32 『閉幕』
「責任を取って、結婚してください」
男子に生まれた者にとって、ここまで心臓に悪い台詞が、他にあるだろうか。
「あの、玲…さん?」
唐突に我が家に押しかけてきたと思ったら…何てアホなことを言い出すんだ、この子は。
「ピノッキオ機関で行われたあの儀式は、結局のところ有耶無耶になりました」
「…そう、ですね」
あのゼペットの秤皿の儀を無効化してから、一週間ほどが経過していた。
「なので、ワタシの政略結婚は、有耶無耶にはできませんでした」
「…そう、でしたね」
儀式自体を無効化したのだから、玲は式紙を失っていない。つまり、陰陽師としてのステータスに変化はないということだ。
「なので、責任を取って、結婚してください」
「…ごめん、そこの意味がよく分からないんだ」
そもそも、今日の玲は言葉が足りていない。一週間前のあの儀式では、もう少し理知的だったはずなのだけれど。
「ワタシが宝持の本家に引き取られたのは、本家に跡取りが生まれなかったためです」
「それは、聞いたけど…」
「そして今現在、ワタシが結婚させられそうになっているのは、本家が次世代の優秀な跡取りを欲しているからです」
「それも聞いたけど…それで、その責任がこちらに来るのはお門違いじゃないですか?」
「要するにですね、本家にとっては、ワタシの結婚相手は秀でた魔術師であれば誰でもいいのです…たとえば、ピノッキオ機関の儀式を壊せるほどの律法魔術師など、適任ですね」
「なる、ほど…」
…なのか?
「というわけで、責任を取って、ワタシと結婚してください」
玲がぐいぐいと前に来るから、そのメガネがボクの顔に触れそうになる。
「その、なんというか、突然で、言葉が上手く出なくて…」
あの儀式で窮地に追い込まれていた時よりも、よっぽどたじたじだった。
「ワタシたち二人の間には、言葉なんて必要ないではないですか…これさえあれば」
「あの、玲さん…それは一体?」
宝持玲は一枚の紙を見せてきた…婚姻なんとかという不吉な字面が浮かんでいる。
「婚姻届というものです。既に必要なところは記入済みでハンコも押してありますので」
「いや、ハンコって…なんでボクのとこまで勝手に押してんだよ!」
「偽造しました」
「それ普通に犯罪だから!」
「ピノッキオ機関の印璽を偽造した兄様の台詞とは思えませんね」
「ボクだって私文書の偽造なんかしねえよ!」
などという、てんやわんやのそのすぐ脇で。
『いやー、なんだか春めいてきたかやねー』
「そうですねー、ゴメ子さん」
…実は、この場にはゴメ子さんも氷魚さんもいたりする。
しかも、この一部始終を、煎餅を齧りながら薄気味悪いほど安穏と眺めていらした。
『なんだか春っぽくなってきたから、体を動かしたくなってきたかや』
「そうだねー、アタシもそんな気分だよ」
『それじゃあ、キャッチ・ボールなんてどうかや?』
「いいねー、腕が鳴るよ」
…なんで、キャッチ・ボールのはずが二人してバットを持ってるんだ。
しかも、こっちににじり寄って来るし、目が据わっていた。
「…て、危ねえっ!」
躊躇いもなく頭にバットを振り下ろすな!
…ゴメ子たちには言ってないけど、ボク、右目は見えてないから。
「それで兄様、式の日取りなのですけれど…」
「この状況で答えられないよね!?」
「そうですね…先ずは、神前式か教会式かを決めませんとね」
「そこじゃあないはずだよなっ!」
などとツッコんでいるその最中にも、ゴメ子と氷魚は阿吽の呼吸でバットを振り下ろしてくる。
…二つの意味で、人生の墓場を同時に迎えそうになっていた。
まあ、しっちゃかめっちゃかな毎日だ。
けど、そもそも魔術師の日常に、平穏が訪れることはない。
癒えない疵を負うこともあり。
言えない傷を負うこともある。
それでも、ボクの傍にはいてくれるんだ。
その傷を舐め合ってくれる、掛け替えのない存在が。 (了)




