02
「カチュアさん。屋敷に入る前に、今来ている服を脱いでもらいますよ。恥ずかしいとは思いますけど我慢してくださいね?」
馬車が止まるとクラート先生……いえ、チロル先生が、服を脱いで欲しいと言ってきた。
確かに、こんな汚い姿じゃ先生のご自宅になんて入れないよね……。
「今の貴女の衣服は不衛生すぎます。額の怪我は消毒を済ませましたが、せっかく傷口の消毒をしても身に着けている衣装から悪いものが入ってしまっては意味がありませんからね」
「あっ……。そ、そういう意味ですか……」
どうやら家を汚したくないから言っているのではなくて、私の傷口の悪化を防ぐための処置みたいだ。
そもそも汚物に塗れた私の体を躊躇無く背負ってくださった先生が、汚れを理由に私を家に入れたがらないはずがないよね。
さっきの応急処置といい、チロル先生はなんだか本当にお医者様みたいだなぁ。
「この屋敷には女性しか居ませんし、これから往診してくださる先生も女性ですから、どうか安心してくださいね」
今更服を脱ぐくらいどうってことないのに、どこまでも私を気遣ってくれるチロル先生の気遣いが嬉しい。
あ、でも私、もうこれ以外の服が……。
「体を動かすのはまだ辛いと思うから……。この服、切り裂かせてもらってもいいですか?」
「えっと、先生……。服を脱ぐのは構わないんですけど……。私、その……、他に着替えは……」
「ああ、そこは気にしないで下さい。これは治療行為の為に、私が貴女に要請することですから。着替えくらいは私が用意させてもらいますよ」
「えっ……! そ、そんなことまでしていただくわけには……!」
「……それに怪我のことがなくっても、もうそんな服、着たくないでしょう?」
「…………え?」
先生があんまりにも優しく私の頭を撫でるから、一瞬先生の仰ったことの意味が分からなかった。
「カチュアさん。全てではありませんが、貴女の身に何が起こったのか、ある程度は私の耳にも届いているんです。ですから遠慮は無用ですよ?」
「私の身に何が起こったかって……。それって……!?」
先生も、私の噂を耳にしている……!?
その事実に身が凍る想いがしたが、私の頭を撫で続ける先生の手の感触が、私の不安を溶かしていく。
「貴女の事情は、貴女自身から聞かないと分かりませんが……。少なくとも、貴女が噂になっているようなことをしていないのは分かっていますよ」
「わ、私のこと……、信じてくださるんですか……!?」
「……というか、貴女の噂ってどうなってるんですか? 噂のカチュアさんが実在していたら、とっくに逮捕されてないとおかしいでしょう? 学園生として甘く見てもらえる範疇を大きく逸脱してますってば」
「え……、え……?」
「借金や成績不振はまだ有り得るでしょうけれど、度重なる器物破損に暴力、複数の男性と不貞を働いていたとか、そんな女性が居たらとっくに警備隊が動いてますよ。だって被害者は多数居て、被害届も出されていたのでしょう? ……それら全部、学園の中で止められていたみたいですけどねー?」
理路整然と、落ち着いた口調で私の悪評の矛盾を指摘するチロル先生。
今まで誰1人信じてくれなかったのに、チロル先生は私の事を……疑って、ない……の?
「……今の貴女は、沢山に悪意に晒されているだけです。まさに今の貴女の格好そのものですよ」
優しく私の頭を撫でてくれるチロル先生の手から、ヌメヌメとした不快な感触が伝わってくる。
先生があんまりにも平然と頭を撫でてくださるから忘れていたけど、私の体は今生ゴミ塗れで、生卵なんかもぶつけられていたはずだった。
なのに先生はそんなことを意に介さず、笑顔のままで私の頭を撫でてくださっているんだ……!
「まずは他人に付けられた汚れを落としましょう? そしてその元凶たる学園の制服なんて、今ここでぽいーっと捨てちゃいましょっ」
「元、凶……? この学園の、制服が……?」
「だからもう1度確認させてくださいね。この服、ランペイジ学園の制服、切り裂いちゃっていいですか? ちゃーんと貴女に相応しい衣装は用意しますから、ね?」
「え、えと、どうぞ……? こんな服、私の手で破り捨ててやりたいくらいですから……」
「オッケー! まっかせなさーいっ!」
私の返事を聞いて、先生は喜々とした様子で私の制服にハサミを入れていく。
私の物が切り裂かれるのはいつも辛くて仕方なかったのに、先生に学園服を切り裂かれても、不快感は全然なかった。
……でも先生。笑顔で他人の服を切り刻むのは控えた方が宜しいですよ?
「本当は下着も脱いだほうがいいんでしょうけど……。いくら我が家の敷地内とは言え、流石に恥ずかしいですよね。仕方ありませんか」
「えっと、脱いだ方がいいのかもしれませんけど、済みません……」
「気にしないでください。裂傷は額だけのようですし、下着だけならさほど影響は無いでしょう。全身の青あざも気になりますが、それも一緒に診てもらいましょうね」
あまりにも変わらない口調で言及されたので、学園で暴力を振るわれて私の全身に付けられたアザについて語られている事に一瞬気付かなかった。
アザ塗れの私の体を見ても、チロル先生は眉1つ動かさなかったんだもの……。
「それではまた私が背負わせて頂きますねー……って、そう言えば私の背中も汚れていましたね。このままカチュアさんを背負うわけにはいきませんか。それじゃはいはいっ、ぽいぽいーっと」
「……ちょ!? 先生何をっ!?」
一瞬思案したかと思ったら、先生は勢い良く服を脱ぎ捨ててしまった。
いくら自宅の敷地内とは言え、まだ馬車から家まで歩かないといけないのに……!?
「これで貴女を背負うのに問題は無くなりましたね。それでは早速家に入りましょう。今の貴女には安静に休める場所が必要ですから」
「えっと、えっと……! えええええっ……!?」
凄く真剣な顔をしている先生には悪いんだけど、下着の女に背負われる下着の女って、なにこの光景!?
あまりの事態に、なんだか背中の痛みも気にならなくなってきましたよっ!?
出迎えてくれたメイドさんも、流石に眉を顰めてしまってるじゃないっ!
「……お帰りなさいませお嬢様。本日はそんなに暑かったのでしょうか? 私には快適な陽気に感じましたけれど」
「ただいまアン。軽口に付き合ってあげたいけど、今は緊急事態なの」
そりゃあ下着の主人が下着の女を背負って帰宅したら、誰がどう見ても緊急事態ですよっ!?
だけどチロル先生の真剣な様子に、先ほどとは違った様子で眉を顰めるメイドさん。
「この子はカチュア。恐らく背中を強打していて、呼吸する度に痛みが走るみたい。直ぐに安静にさせて休ませてあげたいの。キャメル先生もこの後お見えになると思うわ」
「失礼。負傷者でございましたか。背中を痛めているのは裂傷ではなく、どうやら打撲のようですね。なるほど……」
サッと背後に回って、軽く私の背中に触れながら頷いているメイドさん。
え、えっと……? お医者様ってこの人じゃないんだよ、ね……?
「お嬢様。大変申し訳ないのですけど、そのままカチュア様を客室まで運んで頂けますか? 私が背負い直すのは、カチュア様の負担が大きいかもしれませんので」
「元よりそのつもりよ。こういう時に普段の体力作りの有難みを感じるわね。それと診察結果次第だけど、出来れば入浴もさせてあげたいから準備しておいてくれる?」
「畏まりました。それではお嬢様、どうぞこちらへ。まずはカチュア様を安静な状態で休ませましょう」
メイドさんは、主人であるはずのチロル先生に私を背負わせたままで屋敷内に招き入れてくれた。
先生はずっと私を背負いっぱなしなのに、息も切らさずに私を客間のベッドまで運んでくれた。
「カチュアさん、随分軽いですね? 怪我の回復や病気への耐性にも影響しますし、あとで何かお腹に入れてくださいね? 用意はしますから」
「お嬢様はまずお召し物を。いくら緊急事態とは言え、下着姿でキャメル先生の応対をさせるわけには参りません」
「了解。でも入浴前に着替えても2度手間じゃない?」
「……主人であるお嬢様が、侍女の私の手間を惜しむ必要はありませんよ。それにいくら二度手間とは言え、下着姿の主人と会話しなければならない使用人のことも慮ってくださいます?」
額に手を当てながら、呆れたように溜め息を吐いてみせるメイドさん。
え、えーっと……?
主人であるチロル先生に私を背負わせたままにしたり、ズケズケと遠慮なくチロル先生に突っ込んだり、随分と個性的なメイドさんみたい?
「カチュア様は済みませんが、診察が済むまではお召し物はそのままでお願いします。今のカチュア様は着替えすら負担になりかねませんし、それこそ二度手間になってしまいますからね」
「あ、は、はい……。私は、その……。全然構わないんですけど……」
「すぐ戻ってくるから、それまでお願いね? カチュアさん。キャメル先生……お医者様がお見えになるまでは、どうかこのまま安静にしていてくださいね」
私に声をかけてから、先生は着替えるために部屋を出て行った。
凄いなぁ。あまりにも堂々とされちゃうと、下着姿でも気にならなくなっちゃうんだぁ……。
暫く安静にしていると、チロル先生が呼んでくださったお医者様がお見えになった。
そのお医者魔もまた、悪臭漂う私に躊躇うことなく近づいて、真剣な表情で診察してくれた。
「……うん。どうやら骨まではイってないみたいだね。単純な打ち身みたいだ。呼吸が辛くなければ、このあと入浴してもらっても問題ないだろ」
「……そうですか。大事には至っていないようで安心ですね」
長身で筋肉質、明るい茶髪で短めの髪、大きな丸い縁の眼鏡がとても印象的なお医者様であるキャメル先生に、軽傷だと診断してもらえた。
額の傷も出血こそ多かったけど、恐らく綺麗に回復してくれるだろうとのこと。
額に傷跡が残らないと聞けて、少しだけ安心した。
「しっかしまー、随分と劣悪な環境化に置かれていたみたいだねぇ。栄養は足りてないし、体中のあらゆる所に傷跡もあるし、悪臭まで放っちゃってるとは。あ、悪臭はチロルちゃんからもしてくるけどね?」
「私の体臭が臭うみたいな言い方は遠慮して欲しいものですね。とりあえず大事なくて良かったです」
キャメル先生のからかいを雑にあしらって、私に笑顔を向けてくれるチロル先生。
……先生の笑顔って、どうしてこんなに安心するんだろう?
「では体も洗わないといけませんし、動けるようでしたら入浴いたしましょうか。カチュアさんにはまだ介助が必要でしょうし、私も入浴しないといけませんから……。せっかくですし一緒に入りましょうね?」
「えっ……、ええっ!? 先生と一緒にお風呂だなんて、そんな!?」
「遠慮しない遠慮しない。というか普通に治療行為の一環でもあるのですから、恥ずかしくても我慢してもらいますよ?」
遠慮じゃないんだけどなぁ……!
だけど治療行為って言われちゃうと断れないよぉ……。
お医者様のキャメル先生も口を挟まないから、きっとチロル先生の言っていることは医学的に見ても正しいんだろうしぃ……。
突然の事態にアタフタと慌てる私に構わず、チロル先生がキャメル先生に向かって深々と頭を下げる。
「キャメル先生。突然のお願いに対応して頂いて、どうもありがとうございました。おかげで助かりました」
「あ、あのっ! ありがとうございました……!」
「んー気にしない気にしない。こっちだって商売だし、チロルちゃんは金払いが良い上客だからね。懇意にさせてもらうに決まってるよ。それに余所行きのチロルちゃんを見れるのって、急患の時くらいしかないからさぁ」
よ、余所行きって何……?
それにチロル先生本人の前で金払いがいい上客とか言っちゃうなんて、キャメル先生も大分個性的なお医者様みたい?
だけどチロル先生は気分を害した様子も無く、親しげにキャメル先生と会話している。
「キャメル先生。夕食はいかがされますか? すぐに用意できますが」
「おーいいの!? 助かるよー。アンちゃんのお料理美味しいしね~っ。ただ食事が済んだら帰るから、チロルちゃんたちがお風呂に入ってる間にお暇させて頂くよ?」
「ええ、勿論それで構いません。ですがもしかしたらカチュアさんの体調次第で、何度か来て頂く事になるかもしれません。その時はお願いしますね」
「それこそ勿論だよ。お金を払ってくれるのはチロルちゃんだけど、1度診た患者を放り出したりしないさ。明日の夜も診に来るから、その時は一緒にご飯食べようぜ~っ?」
キャメル先生は私達に背を向けたまま、高く上げた右手をひらひらと振り、そのままアンさんと一緒に部屋を出ていった。
チロル先生と随分親しげなお医者様だったなぁ。
「じゃあ私たちも湯浴みしましょうか」
「あ、はいっ……! よ、よろしくおねがいします……?」
「普通に喋れるようになってるみたいですけど、歩くことは出来そうですか? 無理そうならまた背負ってあげますから、遠慮なく仰ってくださいね」
「チロル先生って私より年下で背も低いのに、随分体力があるのですね……?」
「ふふ。ありがとうございます。こう見えて私、結構鍛えてるんですよーっ」
嬉しそうな様子で両腕を曲げて、力こぶを作るようなポーズを取るチロル先生。
だけど先生の細腕に力こぶなんて出来てなくて、ぷにぷにと柔らかそうな二の腕にしか見えないの?
「そ、そうなんですね……。えっと、まだ痛むことは痛みますが、歩くことは出来ると思います」
「では行きましょうか。あ、あと私はもう先生じゃないし、貴女ももう学園生じゃないですから、私の事はチロルと呼んでください。カチュアさんが言った通り、私のほうが年下ですしね」
学園の1年生である私は16歳。
なのに先生は15歳で講師を務めるんだから、世界が違いすぎる。
チロル先せ……、チロルに連れられて一緒に浴室へ向かう。
そして脱衣所で、改めて自分の格好に気付いた。
そう言えば私、今まで下着しか着けてなかったんだった……。
チロルもアンさんもキャメル先生もあんまり普通に接してくるから、すっかり忘れちゃってたよ……。
「額の傷は避けなきゃいけないけど、それでも汚された頭は洗わないといけませんからね。自分で傷を避けて洗うのは無理でしょうから、髪は私が洗わせてもらいますよ?」
話しながらもぽんぽん衣服を脱ぎ捨てていくチロル。
なんでチロルは人前で、こんなに思い切り服を脱げるんだろうなぁ……。
「カチュアさん。恥ずかしいかもしれませんが、このままでは貴女が病気になりかねません。早く汚れを落としてしまわないと」
「あ、は、はいっ。そ、そうですよね。すみませんっ。……いたた」
下着を脱ぐ時に少し痛みが走ったけど、チロルに返事をすることも出来なかったあの時と比べれば大分マシになったかな?
なんとか浴室に入り、チロルに体と髪を洗ってもらう。
額の傷口に石鹸が入らないように、私は傷口にタオルを当てていただけだ。
傷口に当てたタオルが赤く汚れてしまったのを見て、なんだか物凄く申し訳ない気持ちになった。
だけど目敏く私の様子を察したチロルに、怪我人が遠慮なんてするんじゃありませんって怒られてしまった。
……ふふ。怒られているのに、なんだかとっても嬉しいなぁ。
「あ゛ぁ゛~……。やっぱりお風呂はいいですね~……」
湯船に浸かった途端、若干濁った長い息を吐くチロル。
……ねぇチロル。
お風呂は確かに気持ちいいけど、今の声はうら若き乙女が出していい声じゃないと思うよ?
「打撲傷がある場合はあまり入浴は良くないらしいから、残念ながら今日はあまり長湯は出来ませんけどねー?」
「そ、そうなんですか……? 済みません。お風呂に入った経験が無いので、そういうの全然分からなくて……」
「そうですねぇ。普通平民はお風呂なんて入れませんから。私は運よくお金持ちの家に生まれることが出来たので、日常的に入浴させてもらってますけど。……ちょっと失礼しますね」
「え……?」
私に何かを断ったかと思うと、チロルは私の頭を抱きしめた。
チロルの行動が唐突過ぎて、彼女が何を考えているのか良く分からない。
「まだお話を伺っていませんから、カチュアさんがどのような目に遭って、どのような問題が残っているのか分かりませんが……。少なくとも私は貴女の味方ですから。それだけは忘れないで下さいね……」
「あ……の、チロルは、なんで私にそこまで良くしてくれるんですか?」
チロル先生から伝わってくる鼓動に安心感を覚えながらも、どうしても不思議に思ってつい問いかけてしまった。
ただの学園生でしかなかった平民の私なんかに、チロルはどうしてこんなに良くしてくれるの……?
「私も平民ですからね。平民出身で頑張っている人のことを応援したくなるんですよ」
「平民だから……? たったそれだけで……?」
「……カチュアさん。今は思う存分私に頼ってくださいね。これでも私、結構なお金持ちなんです。ですから遠慮は要りませんよ?」
「……先生がお金持ちだなんて、国中の人が知ってますよぉ」
「私は貴女に危害を加える気はありませんし、貴女の敵になることもないですから……」
「せ、先生っ……!」
視界が滲んでチロルの顔が良く見えないのは、湯気のせいだけじゃない。
どこにも居なかった私の味方が、まさかこんなところに居てくれたなんて……!
「もー、先生じゃないって言ってるでしょう? あ、でもそうですねぇ……」
「えっ……?」
一瞬思案したチロルは、私の顔を解放し、私を真っ直ぐ見つめてくる。
私を問い詰めるようなその眼差しに、私の心は一気に不安になってしまった。
……けれどチロルの口から発せられたのは、不安を抱いたのが馬鹿馬鹿しくなるような言葉だった。
「チロルの平らな胸じゃ頼りがいがない、なんて言うようだったら、今すぐひっ叩いて敵になるかもしれませんね。気をつけてくださいよ?」
「…………ぷっ! な、なんですかそれっ! あははっ! あははははっ! いたたっ、あはははははっ!」
あまりにも真剣な表情で下らないことを言うものだから、思わず大笑いしてしまった。
笑う度に胸がズキズキと痛むのに、この痛みはなんだか嫌いじゃないかもしれないなっ。
※こっそり設定公開。
チロル編でもチラッと触れた通り、幼き日のチロルは結構サバイバル~な生活をしていた時期があり、応急処置や軽い診察程度ならこなせます。
アンが同じことを出来るのは、きっとそれだけ沢山怪我をするくらい運動が好きだったという事でしょう。
実は作中ではクラート家の家族を除けば、女医のキャメルがチロルとの付き合いが最も長い人物だったりします。次点が護衛のクリア、でしょうか。




