04
ハドレット家に出向いてウェイン様とお会いした日、正式にチロルに雇われることなった私は、早速アンさん指導の下でメイドの仕事を教えてもらうことになった。
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
「シルビア。ペースが落ちてますよ。もう少しですから頑張って」
あれから3日。私はまだお屋敷の外に出る事を許されていない。
でもそれはいいの。外を出歩く気持ちにもならないし、チロルにお金を返さなきゃいけないし。
でもなんでメイドのお仕事を頑張ろうと思ったのに、『メイド仕事は体力が基本です』なんて言われて、お屋敷の庭を延々と走らされてるのかしらっ……!?
「はっ……はっ……、はぁっ……!」
「はいそこまでです。頑張りましたねシルビア」
お屋敷の周りを10周して、ようやく終了のお許しが出た……。
私ははしたないと思いながらも、とても立っていられなくて地面に座り込んでしまった……。
「そのまま休んでいてください。今飲み物とタオルを持ってきますからね」
「はっ……、いぃぃ……」
嘘でしょう……? 私と一緒に走っていたはずのアンさんは汗1つかいてない……。
アンさんの言葉を疑うわけじゃないんだけど……。こ、これって本当にメイドに必要な訓練なの……?
タオルと飲み物を持って戻ってきたアンさんに、メイドにここまでの体力作りが必要なのか聞いてみた。
「そうですね。他のお家に仕えるのでしたら必要無いのかもしれません。ですがお嬢様の元で働く者には、必要最低限の体力はつけて頂かないといけません」
「えっと、それはどういう意味なんですか? チロルには何か特別な事情がある、とか?」
「特別な事情が無いわけでもはないのですけどね。今回の話はそれとは別です」
少し歯切れの悪いアンさんの回答。やっぱりチロルにはなにか特別な事情があるみたい。
いつもチロルはとても忙しそうにしていて、ウェイン様とお会いした日から殆どここに戻ってこない。朝食と夕食には帰ってきて一緒に食事をしているけど、夕食後に改めて外出したりしていて凄く忙しそうなの。
……もしかしたら朝晩の食事も、私のためにわざわざ戻ってきてくれているのかもしれないなぁ。優しいチロルのことだから。
「チロルお嬢様はただでさえクラート家の令嬢、そしてご自身も類稀なる商才をお持ちです。シルビアもお嬢様のお店には足を運ばれたことがあったでしょう?」
「あっはい。その時にはチロルとそこまで親しかったわけじゃないですけど、『イーグルハート』ブランドの化粧品やドレスは、この国の女性の憧れですから」
チロルはご実家であるイーグル商会の中に、美容・化粧に特化した新しい部門として、イーグルハートという商会を立ち上げた。
貴族向けの最高級品から、平民向けの安価な商品まで幅広く取り揃え、もはやこの国の女性でイーグルハートの名を知らない者はいないのではないかというほどの人気振りなんだ。
どうしてイーグル商会を立ち上げたのって聞いてみた私に、『全ての女性はより美しい自分を求める権利があるの』。チロルはそう言って不敵に笑っていたなぁ。
私のイーグルハート商会の認識に、アンさんは満足げに頷いてくれた。
「その通りです。お嬢様はこの国ではもはやその名を知らぬ者はいないほどの大商人となりました」
「確かにチロルは大商人ですけど、それと侍女である私達が体力作りをする意味って……?」
「大商人であるチロルお嬢様には、良からぬ事を企む者も数多く近付いてくるのです。今まで公になっていないだけで、命を狙われたり攫われそうになった回数は数え切れないほどですよ?」
「そん、なっ……!」
あんなに優しくて気遣いも出来て、親しくもなかった私に手を差し伸べてくれるチロルからは、常に命の危険に晒されているような影を感じ取る事は出来なかった……。
自分の身が常に危険に晒されているのが当たり前だなんて、私には想像も付かない世界……。
そんな世界に身を置いているはずのチロルからは、そんな世界を全く感じさせない穏やかな雰囲気しか伝わってこないのに……!
「戦えるようになれとは言いません。護衛は別にいますから」
「あっ、流石に護衛はいるんですね……。当たり前かぁ……」
「ただし、非常時にお嬢様の足を引っ張りかねない者が居ると、お嬢様の身にも危険が及ぶかもしれません。ですからチロルお嬢様のお傍にいるために、貴女にも最低限の体力をつけて欲しいのです」
「最低限の体力……ですかぁ」
「具体的に言わせてもらえば、もし暴漢に襲われても走って逃げ切れるくらいの体力が欲しいですね。戦えずとも己の身を自分で守れるくらいの体力が必要です」
アンさんは簡単なことのように言っているけど、私はなんだか不安になってしまった。
ウェイン様と家族から切り捨てられたあの日、ただの使用人でしかない男に全く抵抗できず、ただ大人しくパーティ会場から追い出されてしまった私が、そんな体力をつけることができるのかしら……。
「それにですねシルビア。結局最後に頼れるのは己の肉体なのですよ! 武器も味方もなく、魔力が尽き果てても、体力さえあればまだ抵抗できます!」
「えっ? えっ? ア、アンさん……? ま、まりょく、って……?」
「良いですかシルビア。鍛えた肉体というのは決して自分を裏切りません。それは揺ぎない自信となって貴方を支えてくれるでしょう。肉体を鍛え魅力を磨いて、自信を取り戻してください。それがお嬢様のお傍に立つ者の心得というものですっ」
私が落ち込んだ事を察してか、落ち込む暇すら与えないとばかりに激励の言葉を畳み掛けてくるアンさん。
な、なんか肉体の鍛錬に対するアンさんの熱意って、ちょっとだけおかしくない……!?
でも、決して裏切らない、揺るぎない自信、か……。
他人に翻弄されて全てを失った今の私に1番必要なのは、自分を鍛えて自信を取り戻すこと、なのかしら……?
「シルビアはとても努力家であったと聞いています。まずはゆっくりと失った物を取り戻していきましょう。私もお嬢様も貴女から何かを奪うことはありません。自分のペースでゆっくりと進めば大丈夫ですよ」
「……はい。ありがとうございます。アンさん」
突然穏やかな口調で私に語りかけてくるアンさん。その優しげな口調にとても安心する。
アンさんも純粋に私の事を心配してくれているんだ。鍛錬に対する情熱だけはちょっと見習いたくないけど、アンさんは私を心から案じて励ましてくださっているんだ……!
……そうよ。不安がっている場合じゃないわっ。チロルに返済しなければならない借金も莫大な金額だし、私はもっと力をつけなきゃいけない。
もっともっと力をつけて、チロルの助けにならなきゃ……!
決意を新たにした私は、その後も体力作りを中心にメイド仕事の訓練に明け暮れた。
……うん。結局体力作りがメインなの。メイドの仕事ってなんだったっけ……?
その日の夕食にもチロルは戻ってきてくれた。食事の時間は毎日忙しそうなチロルと会える、数少ない機会なの。
いっぱいお話したいな……。でもチロルは疲れてるだろうし、あまり付き合わせても悪いわよね……。
色々な事を考えながら食堂に向かうと、チロルは椅子の背もたれに体を預け、右手を頭に当ててぐったりしていた。
なんだかとても疲れてるみたい。こんなチロル、今まで見たことないわ。大丈夫なのかしら……?
「あ、ただいまシルビア。とても頑張ってるみたいね。アンが褒めてたわよ」
「う、うん。ありがとう。おかえりなさいチロル」
疲れた様子のチロルの姿に、私がどう声をかけるべきか迷っていると、そんな私に気付いたチロルの方から声をかけてきてくれた。
挨拶ついでにチロルの体調について尋ねてみよう。
「えっと……、なんだかとっても疲れてるみたいだけど、大丈夫……?」
「あはは。だいじょうぶだいじょうぶ。忙しいのは今日で終わったから。ただねぇ。この後の事を考えるとちょーっと気が重くてさぁ。ダラ~っとしちゃってごめんね?」
チロルは右手をパタパタと小さく振りながら、力なく微笑んでいる。
忙しいのは終わったのに、気が重くなるって……。仕事がひと段落したけど、その結果が芳しくなかったとかかなぁ?
「なにか事業でトラブルでも起きたの? わっ、私に出来る事は無いかなっ? 私に出来ることならなんでやるよっ!?」
「ん~、商売は順調そのものよ。ありがとう。貴女のその気持ちが嬉しいわ」
商売は順調なんだ? それじゃ何で疲れているんだろう?
首を傾げる私に、チロルは少し言い辛そうに話を続ける。
「……実はシルビアに聞いてもらいたい話があるの。夕食を食べてから少しだけ時間をくれる?」
「えっ、もっ、もちろんっ! もちろん聞くに決まってるよ! 何でも話してねっ!?」
チロルが私に相談してくれるっ! やった! 今はまだ話を聞くだけしかできないけれど、それでもやっとチロルの助けになることが出来るっ!
たとえどんな大きな問題が起こっていたとしても、私は絶対にチロルの味方でいなきゃっ……!
どんな話をされても動じないように、夕食をお腹いっぱい食べて、エネルギー満タンにしておかないとね。
いつも通り美味しい夕食を頂いて、アンさんがお茶を淹れてくれる。
な、なんで私、チロルに正式に雇われたあとも、上司であるアンさんにお茶を淹れてもらっちゃってるんだろう……?
「お嬢様にお茶をご用意させていただくのは私の仕事ですから、どうぞお気になさらず」
「あ、そ、そうなんですか……。い、いただきますぅ……」
ちょっと恐縮しちゃうけど、今はアンさんの言葉に甘えてチロルを見詰めることにする。
チロルはいったい何に困ってるんだろう? 私が精一杯支えてあげないとっ!
「アンはどうする? 少し長くなると思うから、興味が無ければ先に休んでも良いわよ?」
「いえ、同席させていただきます。シルビアの教育係として、私も知っておくべきことだと思いますから」
「えっ? それってどういう……?」
今のアンさんの言葉は、いったいどういう意味なの? まるで今から話されるのは、私の話題であるような言い方じゃなかった?
困惑する私に、真剣な表情を浮かべたチロルが単刀直入に切り込んでくる。
「シルビア。私は貴女の話を聞いてからこの3日間、貴女に何が起こったのかを調査していたの」
「――――っ!」
チロルの言葉に心臓がドクンと跳ね上がる。
私に何が起こったか。それは私が1番気になっていたこと。
知りたい……。心から知りたいと思っているはずなのに……。けど、なぜか知るのが怖いよ……。
「貴女の周りで、誰がどんな思惑を持ってどんな行動に出たか、可能な限り洗い直したわ。そして、私の想像も多分に含むけれど、貴女に起こったことが私の中では理解できたの」
「私に……起こったこと……」
「貴女は私の話を聞いてもいいし、ここで話をやめても良いわ」
「……えっ」
「ここで話を打ち切っても、シルビアを放り出したりしないから安心して。シルビアが聞きたくないならそれでもいいの」
単刀直入に切り込んできたはずのチロルは、ここに来てなぜか足踏みをするように話を止めた。
どうしてすぐに話さずに、ここで一旦話を切る必要があるのか……。
そんなの決まっている。チロルの知った真実が私にとって衝撃的なものであるからだ。優しいチロルは、事の顛末を知ってなお、私を気遣ってくれているんだ。
怖い……。聞くのが怖い……。
優しいチロルが、知らなくていいよって言ってくるような、恐ろしい現実なんて、聞きたくない……。
「……正直言うと、聞くのが怖いよ。でも、怖いけど逃げたくない……!」
聞きたくない、知りたくないけれど。
私は当事者として現実と向き合わなきゃいけない。私に降りかかった不幸の顛末まで、チロルに背負わせるわけにはいかないでしょう……!
「教えてチロル。いったい私に何が起こったのか。どうして私があんな目に遭わなければならなかったのかを……!」
声が震える。視界が滲む。目の前に差し出された真実の重さに心が竦む。
それでも私は向き合わなきゃいけないんだっ……!
「分かったわシルビア。辛くなったら言って。中断して休憩を取るからね」
私の意志を確認したチロルは、それでもなお私を優しげに気遣ってくれる。
そしてアンさんが着席するのを待ってから、チロルは私の目を見据えて口を開いた。
「じゃあシルビア。落ち着いて、気をしっかり持って聞きなさい」
チロルの口から語られたのは、私の婚約者であるウェイン・ハドレット様と、私の妹であるオリビア・スカーレットが共謀した、シルビア・スカーレット排除計画の全貌だった。
チロルに語られたウェイン様とオリビアの計画も衝撃的だったけれど、それ以上に私を驚かせたのはチロルの調査能力のほうだった。
ハドレット商会で私が行なった取引の詳細。この2ヶ月間の私の交友関係。
2人の計画に関わったであろう全ての要素が、チロルの手によって改めて調べ直されていた。
「チロル……。2ヶ月間に渡る取引全ての詳細な調査なんて、いったいどうやって……?」
「それは簡単よ。貴女が出した損失の賠償金は、ハドレット家の帳簿の食い違いが根拠となっているのだもの。賠償金を支払う私が取引記録の提示を求めるのは、何も不自然なことではないわ」
「な、なるほど……! 慰謝料じゃなくて賠償金だもんね……。なら根拠となる数字が存在しなきゃおかしいのか……」
「そして取引の記録さえ分かればお金の流れを追える。お金の流れを追えば色々見えてくるものがあるの」
「み……見えてくるもの……」
実際に取引を行なった私には何が起こっているのか分からなかったのに、外からあっさりと架空の取引の記録に辿り着いてしまったチロルに戦慄を覚える……。
これがシルヴェスタ王国最高の大商人、チロル・クラートの実力の片鱗……。
戦慄する私に構わず、あの2人がなぜそんな計画を実行するに至ったかの経緯まで、チロルは淀みなく語ってみせた。
「は……? オリビアとウェイン様が、私の事を、疎んでいた……!?」
「ええ。私の想像で補っている部分も無くはないけど、ほぼ間違ってないと思うわ」
「そんな……。どうしてっ……どうしてなのっ!? 私があの2人に何をしたっていうのっ!?」
衝撃的な事実を聞かされた私は、思わず正面のチロルに食って掛かってしまう。
物心付いた時からウェイン様の事を聞かされて育った。あの子が将来の私の夫なのだと。夫を支え、夫を助け、幸せな家庭を築きなさいと教育され、その通りに生きてきた。
1人っ子だった私に、2歳下の妹が生まれた。小さい頃は喧嘩もしたけれど、成長するに従って淑やかになっていくオリビアは私の自慢の妹だった。
なんで……なんであの2人が私を疎むの……!? 他の誰でもなく、あの2人が私を陥れるなんて、そんな馬鹿なことがあるのっ……!?
「正直2人の心情、私には理解できなくもないの。私から見ればあの2人も被害者と思えなくもないわ」
「え……あ、あの2人も……被害者……?」
「今回やってしまったことは許されないことだけれど。幼い頃のあの2人に1人でも理解者がいてくれていれば、きっとまっすぐ立派に成長してくれたでしょうに……」
ウェイン様もオリビアも被害者。その言葉を聞いて私は少し落ち着くことが出来た。
けれどあの2人の1番近くで過ごしてきた私はあの2人の理解者ではなかったのだと、チロルは悲しげに告げているのだ……。
「……ねぇチロル。どうして2人は私を陥れようなんて思ったの……? 私には全然心当たりがないよ……」
2人の気持ちが全然理解できない。あんなに一緒に過ごしたのに。生まれてからずっと一緒にいたのに。
だから私は聞かなければならない。2人の気持ちを理解できたというチロルに、2人がなぜこんなことをしたのかを……。
「教えてチロル。私は2人にそんなに恨まれるようなことをしてしまったの……?」
「シルビア。人の心って厄介な物なのよ。合理的に、常に最適解だけを導き出せる人なんていないの。時に自分自身ですら分からなくなって、コントロールできなくなってしまう。それが人の心なの」
「人の……心……」
「今のシルビアには2人の気持ちは絶対に理解できないわ。努力すれば努力した分だけ力をつけられて、周囲に求められる水準を満たせることが当たり前って感覚の、今の貴女には絶対にね」
「え……と……。チ、チロ、ル……?」
今の私には絶対に理解できない。
そう語るチロルの声は、なんだかゾッとするほど冷たく感じられた。
あまりにも無機質で、なんの感情も乗せられていないその言葉は、かえってチロルの本質を感じさせた。
「……いつか貴女にも、2人の気持ちを理解できる日が来るかも知れない」
一瞬垣間見せたチロルの本質は鳴りを潜め、チロルは悲しげに続きを語る。
「全てを失って、それでも欲しい物が出来て、どんなに手を伸ばしてもそれを手に入れることが出来ないと思い知った時。貴女はウェイン様とオリビア様の心情が理解できることでしょうね……」
まるで母親が娘に大切なことを諭すように、静かで透き通るような言い方だった。
だけど混乱した私は、その優しげな口調に反感を覚えてしまう。
「……確かに私には2人の気持ちなんて全然理解できてないよっ!?」
ウェイン様とオリビアと過ごした時間は私の方が圧倒的に長いのに、チロルの方があの2人の理解者であるような物言いに、私はどうしても我慢が出来なくなって言い返してしまった。
「でも、チロルの言っていることだって間違っているかもしれないじゃないっ! あの2人がっ、あの2人が私を陥れるなんて……! そんなの間違ってるに決まっ……」
「いいえシルビア様。チロル様のお話になったことは、全て真実で御座います」
「え……?」
私の言葉を遮って、チロルでもアンさんでもない誰かの声がリビングに響く。
声を追ってリビングの入り口に目を向けると、そこには予想外の人物が立っていた……!
「……マ、マリーっ!? マリーなのっ!?」
「はいシルビア様。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
そこに立っていたのは行方不明となっていた私の専属侍女、マリーだった。
私に深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にするマリーだけど、謝罪の言葉よりも貴女に何が起こったのかを話してよっ!
「マリー、貴女今までいったい何処に……!?」
「私はオリビア様、ウェイン様の手の者によって監禁されて、シルビア様の排除計画に加担するよう迫られておりました」
「監……って、はぁっ!?」
先ほどチロルが語ってくれた事実以上に衝撃的なマリーの説明。
そして彼女の言葉は、先ほどチロルが語ってくれたウェイン様とオリビアの共謀を裏付けるものだった。
「シルビア様のお部屋に高価な品々を隠してあったのは、シルビア様の指示で私が行なったことだと自供するように、と偽証を強要されておりました」
「なん、ですって……?」
「それでも協力を拒んでおりましたが、どうやらチロル様がシルビア様に科せられた賠償金を支払ってくださったことで、お2人にとって私の存在が邪魔になったようですね」
「ま、待って待って……。嘘よ、嘘でしょ……? 本当にあの2人が私を……そしてマリーを……?」
「賠償金の入金後、すぐに私は奴隷商に売り飛ばされ、遠い異国の地に送られるところでした。そこを寸でのところでチロル様に保護して頂き今に至るというわけです」
2人の手によって監禁されていた……。そして用済みになったから、遠い異国の地に売り飛ばされた……。
マリーの説明がまるで頭に入ってこない……。それはまるで大衆小説のお話のようで、私には現実感のない話だった……。
ただ1つ分かるのは、ウェイン様とオリビアが私を排除しようと行動した事は、疑いようもない事実であるという事。
そして専属侍女だったマリーは私に巻き込まれて、危うく奴隷として遠い異国に売り払われてしまうところだったんだ……!
「シルビア。これが貴女に起こった事の顛末よ」
静かに私に語りかけてくるチロル。
その静かで穏やかな口調が、私を気遣うようなその優しげな言葉が、今の説明全てが真実であった事を裏付けているかのよう。
「ウェイン・ハドレット、オリビア・スカーレットの2人が、貴女を排除して結ばれるために仕組んだ計画によって貴女は陥れられ、家族も身分も信用も、その全てを失ったのよ」
チロルの言葉が胸に刺さる。
誰かに陥れられたのは間違いないと思っていた。けれどよりにもよって婚約者であるウェイン様と、妹であるオリビアの画策だったなんて、そんなこと想像もしてなかった……。
婚約者と妹が計画したことでは、私の無実を証明する手立てがあるとは思えない……。
ううん。仮に無実を証明できたとして、それで何の意味があるの……? 家族にも婚約者にも裏切られて、私に帰るところなんて、もうありはしないというのに。
「これであの日貴女に起こった事は全部話したわ。さてシルビア。大切なのはこれからよ」
「え……、これか、ら……?」
「貴女は自分に起きた事の真相を知ったわ。自分が悪意を持って陥れられたことを理解したはずよ。さぁシルビア。事情を知った貴女はこれからどうしたいかしら?」
「……え?」
全部話したって言ったじゃない。話はこれで終わりじゃないの……?
これからって、いったいなんのこと……? どうしたいって、なに……?
「確かに2人には同情すべき部分もあるわ。そして2人の周囲の人間にも、今回の騒動を引き起こしてしまった責任が少なからずあるでしょう」
2人が犯行に走ったのは、周囲の人間にも責任があった……?
それってつまり、ウェイン様の婚約者でありオリビアの姉であった私のせいで、あの2人がこんなことをしでかしてしまったっていうこと……?
「でもねシルビア。あの2人が行なった事は紛れもない犯罪なの。明確な悪意を持って貴女を攻撃、排除して、その結果貴女は敗北したのよ」
ウェイン様とオリビアに、悪意を持って排除された……。
あの2人の悪意によって私は敗北して、そして全てを失った……?
「想像してみて? 今頃貴女という邪魔者が居なくなった2人はきっと、勝利の美酒に酔うように盛り上がっていることでしょうね」
チロルの言葉に誘われるように、私の瞼に映像が映し出される。
ウェイン様の私室で、共謀した計画が完璧に上手くいって笑い合う、ウェイン様とオリビアの姿がはっきりと見える……!
「貴女のおかげで得られた莫大な賠償金を得て、愛する人と結ばれ、婚約者と実の姉を告発した勇気ある2人。ふふ、演劇にでもなりそうな内容ね? きっと今頃社交界では、近年稀に見る美談として取り上げられていることでしょう」
犯罪によって私を排除したあの2人が、まるで英雄のように称えられている姿が目に浮かぶ……!
「実の姉を告発し、その勇気を認められて新たな婚約者となり、両家の架け橋となる男爵令嬢。なんて素敵なの!? オリビア・スカーレットこそ理想の貴族令嬢よ! ああ、私も彼女のようになりたい! 彼女と結ばれるウェイン様はなんとお幸せなのでしょう!」
いつの間にか立ち上がっていたチロルは、まるで演劇のように芝居がかった仕草で私を煽る。
そんな姿を見た私の心の奥に、感じたことのない熱が灯るのを感じた。
「シルビア。あなたはとても優しくて誠実な人よ。そして私はそんなシルビアのことが好きだわ。でもね。世の中って意外と、至る所に悪意が蔓延してるものなのよ」
「あく……い……?」
「正しいことをすれば、必ずしも幸福になれるわけじゃないの。善意も悪意も人の数だけあって、立場が変われば意見も変わるの」
善意も悪意も人の数だけあって、世の中に絶対普遍の正しさなんか存在しない。
チロルの言葉はとても優しく、そしてこれ以上ないほどに残酷なことのように感じられた。
「そんな世界で幸せになりたいなら、のほほんとマナーや刺繍のお勉強をして、お淑やかに飾っているだけじゃ足りないのよ? 両親に言われた事をお行儀良くこなしているだけで幸せになれるなら、だぁれも苦労してないのっ!」
私の名前こそ出さないけれど、チロルが私の事を揶揄しているのが分かった。
そんなチロルの言葉を聞いて、私の胸の奥の炎がどんどん燃え上がっていくのを感じる。
こんな感情、私は今まで1度だって抱いたことがない。まるで体の中から炎が燃え上がり、私の魂を灼いているような息苦しさを感じる……!
「悪意であっても善意であっても、それを通せるのは勝者だけなの。シルビア・スカーレット。貴女はウェイン・ハドレットとオリビア・スカーレットの2人に、完膚なきまでに叩きのめされた敗北者なのだと知りなさい」
敗北者。その言葉を聞いた瞬間、私の感情の蓋が外れたような気がした。
悔しい……。
悔しい悔しい悔しい悔しいっ!!
悔しくて悔しくて胸が燃える様に熱い! 口から炎が溢れ出そうになるのを、歯を食いしばって堪える。
この炎は怒りだ。今まで生きてきて、これほどの怒りを覚えた事はない……!
この身を焦がすほどの怒りの感情。こんな感情、今まで1度だって抱いた事はない……!
なのに猛り狂った怒りの炎は、私の内側を灼いてなお勢いを増しているかのようだ……!
「全てを知って、絶望に折れて、それを塗りつぶすほどの怒りを知ったシルビアに、改めて聞かせてもらうわ」
自分でも制御できない激情に呑まれる私に、チロルの静かな声だけが妙に澄んで聞こえた。
私を見詰めるチロルのその珍しい黒い瞳は、まるでどこまでも広がる闇のように、私の意識を捕らえて離さない。
彼女はまるでここからが本番であるかのように、これこそが本題であるかのように、本当に楽しくて仕方がないような笑顔を浮かべて私に言った。
「ねぇ貴女、やられっぱなしでいいんですか?」
※ひと口メモ
アンが語っているチロルの護衛は、描写こそ無いですが既に作中ではちょいちょいお仕事をしてくれています。
分かりやすいシーンでは、シルビアを連れ帰った時の馬車の御者を務めていたりします。
物理的にアン1人ではどうやっても仕事が回っていないんじゃ? という時にこっそり仕事をしてくれています。
チロルの私邸は本当に限られた者にしか入る事を許されておらす、物語開始時点であのお屋敷に住んでいたのはチロルとアンとエル、そこにチロルの護衛を含めた4名のみです。
この時点でチロルの護衛とアンは同室で寝泊りしていたりします。