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割れない鏡

作者: 夢影みちる
掲載日:2023/01/24

 ちょうど今のような日だった。重い雲の向こうには、太陽の柔らかい光があるのがわかり、雲の裏から光が透けていた。空気は澄んでいて、微かに花の香りがまじっていた。この街の唯一の名所である公園の桜が、八重咲きとなり春を振り撒いていた。


春は別れの季節とは、よくいったものだ。出会うことがあれば別れもある。たったそれだけのことなのに、どうも胸が苦しくなっていくのが人間だ。私があの春に出会って、別れた人は、手鏡をくれた。ずっと割れない手鏡をくれた。


手鏡で窓越しにある春景色を映してみた。そう。君がいないからせめてもの安らぎを求めている。桜がよく似合う君を重ねている。君の名前は、桜。


あの日の景色が甦る。また、私の記憶の中で息をし出す。



疲れきった足を引きずり、溜め息を吐いた。家から公園まではなかなかの距離があるのだ。それなのに公園に訪れていたのは、きっと運命の巡り合わせを意味していたのだろう。溜め息を吹き飛ばすような人に出会えた。その人は、君は、桜の大木の前に佇んでいた。


密やかな笑みを湛えて桜吹雪を受ける君は、公園にいるほかの誰よりもきれいだったのを覚えている。まるでそこには妖精がいるようで、誰にも触れられない空気だった。私はそんな君を眺めていると、美しさとともに何かを感じた。美しい君を、ずっと前から知っているように感じられたのだ。


漆のような光る黒髪、青白さの残る頬に広がる愛らしい紅色。前にも見ていたようだった。それは決して思い違いではなくて、事実だとわかった。君は私に声をかけた。君の瞳が私を流し目でとらえた瞬間に、私の生きる世界の時が止まった。


「ねえ……もしかして、雪枝ちゃん?」


あまりに美しい透き通るような声だった。


「雪枝ちゃん……なの?」


そう私の名を呼ぶ君を見て、私は静かに確信した。ああ、再会できたのだと。


「うん……桜ちゃん、だよね」


私が答えると、たちまち君の瞳は喜びに満ち始めた。


「覚えててくれたの、私のこと!」


顔いっぱいに笑う君がかわいかった。私の冷たい手を、君の温かい両手が包む。私達は再会した。君とは、幼稚園以来だった。その温かい春のような手が離れて欲しくない。思い返せば私達は何時も何時も一緒にいた。別々にいる時なんて殆ど無かったように思う。


時が流れ、君は麗容でたおやかな乙女に成長した。私は痩せっぽっちだから、隣にいると君の女神像に似た身体がより目立つ。再会したかつての幼い頃の友人が、こんなに美しくなっていたとは驚いた。


そして巡り会った私達は、再び友情で彩られた日々を送るようになった。そんなある日、君の異変に気が付いた。どこか忙しなく見えた。明らかに何時もとは違う君を見過ごすことは出来ず、私はついに問いただした。


すると、予想を遥かに越えた言葉が返ってきた。


「あのね、入院することになったの」


君は何故だか申し訳無さそうに俯いて、私から目をそらすのだった。


「ごめんね」


謝らなくていいよ。謝らないで。何よりも、君が悲しみに暮れる姿は見たくは無い。そう言いたいのに、君に伝えたいのに、ただ強ばって動かない私の唇がとても嫌だ。


もうとっくに桜は散っていて、公園は緑一面の景色に移り変わっていた。私達の仲も移ろいでしまうのかがただただ不安だった。そんな時に、君があの手鏡をくれたのだ。


「きっと長い間会えなくなるから、渡しておきたかったの」と言いながら紙袋を手渡した君。この時が、私と君が最後に会って過ごしたひとときになった。君はその後すぐに入院してしまった。君の涙で少し湿った紙袋の中には手鏡が入っていた。


初めて手鏡を手に持った時のことは忘れられない。君みたいな手鏡だった。光を放つ螺鈿細工に、控えめながらも存在感のある八重桜が描かれている、雅やかな手鏡。まるで君の姿を象徴しているようで、私は不思議と心が落ち着いた。



それからの春。年が明けた。一人声を枯らして泣いていた。

君と別れることとなったから。


煙が天にのぼっていくのを黙って見ていた。私達の過ごした思い出も煙になるのだったら、君は空に思い出を持ち帰ってくれたのか。ただ茫然と眺めていたような気がする。君という魂がいなくなった世界はあまりに窮屈で、色を失っていた。


それでもあの桜は花開いていて、私の心に春を教えていた。桜の名を持って生まれた君は、桜咲く季節に旅立っていった。やはり君の魂は春の景色に帰っていったのだろうか。君が旅立った春は、人生何度目の春だったろうか。



ふと目をやると、君のくれた素晴らしく美しい手鏡があった。

この手鏡と一緒に紙袋に入っていた、手紙の中の君の言葉を思い出す。


「勝手にいなくなるかもしれないけど、ごめんなさい。でも、私がいなくなっても、ずっと友達だからね。桜が咲いたら、私のことを思い出してほしいな。この手鏡は、友情の証だから割れないよ。ずっとね」


そう。だからこの手鏡は決して割れることは無い。君と生きた記憶が割れることは無い。窓越しの景色の桜は散っても、この八重桜が散ることは無い。


永遠に割れない鏡だ。

春風が吹き、眺めていた景色の桜が揺れた。その時に、一瞬だけ君の微笑みも通り過ぎていったように見えた。


桜と重なった君の姿を見て、私は声も出さずに、手鏡の持ち手を握りしめていた。

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