幕間 ウェインとオリビア
※前半がシルビアの婚約者であるウェイン・ハドレット視点。後半がシルビアの妹であるオリビア・スカーレットの視点となります。
俺の名はウェイン・ハドレット。ハドレット子爵家の嫡男として生を受け、将来的には子爵家と商会を継ぐ立場だ。
父は俺を厳しく教育した。商売とは甘くないのだと。貴族というのは弱みを見せてはならんのだと。
父が言っている事は正しいと思うが、幼い頃の俺には辛い日々だったな。
俺の10歳の誕生日に、5つ年下の女の子を紹介された。
少女の名はシルビア・スカーレット。スカーレット男爵家の長女にして、俺の婚約者だという女だ。名前だけは知っていたが、実際に会うのはこの日が初めてだった。
貴族家に生まれた者なら、生まれた時には婚約者が決まっていることなど珍しくない。初めてシルビアを見た俺は、シルビアの容姿を見て、醜い女でなかった事に少し安心したのを覚えている。
シルビアはよく気が付き、常に俺を立ててくれた。幼いながらも、オリビアとの将来は明るいものになるだろうと確信したものだ。
しかしそんな想いも長くは続かなかった。
確かにシルビアは優秀な女だった。しかし、優秀すぎたのだ。
俺は10日かかって覚える事を、シルビアは1日で覚えてしまう。俺が15歳で任された事を、シルビアは10歳でこなしてしまう。
父も母も、俺の婚約者が優秀であることを喜んでいた。これでハドレット家も安心だと。
その言葉を聞くたびに、まるで俺が当主として実力不足だと言われているような気がした。
俺は必死に努力した。シルビアに負けないように、両親の期待に応えるために。それまでだって手を抜いたりはしていなかったが、前にも増して努力した。
寝る時間を削り、僅かな時間も勉強に費やし、遊ぶことなど忘れて、ただひたすらに努力したつもりだった。
それでも俺は、シルビアより優秀になるどころか、5つ下のシルビアに追い縋る事すら出来なかった……。
俺の努力は、俺の才能は、それほどまでに無意味なものだったのか……。
5つも下のシルビアと同じ事すら出来ない俺は、酷く無能で無価値な人間に思えた。
いつからか、シルビアに会うのが苦痛になっていった。
シルビアの笑顔を見るたびに、心の底では馬鹿にされているような気がして我慢ならなかった。
両親がシルビアを褒める度に、俺はハドレット家に必要の無い人間だと言われているように感じて辛かった。
それでも家のため商会のためにと、寝る間も惜しんで学び、働き続けた。
段々毎日の生活が苦痛になっていった。
どれだけ頑張っても認められない俺が、こんなに努力する意味があるのか……?
こんなに頑張っても認められない俺の努力など、重ねる意味はあるのだろうか……?
体調を崩す俺を案じて、シルビアが声をかけてくる。
大丈夫ですかと。お休みになられてはどうですかと。
貴方なんて必要ありません。どうぞいつまでも寝ていてください。そう聞こえた。
そんなはずはない。シルビアはそんな女ではない。シルビアは俺を心から案じてくれているだけだ。
そう自分に言い聞かせても、俺の心が晴れる事はなかった。
体調を崩しがちになった俺を心配してか、両親は結婚を待たずにシルビアをハドレット商会に招き入れ、商売の手伝いをさせると言い出した。
これでお前の負担も減ることだろうと父は微笑んでいた。
シルビアさえ居ればお前なんて必要無いのだ。シルビアと跡継ぎを作ったら、無能なお前はもう用済みなのだ。
俺には父の言葉がそのように聞こえた。
もう俺の目にシルビアは、俺をハドレット家から追い出そうとする侵略者にしか見えなくなっていった。
いったい何が悪かったのだろう。
……そんなもの決まっている。俺が無能なのが悪かったのだ。
シルビアが男子を産んだ瞬間、俺の価値は本当に無くなるのだ。
俺は死の宣告を受けたような気持ちになり、それまでしていた勉強も仕事も、何1つ手が付かなくなった。
俺が塞ぎこんでいると聞いて、シルビアは何度も見舞いに来たようだ。
しかしあの女の顔を見るなんて冗談じゃない。
もう俺の子供を産むまで待つこともなく、この女はいよいよ俺をこの家から追い出すつもりなのだと確信した。
何度見舞いを申し込まれても、絶対に面会を断った。使用人にも絶対に通すなと命じ、父にも体調不良を理由に面会を突っぱねて、絶対にあの女と会うことだけは拒否し続けた。
もう俺の味方なんてどこにもいない。俺の将来なんて、あの女と両親に追い出されるのが早いか、このままここで死ぬのが早いかの違いしかない。
世界が色あせ、人生の全てが無価値に思えた。
陰鬱な気分で過ごしていたある日、1人の女が見舞いに来た。見舞いの女と聞いて恐怖したが、どうやらシルビアではないようだ。あの女でないのならば拒否する理由もない。
そう思った自分の愚かさを呪った。見舞いに来たのはあの女の妹だったからだ。
きっとこの女は、姉であるあの侵略者から送り込まれた刺客に違いない。この程度のことも想定できない愚鈍な自分を心底嫌悪した。
……しかしこの出会いは俺にとって、まさに運命の出会いとなったのだ!
オリビアは俺の心の中を見透かすことが出来るかのように、俺の気持ちを代弁して見せた。
お辛かったでしょう。苦しかったでしょう。もう大丈夫です。私にはウェイン様の気持ちが痛い程に分かります。
俺に自分の言葉が伝わるまで、オリビアは何度も何度も繰り返した。
オリビアの言葉が心に染み渡るように響いてくる。
もう俺の味方なんてどこにも居ないと思っていた。俺の気持ちを理解してくれる人なんて、誰も居ないと思っていた。
オリビアはずっと俺を見てきたと言ってくれた。ずっとお慕い申し上げておりましたと、恥ずかしそうに、でも悔しそうに伝えてくれた。
奥ゆかしいオリビアは、姉の婚約者の俺への横恋慕など、一生秘めて生きていくつもりだったのだと口にする。
でも日々弱っていく俺を見て、俺を苦しめ続ける姉を見て、どうしても黙っていられないと、訪ねてきてくれたそうだ。
俺は気が付くと、泣きながらオリビアを抱きしめていた。
婚約者も商会も関係ない。オリビアさえ居れば他にも何も要らないと心から思った。
あの女には1度たりともこんな事を思った事はない。俺は確信した。これが愛なのだと。オリビアこそ俺の婚約者に相応しいと。
あの女との婚約を解消し、オリビアと結ばれたい。もう俺の頭には、オリビアと歩む未来しか存在しなかった。
オリビアと結ばれたい。その為にはあの女が邪魔だった。
しかしあの女は俺の両親に酷く気に入られているのだから、俺がオリビアとの婚約を望んだとしても、両親は絶対に首を縦に振らないだろう。
どうすればあの侵略者を排除し、この心から愛する女性と添い遂げることが出来るのだろうか?
オリビアとの逢瀬を重ねながら、どうすればこの愛しい女性と結ばれることが出来るのか、ただそれだけを一心不乱に考え続けた。
……それでも無能な俺には、良い案はなかなか浮かんでこなかった。
くそ! 俺はどこまで無能なんだ! 愛する人がいるのに! お互いに愛し合っているというのに! 俺たち2人が結ばれる方法を考え付くことも出来ないなんて!
「ウェイン様。どうかお1人で抱え込まないで下さいませ」
しかしオリビアには、そんな俺の苦悩も分かってしまったようだった。
そうだったね。君には俺の心の中が見えるんだったね。
「私とウェイン様、2人の問題で御座いましょう? 楽しいことも辛いことも、どうか私と分かち合ってくださいませんか?」
ああオリビア。俺の辛い気持ちまで分かち合おうなんて、君は何処まで素敵な女性なんだ……!
そうだね。無能な俺がたった1人で悩んだって妙案なんて浮かぶはずもない。だから力を貸してくれるかい? 愛しいオリビア……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私はオリビア・スカーレット。スカーレット男爵家の次女として生まれ、両親と姉とともに、今まで生きてきた。
私は昔から姉のことが嫌いだった。
姉はいつも優秀で、気品もあって気配りも出来る。姉と並ぶと、私が如何に格下であるかを突きつけられるような想いがしたから。
姉には何1つ勝つことは出来なかった。
幼い私が癇癪を起こしても、姉は静かに許してくれた。それはまるで姉にとって私は取るに足らない存在なのだと言われたかのように感じて、凄く凄く惨めになった。
勉強でも気品でも気配りでも、私は姉の足元にも及ばなかった。
姉に出来ることが私には出来ない。努力してもズルをしても、姉が普通にやっていることすら私には出来なかった。
せめて女性として魅力的であろうと、私は愛される女性を目指して努力した。辛いことも嫌なことも耐えながら、女として姉を超えてみせると誠心誠意頑張った。
……それでも私が姉より魅力的だと言ってくれる人など、1人も現れる事はなかった。
姉には生まれた時から婚約者が居たが、私にはいつまで経っても婚約者が決まる事はなかった。
まるで女として無価値であると突きつけられているようで、気が狂いそうなほど辛かった。
姉が12歳の誕生日を迎えた日、姉の婚約者がお祝いに訪ねてきた。
ウェイン・ハドレット様。姉の婚約者。
今までお目にかかったことは無かったけれど、ひと目見て素敵な男性だと思った。この人が将来姉と結ばれるのかと思うと、なんだか気になって目で追ってしまう。
そして気付いた。姉とウェイン様の間に、微妙な距離感がある事を。
姉は全く気にした風ではないが、ウェイン様が姉を見る目は、明らかに婚約者を見る目には見えなかった。
あの目には覚えがある……。そう、毎日鏡で見ている私の目と同じ……。姉を疎ましく思っている者の目だった。
その日からウェイン様が気になって仕方なくなった。気になって仕方がなかったので、ウェイン様の事を調べるようになった。
婚約者の妹が将来の義兄に興味を持つ事は不自然ではなかったのか、誰もがウェイン様の事を簡単に教えてくれた。
そして私は知った。ウェイン様の苦悩を。ウェイン様の努力を。
ああ、この人は私と同じなのだ。姉に相応しい人間になりたい。姉の隣に立ちたい。そう思って血の滲むような努力をして、それでも姉と並び立つ事すら出来なかったのだ。
ウェイン様のお気持ちを思うと、ウェイン様の積み重ねてきた努力と苦労を思うと、心が締め付けられるような気がした。
その後も痛々しくなるほどの努力を重ねたウェイン様は、段々と体調を崩しがちになった。何度姉が見舞いを申し込んでも、全く会ってくれなくなっていた。
当然だ。ウェイン様を苦しめているのは、姉本人なのだから。
そんなことにも気付かないこの女なんかより、私の方がずっとずっとウェイン様に相応しいのに……!
姉とは絶対に会わなかったウェイン様だけど、私が見舞いを申し込んでも拒否されることはなかった。
姉の妹として私も拒否されるかも知れないと覚悟していたけれど、私の事は拒否しなかった。それだけでなんだか少し気が晴れたような気持ちになった。
ウェイン様と会い、私が共感を示すと、ウェイン様はとても驚かれていた。今まで誰にも理解されなかったのだと言いながら、ウェイン様は私を抱きしめてくださった。
ウェイン様は姉ではなく私の事を愛してくれていると仰ってくださった。あの姉より私を選んでくれると言ってくれたのだ!
私はこの時生まれて初めて、姉に勝利することが出来たように感じていた。
ウェイン様と結ばれるためには姉が邪魔だ。
しかし姉は、両家の両親から絶大な信頼を得ているのだ。正攻法では排除できない。だったら、多少は危ない橋を渡るしかない。
ウェイン様と姉の排除を画策する毎日は、本当に夢のような日々だった。
ウェイン様は愛する人でもあり、姉に立ち向かう同志でもあるのだ。私はウェイン様と結ばれるためにこの世に生まれたのだと確信できた。
ウェイン様と結ばれるのは姉じゃなくて、この私こそ相応しい!
姉は近々ハドレット商会の手伝いをすることになるらしい。これはウェイン様のお父様であるハドレット家の当主様の希望であり、その期待も大きいという。
ならば、ここで躓かせることが出来れば……。ウェイン様と2人で、綿密に計画を練った。
ハドレット家は、それまで血反吐を吐くほどに働いていたウェイン様が抜けた穴で、少々経営が傾いてしまっていたそうだ。
やはりウェイン様の抜けた穴は大きかった。ウェイン様は決して無能なんかじゃない。ウェイン様のご心痛を理解できないあの女が全て悪いのだ……!
ハドレット家の当主様は、姉にウェイン様の抜けた穴を埋めさせようとしたようだけれど、ウェイン様本人が居るならば穴を埋める必要などない。
損失が出ていた部分を復帰したウェイン様本人が担当し、姉には商会の運営には全く関係の無い部署で仕事をさせることにした。
そうして全く関係無い場所で働かせながら、姉が不正している証拠を少しずつ作り上げていった。
書類上ではウェイン様の抜けた穴は完璧に埋まっていたため、当主様はお気付きになっていない。しかし時間をかければいつかは発覚してしまう。時間との勝負だった。
流石に優秀な姉であろうと、周囲を全てウェイン様の息のかかった従業員で固められ、入る情報を完全にコントロールされては為す術がなかったらしい。
姉は架空の取引先にも一切気付くことなく、私とウェイン様の計画は順調に進んでいった。
ウェイン様だけに危険な橋を渡らせるわけにはいかない。私とウェイン様はパートナーなのだから。
姉が不正している証拠はウェイン様が固めてくれている。だから私は、姉が不正に手を染めた結果、そのお金で何を購入しているかという事実を用意する事にした。
不正した姉は、着服したお金で装飾品を買い漁り、その全てを自宅の自室に秘密裏に保管している。
その事実を裏付ける為に、毎日少しずつ、使用人にも気付かれないよう気をつけながら、姉の部屋に高価な品物を隠し続けた。
そして全ての準備が整った私とウェイン様は、姉とウェイン様の婚約披露パーティの開催に合わせて計画を実行することにした。
まずはウェイン様が商会の帳簿が合わない事をうちの両親に仄めかし、姉に対する不信感を芽生えさせる。
姉が不正をしていると告げるわけでは無い。この時点ではまだ、きっと気のせいだろう。もしくは慣れない仕事でミスをしているのだろうと匂わせる程度に留めておく。
姉の不正を暴くのは私達ではなく父の役目だ。万が一にも私達の自作自演を悟られるわけにはいかない。そのためには、私達自身が姉の不正を摘発するのは不自然に思えたから。
いくら姉を信頼している両親でも、その姉の婚約者の言葉を無視することは出来ない。婚約者の信頼を損なうわけにはいかないと、父はすぐに姉の調査を使用人に命じた。
姉の身辺調査が始まるタイミングで、姉の専属侍女のマリーに姉からの指示だと言って用事を頼み、外で待機していた者に彼女の身柄を拘束させた。
あとはこの侍女に協力してもらえればこの計画は磐石なのだけれど、この侍女はどうしても私達への協力を拒んだ。
お考え直しください。そんなことをしてしまったらシルビア様はどうなってしまうのですかと、どうしても私たちに協力してはくれなかった。
仕方ない。ギリギリまで説得は続けるけど、どうしても首を縦に振らないのなら、国外にでも売り飛ばしてしまうしかない。
できればそこまでしたくはないけど、この女には私とウェイン様の計画の全てが知られてしまっている。協力してもらえないのならば、自由にするわけにはいかないの。
その後は全て計画通りに……いえ、計画以上に上手く事が運んだ。
姉の不正を聞かされた両親はウェイン様に口を出せなくなり、そしてハドレット家の当主様もスカーレット家との関係悪化を恐れて私とウェイン様の婚約に強く反対できなくなり、私とウェイン様の婚約はすぐに認められた。
更には姉を拾った物好きな誰かが姉の賠償金を肩代わりしてくれたおかげで、傾きかけていたハドレット商会も一気に持ち直すことが出来たのだ……!
悪い事は重なると言うけれど、幸運だって重なってくれるのね。まるで世界と運命が私とウェイン様を祝福しているかのように、全てが私たちに都合良く運んでいくかのようだった。
姉の排除にも成功し、ウェイン様と結ばれ、傾きかけていたハドレット商会の経営に何の心配も無くなった。これでもう捕らえてある侍女も必要無くなったわね。
いえ必要無いどころか、むしろこのままここに置いておいては危険なだけね。
すぐに奴隷として売却し、なるべく遠い国に売り飛ばしてもらうように交渉した。これでなんの憂いも無くなったわ。
ああ……。長年目障りで仕方なかったあの姉に、とうとう私は勝利することが出来たのよ! そしてその結果、ウェイン様との幸せな日々を勝ち取ることが出来たの……!
この日ウェイン様と過ごした時間は、今まで生きてきた人生の中で、1番幸せな時間になった……。
さよならお姉様。ウェイン様の腕の中に居られるのは、貴女ではなくてこの私よ……!
※ひと口メモ
シルヴェルタ王国において、人身売買は違法とされております。しかし他国はその限りではなく、普通に奴隷売買が横行している国も存在します。
貴族でもあり商人でもあるハドレット商会は、普通の貴族よりも商売に通じ、平民の商人よりも裏稼業に通じていました。そのツテを使ってウェインが違法な奴隷商人と渡りをつけ、ウェインと同じリスクを背負いたいオリビアが直接交渉を行ないました。
決してハドレット商会が普段から違法な取引に手を染めていたわけではありません。
今回の侍女の売却も、手続き上はオリビア個人が人身売買を成立させた形となっております。