01
シルビア・スカーレット編。
シルビア視点で6話。別人視点の幕間2話。エピローグとボーナストラックを合わせて全10話を予定しております。
「シルビア・スカーレット!! 君との婚約を破棄させてもらう!!」
突然の声に、私の思考が止まってしまう。
今、なんて言われたの……?
私との婚約を、破棄する……!?
「お、お待ちくださいウェイン様っ! い、いったいどういうことなのですかっ!? 今日は私とウェイン様の婚約披露パーティなのですよ!? そ、それなのに、いったいなにを仰っているのですっ!?」
そう。今日は私と、その婚約者であるウェイン・ハドレット様との婚約を発表するパーティのはずだ。
物心付く前に両親に決められた婚約者だったけれど、それでも婚約者には変わりない。
ウェイン様に嫌われないよう、ハドレット子爵家に嫁いでも恥ずかしくないよういにと、誠心誠意努力してきたきたつもりだ。
そして私が15歳を迎えた本日、正式に婚約を発表し、結婚の話を進めていく流れだったはずのに……!
「シルビア、いやスカーレット嬢。俺が何も知らないとでも思っているのか?」
「えっ……? な。なんのことですか……?」
「ふん。貴様如きに随分見縊られたものだ……」
ウェイン様は苦虫を噛み潰したような表情で、不愉快を隠すことなく吐き捨てる。
だけど本当に何の心当たりも無い私には、不機嫌なウェイン様に事情を伺うことしか出来ない。
「ウェイン様を見縊った事などございません! も、申し訳ありませんが、私にはウェイン様の仰っている事が分かりません……! 何も知らないとは、いったいなんのことでしょう……!?」
問い詰める私に顔を伏せたウェイン様は、俯いたままで肩を小さく振るわせ始める。
「くくく、あーっはっはっは!! 大した女優振りだな、スカーレット嬢!」
「じょっ、女優って……。で、ですからお話が……!」
「素直に罪を認めれば、この場は穏便に済ませてやっても良かったのだがなぁ?」
罪!? 私は何もしていない! ウェイン様はいったいなにを仰っているの!?
大笑いした後に、焦る私に向けてニタリと厭らしい笑みを浮かべるウェイン様。
その瞳には隠し切れないほどの侮蔑の感情が込められている。
「心当たりが無いというのであれば仕方がない。貴様のやった事をこの場で皆に聞いてもらおうじゃないかっ!!」
私から視線を外したウェイン様は、招待客全てに届けるようにパーティ会場全体に声を轟かせる。
「皆の者、済まぬが暫しの間ご静聴願いたいっ!」
ウェイン様がお願いするまでもなく、とっくにパーティ会場は静まり返っている。
そんな周囲の様子に満足げに頷いたウェイン様は、私を指差しながら私以外の人に語りかける。
「ここにいるスカーレット嬢は、我がハドレット家が経営している商会の手伝いをしていたのだがな。ちょうど彼女が商会の手伝いを始めたころから、商会の帳簿に誤りが見られるようになっていったのだ」
ウェイン様の語る言葉に絶句する。
帳簿のミスですって!? そんなことありえない! だって私はハドレット商会の帳簿なんて、触れるどころか目にしたことさえないんだからっ!
まだ家人でない私には、帳簿に触れる機会なんて1度だって無かった! ウェイン様がそれを知らないはずないのにっ……!
「無論、スカーレット嬢は商売人でもないただの商人見習いだ。ミスをすることだってあるだろう。しかしただのミスであるなら、寛大な俺がここまで怒りを覚えることもなかっただろう……!」
戸惑う私に向けて、憎悪の篭った瞳を向けるウェイン様。
ウェイン様の仰っている事は分からないけれど、その瞳に宿した感情だけは嘘を吐いているようには思えない……。
「愚かな事にスカーレット嬢は我が商会の売上金を着服し、私腹を肥やしていたのだっ!」
「……なっ!? ちゃっ、着服って、そっ、そんなはず……!」
そんなこと出来る筈がないっ!! 私が教わっていたのは接客や商品管理がメインで、まだ経理には一切関われていなかったのだから!
だけど私の言葉を遮って、更なる怒声を張り上げるウェイン様。
「婚約者だからと信用して商会の手伝いを許したというのに、その信頼を裏切られたのだぞ……! シルビア・スカーレット! 俺はお前を絶対に許さないっ!」
殺意さえ感じる様子で私を糾弾するウェイン様。
そんなウェイン様に、私はただひたすらに釈明することしかできない。
「お、お待ちください! 私はそんなこと一切行なっておりません! 何かの間違いですわっ!」
その時、ふと周囲の様子が目に入る。
先ほどまで静まり返るだけだった招待客達が、私に軽蔑の眼差しを向け始めていた。
ありもしない私の着服が、私の罪が周囲に認められ始めている……!?
「私は今まで商会の経理には全く関わっていないのです! 帳簿も売上金も、手をつけるどころか目にしたことすらないんですよっ!? それはウェイン様だってご存知のは……」
「ふざけるなぁっ!!」
「ひっ……!」
必死に釈明する私の言葉を遮ったウェイン様は、恐怖を覚えるほどの怒りの言葉をぶつけてくる。
「貴様、どこまで見苦しい真似を続けるつもりだ!? 俺がなんの根拠も無くこんな話をしているとでも思っているのかっ!!」
「こっ、根拠って……! そんなものあるはずないってことは、ウェイン様だって……!」
「貴様の将来を考慮し、ここで全てを発表するのは控えてやるつもりだったが、貴様には俺の配慮なぞ必要ないらしいな。いいだろう。動かぬ証拠というものを突きつけてやる」
証拠ってなに!? 私は何もしてないのに……! 証拠なんてあるはずないのに……!
ウェイン様のいったいなんの確信があってこんなことを仰っているの……!?
「おい、アレを持ってこい」
ウェイン様が使用人に指示を出す。
ウェイン様と私の声が止まったことで、静まり返った会場中の視線が私に集まる。
困惑と疑惑。軽蔑と嘲笑の視線が突き刺さる。
どうしてこんなことに……。今日はウェイン様との婚約披露パーティのはずで、誰からも祝福される幸福な1日になるはずだったのに……。
混乱したまま針のむしろのような状態になんとか耐えていると、使用人が書類を抱えて戻ってきた。
「うむ。ご苦労だった。さてスカーレット嬢、覚悟は宜しいかな?」
使用人から書類の束を受け取り、満足げに頷くウェイン様。
周囲の招待客に、もう少しだけお付き合い願いたいとひと言断りを入れて、持ってきた書類をパンっと小さく叩いてみせる。
「この書類は我が商会でスカーレット嬢が行なった取引の記録なのだが……」
どうやらウェイン様が持ち出してきたのは、ハドレット商会の取引の記録のようだった。
だけど私は接客や商品管理しか携わっていない。取引の記録を改竄したりなんか出来るはずが……。
「実はこの取引相手というのが存在しない商会でな? スカーレット嬢は架空の紹介と取引したと見せかけて、ハドレット商会の金を全て自分の懐に入れていたのだよっ!」
……ウェイン様の仰った言葉が一瞬理解できなかった。
けれどざわめき始めた周囲の声に我に返った私は、とにかく状況の把握をしなければいけないとウェイン様にお願いする。
「わっ、私にもその書類を見せていただけますかっ……!?」
「構わんぞ? だが破かれては堪らんからな。手に取ることは許さない。おい、これをスカーレット嬢に見せてやるがいい」
書類を持った使用人が私の少し手前で止まり、手に持った書類を私に突きつけてくる。
……書類の内容を確認した結果、それは間違いなく私が扱った取引の記録だった。
そう、書類自体は問題じゃない。実際に取り扱った覚えがある取引の記録のだから。
問題は、取引を行なった相手の商会が存在しないという点よっ……!
「確かにこの取引は私が扱ったものですっ。その点は認めますっ! で、ですが取引相手が存在しないとはどういうことですか!? そして、なぜそれが私のせいになるというのですか!?」
私が行なったのは、全てハドレット商会から指示された取引だけのはず……!
私の独断で商会のお金に手をつけることも、取引相手を選ぶこともできなかったはずなのに……!
「ふん。確かに貴様は上手くやってくれたようだ。我々も気付けなかったくらいにな。書類の不備はすぐに分かったが、取引で失われた金の行方と、架空の商会と貴様との明確な繋がりが見つけられずにいた……」
まるで私の言葉など聞こえていないかのように、私に話しかけるようにしながらも周囲に私の罪を訴え続けるウェイン様。
「だがそんな時だ。貴様の不正を告発してくれた勇気ある人々がいたのだ」
「こ、告発って……!? いったい何の……」
「どうぞお入りください!」
ウェイン様が声を張り上げるとパーティ会場の入り口の扉が開き、そこから3人の人物が歩いてくるのが見えた。
う、嘘でしょ……!? 告発って、あの人たちは……!
「お、お父様! お母様! それにオリビアまで!」
私を告発した人物として新たに現れたのは、私の両親と、実の妹であるオリビアだった。
全く話を聞いてくれないウェイン様から視線を外し、みんななら何か知っているはずだと3人を問い詰める。
「これはどういうことなんですか!? 告発って何のことですっ!?」
「残念ですシルビア……。母として貴女を正しく導いてあげられなかった事が、本当に残念でなりませんっ……!」
私の問いかけには答えず、今まで見たことがないほど悲しげに顔を歪ませるお母様。
「シルビア。ウェイン君との婚約は、両家にとって更なる発展に繋がる素晴らしいものになるはずだったというのに……! なんという……、なんということをしてくれたのだお前は……!」
お父様が私を射殺さんばかりに睨みつけてくる。
「お姉様。こんなことになって本当に残念です……。ウェイン様とお姉様とのご婚約を、私は心から祝福しておりましたのに……」
オリビアが苦しそうに顔を俯ける。
「待ってください! 私には心当たりがありません! 着服なんてしてませんし、お金だって持っていません! 信じてください!」
いったい私になにが起こっているの!?
なにがなんだか分からない。どうして私が悪者だって決め付けられているの……!?
「スカーレット嬢。この期に及んで見苦しい真似は止せ。お前の家族は、勇気を持ってお前の罪を私に教えてくれたのだ」
ウェイン様は私を追い越し、私の見ている目の前で私の実の家族と並び立ち、家族と一緒に私を糾弾し始める。
「皆さんはな。着服した金で買ったと思われる様々な物品がお前の部屋から出てきた事を、この私に教えてくれたのだよっ! まさに動かぬ証拠という奴だっ!」
私の部屋から証拠が出てきた!? そ、そんなのありえない! ありえる訳がない!
「勇気あるスカーレット男爵家の行動に敬意の念を抱くと共に、その家族からお前のような犯罪者が生まれてしまったことが不思議でならんよ……」
「お待ちくださいウェイン様! その話は絶対におかしいですっ!」
吐き捨てるように私を拒絶するウェイン様に、こればかりは黙っていられないと全力で食い下がる。
「私はハドレット家への嫁入りを控え、ここ2ヶ月の間1度も家に帰らず、住み込みでハドレット商会の手伝いをしていたのですよ!? なのに、どうして私の部屋から証拠の品が出てくるというのですかっ……!」
「などと言っているが、どうなのかな? スカーレット男爵殿」
「この期に及んでお前という奴は……! 恥を知れぇっ!」
拳を握り締め、こみ上げる怒りにその身を震わせているお父様。
「この2ヶ月の間、スカーレット家の屋敷に不審な出入りは一切確認されていない! そしてお前が何度か家に戻ってきているのは、複数の使用人が確認している!」
ここまで怒り狂ったお父様を、生まれてから1度も見たことがなかった。生まれて初めて見るお父様のあまりの剣幕に体が震えあがる……。
でも、ここで黙ってしまっては、犯罪者になってしまう……!
「そ、それは今回のパーティの準備や今後の結婚の話をしに、お父様やお母様とお話をしにいったときの話でしょう!? お父様とお母様と話し終えたらすぐにハドレット商会に戻っていたのは、2人だってご存知でしょう!?」
「いい加減にしろぉっ! お前の部屋には私も妻も買い与えた覚えの無い高価な貴金属やドレスなどが納められていたのだぞっ!? それなのにお前は……、お前はぁ……! 身に覚えが無いと抜かすのかぁっ!」
「私の話を聞いてください! お父様もお母様も私が帰る度に玄関で迎えてくれたし、見送りだって玄関まで付いてきてくださったじゃないですか! 私が自室に戻っていないことは、お2人が1番ご存知のはずでしょう!?」
「……ええそうね。貴女が自室に1度も入らなかったのは間違いないわ」
お父様との言い争いに静かな口調で割り込んでくるお母様。
その言葉通りなら私の言い分を聞き届けてくれたように思えるけれど、その瞳には憎しみと言っていいほどの怒りの念が宿っていた。
「でもねシルビア。貴女が帰宅の度に専属侍女のマリーに荷物の整理を頼んでいたのも、私ははっきりと覚えているの……!」
「それは、着替えなどの準備をマリーにお願いしていただけです! まさかハドレット商会に自分の着替えまでお世話になるわけにはいかないでしょう!? まだ嫁入り前なのですからっ!」
そもそも貴族令嬢である私が自分の荷物を自分で準備するなどあるはずがない! お母様だって自分の荷物は侍女に用意させているでしょうに、それをなんで今更……!
ハドレット商会に嫁いだあとならまだしも、侍女に用件を言い渡したことまで咎められるのっ!?
「……マリー。そうだ、マリーです! 私の頼んだ内容については、マリーに聞いて頂ければ確認も取れますでしょう!? 今すぐマリーにご確認くださいっ!」
「……お姉様。ここまで言っても罪を認めてくださらないのですね……」
マリーに確認すれば、私の身の潔白は証明されるはず。
そう思う私の前に立ち、残念そうに小さく呟く妹のオリビア。
「私たちがお姉様の部屋で高価な品々を見つけた後、スカーレット男爵家の資金の流れや、不審人物の出入りがなかったか調査している間に、マリーは行方を眩ましてしまいましたよ……?」
「えっ……!? マ、マリーが行方を……!?」
「白々しい……。お姉様の調査が始まった事に感づいて、お姉様が匿ったのか逃がしてしまったのでしょうに……」
頭が追いつかない……。いったい私になにが起こってるの……!?
パーティの招待客からは軽蔑の眼差し。
目の前の家族から感じる失望、怒り、落胆。
自分の置かれている状況に現実感がなく、まるで悪夢に魘されているいるような錯覚に陥ってしまう。
「これでわかったか? ここまで証拠が揃っていて、お前に言い逃れできる余地は無いということが」
しかし自身に突き刺さる怒りと憎しみと侮蔑の視線が、これは紛れもなく現実に起こっていることなのだと私に思い知らせてくる。
ああ……。これが悪夢ならどんなに良かったでしょう……。
「貴様に裏切られたのは許せぬが、スカーレット男爵家の勇気ある行動に敬意を表し、貴様を憲兵に突き出すのだけは許してやろう」
ハドレット様のお言葉が理解できない……。
どうして、してもいない罪で糾弾されなきゃいけないの……?
どうして、してもいない罪が紛れもない真実であるかのように話が進んでいくの……?
「貴様がハドレット商会に与えた損失の補填と、俺に対する裏切りへの慰謝料の請求のみで収めてやる。清廉たる貴様の家族達に感謝するのだな」
「シルビアよ。今日限りを持って、お前をスカーレット家から勘当させてもらう。ウェイン様とハドレット商会への賠償は、お前が生涯をかけて償うがいい!」
お父様から告げられる拒絶と追放の言葉。
「お前を犯罪者にするのは忍びないと、この程度の処分で済ませてくださったウェイン様に感謝することだな!」
……感謝? 誰になにを感謝すればいいの?
婚約者である私の話を一切聞かず、瞬く間に私を犯罪者に陥れたウェイン様に感謝するの?
娘である私の言葉を一切信じず家族の縁すら切ってしまったお父様の言葉に、私はなにを思えばいいの?
「これで貴様はもう貴族令嬢ですらなくなった。おい! この部外者を今すぐここからつまみ出せ!」
ウェイン様が指示を出すと、屈強な男性の使用人が私の両腕を捕まえ、躊躇なく私を出口へと引き摺っていく。
「待ってください! これは何かの間違いです! 私は着服などしておりません!」
使用人に無理矢理連行されながらも、最後の力を振り絞って自らの無実を訴える。
「お父様! お母様! ウェイン様! 信じてください! 私はなにもしておりませんっ!」
「ただの平民の女に成り下がった貴様に賠償金を払うのは大変だろうからな。支払いは多少待ってやろう。だが期限に遅れたら、その瞬間に憲兵に突き出してやるからな……!」
しかしまるで私の言葉が聞こえていないかのように、一方的に私を拒絶するウェイン様。
「全く、貴様がこんな女だと知っていれば、始めからオリビアと婚約していたものを……」
ため息混じりに呟きながら、オリビアの肩を抱くウェイン様。
ど、どういうこと……!? オリビアとウェイン様が婚約……!?
だけどその言葉を最後に会場から締め出された私は、使用人によってハドレット家の屋敷の前に放り出されてしまった。
「うっ……、痛、い……」
「2度と屋敷に近付くな。この犯罪者が」
「お前みたいな犯罪者が若旦那様と結婚せずに済んで、心底ホッとしてるぜ」
使用人たちの吐き捨てるような心無い言葉も、今の私にはどこか遠くに感じられる。
いったい何が起こってるっていうの……。
着服ってなに……? 勘当ってなに……? マリーが行方不明って、いったいどうして……?
考えがまとまらない。色んな考えが浮かんでは消えていく。
想像もしていなかった現実に打ちのめされた私は立ち上がることも出来ずに、ただ地面に蹲ることしかできなかった……。
「……ア様? ……ルビア様? 私の声が聞こえますか? シルビア様?」
どのくらい時間が経ったのかわからない。
絶望し、何も考えられなくなっていた私の耳に、慈しむように憐れむように、とても気遣わしげに私の名を呼ぶ声が届いているのに気付いた。
何も考えず、ただ反射のように声がするように目を向けると、そこには私を心から心配しているような表情をした、見知った顔があった。
「チ……、チロル、さま……?」
「良かった……! 私の事を覚えていてくださったのですね……!」
安心したように破顔するチロル様。
覚えているかなんてとんでもない。我がシルヴェスタ王国の女性にとって、彼女の顔と名前を覚えていない者など居るはずがない。
「……シルビア様。今宵のご心痛の深さ、お察しいたします。私如きがシルビア様のお傍に立つなど大変おこがましい事とは分かっておりますが、今だけはどうかお許しくださいませ」
目の前の小さな少女はチロル・クラート様。
今やシルヴェスタ王国でその名を聞かぬ場所は無い、大商人クラート家のご令嬢だ。
平民でありながらも、たった1代で王国随一の商会まで成長してみせたイーグル商会。
その会長であるタリム・クラート様の実の娘であるだけに留まらず、チロル様ご自身も女性向け商品を取り扱っていて、その品質は他国にも知れ渡っているほどなのに……!
「シルビア様。お辛いかとは思いますがここを離れましょう。今宵の夜風はお体に障りますわ」
チロル様は私の肩を抱くようにして、私を立ち上がらせようとしてくれた。
「……っ」
いけないっ! 今まで地面に蹲っていた私は、泥で醜く汚れている。このままではチロル様のお召し物を汚してしまう……!
「……チロル様。お心遣い感謝致しますが、どうか私に構わないで下さい。薄汚れた私に触れては、チロル様まで泥に塗れてしまいます……」
犯罪者として糾弾された私などに関わってしまっては、チロル様のお立場を悪くしてしまうかもしれない……。
だけどそう言って離れようとする私を、チロル様は逆に強く抱きしめてきた。
「いけませんチロル様……! チロル様のお召し物が……」
「シルビア様。貴女は汚れてなどおりません。私の目には、今も変わらず美しいお姿しか見えておりませんよ……」
耳元で優しく囁かれるチロル様の言葉。
私は汚れてなどいない……。
今も変わらず美しい……。
チロル様の言葉が、乾いた地面に水が染み渡るように、私の心に広がっていく。
チロル様は、私が不正などしていないと言ってくれている……。私の潔白を信じていると言っているのだ……!
婚約者に裏切られ、家族に見捨てられ、泥に塗れた私を見て、それでも美しいと言ってくれているのだ……!
「う、チロルさま……。あ、ありがとう……、ありがとう、ございます……」
信じる人たちに糾弾され、屋敷の外に放り出されても流れなかった涙が、チロル様の優しさに誘われ溢れ出てくる。
「私、なにがなんだか分からなくて……。誰も私の事を信じてくれなくて……。どうしたらいいのか、これからどうなってしまうのか、なにも分からなくてぇ……」
「可哀想なシルビア様……。今は何も考えられなくても無理はありませんわ。どうぞ心落ち着くまで、私を頼ってくださいませ……」
泥に塗れて泣きながらチロル様に縋るしか出来ない私の体を、優しく強く抱き締めてくれるチロル様。
その腕に込められた力が、『私は貴女を信じます』と雄弁に語っているようだった。
「さ、シルビア様。まずはここから1度離れましょう? すぐそこの馬車まで頑張れますか?」
「あっ……。な、なんとか立てそう、です……」
先ほどまでは、地面に打ち付けられた痛みすら感じることはできなかったのに。
私の事を信じてくれている人が居る。
たったこれだけのことで、私の足には立ち上がる力が蘇っていた。
私よりもひと回り小さいチロル様の肩を借りて、何とか私はチロル様が用意してくださった馬車に乗り込むことが出来た。
ひとまずハドレット邸から離れた事で安堵する私を、心配そうに見詰めるチロル様。
「……シルビア様。宜しければ何があったのか、私にお話してもらえませんか?」
「私の話を……。聞いて、くれるの……?」
「勿論ですよ。無力な私に出来ることなど何もありませんが、シルビア様がお嫌でなければ、どうかそのお心に寄り添う事をお許しください」
婚約者であるウェイン様に拒絶され、家族のみんなからも糾弾され、とうとうお父様に勘当までされてしまった。
チロル様は、この冷たい世界で独りぼっちになった私に寄り添ってくれると言ってくださっているんだ……!
自分を信じてくれる人が居る。たったそれだけのことが嬉しくて、こんなにも安心する。
チロル様の腕の中で気が抜けてしまった私は、泣いても泣いても涙が溢れて止まらなかった。
そんな私の事を、チロル様はお召し物が汚れることも厭わずに、ただ静かに抱きしめ続けてくれるのだった。
※ひと口メモ
この段階ではチロルとシルビアは商人と顧客程度の知り合いでしかありません。
親しい友人でもなくハドレット商会との取引も行なっていなかったチロルが、なぜシルビアの婚約披露パーティに出席していたのか。
王国で商会を営んでいるハドレット子爵家にとって、クラートの名はどうしても無視できないものでした。
なので子爵家は婚約報告の意味合いが強いパーティの招待状をチロルに送ります。この時点でハドレット商会側は大商人であるチロルが出席するとは思っていません。
ですが平民であるチロルからすると、ハドレット子爵家とスカーレット男爵家の連名の招待状を無視するわけにはいきませんでした。
商人としての立場はチロルの方が上ですが、身分としてはウェインとシルビアの方が上。そのような事情によって、あまり親しくない貴族の婚約披露パーティに平民の娘が招待されるという状況が起きてしまいました。
チロルの認識ではこのパーティに居合わせたのは完全に偶然です。ですがチロルがチロルである限り必ず起こりうる必然的な出会いだったと言えるのかもしれません。