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自身を『フィニート』と名乗った木彫り仮面の少年は、年不相応に舌が回っていた。
そして、矢継ぎ早に捲し立てる。
『アナタ方は、『ピノッキオ』の原作を知っていますか?』と。
『大抵の人は、ピノッキオというとアニメーションで映画化された人畜無害な作品の方がイメージとして固定概念化されていると思うのですけれど、そのピノッキオって、結局は『殺された』後のピノッキオなんですよね』と。
『原作者の『カルロ・コッローディ』がピノッキオを書き始めたのは1881年ですが、当時のイタリアは1861年に統一されたばかりで国としての体裁を保てず、諸外国に従属していたのですよね。そんな足元も覚束ない時代の中、カルロ・コッローディは政治・文化・音楽などの幅広い批評を手当たり次第に雑誌へ寄稿していた七色の批評家でした。けれど、彼はある時期から文学作品を書き始めるのです』と。
『それが、『ピノッキオ』なのですよ』と。
『混沌としたイタリアの次世代を担う子供たちに最も根付かせなければならないモノが、確固とした自国の言葉だと、カルロ・コッローディは児童文学に情熱を燃やしたのです。当時のイタリアでは、読み書きのできない子供たちも多くいましたからね』と。
『そうしてピノッキオを書き始めたのですけれど…その物語は、多才なカルロ・コッローディの情熱が、多彩な熱暴走を起こしたアクの強い作品でもありました』と。
『ピノッキオは怠け者ですぐに誘惑に負けてしまいますし、ピノッキオに正しい忠告をしたコオロギを殺してしまったりと、けっこう過激なのですよね。それに、簡単に投獄されてしまうような、当時のイタリアの廃退した社会を風刺した描写や差別的な表現も多く、日本で翻訳された際にも回収騒ぎなどが起こったそうですよ』と。
『そうした中でも最も過激だったのは…ピノッキオが猫と狐に騙されて金貨を奪われた後、木に吊るされて殺されてしまうという血も涙もないラストシーンでしょうか』と。
『ですが、ピノッキオが本当に『殺された』のは、ここからなのですよね』と。
『原作者のカルロ・コッローディは、このラストシーンでピノッキオという物語を幕引きにするはずでした…けれど、こんな後味の悪いラストは容認できないと、読者からの批判が殺到したのですよ』と。
『そして、カルロ・コッローディは、ピノッキオが妖精に助けられるシーンから始まる第二幕を書き始め、最後には成長したピノッキオが人間になるという当たり障りのないエンディングで物語を締め括ったのですけれど…』と。
『それって結局、ピノッキオが読者に『殺された』ということにはなりませんか?』と。
『再開を余儀なくされ、ハッピーエンドを社会から義務付けられたピノッキオは、もはや原作者であるカルロ・コッローディの手からも離れた異物となってしまったのです』と。
『…いえ、そもそも』と。
『喋る樫の木として生まれたピノッキオは、当時の情勢を風刺する物語の中で生かされたピノッキオは、読者の望むカタチでしか生きることを許されなかったピノッキオは…』と。
『…果たして、生きていたと言えたのでしょうか』と。
『ピノッキオは、最初から最後まで、結局は都合のいい人形として動かされていただけの傀儡だったのではないでしょうか』と。
『…まあ、人形なんてモノは結局のところ、人間の思うようにしか動けない木偶でしかないのですけれどね』と。
『それでは』と。
そこで、ボクたちを先導する形で薄暗い廊下を歩いていたフィニートが足を止めた。目の前には、古惚けた洋館に相応しい煤けた扉がある。
『舌足らずなボクの、毒にも薬にもならない妄言はここでお開きとさせていただきますね』
木彫り面のフィニートは、ボクたちに向き直った。
当然、その木彫り面の鼻は、長い。
『この扉の向こうで主役を演じるのは、アナタ方なのですから』
フィニートが扉を開いた先にあったのは、円形をした広いホールだった。この洋館の朽ちた外装に比べ、突貫ではあるようだが、内観は改装が施されていた。やや薄暗いと感じたのは、電灯ではなく蝋燭を照明としていたからか。蝋燭は部屋の雰囲気にマッチしていたが、壁に掲げられていた電光の掲示板だけは、やけに異質に感じられた。
「…いや、掲示板よりも、あっちの方が異質かもしれないな」
そのホールの奥には、七つの小さな小部屋…告解室のような小部屋が、等間隔で並んでいた。そして、そこからは妙な気配が漂ってくる。
「…………」
開いた扉の脇で給仕のようにお辞儀をしていたフィニートを横切り、ボクたちはやや薄暗い室内に足を踏み入れた。
『…何人か、いるみたいかや』
そこで、ゴメ子が人の気配を感じ取った。
『皆様、宝持氷魚さまと宮本悟さまがご到着されました』
扉の外でお辞儀をしていたフィニートが、顔を上げてボクたちの来訪を告げた。
「宮本…あなた、宮本いいますですね?」
フィニートの紹介を聞き、気配の中の一つが、微弱ではあるが反応を示した。物陰から響いたその声は、若い女性のものだ。日本語としては片言で、イントネーションも不安定だったけれど。
「宮本…宮本」
ボクの苗字だけを小声でリピートしながら、物陰からその人物は姿を現した。血の色よりも艶やかな、深紅のドレスを身に纏っている。対してその髪は黒く、目鼻立ちがくっきりしていてアジア系ではない。上背もあり、ヨーロッパ系といったところだろうか。
「宮本いいましたですね?宮本なのですね?宮本で間違いないますですね?今さら違うと言ったら、その舌を引っこ抜きますですね?」
「え、あ…はい、宮本です、ます」
年上のヨーロピアンお姉さんが鬼気迫った表情で近づいてくれば、誰でも怖気づく。
「では、『宮本漆』…宮本漆を、あなた知っていますですか?」
宮本漆…その名は、偶然にも、知っている。遺伝子上で言えば、ボクの兄に相当する人物だからだ。
「ええと、その人…どうかしたんですか?」
…想像の片鱗くらいは、実はつくのだけれど。
「あの男は…あの男は、ワタクシの純心を奪っていった女の敵なのですね!」
「…やっぱりそういうことか」
「何か言いましたですね?」
「いえ、何も…」
ボクの兄である宮本漆は、筆舌に尽くしがたいほどに、モテた。それはもう呪われているのではないか、と思うほどだ。ボクの物心がつく前の話では、あの兄は、その魔性ゆえに何度も誘拐されかけたことがあるそうだ。ご近所のお姉さんたちに。
「ワタクシは、ワタクシを欺いたその宮本漆という男に報復する為に、このヒノモトまで足を運んだのですね」
眼前のこの女性は、延々と兄貴の愚痴を垂れ流し始めた。要約すると、兄貴とこの人は兄貴がヨーロッパに滞在した時に出会ったらしかった。で、不自然なまでに二人は親睦を深めていったそうなのだが…ある日、兄の漆は忽然と姿を消したらしい。
…まあ、これはこの人の主観というか、ほぼ妄想だろうけれど。
おそらく、あのモテ兄にはこの人と懇ろになりたいという下心はなかったはずだ。旅先で出会った、気の合う友人程度にカテゴライズしていたのだろう。この人と兄貴との温度差を思うと、この人には同情すべき余地はあるんだろうけれど…ボクからすればいつものことだ。過去には、出刃包丁を持ち出したお姉さんに、とばっちりでボクが刺されそうになったという刃傷沙汰まであった。
「というわけでですね、同じ宮本なら、あなた漆がどこにいるか知りませんですね?知っていたら教えてください。隠すとためになりませんことですね」
真っ赤なドレスのこの人は、旋風のように捲し立てる。
『少しは落ち着きたまえ、アンナ』
と、彼女の背後から渋い声が聞こえたのだが、そこにいたのは、眉毛の太い招き猫だった。
『猫の置物が…喋っているかや』
ゴーレムのゴメ子も、意表をつかれて目を丸くする。
『お嬢さん、姿形が変わっているからといって、色眼鏡で見てはいけないよ』
やはり、その声は渋い。
『だが、驚かせてしまったことは謝罪しよう。私はこの短絡娘が創りし、出来損ないのガーゴイルだ』
眉毛の太い招き猫は、どこまでも渋味の利いた声だった。