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ボクは、ベッドの上で眠りこけるゴメ子に視線を移した。ウサギの人形を抱いて眠る褐色のお姫様は、この世界に蔓延る邪気とは無縁に思えた。
「スカートが乱れてるじゃないか…」
ボクは、何の下心もなくゴメ子のワンピースに手を伸ばす。
「…ちょっとお待ちなさい」
なぜだか、その腕を氷魚に掴まれた。それも、お嬢さま口調で。
「ゴメ子が風邪を引くといけないから、スカートの裾を直そうとしただけだよ…あくまでも、親心の範疇だ」
「…それでどうして、あんたはスカートを捲ってるのさ」
『…ん、どうか、したかやか?』
そこで、眠り姫が目を覚まして体を起こそうともぞもぞと動く。
けれど、寝起きのゴメ子は、自分でウサギの人形を下敷きにしてしまっていたことには気付かず、そのままウサ子を抱き上げようとして。
『あ、れ…?』
古い人形だからか、ウサ子の足が、根元からもげてしまった。
『ウサ、子…?』
忘我のまま、ウサギの人形を見つめるゴメ子。猫科を思わせるその双眸に、涙が溜まる。
『ウ、サ子が…ウサ子の、足が』
瞳に収まりきらなくなったゴメ子の涙は、堰を切って溢れ出した。
『ウサ子が…死んじゃうかやぁ!』
取り乱し、ゴメ子は泣き叫ぶ。
「あの、ほら…ウサ子は人形だから、死んだりしないって」
氷魚が、何とかゴメ子をめようとするけれど。
『人形だって生きてるかや!怪我したら痛いんだかや!だから…人形だって死んじゃうんだかやぁ!』
ゴメ子の涙は、溢れて止まらない。溢れ出るその涙は、ゴメ子自身の欠片だ。
ゴーレムのゴメ子だからこそ、人形のウサ子の痛みを、自分の痛みのように感じている。
「…………」
そんなゴメ子に対し、何を言っていいのか、分からなかった。
何をもってして詫びればいいのか、分からなかった…。
ゴメ子は自分を人形だとは言わないが、それでも、どこかで感じている。
自分は、創られた人形だ、と。
「木、火、土、金、水…」
ゴメ子の慟哭の間隙を縫い、玲の声が静かに響いた。
「木は水に生かされ、火は木より出で、土は火により変遷し、金は土に育まれ、水は金に守護せしめらるる…」
「玲…?」
ゴメ子から目を離せなかったはずなのに、玲に視線を移してしまった。玲の眼前に黒い穴が生じ、そこから微かな光と…一枚の和紙が、現れる。
「おいで、『封牛』…」
緩慢に呟きつつ、玲は左右の手を忙しなく中空で幾重にも交差させていた。その動きの残滓により、五角形の星が形成される。その星に呼応するように和紙が折り畳まれ、牛を模した折紙の形に変化した…と思った瞬間には和紙の牛は子犬ほどの大きさに肥大化し、さらには生命体が持つ流線型の丸みを帯びる。
『ンモゥ』
折紙の牛が、声高に鳴いた…いや、仮初の生命を、得た。
『…………かや?』
ゴメ子の嗚咽も、相対的に和らぐ。
「封牛…箱の五番を出して」
『ンモゥ』
短く鳴いた牛が大口を開くと、口の中から五という札が貼られた小箱が現れた。
「今のは…?」
目の前の奇跡に魅入っていたボクは、最低限の言葉で説明を求めた。
「あの牛はワタシの式紙の一つで封牛…端的に言うと、物をしまっておける式紙です」
そして、玲は五の札が貼られた箱を開ける。箱の中には、一通りの裁縫道具がお行儀良く並べられていた。
「ちょっと、貸してください」
箱から針と糸を取り出した玲は、しゃくり上げるゴメ子の手からウサ子を受け取った。ゴメ子も、目の前の奇跡に魅了されていたからか、素直にウサ子を手渡した。
「すぐに、終ります」
その言葉に虚偽はなく、玲は一分足らずでウサ子の足を元通りにしてしまった。
「縫い目も目立たないから、これで大丈夫です」
『すごい、かや…ウサ子の怪我が、ぴったり治ってるかや』
泣き腫らした赤い目のままではあったけれど、ゴメ子は感嘆の声を漏らして喜んだ。
『よかったかや…ウサ子、これでもう痛くないかやね』
ゴーレムの少女は、ウサギの少女を抱き締める。
「戻れ、封牛…」
先ほどの手順をそのまま逆再生したように牛が折紙に戻り、そこから和紙に戻る。
「やっぱりすごいな、玲…」
何の阿りもない、単調な賛辞しか出なかった。
「…ただの、式神ですよ」
「でも、玲はさっきも、姿を隠す別の式紙を使ってただろ?」
「うちの式紙の利点は、多様性にあるので」
玲のその口調は、式紙はあの二種類だけではないことを仄めかしていた。
『あ、ありがとう、かや…すごい、かや』
玲を見上げた後、ゴメ子はぺこりと頭を下げた。
「別に…子供の癇癪が耳障りだっただけです」
率直に見上げるゴメ子とは違い、玲は視線をゴメ子から逸らした。ただ、冷淡な言葉とは裏腹に、玲の頬が赤味を帯びていたようだったけれど。
『それでも、ありがとうかや』
もう一度、丹念に頭を下げたゴメ子は、またウサ子を抱きしめた。
「そのウサギ…随分と大事にしているようですね」
玲はそこで、ウサギの人形に視線を落とした。
『ウサ子は、ソレガシ様の一番のお友達かや』
「そう…なんです、か」
玲のその言葉に、どこか寂しげなものが混じる。
『そうなんだかや。アルジ様が学校に行っている間は、このウサ子がソレガシ様のお話し相手になってくれてるんだかや』
…この言葉には、ボクの胸が軋んだ。
ゴメ子は、どう言いってもゴーレムだ。戸籍も住民票も、何もない。そして何よりも、成長をしない。生きとし生けるもの全てが享受する成長という福音を、若しくは、生きとし生けるもの全てに課せられた老化という十字架を、ゴメ子は免除されている。
いや、免除ではなく、排除をされている…この世界を囲う、枠縁から。
ゴメ子は生まれた当時のままの、七歳児くらいの外見のまま変化をしない。ということは、近隣で友達を作ることも許されてはいない、ということだ。
どうして、ゴメ子ちゃんは大きくならないの?
どうして、ゴメ子ちゃんだけずっとそのままなの?
…当然、身近に友人ができてしまえば、こうした疑惑が不可避となる。
そうして、否応なしに気取られる。
ゴメ子が、神様の祝福を受けて生まれた子供ではない、と。
「…………」
だから、ゴメ子にはあまり外出しないように言い含めてあるし、ゴメ子自身もそのことを理解しているから、殆んど外には出ない。それが、ゴメ子にとって窮屈なことだと、理屈では分かっていても。
『だから、ウサ子を治してくれたソナタ様には、感謝の感謝だかや』
ゴメ子は屈託のない笑みを浮かべていた…そこに鬱屈さは、微塵もない。たった一人の友達を治してくれた感謝の念しか、そこにはない。
だからこそ、ボクは己の罪を、再認識させられた。
「だから、お礼を言う必要は、ないんですって」
玲はゴメ子を…いや、ゴメ子が抱き締めていたウサ子を、静かに眺めていた。
玲は、もう気付いているのかもしれない。
あのウサ子の元々の持ち主が、自分だったということを。
そして、ゴメ子ももう気付いているのかもしれない。
自分が、玲を…。
『それでは皆様、そろそろホールにお集まりください。楽しい楽しい、儀式の時間にございます』
そこで、あの木彫り面の少年の浮薄な声が、スピーカー越しに、無粋に響いた。