03
「ん……んん……」
朝日を感じて目を覚ます。
……なんだか昨日はとても嫌な事があった気がするけれど、ぐっすり眠る事は出来たみたい。
だけど寝惚けた頭で周囲を見渡した私は、自分が知らない部屋で寝ている事に気付いた。
「……あれ? ここ……、どこ、だっけ……?」
あれ? 私、昨日どうしたんだっけ? ここって自宅の部屋でもないし、ハドレット家のお屋敷でもないわよね……?
ハドレット家。その名前を思い浮かべた時、胸にズキンと痛みが走る。
そしてその痛みで思い出す。昨夜あったあの出来事を……!
「きぃきぃ!」
「えっ……?」
目の前が暗くなりかけた私の耳に届く耳慣れない声。
驚いて視線を向けると、そこには真っ黒なイタチのような生き物が朝日を浴びてキラキラしながら私の事を見つめていた。
この子は確か……。
「……エル? 貴方どこから……って」
エルの後ろを見ると、部屋のドアの横に小さな穴が開いているのが分かった。
流石チロルの私邸だけあって、人間が出入りするドアの横にエル専用の出入り口が用意してあるみたい。
「ふふ。貴方はお屋敷を自由に出入りできるのね。おはようエル。挨拶しに来てくれたの?」
「きぃ!」
返事をするようにひと鳴きしたエルは入り口から移動し、部屋にあるクローゼットの前で私のほうを見た。
……ひょっとして、この中の衣装に着替えろって言ってる……?
ええ……? チロルも珍しい動物とは言っていたけど、そんなに頭の良い動物っているのかなぁ? ま、可愛いからいっか!
エルに誘われるようにベッドから出て、クローゼットを確かめる……前に部屋の窓を開けた。
開放された窓から新鮮で爽やかな早朝の風が吹き抜けて、私の頬を優しく撫でていく。朝の空気って本当に気持ちいい。
ふふ。昨日あんなことがあったっていうのに、こんな穏やかな気持ちでいられるなんてびっくりしちゃう。寝ぼけてしまうくらいぐっすり眠れるなんてね。全部チロルとエルのおかげだ。
気分が上向いた私は、身支度をしようとクローゼットを確かめる。
クローゼットの中には貴族が着るような煌びやかなドレスではなく、軽くて動きやすそうな、街娘が着るような衣装が入っていた。
……そうね。私はもう貴族令嬢ではないんだから、これからはこういった衣装にも慣れていかなきゃダメなんだ。そもそもチロルが用意してくれた服なのに、着るのを躊躇うなんてどうかしてるわよっ。
貴族令嬢という身分ごと脱ぎ捨てるつもりで、入浴後に用意されていた寝巻きを脱いでいると、エルが私に背を向けているのに気付いた。
……え? もしかして、私が着替えてるから後ろを向いているの? エル。
「あははっ。エルは紳士さんなんだねー? ちょっとだけ待ってて、すぐに着替えるからっ」
なんだろう? エルと話していると気分が上向いてきちゃうなぁ。
というか、なんだかさっきから心が落ち込みそうになる度に、エルが私の気持ちを上向きにしてくれてるみたいっ。
クローゼットに用意されていた衣装に袖を通す。
こんな質素な服を着たのは生まれて初めてだったけれど……、思った以上に軽くて動きやすい、かな? ドレスと比べるとどうしても地味なのは仕方ないけれど、着心地は全然悪くない。いいえ、むしろドレスより疲れなくて動きやすいくらい。
というか寝巻きもクローゼットの衣装も、全てチロルが用意してくれた物なのよね。人に用意してもらった衣装を着ておきながら品評するだなんて、自分自身が恥ずかしいわ……。
「エルお待たせっ。着替え終わったから、もうこっちを向いてもだいじょうぶっ」
「きぃ」
お返事にひと鳴きしてから、細長い体を捻って私のほうを振り返るエル。
この子やっぱり私の言う事を理解してるよね? いいずなって言ってたっけ。凄く賢い動物なんだなぁ。
可愛い案内人に先導してもらってお屋敷を歩いていると、どうやら私は食堂に案内されたようだった。
「あら? シルビア様、おはようございます」
「お、おはようございますっ……」
食堂ではメイドのアンさんがたった1人で朝食の配膳をしているところだった。
「エルが案内をしてくれたんですね。ありがとうございます」
わざわざ配膳の手を止めて、エルを優しく撫で繰り回すアンさん。エルにも敬語で接するの?
用意された朝食は2人分だった。私とチロルの分だけなのかな?
昨晩の気安いやり取りから、ひょっとしたらアンさんも一緒に朝食をいただくのかも? なんて思ってたのに、なんだか逆に意外だなぁ。
「済みませんシルビア様。朝食はもう少しだけお待ちくださいませ」
「えっと、それは構わないんですけど……。アンさん? でしたよね。チロルはまだお休みなんですか?」
「いえ、お嬢様は現在入浴中なんです」
「え、今お風呂に……って、もしかして昨日私のせいで入浴出来なかったから……!?」
「いいえ。お嬢様は毎朝日課として軽く汗を流されますので、朝食前に1度ご入浴なさるんですよ。いつものことですのでお気になさらず」
へぇ~。チロルって早起きして運動してるのね。それなら昨日遅くまで話につき合わせてしまって申し訳なかったかも……。
「上がったらこちらにいらっしゃると思います。それまで少々お待ちくださいませ」
アンさんが朝食の配膳に戻ったので、私はエルと遊びながらチロルを待つ事にした。
エルと遊ぶこと数分、髪の乾ききっていないチロルが欠伸をしながら食堂にやってきた。
「おはようシルビア。よく眠れた?」
「うん。おかげさまでよく眠れたみたい。おはようチロル」
挨拶を交わしたチロルはそのまま私に近づいてきて、観察するように私の表情を覗き込んでくる。
「チ、チロル……?」
「確かに昨晩よりも顔色が良くなってるわ。これなら大丈夫そうね」
あ、なんだ。私の顔色を確認してただけなのね。いきなり至近距離で見詰められてびっくりしちゃったよ……。
「アン。朝食にしましょう」
「畏まりました」
チロルが食事を始めるとアンさんがスープやお茶を用意してくれる。
ああ、給仕もアンさん1人でやらなきゃいけないから、いくら気安くても一緒に食事を取るのは難しいのかな?
「シルビアも遠慮しないで食べてね? 何をするにしても、まずは元気じゃないと始まらないわ」
「う、うん。ありがとう。いっ、いただきます……」
運ばれてきた朝食はとても大金持ちのチロルが口にするとは信じられないような、庶民的で質素な内容のお料理ばかりだった。
だけどひと口噛んで見ると、そのどれもがとても美味しくて、なんだかすごくホッとするような味がする。
「おい、しい……」
「だってよアン。良かったわね」
「恐縮です」
えっ? 配膳や給仕を1人でこなしているどころか、調理までアンさんがやってるの?
「食事とは心と体の健康に欠かせない要素ですからね。お嬢様のご健康もお客様のご健康も損なうわけには参りませんっ」
美しい立ち姿のままなのに、なぜか器用に鼻息だけを荒げるアンさん。
ど、どうやら食事に対して並々ならぬ拘りがあるみたい……?
「さてシルビア。今日の予定を決めさせてもらうわよ」
そんなアンさんを華麗にスルーして、チロルが私に語りかけてくる。
なんだろう? チロルって、アンさんの事をスルーし慣れてないかなぁ?
「貴女にとっては大変な1日になると思うわ。覚悟してね?」
「……はい。覚悟、出来てるか分からないけど、頑張るよ……!」
「宜しい。それじゃ心して聞いてね」
チロルが切り出してきたのは私に関する話だった。
このまま楽しい朝食を続けられたらどんなに良かったことだろう。だけど現実から目を逸らしていても始まらないし、チロルにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。ちゃんと聞かなきゃ。
「実は昨晩のうちにハドレット家に連絡を取ってあるの。シルビアをウチで預かる事を了承してもらうために、改めてお話をさせて頂きたいってね」
「えっ!? わ、わざわざ私のことでハドレット家に断りを入れるのっ!?」
「そりゃそうよ。いくら婚約を破棄されご実家を勘当されたと言っても、正式な手続きは流石にまだでしょうからね。貴族なんて足の引っ張りあいが大好きな生き物に隙は見せられないわ」
え、ええ……? 隙を見せたくないって言うなら、私を匿っているのって最大級の隙に値するんじゃないの……?
パーティ会場で大勢の前で犯罪者として糾弾された私を助けてくれたチロルが、今更そんなこと気にするなんてちょっと意外だなぁ。
「このお話にシルビアも同行してもらうわよ。ただ出来れば、話を振られない限りは黙っていて頂戴ね? 彼の中では貴女はもう貴族ではないのだから」
貴族ではない。そうはっきり言われて、少し胸が痛い。でも、変に気を遣われるよりはだいぶマシ。
「……だいじょうぶ。心配してくれてありがとうチロル。続けてくれる?」
「ええ。恐らくその場で、貴女が支払う賠償金の総額が提示されるはずよ。これは貴女を預かる事を理由に、私が全額負担することにするわ」
「…………えっ!?」
私を預かる事を理由に、私に科せられた賠償金を……、チロルが払うですって!?
そんな、そんなの絶対間違ってるよ!? なんでチロルがあんな大金を払わなきゃいけないのっ!?
「待って!? それは私が払うべき義務であって、チロルにはなんの関係もないじゃない! チロルがそんなことをする必要なんてどこにも……!」
「落ち着いてシルビア。誰もあなたの借金を帳消しにしようなんて言ってないわよ?」
「えっ……」
「貴女の賠償金を私が肩代わりすることで、その分の金額をシルビアが私に返してくれれば良いだけなの。そうじゃないとシルビアは犯罪者にされかねないし、体を売ることを強要されるかも知れないから」
借金を肩代わり……? 私の借金が帳消しになるだけじゃなくて、借金の借入先をハドレット家からチロルに移すってこと……?
「貴女が借金を踏み倒そうなんて考えてないなら、返済先が変わるだけのことよ? そこは深く考えなくても良いわ」
も、勿論チロルから借りたお金を踏み倒そうなんて全く思ってないけど……。
本音を言えば、チロルの申し出は涙が出るほど嬉しい……。賠償金が払えず犯罪者になんてなりたくないし、かと言って賠償金の為に見ず知らずの相手に体を許す仕事だってしたくないけど……。
でも、チロルがそこまでする必要なんて、やっぱり無いよ! それとこれとは話が……!
「貴女はとても素直で優しく、そして思いやりのある人だわ。自分が辛いときにも人を思いやれるその心根は、とても尊いことだと思う」
言葉とは裏腹に、チロルの声色には呆れのような、なんだか少し私を咎めるようなニュアンスが含まれているように感じられた。
「でもねシルビア。自分を犠牲にしてまで誰かに尽くす必要なんてないの。誰かを思いやるように、自分自身も思いやってあげていいのよ?」
「他人を思いやるように、自分を思いやる……?」
なんだろう……。素敵な考え方だと思うのに、どうして私は叱られているような気になってしまっているの?
私って、自分自身の事を思いやって、いなかったの……?
「それにね、私はこれでもお金持ちだし、あの程度の金額を支払ってもなんともないの。将来的に返済されるお金であれば回収も約束されているわけだし」
「しょ、将来的にって……! あんな金額、返しきるのにどれだけかかるか……!」
「シルビア。お金で解決できることはお金で解決しましょう。まずは貴女の安全を考えないと、将来もなにも考えられないでしょう?」
「でもっ! これじゃ私のお金の問題をチロルのお金で解決してるだけじゃない! 働き口だって見つけられるか分からないのに、チロルに払ってもらっても返済なんて……!」
「ふっふーん! もっちろんシルビアの仕事は用意してるわよー?」
チロルの言葉に応じて、いつの間にかチロルの隣りに立っていたアンさんが、アンさんが着ている物と同じデザインの衣装を私に見せてくる。
えっと……。これってつまり……?
「侍女服……。って、まさか私はチロルのお屋敷で……?」
「ピンポーン! 大正解っ!」
「きぃきぃ!」
ぱちぱちと手を叩くチロルと、それに合わせて小さなおててを音もなく叩くエル。
えっ、か、可愛い……じゃなくってぇ!
「貴女は私に借金し、借金返済のために住み込みで私に雇われるワケ。どう? 合理的だと思わない?」
私に問いかけながらも、チロルは大胆不敵な笑みを浮かべている。昨晩見た優しい笑顔なんかじゃない。私に挑むような獰猛な笑みを……!
チロルは『文句があるなら私を納得させてみろ』って言ってるんだ……!
大商人チロル・クラートの本気に当てられて、私は言葉を発することができない……。何処までも優しく気品に満ち溢れ、けれど誰よりも気安く親しみを持って接してくれるチロルが見せた、本気の威嚇。
何も言葉が出せずに固まっていると、突然チロルの迫力が消え、悪戯っぽく微笑みながら私に話しかけてくる。
「それともシルビア。私に雇われるのが嫌だった~?」
「え……ええっ……?」
「あ~残念だなぁ。私はシルビアとお友達になったと思ったのになぁ~?」
「そ、そんなことないよっ! 私だってチロルのこと、大切なお友達だと思ってる……! チロルに雇われるなんて、こんな幸運なことないと思ってるよ……!? でもねっ……!?」
「はーい言質は取りましたー! これでシルビアはうちのメイドに決定でーす!」
「よろしくお願いしますねシルビア様。ふふふ、ついに私にも後輩が……!」
私の言葉を遮って私の雇用を一方的に決定してしまうチロル。
って、その横でなんか燃えているアンさんがすっごく怖いんですけどっ!?
なぜか話の流れよりもアンさんの反応に慄いていると、ふざけた様子を引っ込めたチロルが、とても優しく語り掛けてきてくれる。
「シルビア。迷惑とか申し訳ないとか、そういう感情は一旦忘れて欲しいの。貴女には他に頼れる人がいなくて、私には貴女の助けになれる力がある。それだけのことよ」
「そ、それだけのことって……! そんな言葉で済ませられるほど安い金額じゃ……!」
「それに私は腐っても商人。利益の見込めない取引をする気は無いわ」
チロルがふっと笑顔を浮かべる。先ほどのように私に対して威嚇するような笑顔ではなく、悪戯を思いついた子供のような、なんだかイジワルな笑顔に思えた。
「同情だけで貴女を助けるわけじゃないの。詳しい理由はまだ明かせないけど、私はお父様と違って損得を度外視する気は無いし、度外視できない性分なんだ。だからそこは安心して欲しいわ」
チロルは真剣な眼差しで真っ直ぐに見つめてくる。そこに嘘や誤魔化しは感じられない。まるで取引を持ちかけてくる商売人のような眼差しで、私の心の奥底を射抜いてくる。
「……分かった。とても信じられない話だけど、貴女を信じます。チロル」
私には全く理解できないけれど、チロルにはちゃんとメリットがある話らしい。
商売を多少齧った程度の私にはチロルの言っている事は分からない。けれど彼女は今まで取引してきたどの商売人よりも私に誠実に向き合っているように思えた。
「……友人の言葉だもんね。友達の私が信じなくてどうするのよねっ」
思わず口を出た友達という言葉に、チロルがにっこりと微笑み返してくれた。
うん。こんなに優しく笑うチロルが嘘を付いているとは思えない。ううん。たとえ嘘を吐かれて騙されたとしても、こんな顔をされたら騙されても仕方ないよねっ。
「チロル。私は貴女を信じます。私を雇って……、そしてちゃんと利益を出してね? 今の話が嘘だったらイヤだよ?」
「任せなさいっ。これでも私はそれなりに商売には自信があるからね。貴女に心配されるまでも無く、ちゃーんと稼いであげるからね」
ふふ。商売に自信があるなんて、ずいぶんと謙虚な言い回しだなぁ。
ご実家であるイーグル商会に頼るわけでもなく、たった1人でイーグルハート商会を立ち上げ、その勢いは最早ご実家であるイーグル商会すら凌ぐ勢いだなんて言われているのに。
「それじゃあシルビア。悪いけどアンが着ているのと同じメイド服に着替えて頂戴ね」
「どうぞシルビア様……、いえシルビア。チロルお嬢様に仕える者として貴女を心から歓迎致します」
流石に1人でこの屋敷を管理するのは辛くなってきたんですよねとボヤきながら、手に持っていたメイド服を手渡してくれるアンさん。
「貴女はこれからチロル・クラートに雇われた住み込み使用人よ。この屋敷の外では、決して立場を忘れないようにね」
「はい。チロルお嬢様!」
「ぷっ! あはははは! ええその調子よ。でも屋敷の中では普通にしてね」
チロルが言う事を信じよう。私にはもう誰も頼れる人がいないんだ。このよく笑う友人以外は。
直ぐに使用人の服に着替え、早速チロルと共にハドレット家に向かった。
だけど馬車に乗り込む時に、侍女としての教育はこれからなので今日は黙って控えているんですよと、アンさんに凄く心配されてしまった。
ア、アンさんってお母さん気質なのかなぁ……?
ハドレット邸には直ぐに到着した。お屋敷を改めて目の当たりにすると、ここ最近寝泊りしていたはずの場所なのに、私にはなんだか恐ろしい場所のように感じられた。
……私は何もしていないはずなのに、なんだか出頭しているような気分にさせられてしまう。
このお屋敷の中で、いったいウェイン様にどのような言葉を浴びせられるかと思うと身が竦んだ。
そんな風に怯む私の手に、力強く自分の手を重ねてくれるチロル。
「あっ……」
「大丈夫よ。私に任せなさいっ」
この人は優しいだけじゃなく、本当に私の心の機微を読むのが上手。私の心が落ち込みそうになる時、さりげなく支えてくれる。
チロルから伝わる温もりに縋って、折れそうだった心を奮い立たせてハドレット家の屋敷に足を踏み入れた。
「本日はようこそお越し頂いた。チロル・クラート嬢」
どうやら先触れが出してあったらしく、直ぐにウェイン様が応対してきた。
私の事は一瞥だけして、そのあとは存在しない置物のように完全に私を無視してくる。
「昨夜のパーティではとんだ醜態を晒してしまって、心苦しく思っていたのだ。こうしてお話しする機会を設けてもらえた事に感謝しよう」
「過分なご配慮痛み入ります。私のような平民にまでこのようなご厚遇頂き、誠に恐縮ですわ」
平民であるチロルに対して、ウェイン様は意外なほどに下手に出た対応をしているように感じられた。
子爵家とは言えハドレット商会を経営している商売人。大商人チロル・クラートを侮るような事はないみたいだ。
「さて、私は商人ですので胡乱な言い回しは苦手です。ですから早速本題に入られていただきますね」
「ははは。流石は商人。貴族令嬢と比べて話が早いな」
ウェイン様は昨夜の鬼のような形相が嘘だったかのように、なんだか上機嫌に感じられた。チロルが相手だから気を使っていると言うより、機嫌が良いから誰にでも柔らかく応対しているような印象を受ける。
「本日はウェイン様にお願いがあって参りました。平たく言えば商談ですね」
「ほほう、商談か。それは誠に興味深いな」
「きっとハドレット家様にも喜んでいただけるお話かと思いますわ」
「それは話を聞くのが楽しみになるな。クラート家との取引など、こちらとしても願ってもない話であるが」
クラート家との。
このひと言でウェイン様はやっぱりチロルの事を侮っていることが理解できてしまった。貴方の目の前のこの小さな少女だって、王国に名を轟かす大商人であると言うのに……。
「実は昨夜この屋敷の前で拾い物をしたのです。どうやらどなたかが捨てた物のようでして、これ幸いとばかりに家に持ち帰ったのです」
そこでチロルはちらりと私のほうを一瞥する。
その視線に誘導されて私を見たウェイン様は。チロルが言っている拾い物がなんなのかを察したようだ。
あれ? でもチロルは昨晩のうちに私の事をハドレット商会に連絡したって言っていたよね? ウェイン様はご存知なかったのかしら?
「ですが捨てられたものとは言え、元はハドレット家の所有物。勝手に私のものにしては、ハドレット家様に失礼にあたるかもしれないと懸念し、本日突然の訪問をさせて頂いたのです」
厳密に言えば私はウェイン様に所有されていたわけでもなく、ハドレット家に籍を入れていたわけでもないんだけどね。だけどあのパーティ会場での流れを考慮したチロルが、ウェイン様に受け入れられやすいようにと考えた話なのだ。
正直に言えば、チロルに物扱いされるのは辛い……。でもチロルの本心は分かってる。ここで私が折れるなんて出来ない……!
「なるほど。流石は大商人クラート家の令嬢、律儀なことだな」
やはり私のことは一瞥するだけで、なんの感情も抱いていないような、どうでも良い物を扱うような態度のウェイン様。
昨日見せたあの殺意すら感じる憎悪の感情はいったい何処にいってしまったの……?
「捨てた物になどなんの未練もありはしない。好きに扱ってもらって構わない」
「ありがとうございます。ウェイン様の寛大な判断、誠に感服致しました」
そしてチロルの思惑通り、あっさりと私を手放してくれるウェイン様。
ここまではチロルの思い通りだけど、肝心なのはむしろここからだよね……。大丈夫かな……。
「さて、これでハドレット家様との間に問題は無くなったのですが……。実はその拾い物、なんだか瑕疵があるようでして」
「瑕疵、ねぇ」
チロルの言っていることが私の賠償金のことだと察したウェイン様は、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
元々多少尊大なところはある方だったけど、取引相手にこんな態度を取る人じゃなかったはず。私の存在がチロルを侮らせているんじゃ……。
「拾ったはいいのですが、我が家に傷物を家に置くわけにはいきません。そこで拾い物の瑕疵も私に引き受けさせて頂けないか……、とご相談に参った次第なのです」
だけどチロルの提案を聞いたウェイン様は、ピクリと片眉を上げて、探るような慎重な口調でチロルに確認する。
「……それはつまり、シルビアが請求されている賠償金をクラート嬢が肩代わりして支払う、という意味で宜しいか?」
「流石はウェイン様っ。ご理解が早くて助かりますわっ」
意図的に声を弾ませるチロル。商売人であるウェイン様が自分より稼いでいる商人に褒められて悪い気がするはずがない。
ウェイン様の自尊心をくすぐりながら、このままの流れで一気に話を進めるチロル。
「賠償金の総額を教えていただけないでしょうか? 勿論金額にもよりますが、本日はなるべく即日対応できるようにと準備を整えて参りましたので」
「そっ、即日だと……!? 分かった! ちょっとだけ待ってくれ! 誰かっ! 誰か今すぐ来てくれ!」
即日私の賠償金が全額支払われる。ここまで上手い話などあるはずもなく、ウェイン様は取り乱しながらも直ぐに使用人を呼んでチロルの提案に飛びついた。
そこからは本当に話が早かった。
私の賠償金だと言ってウェイン様に提示された賠償金は、昨日見せられた書類の数倍の額だったのに、チロルは顔色1つ変えずにあっさり支払ってしまったのだ。
ここぞとばかりに賠償金を上乗せするなんて……。そう思い思わずウェイン様を睨み付けそうになる私に、なんだか悪戯が成功したような意地の悪い笑みを見せて、パチリとウインクするチロル。
「いやぁクラート嬢とお近付きになれて、今日は素晴らしい日だったよ!」
お金を受け取ったウェイン様は、今まで私が見たこともないようなほど上機嫌になってチロルの応対をしている。
「拾い物は好きにしてくれっ。あれはもう正式にクラート嬢の所有物として扱ってくれていい!」
「平民の私にも平等に応対してくださるウェイン様には頭が上がりませんわ」
……ウェイン様とチロルのやり取りを見て、私は背筋が寒くなるようだった。
先ほどまではチロルを完全に侮っていたはずのウェイン様。今だって身分差が逆転したわけではないのに。
ウェイン様とチロルの口調は先ほどまでと変わらないのに、いつの間にかウェイン様とチロルの上下関係が逆転しているように思えて仕方がなかった。
そして恐ろしい事に、ウェイン様本人がその事実に全く気付いていないなんて……!
「それでは今日のところは失礼致しますね。拾い物の手入れもしなくてはいけませんので」
「ああ。名残惜しいが引き止めるのも申し訳ないなっ。ああ、馬車まで見送らせてもらおう!」
わざわざ屋敷を出て、私達……いえ、チロルが馬車に乗り込むまで見送りに来るウェイン様。
ハドレット子爵家の次期当主であるウェイン様が、平民であるチロルを見送るという異常な光景に、本人だけが気付いていない……。
「今日は良い取引が出来た。今後もクラート嬢とは仲良くしていきたいと思っている」
「こちらこそ、突然の訪問に無理なお願いを聞いていただきまして感謝しております。またお会いしましょう。それでは御機嫌よう」
結局ウェイン様は私に声をかけることもなく、賠償金の支払いは終了した。
終始にこやかに進められたはずの商談だったはずなのに、私はチロルのことが少し怖くなってしまった。
「シルビア。とりあえずこれで貴女の身の安全は保証されたわ」
馬車が走り出した途端に先ほどまでの雰囲気を脱ぎ去り、親しげに話しかけてくれるチロル。
……チロルのことが怖い? チロルがやったのは全て私を守るためにやってくれたことなのに、何を言っているのよ私はっ。
「と言っても貴族令嬢としての身分を取り戻せたわけじゃないから……。まだ安心はできないわよね」
「ううん。チロル、ありがとう。自分でもびっくりするくらい落ち着いてる。大丈夫だよ」
おかしいなぁ。昨日のまでの何倍もの額の借金を背負ってしまったっていうのに、返済先がウェイン様でなくチロルだっていうだけでなんだか全然不安を感じないの。
「……これからどうすればいいかも全然分からなかったけど、チロルのおかげで少しだけ希望が見えてきた気がするの!」
「そ? シルビアが安心してくれたのなら良かったっ」
今回チロルが支払った賠償金は眩暈がするような金額で、これから私はその金額をチロルに返していかなきゃいけない……。
それでも、返せる可能性があるだけマシ。昨日の私には何の希望も無かったんだもの。
でも、私はこれからどうなっちゃうんだろ? チロル、あまり無茶なこと言わないといいなぁ……。私に拒否する権利なんて無いんだけれど……。
※ひと口メモ
貴族であるスカーレット男爵家、ハドレット子爵家と問題を起こさないように、シルビアを保護して直ぐにチロルは両家に連絡を入れています。しかし両家から特に反応は返ってきませんでした。
更にハドレット子爵邸を訪問する前にチロルは先触れを出しているのですが、幸福感で浮き足立っているウェインは気に留めませんでした。
この時のウェインは希望に満ちた将来のことで頭がいっぱいで、彼の中ではシルビアの存在は既に過去のものとなっていたのでした。