#10 月の顔
☆月島月華
お母さんが買った服はどれも地味でわたしに似合わなかった。服を脱ぎ捨て、下着姿で鏡に映る。
芝居のしていないわたしはモブキャラ以下の存在感しかなくて、このまま柿本さんに会ってしまったらきっと失望させてしまう。
わたしは思いつきで柿本さんを誘ってしまったことを後悔していた。もっと、時間をかけて準備するべきだった。
柿本さんは天才アニメ監督だ。わたしのようなちょっと声の芝居が上手いだけの高校生とは違う。むしろ、わたしよりも芝居が上手くて可愛いプロの声優と頻繁にデートをしているに違いない。
芋くさい格好で待ち合わせ場所に行ってしまったら来てくれないかも知れない。
わたしはベッドに並べた衣装を払いのけた。こんな衣装じゃ柿本さんに嫌われてしまう。
わたしをわたしじゃないぐらい可愛くしてくれる衣装‥‥‥ひとつだけ心当たりがある。
わたしは自室から飛び出して、随分使っていない月島琥珀ことお姉ちゃんの部屋のドアを開けた。
何年もそのままになっている段ボールを避けながら、クローゼットの開ける。
その中からビニール袋に丁寧に梱包されている衣装を手にした。
わたしは軽く埃を払って、その衣装を自分の体に重ねてみた。うん、サイズは問題なさそうだ。
自室の鏡の前に戻って、お姉ちゃんがアイドル時代、ステージで着ていたフリフリのたくさんついた衣装に袖を通す。
わたしが月島琥珀に憧れていた頃、お姉ちゃんはこの衣装で観客が数十人しかいないステージに立ち、運動音痴の癖に必死に踊って、歌っていた。わたしはそんなお姉ちゃんが大好きだった。
鏡に映ったアイドル衣装のわたしは、あの頃のお姉ちゃんに少しだけ似ていた。
わたしは大きく頷いて、あまり使ったことのないメイクボックスに手をつける。
アイシャープを濃く塗って、なるべくわたしじゃなくなるような化粧をする。
大垣駅から名古屋へ向かう電車に揺られている。日曜日の昼前の電車はそこそこ混んでいて、座るわたしの目の前の吊り革にずらりと腕が並んでいる。
嫌な視線を感じる。中日ドラゴンズのユニホームを着て電車に乗った時よりも、注目されている気がする。空気が悪くなってくる。しかし、今日はマスクもペンダント式の加湿器も持ってきていない。わたしを守ってくれるものは手元になかった。
目の前を通る人が嫌な視線を向けてくるから、わたしは自分の膝を見つめてこえしばの課題のことを考えてやり過ごしていた。早く名古屋に到着して欲しい。こんなことなら柿本さんに会いたいなんて思わなければよかった。
名古屋駅に到着すると、わたしは逃げるように電車から降りて改札口を抜けた。呼吸を整えながら、金色の時計台の下で柿本さんを待つ。待ち合わせ時間より三十分も早い。いつもだったら十五分は遅れてしまうのに。
時計台の下で待っているあいだも、行き交う人たちがわたしに嫌な視線を向けていく。
わたしは視線から逃げるように下を向いてこえしばの課題アニメのことを考える。突然、スマホのカメラのシャッター音が鳴り響いた。わたしが顔を上げると、近くにいる中学生ぐらいの女の子がわたしにスマホを向けていた。
わたしはようやく自分の衣装があまりにも場違いであることに気が付いた。
大きなリボンと何重もフリフリのついたパープルカラーのドレスなんて着て歩いている人、駅構内のどこにもいない。わたしだけがこの場所から切り離されように浮いていて、冷静に考えればただの痛い女の子だった。
わたしは息を呑んだ。顔が熱くなって、死にたくなるぐらいの恥ずかしさを覚える。
どこかに逃げ場所はないか。わたしは顔を下にむけたまま、おぼつかない足をあてもなく動かした。
そしたら、誰かにぶつかった。
「おっと、月島さんだよね?」
わたしは忘れることのできない声色を聞いて、ハッと顔あげる。そこには、白馬の王子様が着るような装飾のたくさんついた白いスーツ姿の柿本さんがいた。
‥‥‥もう一度確認する。やはり、柿本さんは少女漫画の舞踏会で貴族の王子様が着るような白色のスーツ姿だった。
わたしは柿本さんの胸に両手を置きながら口にする。
「え、その格好?」
柿本さんはダイヤモンドのように輝く瞳をわたしに向ける。
「カッコいいでしょ?」
「‥‥‥は、はい」
わたしは呆然と柿本さんを見つめてしまう。絶対にカッコいいはずのない白のスーツを、この世界で一番カッコいいと思ってしまっている自分に驚く。
「あの、写真撮らせてもらっていいですか?」
先ほど、わたしにスマホを向けていた中学生の女の子が唐突に声をかけてきた。
わたしが答える前に、柿本さんが「いいよ」って簡単に答える。
柿本さんはわたしの肩に手を置いて、スマホのカメラに向かってポーズを決めた。展開についていけないわたしは流されるがままだ。
「いただきます、ポチッとな」
女の子がシャッター音を鳴らす。すかさず、柿本さんがポーズを解いて、女の子に手を差し出す。
「写真、見せて」
女の子は「どうぞ」と微笑みながらスマホを渡してくれる。
柿本さんの後ろからわたしもスマホをのぞき込む。
そこにいたのは、どこかの国の王子様とお姫様だった。写真のわたしはわたしじゃないみたいで、間違いなく特別な女の子だった。
わたしはそっと王子様の横顔を盗み見る。柿本さんは数回、瞬きをしてから女の子にこう語りかける。
「ちょっと、画角が弱いかな。ポージングも平凡だし。あのさ、もっと下から‥‥‥えっと、この辺の位置からバックに時計台がおさまるように撮ってもらっていい?」
女の子にスマホを返すと、柿本さんはわたしを抱き寄せた。わたしの押し潰された胸が破裂しそうになる。
「月島さん、世界を征服しようとする魔王のような顔をして」
柿本さんにいきなり注文されて、わたしは頭の中で「グハハハッ!」と咄嗟に芝居をする。
スマホのシャッター音がする。柿本さんが写真をチェックする。首を横に振って「うーん」と唸ってこう口にする。
「後ろの子たちって君の知り合いだよね? 僕が指定する場所からみんなで撮影してもらっていい?」
女の子は「え!?」と明らかに面倒そうな反応を示す。しかし、素直な良い子なんだろう。友達を巻き込んで、即席の撮影会が始まってしまった。
もちろん、わたしは理解が追いついていかない。『飼えない子犬がついてくる』とか『自転車のサドルがない』とか『友達が勝手にM1グランプリに応募した』とか『最終回で滅亡する世界を目の当たりにする』とか。そんな表情やポーズを矢継ぎ早に要求されて、わたしは頭の中で芝居をすることで精一杯だった。
撮影会は一時間近く続いた。途中、知らない人が撮影に参加してきたり、遠巻きからスマホをこちらに向ける人もいて、時計台の近くはちょっとした参事になっていた。
柿本さんが「まあ、こんなもんか」と微笑むと、中学生ぐらいの女の子たちは「あ、ありがとうございました」と礼儀正しく言ってから逃げるように散っていった。
場が落ち着いて、わたしと柿本さんの視線が重なり合う。
「で、今日はなんだっけ?」
柿本さんが申し訳なさそうに言った。
「あの、助けてもらったお礼にご飯でもと思って」
わたしは必死に言った。
「そっか、じゃあ行こうか」
柿本さんが白いスーツの装飾を揺らしながら、わたしに手を差し出した。
「はい、お願いします」
わたしはそっと彼の手を握り、時計台をあとにする。すぐにわたしが予約したレストランの時間までかなり空いていることに気付く。柿本さんにそのことを伝えると、「じゃあ、アニメを見に行こう」と即座に答えてくれて、わたしたちは近くの映画館を目指した。
☆ ☆ ☆
映画館のクッション性のあるシートに腰を沈める。中段より少し上の真ん中の席。隣には短髪で清潔感があって瞳をギラギラさせた柿本さん。わたしは柿本さんの横顔をまじまじと盗み見る。こんなカッコいい人初めてだ。
柿本さんが「楽しみだね」と言って、肘掛けに腕を置く。わたしは「そうですね」と返して、彼の手を握る。デートでカップルは手を握り合うのが普通だ。柿本さんも表情を変えることなく握り返してくれる。
映画どころではないっ!
わたしは映画スクリーンに映るクソ以下の邦画の予告に「邪魔しないで!」って叫びたくなる。今は二人だけの世界にいさせて欲しい。
館内が暗くなりアニメ映画が始まる。スクリーンの中の少年が異世界に旅たち冒険に出かけた。
わたしは柿本さんを見つめながら、視界の片隅でアニメを眺めている。もちろん、内容なんて一つ頭に入ってこない。
すると、柿本さんと目が合った。彼は純粋無垢な笑みを浮かべて、わたしにこう口にする。
「必死に階段なんか登っちゃってさ、全然どうでもいいシーンなのにバカみたいに作画に力入れて、笑えるよね」
わたしは言葉の意味するところが分からなかった。
「そうなんですか?」
「うん、アニメ映画って一秒も無駄にできないのに冒頭からずっと走ってばっかでしょ? 立ち上がったり、ドアの開け閉めしたり、鳥が羽ばたいたり、池で鯉が泳いでたり、群衆の足元映したり、やたら振り向くし、表情変わるたびに目を閉じるし、後ろ姿のセリフの時にガバガバ動くし」
柿本さんはクスクス笑いながら、神様のような顔してこう口にする。
「ぜーんぶ、たいして面白くないのにね」
スクリーンでは異世界にやってきた少年が敵から追われ、つまづいて転びそうになるがなんとか踏ん張ってまた走り出したところだった。
「確かに、何が面白いのか分かりません」
「でしょ? 脚本家がページ数増やすためだけに考えた意味のないセリフも、引きと寄りの繰り返ししかできない絵コンテも、動画をやったことのないアニメーターの原画も、キャラの顔にしか興味のない作画監督も、どっかの作品から色を拾ってくるだけの色彩も、フレアとパラさえやっとけばいいと思ってる撮影も、監督の言われた通りにしかカットできない編集も、そんなスタッフしか集められない無能プロデューサーも、作品が面白くないのはスタッフのせいで自分のやりたいことができなかったと思ってる最低の監督も‥‥‥みんな、笑えるよね」
柿本さんはそう言って、本当に肩を震わせて笑った。
わたしたちの前の席に座っていた人が立ち上がり、こちらに舌打ちをしてからどっかへ行った。
「こんなアニメをありたがってる視聴者とか‥‥‥フフッ」
なんとなく視線を感じる。突き刺すような嫌な視線だ。わたしは居心地の悪さを感じる。
「声優さんの演技なんか、みんな台本を全力で読むだけで感情なんてありゃしない。作品の内容なんてどうでもいいんだろうね。別撮りしてるからか、キャラクター同士のセリフのテンションが合ってないし。ミキサーがカメラの近い遠いでレベルを変えるせいでセリフが聞き取りずらいし、効果音も素材ばっかこだわってタイミングが合っていないし、劇伴もBPMを意識してないからシーンによってチグハグだし‥‥‥音響監督はこれでよく通したな」
また、近くにいた人が立ち上がりこちらに咳払いをして退席していった。
わたしは柿本さんの横顔を見つめる。うん‥‥‥ここは少しも恐くない。
「柿本さんの言う通りです‥‥‥クソアニメですね」
柿本さんはスクリーンに目を向けたまま答える。
「でしょ? これに三億かけてるとか、アニメブームってめちゃくちゃだよね」
それからも柿本さんは永遠とスクリーンのアニメ映画のどこが駄目かを教えてくれた。途中、映画館の係の人がやってきて、わたしたちは映画館から強制的に退場させられた。わたしはさすがに申し訳なさを覚えたが、柿本さんは特に気にした様子がなかった。映画館をあとにしてからも柿本さんはわたしには理解できないようなアニメの話を笑いながらずっと語っていた。
☆ ☆ ☆
「申し訳ございませんが、当店ではドレスコードを設けております。お客さまの服装はそれに合致していないため、ご入店いただくことが難しい状況です」
わたしたちは予約したレストランにやってきて、開口一番で落ち着いた女性の店員さんに頭を下げられた。
「そんなの‥‥‥困ります」
わたしは柿本さんと店員さんの顔を交互に見つめ言った。しかし、アイドル衣装がこのレストラン相応しくないのはわたしにも分かる。
「ご提案なのですが、当店ではドレスの貸し出しもおこなっております。別料金になりますが、そちらを利用してみてはいかがでしょうか」
「お、いいね。月島さん、やってみようよ」
わたしが答える前に、柿本さんが手を叩いた。そして、わたしたちは店員さんに促されて別室に案内された。
わたしが通された衣装部屋にあったのは壁一面の高級そうなドレスだった。
案内してくれた店員さんと入れ替わるように、派手なメイクをした女性がやってきてこう口にする。
「若いね、高校生?」
女性はわたしのつまさきから順番に見つめてくる。
「はい、高校一年です」
わたしは借りてきた猫だ。壁一面のドレスに気圧されていつもの調子が出ない。
「彼氏?」
女性のその一言にわたしは勢いよく首を振った。
「違います! この前、助けてもらって‥‥‥その、お礼に来ただけで」
「じゃあ、今夜は勝負だ」
わたしは目の前の女性のことを一気に好きになった。この人はわたしのことを理解してくれるような気がする。
「あのっ‥‥‥わたし、こういうところ初めて。ドレスコードがあるとかも知らなくて。衣装も‥‥‥こんな変なの着て来ちゃって」
わたしはフリフリのスカートを握った。お姉ちゃんがこんな変な衣装を保管しているのが悪い。
「えー、その衣装も可愛いよ。名前なんての?」
女性はわたしの肩を掴んで言った。
「月島月華です」
「じゃあ、月華。少しの間だけどよろしくね。早速だけど、メイクし直そうか。私がやり方教えてあげる」
わたしは女性に言われるがまま目を閉じて、聞かれた質問に答え続けた。
学校は楽しい? そこそこ
友達はできた? うん、変な奴が二人
授業は難しい? 聞いてないからわかんない
趣味は? 特になし
部活やってる? ちょっとだけ
好きな色は? 黒
好きな歌は? 聞いてないからわかんない
好きな人は? そんな人いません!
ごめんごめん。自分のことは好き? ‥‥‥好きじゃない
じゃあ、好きになろっか。目を開けて はい
まぶたを開ける。そこには鏡に映るわたしじゃないわたしがいた。
胸元が大きく開いた紫色のドレスを纏うわたしは背筋が伸びていて別人のようだった。
「これがわたし?」
自分の頬をつねって鏡を見つめる。
「うん、お化粧はね落としただけでほとんどしてないよ。月華、これで自分のことちょっとは好きになれた?」
わたしは首を横に振って目を伏せる。
「分からない‥‥‥だって、わたし全然可愛くないし、愛想もないし。話すのも下手で‥‥‥空気も読めなくて」
「そうなの? 私はこんな可愛い子をメイクアップしたの初めてだけど」
「わたしは‥‥‥」
「じゃあ、彼に聞いてみよっか。月華、前を向いて。せっかくのドレスにシワがついちゃうよ」
わたしは女性に背中を押されて、レストランホールへ戻ってきた。
そこには、白のタキシードに前髪をワックスで固めた柿本さんがいた。
わたしは思わず、彼に問いかける。
「どうかな?」
彼は間を置かず答えてくれる。
「綺麗だよ」
わたしはどうしたらいいか分からず、メイクをしてくれた女性を見つめると、親指が返ってきた。
レストランの女性店員さんが微笑みながらやってきて「それではご案内します」と言う。
わたしは柿本さんと腕を組んで、テーブルまでの短い距離をゆっくりと歩く。なんとなく、視線が集まるのを感じるのに、嫌な気持ちにならなかった。
ドリンク、前菜と順番に運ばれてくる。わたしはテーブルマナーなんて知らなくて焦ってしまう。柿本さんが「すみませーん」と大声で言った。店内が一瞬静かになる。店員さんがやってくる。「箸もらっていいですか。月島さんは?」「わたしもお願いします」「じゃあ二つ」「かしこまりました」少しして、割り箸が到着して二人同時に割った。前菜を口に運ぶ。「高級な味だ」彼がそう言う。「はい、高級です」わたしは答えた。味なんて分からなかったけど、幸せの味ってたぶんこんなの。
スープ、フィッシュ、メイン、と食事が進む。わたしは柿本さんに問いかける。
「学校は楽しいですか?」「あんま行ってないなあ」
「友達はいますか?」「いないかも」
「勉強は大変ですか?」「勉強なんてとっくの昔にやめたよ」
「趣味は?」「アニメ制作」
「部活とかやってないんですか?」「一応、ボクシング部だね。アクションシーンの参考に」
「好きな色は?」「三原色」
「好きな歌は?」「エンディングロールで流れる歌」
「‥‥‥好きな人はいますか?」「いないよ」
わたしはなんだか寂しくなってしまってこう口にする。
「月華って呼んでください、わたしのこと」
柿本さんはクスクス笑ってこう答える。
「じゃあ、僕は虫可だ。アニメ監督の父と同人漫画家の母が手塚治虫から『虫』の一文字をもらったんだって。なんて恐れ多い名前なんだろうか」
「そんなことないです。虫可っていい名前だと思います」
「月華もいい名前だよ」
それから些細な会話をして、わたしたちは紅茶を飲み終えた。お皿を下げにきた店員さんがテーブルの端にそっと伝票を置いた。わたしは伝票を手に取り金額を確認する。
───五万六千円
「うそっ」とわたしはついこぼしてしまう。スマホでなんとなく良さそうなレストランを予約したから予算のことなんて考えもしなかった。財布に入っている二万円で足りないなんて。
「どうしたの?」
柿本さんが微笑みながら言った。自分から食事に誘っておいてお金が足りないなんて言える訳ない‥‥‥どうしよう!
お母さんに電話をしたらわたしの口座に振り込んでくれるだろうか。でも、そうしたらコンビニまで行ってお金をおろさないといけない!
わたしは伝票を握りしめる。なんて答えたらいいのか分からない。
柿本さんが「あ、お金ないの?」と言って、手をあげて店員さんを呼んだ。わたしは「ちょっと待って」って声にならない声をあげてしまう。
テーブルにやってきた店員さんに、柿本さんがクレジットカードを差し出して「一括で」と言った。「かしこまりました」と店員さんが頭を下げる。
「柿本さん! わたしが‥‥‥その、払うつもりで」
「えっ! そんなに高かったの?」
「‥‥‥五万六千円でした」
「なーんだ、そんなもんか。驚かさないでよ」
「だって、五万ですよ、五万」
「五万って‥‥‥アニメの原画って一原と二原がそれぞれ二千五百円ももらえるんだよ。一日、集中してやったら一原だったら十五カット、二原だったら十カットぐらい描けるから。五万なんて安いもんだよ」
柿本さんが特に気にしないように言った。たぶん、それは本音なんだろう。
「アニメーターって儲かるんですね」
わたしは誤魔化すように言った。
「他人の絵を描くだけでお金もらえるなんて世の中ちょろいよね」
柿本さんはクスクス笑いながら言った。
わたしの悩みを柿本さんは何食わぬ顔で全て解決してしまう。彼が隣にいてくれたら、わたしは演じることをやめられるのに‥‥‥。
衣装を返す時、メイクをしてくれた女性が「月華の彼、なかなか曲者だね」と渋い顔で教えてくれた。
わたしは「そうですね‥‥‥」と朧げに返事をして、レストランをあとにした。
☆ ☆ ☆
夏の薄暮。日が沈み、イルミネーションが点灯する。大きな噴水のある公園はほのかな熱。
わたしは柿本さんの手を握り、歩きながら言葉を紡ぐ。
「柿本さん」
「虫可じゃないの? 月華」
「‥‥‥虫可」
「なに?」
「あの、好きです。好きになりました。恋人になってください」
「え、月華知らないの?」
「何がですか?」
「クリエーターはライフが三つしかないんだよ?」
「どういうことですか?」
「恋人ができたらライフが一つ、結婚したらライフが一つ、子供ができたらライフが一つ、これで合計三つのライフを失いクリエーターは死んじゃうんだよ?」
「‥‥‥知らない」
「どうして? 声優になるんでしょ? 声優もライフは三つしかないんだよ? こんなところでライフを消費してちゃあ声優になれないよ?」
「わたしはっ‥‥‥わたしは声優になんて‥‥‥」
「え? 月華は一緒にアニメ作ってくれないの?」
「違います! わたしは虫可と一緒にアニメ作りたいです!」
「よかったあ‥‥‥月華は口だけじゃないんだね? 『アニメ作りたい』なんて期待させておいて、みんな勝手にやめていっちゃんだから、ほんと嫌になるよね」
「‥‥‥‥わたしは声優になります。だから‥‥‥見捨てないで」
「うん、死ぬまで一緒にアニメを作ろうね! 絶対に手は抜いちゃダメだよ。そんなことしたら──」
───アニメの神さまに嫌われてしまう
「アニメの‥‥‥神さま?」
「会ったことないの? アニメの神様に?」
「‥‥‥まだ会えてない」
「フフッ、月華だったらきっと会えるよ」
わたしは目眩を覚えて、意識が混濁して思ってもいないこと(そうでもない)を口に出してしまう。
「恋人も結婚も子供もダメだったらキスぐらいしてくださいよ!」
柿本さんは悪魔のように口角を釣り上げる。
「いいね、それ面白いね」
そう言って、わたしの手を引っ張って大きな噴水の前で立ち止まる。
「月華、スマホのカメラ起動して」
わたしは言われるがまま、スマホを取り出してカメラを起動させる。
そしたら、柿本さんにスマホを奪われてしまった。
柿本さん‥‥‥虫可がわたしの肩を抱き寄せて、スマホのレンズを向ける。
「行くよ‥‥‥」
噴水が勢いよく空中へ広がった
わたしと彼の唇が重なる
あ、ファーストキス
まぶたを閉じて温もりを感じる
唇が離れると、わたしは彼の胸を叩いてしまう。
「いつもこんなことやってるんですか?」
彼は瞳を輝かせて答える。
「月華が初めてだよ? デートも映画もディナーもキスも月華が初めてだ」
「‥‥‥わたしも」
わたしは彼の胸に耳を寄せて、捨てないでって抱きついた。
虫可の力が返ってくるけど、彼の心が分からない。
☆ ☆ ☆
帰りの電車の中で、わたしは泣いていいのか、笑っていいのか、どうしたらいいのか分からなかった。
アニメのキャラクターを演じることなら、あんなにも簡単なのに、わたしはわたしを演じられない。
唇をなぞり、虫可を思い出す。胸が締め付けられる。こんな気持ち知らない!
不意に隣から音楽が聞こえてくる。それは、隣に座る女性のイヤホンからこぼれていた。
わたしは何かにすがるように、その音楽に耳を澄ませた。
それはどこにでもあるような恋愛ソングだった。
わたしはたまらなく泣きそうになる。悲しいからではない。どうしたらいいか分からないから泣きたくなる。
「ごめん、音漏れてた?」
隣に座る女性がわたしに言った。
わたしは黙って首を横に振った。
「‥‥‥あのさ、一緒に聴く?」
わたしは黙って首を縦に振った。
女性がわたしの左耳にイヤホンを当てる。
音楽が聞こえる。わたしの生活の中に確かにあったであろう音楽をわたしは初めて聴いた。
「この曲、いいよね」
女性はクリクリとした可愛らしい瞳で言った。
「‥‥‥うん」
わたしは涙があふれるのをなんとか我慢していた。
「泣くのって難しいよね」
「‥‥‥うん」
「あたしね、趣味で占いしてるの。みてあげるね」
「‥‥‥うん」
女性は両手の親指を合わせて猫のように手首を曲げる。
「あなたのマジカルラブリーは99%です‥‥‥恋してるんだね」
「‥‥‥‥‥‥‥‥うん」
名前の知らない駅で電車が止まる。
「まりあ、行こうぜ」
しゃがれた声が女性を呼ぶと、彼女は「ごめん、お笑いの営業の前のりなの」と言って、わたしに手を振った。
「安田、待ってよ」
女性はそう言って、電車を降りて行った。
───恋愛ソングのタイトル聞いておけばよかった
───わたし、恋してるんだ
作画も声も音楽も、残念ながらアニメではありません。アニメは、アニメです。




