは高い。
正直、白真弓にとって状況はかなり厳しいものです。ここから一勝どころか、一票さえとれるかどうか。まあ、決勝に残っていること自体が奇跡ですけど。
舞台から真田先輩が帰ってきました。その目には涙が浮かんでいます。
「‥‥なにもできなかった。時間を無駄にしすぎちゃった。入学からやり直したい」
平村部長が膝を笑わせながら、真田先輩の肩に手を置きます。
「ドンマイ、ドンマイ。来年につなげよー」
「グスン‥‥」
セミロングの黒髪を揺らして、平村部長が舞台へと上がっていきます。
真田先輩は「ごめん」と言って、アリーナの出入り口のほうへ駆け出していきました。
「芹奈、生理?」
隣の月華さんが首をかしげて言いました。
「普通に悔しかったんだと思いますよ。かなり、実力差がありましたし」
「針原はうざいけど、そこそこやるからなー」
月華さんの針原さん評価が高いことに驚きを覚えます。同学年の女の子に興味あったんですね。
舞台のうえでは我らが平村部長と伊吹山高校の一式先輩が立っていました。
おかっぱのっぽの一式先輩は、わたしの中学時代の先輩でした(昔はおかっぱではありませんでした)。
平村部長も同じ中学で、一式先輩と平村先輩は仲良しです。今でも連絡をとっているようです。
中学時代の先輩たちがこれから全国を賭けて声のお芝居で戦います。複雑な心境ではありますが、わたしは応援どころではありません。何故なら、台本が思い出せないからです!
あ、そういえば一式先輩って昨年の大会からずっと大将だったのに、ここにきて中堅に変えてきたようです。
理由を推測するのは簡単です。中堅だったら、確実に勝てると踏んでのことです。団体戦ですからね、当然の戦略です。伊吹山高校の糸田麻美さんが大将ということでしょう。
個人戦県大会優勝、全国ベスト8。岐阜県で一番上手いのが糸田さんです‥‥‥月華さんのほうがうまいですけど。
伊吹山高校は全国常連高校です。中堅の一式さんと大将の糸田さんで確実に勝ちを重ねる算段です。台本を覚えていないという理由でこあらさんを大将に据えている我が校とは大違いです、はい。
少し遅れて飛騨乃花高校の辻さんも舞台に上がりました。そして、マイクの前に三人が並びマイクテストが開始します。
観衆はどこか浮わついている様子です。何故なら、県大会決勝の先鋒と次鋒戦で一年生が満票で勝ってしまったのです。盛り上がらないわけありません。
舞台に設置されたモニターにアニメのボールドが落ちてきて、声の芝居がはじまりました。
ほんの数秒見ただけで、わたしは思ってしまってしまいます。
───やっぱり、一式先輩はお上手です
わたしが早矢仕中学の一年だったころ、三年生の先輩たちは“黄金世代”なんて呼ばれていて、全国大会出場も果たしました。
その中心にいたのが一式先輩。声がまっすぐ伸びて、聞いてるだけで気持ちよくなるタイプのお芝居です。
あれから三年が経ちました。おかっぱとスパルタで有名な伊吹山高校に進学した一式先輩は、いまや高校三年。
舞台に立つ姿を見ていると、たぶん今が人生でいちばん“声が完成してる”という感じでした。
だからこそ、同じ舞台に立つ平村部長が少し不憫に思えてしまいます。
わたしたち白真弓商業高校こえしば部の部長、平村優乃。セミロングのおっとりとした女の子です。
平村部長はわたしが一年だった早矢仕中学でも部長をしていました。でも、レギュラーではなかったんです。
後輩の面倒見がよくて、気遣いもできて、怒ったところを一度も見たことがありません。
とにかく“人間ができてる”のが平村部長です。部長が縁の下を支えてくれたおかげで、早矢仕中学は全国大会に出場できました。
ただ、それはつまり‥‥‥すごく普通の人ってことでもあります。
わたしと同じように、当たり障りのないどこにでもいる女の子。それが平村部長です。
違うのは、部長は『声優になりたい』なんて無謀な夢を見ないところ。
わたしみたいに、いつまでも未練がましく「あわよくば声優に……」なんて考えたりしません。
部長がこえしば部に戻ってきてくれたのも、わたしたちに付き合ってくれてるだけのことです。本当に、頭が上がりません。
そして、中堅戦が終わりました。結果は伊吹山高校一式先輩が満票獲得で勝ちました。なかなか、珍しい状況です。
先鋒、次鋒、中堅までの三試合全て満票決着です。こえしばの審査委員はなるべく専門が偏らないように選出されるため、良い意味で審査に偏りが生まれます。
審査員の専門が違えば、声の芝居の評価ポイントの優位性も変わります。そのため、県大会決勝レベルになると、なかなか満票を獲得するなんてことは難しいのです。
月華さんと菊池叶夢さんのお芝居が決勝の舞台を荒らし、針原さんと一式さんがその隙を上手くつきました。
あれ? 岐阜県レベル高くないですか? 内陸県のくせにどうして‥‥‥。
わたしがそんな風に思っていると、舞台から平村部長が戻ってきました。
「ごめん、負けちゃった」
平村部長は眉をへの字にして申し訳さなそうな笑みを浮かべます。いえいえ、当然の結果です。
「問題ありません。お疲れ様です」
わたしはお辞儀をして平村部長とすれ違いまいした。
「のりちゃん、勝ってね」
平村部長の声が背中から聞こえます。わたしは思わず振り返って、部長の顔を見つめました。
「む、む、無理ですよ! こんなのただの思い出作りです! 決勝の舞台に立てるなんて二度とないかも知れませんから!」
「‥‥‥‥‥」
平村部長は今まで見たことのないような顔をしました。わたしにはその表情の意味が分かりませんでした。
「すみませんっ、もう行きます!」
わたしは部長の視線から逃げるように舞台へと駆け上がりました。
もしかして、平村部長は一式先輩に負けたのが悔しかったのでしょうか? 負けて当たり前なのに。
舞台に降り立つと、何故かそこに伊吹山高校三年、昨年の県大会個人戦覇者、糸田麻美さんが立っていました。
揃えた前髪の奥にあるふっくらと厚みのある下まぶたが特徴的な女の子、それが糸田さんです。
なぜに、岐阜県最強が副将に‥‥‥?
あ、確実に勝利するなら大将より副将のほうが可能性が高いからか。
‥‥‥ははは、よりによって副将ですか。え? 今から糸田さんとこえしばで戦うのですか?
せっかく思い出した台本の文字が耳からこぼれていきました。まさに、頭真っ白。
☆糸田麻美
───課題アニメ「イヌとキツネとタヌキ」監督・裏地十五
こえしばの発起人、裏地監督の中期作品。題名の通り、言葉を話す犬ときつねとたぬきの何気ない日常を描いた凡作。しかし、凡作ゆえに声優の実力差がはっきりでるといわれ、故・裏地監督の中期作品は当時は平凡と評されたが、近年はこえしば課題アニメとしては優秀と再評価され再び注目を集めている。
伊吹山高校糸田麻美、名前が呼ばれてわたしはマイクの前に立つ。
マイクテストの時間、ゆっくりと舌触りを確認しながら舞台を踏みしめる。決勝の舞台は海の断崖だ、踏み出せば音に呑まれ、とことん落ちていく。
だから、わたしは視点を高くする。自分の目よりも、頭のつむじよりも高く、照明のフレネルの輪郭に溶け込むような位置をイメージする。
ファーストガンダムで永井一郎が「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになってすでに半世紀が過ぎていた」とナレーションを吹き込んだ時、永井一郎の視点は空よりも、大気圏よりも、月よりも高い視点にあったのは有名な話。
わたしも(さすがに宇宙には行けないが)視点は高く、舞台の全体を見下ろすように心がけている。
マイクテストが終わり、ひとつ後ろに下がる。前方の舞台下に見える審査卓の五人の視線はどこかさ迷っていた。
板の上はかなり荒れている。さっきの嵐、月島月華、針原律子、一式葵の余波は今もなお続いている。
対戦相手の一人。飛騨乃花高校三年、辻秋穂のマイクテストが始まる。彼女はマイクテスト中、幾度と舌を噛み、最後は「すみませんでちた、あっ!」と言い残して後方に下がる。緊張しているのは誰が見ても歴然だった。
続いて、白真弓商業高校一年、中田紀子がマイクの前に立つ。真夏にフード付きジャージを着こみ、眼力の強い瞳をしている。フードの中には大量の髪の毛が収納されている。練習試合で見かけた時にも思ったが、なかなか個性的な女の子だ。
中田はマイクの前に立ったあと、エサ待ち金魚のように口をパクパクさせて一音も声を発しなかった。瞬きすらしない。
前代未聞の出来事だった。マイクテストで緊張して、噛んだり、しどろもどろなったりする子は大勢いるが、音すら発さない子は初めてだった。
観衆が凪のように唖然とする。
中田はきょろきょろと首を振り、魂の抜けたような顔で一歩、二歩、三歩と後方に下がった。
わたしは緊張をもらわないように一呼吸置く。飛騨乃花の辻も白真弓の中田もお芝居をできるような状況ではない。いつもよりも視点をさらに上げることを心掛ける。
これでは芝居にはならないだろう。これからするのは朗読に近くなること覚悟する。わたし一人で作品をつくるしかない。
───芝居よりも物語が好きだった
わたしは本の虫。小説が好き。黙読よりも、音読が好き。声にだしたほうが物語に近づけるから。
舞台よりも紙の上のほうが居心地がいい。だからわたしは、静かな紙面をめくるように、音を添える芝居をするだけ。
アニメがはじまる。わたしはキツネで、辻がイヌで、中田がタヌキだ。
イヌ(辻)「今日もたくさん同じ道を歩いた」
キツネ(わたし)「同じってどのぐらい同じなの?」
タヌキ(中田)「そりゃあ、道が覚えてくれているんだな」
ひっちゃかめっちゃかな変な声の芝居だった。
イヌ(辻)は台詞の途中で息がうわずり、語尾が間伸びすぎた。
キツネ(つまりわたし)は予定通りに音を置いたが、隣の拍と合わない。
タヌキ(中田)は、セリフを吐き出すのに精いっぱいだった。
まとまりのない三匹が、同じフレームの中でそれぞれ別の物語を喋っている。アニメのなかで、調和は起きていなかった。
それは、現実の舞台そのものが物語に混入してしまったような奇妙な不均衡だった。
イヌ(辻)「そっちえの角、昨日とぁ違う気がしゅる」
キツネ(わたし)「昨日をちゃんと見てたの?」
タヌキ(中田)「……昨日って、なんだ?」
辻のイヌは焦りのあまり、あからさまに噛んでしまう。リテイクは‥‥‥上がらない。でも、時間の問題だ。
しかし、生まれたズレのおかげでわたしのセリフが高く舞い上がる。主導権はとれた。あとは、いつも通り冷静に芝居するだけ。
中田のタヌキは───木の根の下で息づく獣のようにひっそりとわたしの真後ろについてきた。そこに活路を見出したようだ。
キツネ(わたし)「見てたよ……たぶん、夢のなかで」
セリフを口にするたび視点がグングンと高くなってい。調子はすこぶる良好。
キツネ(わたし)「歩いたと思えば、道になるよ」
言葉とセリフが嚙み合って、さらに高く飛び上がる。
キツネ(わたし)「同じ道を歩いてても、匂いは少しずつ変わる」
タヌキ(中田)「角を二つ曲がるとパン屋があるんだな」
‥‥‥おかしい。わたしの視点はいつの間にか、会場の屋上をすり抜けて夏の入道雲と並んでいた。こんな高い場所に来たのは初めてだった。
キツネ(わたし)「歩いて行こう。匂いがする方角へ」
タヌキ(中田)「知らない道を歩いていこう」
イヌ(辻)「じゃあ、明日は知ってる道だね」
早々に落ちたと思った飛騨乃花の辻が戻ってきた。しかも、いつの間にかわたしと同じ高さにいる。
わたしがセリフを口にすると、なぜかそこに足場がある。わたしが自分自身で想定していないようなお芝居が、足場によって表現される。
それは、わたしが理想とする‥‥‥いいや、それ以上のお芝居だった。
同じように飛騨乃花の辻も冒頭のしくじりなんて忘れたかのように、自信満々にマイクの前に立っている。
キツネ(わたし)「それはつまらない。明日は知ってる道を忘れよう」
タヌキ(中田)「忘れたふりならぼくは大得意だ!」
課題アニメも中腹、ようやく手品の種を理解する。
わたしの調子がいつも以上に良いのは、中田紀子が原因だ。
中田のお芝居がわたしと辻のお芝居を底上げしている。原因は分かったが、原理が理解できない。対戦相手の芝居を底上げするお芝居なんて、聞いたこともない。
ふと、思い出したのは、小太りなおばさんこと、わたしたち伊吹山高校の顧問、出光先生の言葉だった。
『はぁ~、早矢仕中の中田はこえしば辞めるってさ。もったいなすぎる。私だったら、中田の才能を伸ばしてやれたのに。中田は名脇役、バイプレイヤーだ。あいつがいれば、うちの部もかなり底上げされるはずだった。正直、今のうちには月島みたいな絶対エースより、中田みたいなバイプレイヤーのほうが欲しかった」
わたしは右隣の中田紀子の顔を盗み見た。
彼女は真っ青な唇で、目線を泳がし、どこからどうみても挙動不審お変質者だった。
イヌ(辻)「忘れてしまったら帰れなくなるよ」
キツネ(わたし)「帰れなくなったらいけないの?」
タヌキ(中田)「パンの匂いを辿ればいつでも帰れるよ!」
物語も終盤にさしかかり、不意に脳裏に浮かんだのは舞台で横一線に並ぶわたしたちの姿だった。それは、こえしばという競技では誰が勝利するかわからない状況であった。
飛騨乃花の辻は序盤が悪かった。しかし、中田は‥‥‥?
白真弓商業高校、中田紀子にわたしは明確に勝っているといえるのか?
お芝居をしながら、算数にいそしむなんてわたしらしくない。
わたしは本の虫。お芝居よりも、物語が好き。でも───
───伊吹山高校のみんなのために絶対に負けられない
‥‥‥負けられない?
わたしは自分が中田紀子に負けていると思っているのか?
自問自答は文学少女の特権。わずかでもそう思ったのなら、わたしのやることは単純明快だ。
わたしは足裏に力を込めた。視点の高さなんてクソくらえ。岐阜県最強を舐めるな、一年ごときが。
キツネ(わたし)「優しい嘘も時には必要だと思うんだな」
真っ向勝負!
中田紀子と殴り合う。
タヌキ(中田)「優しい嘘なら川べりに置いとこう!」
殴りにいったつもりが、何倍ものパワーのお芝居で殴り返された。
‥‥‥この子が名脇役?
そんなこと信じられない。だってこの子‥‥‥‥‥‥‥
『伊吹山高校糸田麻美二票、飛騨乃花高校辻秋穂〇票、白真弓商業高校中田紀子三票。副将戦は白真弓商業高校中田紀子さんの勝利です』
声のお芝居をする時、視点の高さを意識していますか? 会話なら目線の高さ、モノローグなら頭より少し高く、ナレーションなら部屋を見渡せるぐらい高さで。作中で引用した永井一郎さんのガンダムのアバンナレーションはお手本のような視点の高さを意識した声のお芝居です。絵本の読み聞かせや、朗読イベントに参加している声優さんは視点のコントロールを自然とこなしますよ。




