04
「い、いた……。な、なにぃ……? 止めてよエルぅ……。起きる、起きるからぁ……」
翌朝、まだ薄暗い時間にエルに頬をぺしぺしされて、文字通り叩き起こされる。
急いで身支度を整えて寝室を出ると、チロルが既に朝食を食べていた。
「おはようカチュア。背中はまだ痛むかしら?」
「あ、チロルに言われるまで忘れてた……。多分もう大丈夫、かな?」
「ならカチュアも朝食を食べてちょうだい。今日は忙しくなるわよ~?」
私の実家があるジャンクロウは、今居る王都ノルドから2つほど隣の街だ。
徒歩じゃなければ日帰りできる距離だけど、普通に考えたら日帰りするような距離じゃない。
だけど今晩はキャメル先生の診察と夕食の約束があるので、早めに出て時間的な余裕を持ちたい。
という理由で夜明け前の起床、そして早朝の出発となったのだった。
「行ってくるわねアン」
「カチュア様のお体は常に気にかけて差し上げてくださいね。キャメル先生は大丈夫と仰っておりましたが、それでも負傷者には変わりませんから」
「ええ、分かってる。それじゃ留守番宜しくね、エル」
「きぃきぃ」
エルは基本的に屋敷から出ないそうなので、今回はお留守番だ。
その代わりに私と同じくらいの年若い侍女が2名ほど馬車に同乗し、ジャンクロウに向かって出発した。
「到着までまだ時間があるから、お互いの事を紹介させてもらうわね」
馬車が走り出してすぐ、全員を知っているチロルがお互いを紹介してくれる。
「まずはこちらがカチュア。今回保護したお客様よ。連絡した通りこれからカチュアのご実家に話をしに行くわ」
今回保護したって……。
まるで似たような事を何度も経験しているみたいな言い方だなぁ?
「カチュア。この2人はシルとマリー。ジャンクロウに居る貴女のご家族に危険が及ばないように、連絡員として動いてもらう予定なの」
「シルです。宜しくお願いしますカチュア様」
「マリーと申します。どうぞお見知りおきを」
「あっはっ、はい! こ、こちらこそ宜しくです……!」
綺麗な所作で頭を下げる2人に、慌てて私も頭を下げる。
うん。急に背中を丸めても、痛みも呼吸も問題ない。
「3人とも同年代なんだから、あまり硬くならなくてもいいと思うわよ~?」
「いやいや。一応私たちは使用人なんですけど? お客様に失礼な態度は取れませんからね?」
「それじゃ今回協力してくれる2人にも、現在カチュアが置かれている状況を説明しておくわね」
シルさんからの当然の指摘を完全に無視して、揺れる馬車の中でも淀みなく語り始めるチロル。
私の話なのに私が話す以上に詳しく、そして分かりやすく説明してしまった。
「ちょっと信じられない話だね……。私の時よりよっぽど酷いよ? いったい誰が何の目的で、カチュア様にそんなことをしたの?」
「確かにチロル様の仰る通り、これは個人レベルで行えることとは思えないね……。でも、こんなことをする理由が分からないわ。なぜカチュア様はそんな目に?」
シルさんとマリーさんは、まるで我が事の様に親身になって話を聞いている。
そしてやっぱり2人とも私と同じで、『なぜ』の部分で引っかかってしまっているみたい。
チロルは悪意って言ってたけど……。
私なんかを陥れて誰に何の意味があるのか、全然分からないよ……。
「あ、っていうかシルさん、マリーさん? 私のことはカチュアと呼び捨てて下さい! カチュア様なんて呼ばれ慣れていなくて、なんだかむずむずしてしまいます……」
「あ、そうなんですか? えっと、チロル。本人にこう言われてるんだけど……」
「カチュアがいいなら構わないわよ。ただし第三者が居る時はシルとマリーの立場を尊重して、我慢してカチュア様って呼ばれてあげてねー」
あっさりと許可を出してくれるチロル。
なんだか侍女との距離がとっても近いみたい?
でも我慢して様付けで呼ばれてねって、なんだか意味が分からないんだけど。
「一応カチュアは私のお客様って扱いだし、シルとマリーはうちの使用人扱いだからさ。プライベートで気安くなる分には構わないけど、対外的には距離を保って接してね」
「わ、分かった。様付けで呼ばれたことなんて無いから、ちょっと慣れないけどね」
「慣れないかもしれないけど宜しくね。ええっと、馬車や私のお屋敷はプライベート空間だと思っていいから」
この場の誰よりも気さくな態度で、けれど使用人や私の立場をちゃんと考慮してくれるチロル。
チロルって本当に不思議な人。
今まで見てきた誰よりも気安く親しみやすくも感じるのに、学園で見てきたどんな淑女よりも気品を感じる時がある。
「うん。このペースなら、お昼前には余裕で到着できるかしら?」
チロルが特別に用意した馬車は、普通の馬車の倍の数の馬に引かせ、そして途中の街に寄る度に新しい馬に変えてまで走り続けている。
さ、流石大金持ち……。お金の使い方が豪快すぎるよ……。
「カチュア。ジャンクロウの案内はお願いできるかしら? 実は私はあまり詳しくなくってさ」
「あ、うん大丈夫。案内できるよ。でもチロルにも知らないことなんてあるんだね?」
「いやそんなの当たり前だからね? イーグルハートの支店があるから何度か足を運んだ事はあるんだけどさ、街をゆっくり見て回る余裕が無かったのよねー」
途中で寄った街にも、ジャンクロウにも当然のようにイーグルハートの支店があるのが凄いよ。
イーグル商会の支店が無くても、イーグルハート商会のお店はあったりするしさぁ。
「私の家はあまり大きな店じゃないから、少し路地に入った分かり難いところにあるんだけど……」
「ええ、案内宜しくね。それとお昼も近いし、どこかで美味しいものでも買って持っていきたいわね。手土産代わりに」
えぇ~? 馬車に思いっきり揺さぶられて、あんまり食欲湧かないよー?
見た目に反して、本当にチロルはタフだなぁ。
「カチュア。恐らく貴女のご家族は学園から貴女の悪評を告げられて、今とても混乱していると思うの」
ジャンクロウの街並みが迫ってきて、改めてチロルから注意を促される。
家族が混乱している、か。
そう、恐らくみんなは酷く混乱しているはずだ。
もし私と会って酷い言葉を投げつけてきたとしても、それはみんなの本心じゃない。
私の家族は、学園からの報告なんかよりも私のことを信じてくれるはずだと……、私も信じよう。
「私達がいるから、決して心を乱さないように落ち着いて対応してね。間違っても、ご家族に当り散らすような事をしちゃダメよ?」
「うん。ありがとうチロル。おかげで少し落ち着いたよ」
ジャンクロウに到着し、よく通ったパン屋さんで多めに買い物をする。
久々の香りにお腹は反応したのに、このあと家族に会う事を考えると、食欲自体は沸いてこなかった。
私たちと家族全員で食べても食べきれないほどのパンを積んで、とうとう私は実家の前にたどり着いたのだった。
「ここがカチュアの?」
「うん……。でも、閉まってるね……」
半年振りに訪れた実家の花屋は、入り口が閉ざされ営業していなかった。
この店が閉まっているところなんて、生まれて初めて見たかもしれない……。
……やっぱりもう、学園からみんなに連絡が来ているんだ。
「あ……」
そう思って凍りついた私の背に、チロルが優しく手を添えてくれる。
「……うん。行こう」
私は独りじゃないんだ。こんなところで立ち止まってる場合じゃない。
ここで止まっていたら、それこそ家族も不幸になってしまうだけだから……!
店の扉は開いていない。だからここから呼びかけるしかないっ。
「父さーん! 母さーん! 私っ……! カチュアだよっ! 誰かっ、誰か居ないのーっ!?」
意を決して、暗い店内に向かって呼びかける。
少し待つと中から誰かが走って来るような音が聞こえ、そして店の入り口が勢い良く開け放たれた。
「カチュア!? ほっ、本当にカチュアなのかっ……!?」
店先に飛び出してきたのは父だった。
なんだか疲れ切った顔をしながら、血走った目で私を睨みつけている。
「父さん! うんっ。私だよっ! 父さん達に話があってジャンク……」
「カチュアァァッ!! お前は、お前はぁ……! なんということをしでかしてくれたんだぁぁぁっ!!」
「ひっ!?」
私の話に耳を傾ける素振りもなく、父さんは全力で私に掴みかかってきた。
今まで見たことのないほどの怒りの形相を浮かべる父さんに私の体は震え上がり、そして身動きが取れなくなってしまう。
「ちょっと失礼」
やはり私を信じてくれないのかとショックで固まる私の目の前で、父さんと私の間に何かが割り込む。
そして次の瞬間、なぜか私の目の前で、父さんが宙を舞って……って、ええええええ!?
「へっ?」
宙に舞っている父さんから呆けたような声が私の耳に届いた次の瞬間、背中から地面に叩きつけられる父さん。
「ぐはっ!?」
って大丈夫なのっ!? これって大丈夫なのチロルーーーっ!?
「……ひぃっ!?」
まるで幼い少女のように、小さく短い悲鳴を上げる父さん。
地面に叩きつけられた父さんの顔面には、チロルの小さな拳が寸止めされていた。
「突然のご無礼、どうかご容赦ください」
ひと言謝罪の言葉を口にしてから、父さんの顔の前で止めていた拳を開いて、そのまま父さんに差し出すチロル。
「一応引っ張りあげましたが、体に痛みが残っているようでしたら仰ってくださいね。まずはお手をどうぞ」
「あ、ああ……、済まないね……」
先ほどとは別人のように呆ける父さんも、未だ理解が追いつかない様子で、素直にチロルの手を取って立ち上がった。
「失礼致しました。私はチロル・クラートと申します。本日はカチュアさんの件で、ご家族の皆さんにお話をしたいと思って参りました」
そして優雅にカーテシーをして、何事も無かったように話し始めるチロル。
あまりの事態の急展開に、私と父さんはおろか、シルさんとマリーさんも目をぱちくりしているんだけど?
「お父様のお気持ちは察するに余りありますが、まずは私達の話も聞いて頂けますか? 恐らく皆様とカチュアさんは、誰かに陥れられてしまったようなのです」
「カチュアが……、カチュアが誰かに陥れられただって……!? そんなこと、学園の使いとやらはひと言も……!」
私が陥れられたと聞いて、呆けていた父さんの目に光が戻ってくる。
それは先ほどまでの血走った目ではなく、今まで私が見てきた、いつもの父さんの優しげな瞳だった。
「お父様が学園側の話を鵜呑みにするのは無理もないことだと思いますが、まずは娘の言い分も聞いて頂けないでしょうか。……誤った選択をされる前に」
「…………あ」
チロルの言葉にはっとしたような表情を見せる父さん。
そしていつものちょっとだけ頼りない顔に、見ている私の胸が痛くなるほどの悲痛な表情を浮かべて、ゆっくりと深く頭を下げた。
「……カチュア。済まなかった。父さん気が動転してて、お前の言い分を聞こうともしてなかったよ……」
なんで……。なんで父さんが頭を下げなきゃいけないの……!
なんで何も悪くない父さんが、こんなに心を痛めなきゃいけないのよ……!?
激しい怒りを覚えながら、けれどそんな思いよりずっと大切な父さんに駆け寄り、肩を押して頭を上げさせる。
「謝らないで父さん……! 父さんたちの気持ちを考えたら、今のは仕方ない行動だと思うよ……?」
「娘の話に耳を傾けず、いきなり掴みかかるようなダメな父さんを許してくれるなんて、相変わらずカチュアは優しい子だな……。そんな娘を信じてやれなかった自分が恥ずかしいよ……」
「ううん。こうして私の話を聞いてくれるだけでも嬉しいよ。学園じゃ、誰も私の話なんて聞いてくれなかったから……」
「いったい学園でお前になにがあったんだ……」
父さんは先ほどとは違う、娘に起きた何かに対して怒りを見せながら、真剣な眼差しで私を見詰める。
「……まずはお前の話を父さんに聞かせて欲しい。今まで会ったことも無い、学園からの使者の話なんかより、愛する娘の話が聞きたいんだ」
「……うん。私もなにが起こっているのか分からないんだけど……。でも父さんのこともみんなのことも、ずっとずっと大好きだよ……!」
私を信じてくれる父さんが嬉しくて嬉しくて、つい父さんの大きな胸に抱き付いてしまう。
直ぐに抱きしめてくれる懐かしい父さんの匂いに、私は心から安堵する。
「家族もみんないるんだ。混乱しているし、みんな疲れ切ってる……。でもお前が悪いんじゃなければ、みんなも少しは元気になってくれると思うんだ」
「あ、ご家族もご在宅であれば、出来れば皆さん一緒にお話しする場を用意して頂けますか?」
「「わわっ!?」」
泣きながら抱き合う私と父さんの再会シーンに、平然と乱入して話しかけてくるチロル。
すっかりチロルの存在を忘れていた私と父さんは、いきなり話しかけられて抱き合いながら飛び上がっちゃった。
「……皆さん。申し訳ないけど、少しここで待っていてもらえますか?」
でも直ぐに表情を引き締めた父さんが、改めてチロルの応対を始める。
「家の者はまだ酷く混乱しております。なので先に私がカチュアの帰宅と、カチュアが誰かに陥れられた可能性が高い事を話してきます。娘が被害者であると分かれば、みんなも少し落ち着いてくれるでしょう」
「お心遣い痛み入ります。私達のことは気になさらずに、まずはご家族の事を優先してあげてください」
「ありがとうございます……。では1度失礼させてもらいますね。カチュアも待っていなさい」
「うん。みんなを宜しくね、父さん」
任せてくれと笑って、父さんは急いで店内に戻っていった。
勢いよく地面に叩きつけられたはずの父さんだけど、特に体に不調があるようには見えなかった。
「ねぇチロル。貴女さっき、いったい父さんに何をしたの?」
父さんが戻ってくるまで時間が空いてしまったので、先ほどの活劇をチロルに問いかける。
「んー? ごめん、もうちょっと具体的にお願い」
「貴女が見た目より体力があるのは知ってるけど、なんでそんな細腕で父さんを投げ飛ばせるの? なんで地面に叩きつけられたはずの父さんは、あんなにピンピンしてるの?」
「あー、お父様を投げ飛ばした時の話か。了解了解」
え、何その反応!?
チロル、貴女まだ他に何かしてるのっ!?
「今のは護身術の1つでね。相手の勢いを利用して投げ飛ばす技だから、私みたいな華奢な女でも男の人を投げ飛ばしたり出来るの。技術をちゃんと修めれば相手に怪我をさせずに済むから、今みたいな場合には使いやすい技術だと言えるわね」
いやいや……。そんなあっさり、投げ飛ばしたり出来るのっ、なんて言われても納得できないんだけど……?
「怪我をさせずに済むって……。だって父さん、勢いよく地面に叩きつけられて……」
「カチュアのお父様の体の勢いの方向を変えて、地面への勢いを殺したの。詳しく説明しても分からないと思うけど、まぁ簡単に言えば、見た目ほどの衝撃をお父様は受けていないってことね」
「え、ええ~……」
全く意味が分からないけど、とりあえず父さんに怪我の心配は無いみたい?
我を忘れたような状態の父さんも、まさかチロルみたいな小さな女の子に投げ飛ばされるとは思ってなかっただろうなぁ。
完全に思考停止しちゃってたよね……。今の私みたいに……。
「……チロル様? 私達より先に動かれては困りますよ? 一応私たちって、護衛も兼ねてるんでしょ?」
「シルの言う通りですよ。チロル様に護衛が必要なのかどうか、根底から考えさせられるような行為はお控えください」
「まぁまぁ2人とも。今のは流石に許してよ。カチュアもお父様も傷つけないためには、私が間に入るのが1番だったんだから仕方ないでしょう? 私自身に危険が及ぶと判断した時にはやらないって。約束するわ」
チロルにとっては、あれって出来る確信があっての行為だったのね……。
なんだかチロルって、本当に底しれない人みたい……。
「お待たせしました。家族も落ち着きを取り戻し、娘の話を聞きたいそうです。どうぞお入りください」
戻ってきた父さんに案内されて家に入ると、家族全員が私を受け入れてくれた。
チロルが居なかったら、私と家族はいがみ合ったまま、縁が切れてしまっていたかもしれない。
母さんや姉さんと泣きながら抱き合った後、チロルにも補足してもらいながら私の話を聞いてもらった。
「カチュアの話を聞くと、改めておかしいことばかりで驚きますよ……」
話を聞いた父さんは、怒りよりも困惑の方が強そうな表情を浮かべてしまった。
当事者の私ですらワケが分からない事態だもん。父さんだって意味が分からないよね?
「カチュアに科せられた罰金を私達に代わりに払えというまでならまだしも、本人が不在の状況で家族に通達してくるのも、冷静になって考えれば不自然すぎますね……」
そう。冷静になって考えれば、自体の不自然さにはすぐに気付けるの。
でも私がそうだったように、突然の事態にパニックを起こして、普段なら絶対に気付くはずのことにも気付けなくされてしまうんだ……。
「本当にごめんなカチュア……。学園側が嘘を吐くわけがないという思い込みで、危うく父さんは愛する娘を悪意の中に放り出してしまうところだった……」
「ううん。父さんはちゃんと抱きしめてくれたじゃない。父さんが謝ることなんてなんにもないよ」
ありがとうと私に笑いかけてくれた後、直ぐに真剣な表情でチロルに頭を下げる父さん。
「……チロルさん。あの時私を止めてくれて、本当にありがとう……! 貴女のおかげでこうやって、家族みんなで話が出来ていますよ」
「お気になさらないで下さい。私も緊急のこととはいえ、大変な粗相をしてしまいましたから。水に流して頂ければ充分です」
どさくさに紛れて、父さんを投げ飛ばした事実をサラッと水に流してみせるチロル。
こ、こわぁ……! これがやり手の商売人なんだぁ……。
「さて。私達が本日ここを訪れたのは、その先の話を聞きたかったからなんですよ」
「その先、と言いますと?」
「いくら娘が学園であまり良くない態度を取っていると伝えられても、その程度であそこまで取り乱すとはとても思えません。学園からどのような要求をされたのか、良かったらお聞かせ願えませんか?」
チロルは私達家族の感情に一切流されることもなく、常に淡々とした対応を貫いている。
平民である私達家族にも礼を失することなく、丁寧な物腰を崩さない。
「内容次第では、私にもお力になれることがあるかもしれません。皆様だけでは解決出来ないような要求なら、なおさら教えていただけませんか?」
「……こんなこと、お客様にお話しすることではないと分かっておりますが、私達にはどうしたらいいか分かりません。もしお知恵を拝借できるのでしたらありがたいと思います」
私よりも年下の小柄な少女に、何の違和感も無く敬語で接する父さん。
父さんの気持ち、凄くよく分かるよ……。なんかチロルって、全然平民に思えないもんね……。
1度下がった父さんは、家の奥から1枚の書類を持ってくる。
「昨日の夜、ランペイジ学園の事務員を名乗る男が、これを持って訪ねてきましてね……。どうぞご覧下さい」
「……これはまた、随分と吹っ掛けられてますね? 総額ですと、ランペイジ学園の入学金20年分相当に当たるんじゃないですかコレ?」
「にゅっ、入学金20年分っ!?」
1年分だって、我が家の収入の半年分近い金額だっていうのに……!
みんな私の入学金を工面するために、色々頑張ってくれたっていうのに……!
10年分でも法外なのに、それを20年分だなんて……!
いくらなんでも、個人にあっさり請求していい額じゃないでしょっ!?
「それだけじゃないんです。学園側はカチュアに著しく品位を貶められたとして、10日以内に払わなければ、私達の財産全てを没収すると言ってきたんです」
「なっ!? 10日以内にこんな額っ……! 貴族だって簡単には払えないでしょうっ!?」
「勿論そんな額、払うアテもありません。しかもカチュアが加害者とされているから、法に訴えることも出来なくて……」
そうか……! みんなは私が悪いと聞かされているから、おかしいと思っても誰に助けを求めることもできなかったんだ……!
まるでサインの入った借用書を見せられた時の私みたいに、自分自身の潔白すら信じられなくて……。
「宜しい。この請求は私が預かりますわ。明日この倍の金額を学園に支払って参りましょう」
「……は? はぁっ!? 倍の金額って、入学金40年分相当額を、明日支払うですって!?」
あまりにも平然と、この法外な請求額の倍額を支払うと宣言したチロルに、一瞬後れて父さんが反応する。
けれどその父さんを無視して、チロルはこれまた平然と話を続けちゃってる……。
「支払いの条件は、今後一切皆さんに関わらない事としましょう。もし学園側がこれを破った場合、私が払った更に倍額……。入学金80年分の支払いを義務付けましょう」
「ままま待って! 待ってください……! そ、そんなことされても、うちにはそんなお金をお返しする力もありませんよっ!?」
「……お父様。カチュアと皆さんを取り巻く今回の騒動、ちょっと気持ち悪いと思うんです」
「え……」
突然がらりと雰囲気を変えたチロルに、気圧されたように動揺する父さん。
「どれだけの年月、どれだけの人間が関わっているのか今のところ不透明です。ですから皆さんの安全を確保するためには、少し思い切ったことをしたほうが良いと思うんですよね」
「それが……。請求額の倍額の支払い、ということですか……?」
「今回の件、事はカチュアさんのご家族だけでは済まない可能性があります。学園側が何をしてくるのか、正直分かったものではありません」
父さんの問いに真剣な表情で頷きながら、まだ私達の安全は確保出来ていないと口にするチロル。
請求されたお金を支払ったあとですら安全じゃないなんて、いったい私たちは何に巻き込まれてしまったの……!?
「お支払いは私が預かります。ですがこれで終わりとはとても思えません。皆さんもどうか油断なさらないよう、努々お気をつけくださいませ」
事は私達だけで済む話じゃない。
チロルは事ある毎にそう言っている……。
つまり私に何か原因があったわけじゃなくて、ずっと続いている何かに、今回たまたま選ばれたのが私だった……。そういう事になるの……?
「後ろに控えている私の侍女、シルとマリーと申しますが、この2人が当分ジャンクロウに滞在致します」
チロルに紹介された2人が、名前だけ告げてチロルの後ろに控える。
馬車の中での砕けた態度とは全く違う、とても綺麗に洗練された所作だった。
「私とカチュアへの直接の連絡役として、事態が終わるまではジャンクロウの支店に常駐させます。何か不測の事態が起こったら迷わずうちの支店に、家族全員でいらっしゃって下さい」
「そ、それほどの事態、なんですね……。娘が巻き込まれているのは……」
「恐らくの話ですが、相手は事に慣れております。絶対に甘い考えで油断なさらないようご注意ください」
「あ、ああ……。何が起こってるのか分からないけど、カチュアを助けてくれたチロルさんの事は信用するよ……」
……正確に言うのなら、もうチロルを信じるしかない状況だ。
でも逆に言えば、そんな状況の私たちを騙す意味なんて無いんだから、開き直ってチロルを100%信じきってしまうべきだよ、父さん。
「でも、うちの支店ってどこのことなんです……? チロルさんはどこかの商会の人なんですか……?」
「ええっ!? 父さん、チロルの事を知らないで話してたの!?」
道理で父さんにしては、大商人のチロルと普通に話していると思ったぁ……。
父さん、チロルを知らなかったのね……。
クラートと聞いてイーグル商会を連想しそうなものだけど、さっきの父さんは冷静じゃなかったし、チロルは15歳にも見えないくらいの小柄な女の子だもんなぁ。
「い、いやぁ……。ジャンクロウで店を構えている人なら知っているんだけどね……?」
「あ~。まだまだ男性の方には知られておりませんよね? それにお父様以外の方に挨拶するのを忘れておりました。改めてご挨拶申し上げます」
うわっ! 今絶対、してやったりって顔したよチロル!?
なにを悪戯が成功して喜んでる男の子みたいな顔してるのよーっ!?
「私はチロル・クラート。未だ若輩者ではありますが、イーグルハート商会会長を務めさせて頂いております」
「「「…………は?」」」
「カチュアとは学園での授業を受け持ったのが縁で、この度協力させて頂いております」
「「「はぁぁぁぁぁっ!?」」」
その後、我が家は大騒ぎになった。
チロルの名前は知らなくても、イーグルハートの名前は父さんも知っていたし、母さんや姉さんは気絶しそうになるくらい衝撃を受けていた。
うん。チロルって本来、こういう反応をされる女性なんだよねぇ……。
なのに、本当になんで私なんかに力を貸してくれるんだろう……?
※こっそり設定公開。
学園からの請求額は間違いではなく、学園からの直接の請求額が入学金10年分で、そこにカチュアが他の生徒から借金した事になっている額が上乗せされて20年分になっています。
勿論その借金の額自体も上乗せして請求されており、当然街の花屋に支払える額ではありません。
チロルの名とイーグルハート商会の名声は作中世界に轟いておりますが、実際にイーグルハート商会を利用し、聖女であるチロルに強い憧れを抱いている女性と違い、男性はチロルの容姿まで知らない人が少なくありません。
特にチロルは小学生にしか見えないくらいの小柄な少女なので、15歳と聞いているチロル・クラートがこんなにチンチクリンだとは、知っていなければ見抜けないと思われます。
今回シャンクロウへの馬車の御者を務めているのはクリアで、基本的にクリアは常にチロルの傍に護衛として同行しています。
01では馬車内でチロルの足の上に座っていたと思われますが、流石のクリアも怪我人を放置してまでチロルを独占したりはしませんでした。
クリアがいるのにチロルがカチュアを背負ったのは、チロルは基本的にクリアの存在を周囲に知らしめるつもりが無いからです。
チロルに不可視の護衛がいるという事実を知らなければ、たとえ人知れずチロルを襲撃しようとしても失敗しますし、誘拐に成功したとしてもクリアに救助されてしまいます。
故にチロルにとってクリアとは切り札的な存在であり、それ以上にクリアをつまらない諍いに関わらせたくないという思いがあるため、本当にチロル自身ではどうしようもない時に限り、クリアの独断で護衛をすることを許している感じです。
余談ですが、私も呼吸障害が起きるほどに背中を強打した経験は何度かありますが、適切な治療を施すと結構ひと晩で治ったりします。
勿論、骨さえ無事ならば、の話ですけれど。




