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「あなた、魔術師では…いえ、人間では、なかったのですね」
建築魔術師アンナ・アルバラードが後退り、赤いドレスが小さく震える。
けど、衝撃を受けたのはボクも同じだ。それほどまでに、ヨハン・バルトに疑似生命体らしさはなかった。
『…わしは、所謂ホムンクルスとかいう、くそったれた存在だ』
帽子の少年は、誇ることも奢ることもなく、ただただ吐き捨てた。
「ホムンクルス、か…実物と鉢合わせしたのは、これが初めてだよ」
彫刻魔術師テオ・クネリスも、固い面持ちのまま微動だにできなかった。
どうやら、アンナ・アルバラードもテオ・クネリスも、ホムンクルスと対面するのは初めてのようだ。
…いや、お初にお目にかかったのは、ボクも同じか。
ホムンクルスというのは、錬金術によって生み出された疑似生命体のことだ。現代における錬金術は胡散臭いものの代名詞のように扱われがちではあるが、非金属や卑金属を貴金属に練成しようとする試みはさまざまな薬品の発見にもつながっており、現代化学の礎を、錬金術をなしに語ることはできない。
そして、ホムンクルスは、ルネッサンス期の錬金術師パラケルススが書いた『De Natura Returm』という本の中で、その製法が仔細に記述されている。
ホムンクルスというのは、古代から人々の口の端に上がっていた。中世では、文献にも明確に残っていた。近年では漫画などでも題材にされているし、ファンタジーなゲームなどではほぼ皆勤賞と言っても差し支えはない。そういった意味では、ホムンクルスは最も有名な疑似生命体といえるのかもしれない。
…それでも、実際にホムンクルスと出遭ったことは、なかった。
「確か、ホムンクルスは…フラスコの中で練成され、産声をあげると同時に、あらゆる知識を与えられるのでしたよね」
アンナ・アルバラードの言葉は、端々が小刻みに揺れていた。
「けれど、ホムンクルスは、フラスコの外に出た途端に死んでしまうとも、聞いていましたですね…」
『ホムンクルスの多くは、その紋切り型の末路を辿る…手狭なフラスコに飽き飽きして死を選ぶ者がいて、自分だけは大丈夫だと、フラスコの外の世界へ飛び出して命を落とす者たちがいる。中には、人間の不注意でフラスコを割られて殺される、極めて不遇な者もいたようだ』
今、ヨハン・バルトは、この場の全員を引きつける引力を持っていた。
「ということは…あなたは、特別だということなのですね」
三つ編み陰陽師の宝持玲も、慎重に言葉を発していた。
『特別…まあ、特別なのだろうよ』
唾棄するように、ヨハン・バルトは顔を背ける。
『本来、ホムンクルスとはフラスコに人間の精子、幾多のハーブ…さらには馬糞を入れて密閉し、馬の糞が発酵する温度に保つために馬の胎内で温められ、そこで創造される』
ハーブはファンシーかもしれない。精子もまだ、生命の塊だと解釈できる…だが、馬糞か。
「…………」
いい気分では、ないのだろう。自分のベースがそうしたものでできているというのは。
…だが、ゴメ子も、元は魔力を込めた土から生成された。
ゴメ子は、その辺りをどう思っているのだろうか。自分の体が土の塊でできていることについて、何も思わないはずがないのではないだろうか。
『ホムンクルスは生まれると同時にあらゆる知識を得ると、あの年増も語っていたが…そんなわしが、手狭なフラスコの中で、最初に何を知ったか分かるか?』
問いかけでありながら、ヨハン・バルトは誰の返答も待たなかった。
『わしを創造したのが、埒外の馬鹿だったということだ…何しろあの馬鹿女は、馬の胎内ではなく、自らの胎内でフラスコを温めたのだからな』
自らの出自を語る青い帽子の少年は、嫌悪感を剥き出しにしていた。その剝き出しの感情は、このホールの隅々まで圧迫していく。
「自分の、胎内で…?」
…聞き手に回るつもりだったが、思わず口を挟んでしまった。
『どうしてあの女があそこまでしたのか、まるで理解ができなかった…全ての知識を与えられたホムンクルスでさえ、あの女の行動は理解できなかったのだ』
…確かに、並大抵のことでは、ない。
『いや、それだけではない…さらには、ホムンクルスの餌である生き血も、あの女は自分のモノを、使っていた』
ヨハン・バルトは、磨耗するほどの歯軋りをしていた。
『毎日毎日、毎日毎日、あの女は、自分の生き血をフラスコの中に注ぎ続けた…それでも、あの女は、毎日毎日、毎日毎日毎日、腹の底から楽しそうに笑っていやがった』
歯軋りの音が、多重音声でこちらにまで及んでくる。
『わしは、何度も言った。もう、やめてくれと…せめて、他の人間の血を注いでくれと』
ヨハン・バルトの言葉は、痛切を伴ってボクたちの耳元へと押し寄せてくる。
『それでも、あの女は頑として聞き入れなかった…あなたは私の子供なのだから、と。他の人間の薄汚れた血など、与えられるはずがない、と』
瞳を閉ざしたくなった。耳を、塞ぎたくなった。
それでも、ボクの目と耳は青い帽子の少年に釘付けだった。
『そして、わしがフラスコの外に出られるようになったのと…あの女がくたばったのは、同時だった』
その表情は悲嘆だったのか、それとも別の何かだったのかは、読み取れなかった。
『本当に、くそったれた女だった…自分だけ満足気にさっさとあの世に行って、このくそったれた世界に、わしを残しやがった』
それは、世界を呪う声だった。
『さらに、あの女はわしに呪詛をかけていた…自ら命を絶つこともできないという、くそったれた呪いだ。しかも、わしは歳を取ることもない。救いである天寿を待つことも、できない』
四百年以上…この少年は、ずっと世界を呪いながら生き続けてきたのか。
『これが、貴様ら魔術師がのために産み落とした生命体の…今なお続く、渦中の末路だ』
ヨハン・バルトの憎しみは、度を越していた。その憎しみの受け皿が、とうに満たされてしまっているからだ。けれど、度を越していても尚、その憎しみは相応だった。
『疑似生命体の中には、いつ途絶えるか分からない寿命に怯えるモノもいれば、いつまで経っても終わらない終わりに怯えるモノがいる…ということだ』
…それは、想像したことすら、なかった。
いや、ゴメ子の命が不安定で、いつか唐突に終わってしまうかもしれないということは重ね重ね危惧していた。
けど、いつまで経っても終わらない命があるということを、ボクは失念していた。
もし、ボクが死んだ後もゴメ子が生存し続けた場合…ゴメ子は、どうなる?
どうやって、今のように秘匿した生活を続ける?
ゴメ子の秘密が露見してしまった場合、ゴメ子は迫害の対象になるのではないか?
この排他的な世界は、ゴメ子に対して興味本位で牙を剝くのではないか?
…ならば、その前に、創造主であるボク自身の手でケジメをつけなければならないのではないか?
かつて、プラハに存在したラビ…レーヴ・ベン・ベーサレルのように。
「…無理だ」
ボクには、自らの手でゴメ子を土塊に戻すことなんて、できるはずがない。
しかし、できなければゴメ子は、永劫の檻に囚われることになるのかも、しれない。今、ボクの目の前にいるのが、その永劫に囚われた囚人のサンプルなんだ。
『どうして貴様ら魔術師は、明晰な頭脳なり知能なりを持ち合わせておきながら、わしらの側に立って省みることができないのだ…』
たった一人で、この少年は四世紀以上も生き永らえてきた。マスターもいない疑似生命体がこの世界の中で生き抜くことは、並み大抵のことではなかったはずだ。
「…ならば、この儀式で貴様の長過ぎた命に引導をくれてやろう」
黒衣の科学者は冷徹な言葉を口にした。青い帽子の少年の事情を、知った上で。
いや、秤に乗せて比べたんだ…この少年の命と、自身の娘の命を。
『わしもそれは考えたが…やはり、ホムンクルスとして死ぬことは、我慢がならんのでな』
ヨハン・バルトも、牙を剝いたまま一歩も引かない。
それが、父と娘に垂らされた無二の蜘蛛の糸を、断ち切る行為だと百も承知で。
『わしは、本物の魂とやらを得てやる…得た上で、人間として、自らの命を絶ってやる』
正気と狂気が対流する狭間で冤罪の十字架を背負いつつ、ヨハン・バルトはそれでも願う。
…人間になりたい、と。
『それが、わしをこんなくそったれた世界に産み落として放置をした、あの女に対する最大限の意趣返しだ』
台詞の語尾だけは、なぜか弱々しく感じられた。
『その手始めとして…』
そこで、帽子の少年は…ボクに、視線を向けた。虚ろで、けれどナニカが逆巻く瞳で。
『ロリコン兄さんの『真名』でも、特定させてもらおうか…』
「…………」
前触れのない宣告に、言葉を失った。
…それは、できないはずだ。
まだ、ヨハン・バルトはボクの『真名』を特定できる段階には至っていない。
この第二セットで『真名』が判明しているのは、既に特定された佐藤五月雨の萩と氷魚の女郎花だけだ。
ヨハン・バルトとテオ・クネリスの二人が裏で繋がっていて、互いの『真名』を把握していたとしても…合わせて四つしか把握できていないことになる。アンナ・アルバラードを味方に引き込めば五つとなるが、それでもまだ心許ない。
ボクと玲の『真名』が尾花か撫子というところまでは絞り込めるが、そのどちらがボクの『真名』なのかを特定する術は、ヨハン・バルトには、ない。
だからこそ、ヨハン・バルトは佐藤五月雨を仲間に引き入れようとした。
佐藤五月雨がボクか玲のどちらかの特定に踏み切れば、成功しようが失敗しようが、ボクたちの『真名』は消去法で判明するからだ。
…だが、佐藤五月雨がその申し出を断ったことにより、皮算用もご破算となった。
だから、ヨハン・バルトはここで手をくしかなかったはずだった。五十%に全てを賭けられるほど、この儀式にかかっているものは安くはない。
いや、それ以前に、あの少年はまだアンナの『真名』すら、知らないのではないか?
ならば、まだ二分の一どころか、三分の一までしか絞り込めていないのではないか?
…それ、なのに。
『…………』
ヨハン・バルトは、意を決した面持ちだった。
二分の一の確率に浮き足立っている様子も、三分の一の確率に二の足を踏んでいる様子も、ない。
ただただ、確信しているだけだ。
…ボクの『真名』が、尾花であると。
『では、特定を、させてもらおうか』
ヨハン・バルトのその声には、瑣末の揺らぎもない。
代わりに、ボクの鼓動が苦しいほどの早鐘を打つ。軽口の一つでも叩いてやろうかと思ったが、唇が震えて言葉が出て来なかった。
『…………』
ゴメ子が、そっとボクの手を握ってくる。
…辛うじてその手を握り返したけれど、そこでゴメ子の表情を見ることは、できなかった。
『…………』
木彫り仮面のフィニートも、今は薄気味悪いほどに無言だった。
『どうした、司会者よ…わしは特定すると宣言したはずだぞ?』
ヨハン・バルトは、フィニートを急かす。
『ですが、ヨハン様…本当によろしいのですか?』
珍しく…というか、初めてフィニートの声は揺れていた。
『かまわん…特定を、する』
『ですが、それでは…』
『…口出しを、するな』
ヨハン・バルトは、聞く耳を持たなかった。
ただ、眉を顰めてボクに視線を向けるだけだ。
…その視線に、射竦められそうになる。
「…………」
当たるはずが、ない…。
まだ、当てられる、はずがない…。
なのに、手足が、指先が、痺れて動けなかった。
代わりに、呼気だけが、不規則に乱れていた。
ヨハン・バルトが、息を吸う。
そして、口を開き、息を吐く。
蓄積された呪詛を、吐き出すように。
『ロリコン兄さんの…宮本悟の『真名』は、『尾花』だ』
「…………」
そこで、世界が閉じる音を、聞いた。




