31
色のない世界の中にいた。
白でも黒でもなく、赤でも青でもない。
ただただ、概念だけが存在する世界。
そこに、石版だけが浮遊していた。
これが、律法魔術だ。
世界から離反し、真理とだけ向き合う魔術だ。
「…久しぶりだな、この感覚」
十戒を使った魔術儀式は、極めて危険だ。
この魔術を使うたびに、ボクに律法魔術を叩き込んだアノ人の言葉を思い出す。
相手を戒めるということは、自分が正しくなければならない、と。
正しくない人間には、世界を正しく捻じ曲げることはできない、と。
「意外と染みるんだよな、アノ人の言葉って…」
…この世界には、正しくないものが多すぎる。
そこには、当然、ボク自身も含まれる。
だが、正しくないままでも、世界は回らなければならない。
その皺寄せが、世界のダレカにいっていたとしても。
「ご対面か…」
色のない世界の中、石版を挟んで淡い光が浮かび上がる。
それは、このゼペットの秤皿という儀式の中核だ。
その淡い光からは、様々なモノが流れ込んでくる。当然、この儀式を形作る、術式もだ。
「これが、儀式の中核か…けど、これは怨嗟、か?」
途中から流れ込んできたのは、底の抜けた憎しみだった。それらはひどく淀んでいたのに、止めどなく、波状に流れてくる。
「こんだけの恨みが…?」
この儀式の底には、何がある?
何をもってして、この儀式は形作られている?
そこで、足を掴まれた…いや、噛まれた?
「…この世界で、ボクに触れた?」
この色のない世界は、ボクを含め、ナニモノも実在してはいない。そこにあるのは、概念だけの存在と真理だけだ。
それなのに、ボクはナニモノかに足首を、噛まれた。
不可視の『口』は、最初は一つ。
そして、二つの『口』。さらには三つの『口』。
さらに増え、ボクの全身をくまなく噛む。懸命に噛む。
けれど、痛みはない。
あまりにも、弱々しいからだ。
「…コレが、このゼペットの秤皿の儀式の、根っ子か」
どんな儀式にも、中核はある。その中核を軸にして、魔術師は儀式を執り行う。
ボクの律法魔術なら、この石版だ。
そして、このゼペットの秤皿という儀式は…。
「疑似生命体たちの魂を苗床にして…組成しているのか」
ここにいるのは、打ち捨てられた疑似生命体たちの、魂だ。
…それも、創造に失敗した、魂たちだ。
『見て…』『…見て』『みて…』『ミテ…』『見て…よ』『見て、てよ…』
不可視の『口』は、さらに、噛み付く…いや、縋る。
その『口』たちは、渇望していた。ただただ、渇望していた。
「顧みられることがなかった命を…この命たちの渇望を、儀式の炉心として組み込んでいたのか」
弱くて。小さくて。脆い命たちを。
『見てよ…』『僕たちは…』『ミテよ…』『こた…えて』『ここ…にいる』『だか、ら…』
ただ、声は小さく繰り返す。叶えられることのなかった、その小さな願いを。
誰にも届かないと知っていても、それでも届かない声を懸命に張り上げていた。
僕たちは、これでも生きている、と。
「この儀式は放置できない…けど、儀式の破壊はこの魂たちを苦しめることに、なる」
儀式という外郭を破壊されれば、この魂たちは散り散りに離散する。ただでさえ孤独な魂たちが、最低限の仲間さえ、失うことになる。
そうこうしている間にも、魂たちはボクの足元…いや、腕や肩、頭にまで噛み付いてきた。
「痛みはない…はず、だけど」
概念だけのこの世界では、そもそも、傷を負うという概念がない。
「けど、なんだ、これは…痛い、というか熱い?」
噛み付かれた箇所から、妙な痛みが広がり始めた…鈍痛のような、火傷のようなその痛みが、少しずつ蓄積されていく。
「…これが、コイツらが抱えている怨嗟か」
噛み付かれた箇所からこの魂たちの怨嗟が流れ込み、それがボクの胸に溜まっていく。
それは、痛みを伴わない痛みとして、ボクを蝕む。
その痛みは、胸から頭へと飛び火してきた。
「頭が痛すぎて、指先から崩れていくみたいだ…コイツらはずっと、こんなものを抱えていたのか」
誰にも省みられることのないこの場所で、これほどの、痛みを。
あまりの痛みに思考が鈍り、色のないこの世界の中に、ボクが溶け込んでいくようだった。
「早く、儀式を壊さないと、こっちが逆に潰れそうだ…くそ、コイツらの魂なんてもう知ったことか余よ!」
もはや、四の五のと言っていられなかった。自我を保つことすら、既に困難になりつつある。
「ボクは、帰る…ゴメ子のところに、帰るんだ!」
…そこで、ボクの胸中に浮かんだのは、ゴメ子だった。
顔でもなく体でもなく、ただ、ゴメ子という存在を思い浮かべていた。
「…これは、ゴメ子たちが抱えている痛みでも、あるんだ」
本物の魂を持たない疑似生命体たちは、ずっと、こうした痛みを伴う恐怖に押し潰されそうになりながら、生きている。
「…なら、この儀式は、壊せない」
ここでこの魂たちを見捨てるということは、二度とゴメ子に顔向けができなくなる、ということだ。
「なんとか、儀式を壊さず、あの魂たちを救う方法が、あれば…」
痛みに思考を遮断させられそうになりながら、その方法を模索した。
…いや、あるには、あった。
「…中和、すれば、いいんだ」
ゼペットの秤皿というこの儀式の根幹にあるのは、あの魂たちが持つ生への渇望だ。その渇望を満たせれば…少しでも薄めることができれば、この儀式を律することなく歯車を止めることが、できるかもしれない。
「この魂たちの望み…」
誰からも、歓迎されなかった。
誰からも、見向きもされなかった。
誰からも、顧みられなかった。
…誰からも、見放されていた。
「せめて、誰かに見守られていれば…静かに眠ることくらいは、できるか?」
だが、ずっとこの場所にダレカがいることなど、できない。ボクだって、そう長い時間この場所にはとどまれない。
「…代わりに、ボクの『目』を、置いていくか」
いや、ボクの眼球を置いていかれたところで、あの魂たちは安眠などできない。
ボクの右目の、モノを見るという『概念』を、この場所に残していく。
それは、ここに残した『目』があの魂たちを見守り続ける代わりに、ボクは二度と右目でものが見えなくなるということでもある。
「ゴメ子や氷魚が知ったら、丸い目を三角にして怒るだろうけど…」
それでも、この魂たちを置き去りにはできなかった。
…どうしても、この魂たちがゴメ子と重なる。
「腹を括るか…」
声が上擦っていたのは、自分でも分かっていた。
それでも、右目に魔力を込め、新たな戒めを創造する。
痛みはまだ引き摺っていたが、集中力が、その痛みを緩和していた。
…いや、ゴメ子が力をくれていたんだ。
だとしたら、怖いものなんて何もない。
「我は律にして、我は法…我は裁きにして、我は戒め」
ボクの右目に、光が灯り始めた。
…けれど、その光が灯るほど、ボクの視界は半減していく。
その光を、ボクは取り出した。
「くぅ…があああああああああああぁ!」
そこからは、尋常ではない痛みが、広がる。当然だ。『概念』だけとはいえ、ボクは右目をくりぬいた。その痛みは、きちんとフィードバックされている。
「痛みで、思考が…ズタズタになりそうだ」
先ほどまでの痛みまでもが、波濤のようにぶり返してきた。
けど、ここにいる魂たちがこれまで抱えていた痛みに比べれば、この程度は刹那の痛みだ。
そして、くりぬいた光を、ボクはかざす。
光をかざすと、ボクに群がっていた魂たちが集まり始めた。
『あか…るい?』『ひかり…?』『あた…たかい?』『ダレカ…いる?』『ダレ、カ…いる』
弱々しい声が、弱々しく集まってくる。
姿は見えないが、それでも必死に、這うように、集まってくる。
「これからは…この光がお前たちを守ってくれるよ」
この光はこれから、この場所で、ボクの代わりに魂たちを見守り続ける。
ほんの少しずつだろうけど、それでも、この魂たちに癒しを与えてくれるはずだ。
灯った光が、徐々にその強さを増し、この無色の世界の中で広がっていく。
『うれ…し?』『きも…ちいい?』『………い』『あ………』『ねむ…る?』
それまで叫び続けていた魂たちの声が、そこで小さくなっていく。
あの魂たちも、眠りにつくことができたようだ。
「おやすみ…次に会う時は、人間になれてると、いいな」
それまで広がっていた光が、あの元の場所に収束を始めた。
そして、集約された光が、渦を巻いて解き放たれる。
そこで、この世界は、そっと閉じられた。
まどろむ、ように。




