エピローグ
シルとマリーが不在の屋敷で、アンに淹れてもらったお茶を飲みながら夜空に浮かぶ月を見る。
最近少し忙しかったから、しっかりと息抜きしなくちゃねっ。
「ねぇエル。シルはどうだった? 私の言った事、少しは理解出来そうだったかしら?」
「くく……。やはりチロルが不浄の神を名乗るべきではないのか? 俺にはあそこまで完璧に澱みを払う自信は無いがなぁ?」
目の前の美しい姿をした青年は、おかしそうに肩を揺らしながら私にからかうような視線を向けてくる。
……はぁ~。何度見ても溜息が出る美しさよね。
神が作りし理想の容姿、どころじゃない。神本人の美貌なんですもの。
「ん~。大正義いいずなエルも最高に可愛いんだけど、本来の姿も流石の美貌よね。美を信仰する者として、崇めずにはいられないわぁ」
「そう言う割に落ち着いたものだな? ナルシストと思われるのは癪だが、俺の顔を見た女はもっと興奮して取り乱すものだぞ?」
「私にとって、美しさとは容姿じゃなくて、本人の在り方だからねー」
ま、この神様はその在り方こそが誰よりも美しいのだけれど。
「勿論外見を軽んじる気は無いけれど、私にとって容姿は商売道具だからかな。それとも幼い頃にのめりこみ過ぎたから? まぁ理由は分からないけれど、あまり熱狂できないのよね」
「そういうものか? 俺としては気が楽で助かるがな」
「勿論商売道具である以上、自分の審美眼は常に磨き続けているつもりだけどね。そういう意味で、エルの美貌はまさに理想よね。非の打ち所が無いわ」
自分の美貌を称えられるのが好きじゃない彼は、私の言葉に軽く肩を竦めて見せただけだった。
「そして私は、人の為に不浄の澱みを引き受け続けるという貴方の在り方にも美しさを覚えるわ」
「そこを褒められても困るのだがな? それは俺に任された役割なのだから」
遥か古の時代から、人の悪感情をたった独りで背負わされておきながら、それは自分の役目だからと言い切れてしまう。
その心根が美しいって言ってるのよ私は。
「流石は神よね。容姿も内面も完璧だなんて、人の身で到達できる境地ではないのでしょう」
「……美しさとは在り方、か。そういうお前自身のやっている事は、美しいと言える行為なのか?」
「そんな訳ないでしょ? 人を陥れて愉悦を感じる私の在り方なんて、醜くて薄汚れた人の生き方そのものよ」
貴方が神として相応しい存在であるように、私は薄汚れた人間そのものよ。
生き汚く、自分の望みのために他者を蹴落とし陥れ、その姿を嗤っている醜悪な人間そのものって奴よ。
「だけど私は、醜い私の在り方なんてとっくに受け入れちゃってるからね。私以外の全ての人が私を否定しても、私だけは私の在り方を否定しないわ。醜く生き汚い私の在り方をねっ」
「はっ! そこまで揺るがない意志というのも、美しさの1つと言えるのではないかと思うがな」
エルは口に指を当てて静かに笑っている。
凄いわぁ。本当になにをやっても絵になるわねぇ……。
そして全身真っ黒だからなのかな? エルには夜、月の明かりがとても良く似合う。
「揺るがない強さというのも勿論あると思うけどさ。私は美しいものって、汚れやすくて壊れやすいものだと思ってるの」
「壊れやすい?」
「壊れやすいから、危なっかしいから人の目を惹いて、そして悪意に飲み込まれやすいんでしょうねぇ……」
悪意に染まっていないからこそ美しい。けれどだからこそ脆く壊れやすい。
だからその儚さに人は心を奪われ、そしてそれを奪い汚そうとするのだろう。
「どれだけ信仰しても、私は望む美貌を手に入れられなかったけれど、それでも私は美しいものを愛するし、信仰もしているわ。だからせめて、私が壊れて欲しくない美しさを守るくらいはしたいじゃない?」
「壊れて欲しくない美しさ。それがシルビア・スカーレットだった、というわけか?」
「……そうね。シルはあのままだったら世界に絶望して、そのまま命を落としたことでしょう」
商売人としての教育も受けてきていたはずなのに、シルは全く悪意を持っていなかった。
だからこそウェイン様たちの悪意に無防備だったのだけれど、シルのあの在り方を、私は弱さとは呼びたくないの。
「それほどの絶望に落とされても、シルは憎しみに身を焦がすことはなかった。ま、世間知らずだっただけなのかもしれないけれどね?」
「世間知らずにも程があるな? 幼少期には澱み始める者も居るというのに」
私自身は生まれつき悪意を宿して生れ落ちてしまったようだけど、エル曰く、赤子の頃から悪意を抱いてしまう人間なんて珍しくもないそうだ。
兄弟よりも優先されたい。家族の気を惹きたい。
そんな他愛も無い感情でも、解消されない限りは停滞し、澱み始めるのだという。
「私はシルの心の在り方を美しいと思った。守りたいと思ったのよ。貴方に纏わり付いていたヘドロのような澱みとは違う、シルの美しい在り方を守ってあげたかった。肯定してあげたかったんだ」
「ふ、確かに。今まで俺が触れてきた不浄の澱みと同じ感情だとはとても思えないほど、彼女の抱いた怒りは透き通っていたな」
貴方にこびり付いていた不浄の澱みは、ホンットにドロドロしてて醜悪だったわねぇ……。
シルの想いみたいに透き通っていて先を照らすような感情じゃなく、瞳を濁らせ全てを閉ざすかのような感情だったような気がする。
「シルビア・スカーレットが抱いた純粋な怒り。そしてその矛先は誰に向かうこともなく、誰も傷つけないために己を切り捨てることを選んだ、か」
別にスカーレット家もハドレット家も、潰そうと思えば潰せた。
だって証拠は全部抑えてあるんだもの。簡単よね。
でもシルがそれを望まなかった。他でもない、当事者のシルビア自身が望まなかったのだ。
全てを奪われ、全てを失った後でも、決して彼女の怒りが憎しみに変わることはなかった。
自分を信じなかった婚約者にも、自分を追放した家族にも、シルビアが破滅を願うことはなかったのだ。
……あんな美しい心、守ってあげたくなるじゃない?
「負の感情と言っても色々とあるのだな。意外と面白いものか。確かに、確かにな?」
ちょっと、含みのある目で私を見ないでくれる?
私自身が面白いとか、そんな珍獣扱いされる気は無いわよ?
「しかしチロルは恐ろしいな。本当に最小限の動きで、両家の被害まで全部コントロールしてみせるとは。常々思っているのだが、お前は本当に人間なのか?」
「ちょっと。マジトーンで聞いてくるのやめてちょうだい。人間に決まってるでしょ」
私の中に人並み外れた悪意が宿っていようとも、私の眼に神の如き力が込められていようとも、私自身は正真正銘人間なんだからねっ!
「ただね。これは私が勝手に思ってることなんだけど、人間の醜い部分って、お金と容姿に集まってくるものだと思うのよ」
「ああ、確かに分かりやすく欲望が集まる要素ではあるだろうな」
「勿論他にも沢山の美醜は存在するけれど、お金と容姿への執着というのは恐ろしいものよ~?」
こう見えて私はシルヴェスタ王国一の大商会のイーグル商会を手伝ってきて、商会全体でも業績トップになってしまったイーグルハート商会の会長だからね。
人々のお金と容姿への執着というものを、嫌というほど目にしてきたわ。
お父様がよく言っていた『利益よりも人を大切にしなさい』という言葉の意味が良く分かる。
商人こそお金に飲まれてはいけないし、美を信仰するものだからこそ、美に傾倒しすぎてはいけないと思うの。
「幸いな事に、もう私はお金と美貌への執着は完全に無くなってしまったからね。そんな私だからこそ、他人の執着に敏感でいられて、執着に引き摺られずに済んでいるんだと思うわ」
執着に引き摺られずに済んだけれど、人の悪意に触れずに生きていくのも私には無理だ。
だから私は悪意に近づき、歩み寄り、そして最期は消し飛ばすのだ。
エルみたいに、ずっと1人で人の世の澱みを引き受けていた神もいる。
なら人にだって、1人くらいエルと同じ事をする人が居てもいいじゃない。
「……はっ。本心を口にしないのはお前の悪い癖だと思うぞ。普段の奇行も本心であるのは疑っていないが」
「唐突にディスるの止めてもらえますぅ~? 大体私がこんなことしてるのだって、大半はエルのせいじゃないのっ」
「うっ……!」
「まさか澱みが全く無いと存在できないとは思わなかったわよ? そうとは知らずに、ぜーんぶ吹き飛ばししちゃったじゃないのーっ」
不浄の神が不浄の澱みを集めていたのは、単に自分の役割というだけではなかったらしい。
不浄を集め、そして清める不浄の神は、人の不浄が無ければ肉体を維持することが出来ないそうなのだ。
それでも不浄の量が多すぎて、神の身さえも蝕まれ始めていたそうだけど。
「俺は不浄の澱みを引き受けるために存在しているわけだからな。澱みが無くなれば存在出来んさ」
「そういうことは先に言ってよねー? 事前に聞いてても手加減できなかったとは思うけどさっ」
「だがなチロル。人が生きる限り、澱みが無くなるなんて有り得んのだよ。ふ、つ、う、は、な?」
「あれを私のせいにされても困るのよねぇ……。クレームがあるなら、15歳の小娘1人に蹴散らされた不浄の澱みさんにお願いしまーす」
まったく。不浄の澱みさんが不甲斐ないせいで、神であるエルから人外判定を受けてしまったじゃないの。
人の世にたゆたう負の感情なんて、所詮は大したことないわよね。
……恐ろしいのはやっぱり、生きている人間がその身に宿している感情の方。
「今回シルビア・スカーレットの澱みを吸収して、チロルの言う事も少し理解出来てきた気がする。俺が引き受けていた不浄の澱みなど、生きている人間から漏れ出た搾り粕に過ぎないのだと思い知らされた……」
「そうそう。あんな搾りかす、私じゃなくても打ち払ってくれたわよきっと」
「……全人類から漏れ出た澱みを払ったチロルは、神の俺から見ても頭がおかしいとしか思えないが?」
「私の頭がおかしいのは自覚してるって言ったでしょ。今更突きつけられても困っちゃうわ」
まともな頭をしていたら、きっと私は押し潰されてしまっていただろう。
正常な思考で敗北者になるくらいなら、私は異常な勝者でありたい。
「こっちは毎日生き馬の目を抜く世界で生きてるのよ? いくら世界中から集められた感情とはいえ、あんな薄まった負の感情なんかに染まるわけないでしょ」
「その薄まった感情とやらに、神である俺の体は蝕まれていたわけだが?」
「貴方は澱みを受け入れちゃってたからねぇ……。私はあんな甘ったれどもなんか、グシャグシャと丸めてポイーッよ?」
神であるエルが私よりも脆弱だったとは流石に思わない。
私とエルの違いは、不浄の澱みを許容するかしないかだったんじゃないかな。
誰より優しいこの神様は、自分がどれだけ否定されようとも、人の世の不浄をその身に受け入れ続けた。
だけど誰よりも自分勝手な私は、受け入れてあげた私のことすら否定してくるあの澱みを、ふざけんなーって蹴散らしちゃったのだ。
「本当に恐ろしいのは、いつだって生きている人間の方なんだもの。今回ウェイン様もオリビア様も、初めてだったからこそあの程度で済んだのよ?」
「……人の抱いた澱みを奪い、そして増幅して返す力か。『澱み返し』、とでも呼ぶか?」
「好きに呼んでちょうだい。私は興味無いから」
どれだけ凄まじい力を持っていても、所詮この眼は私の一部。
自身の体の一部にそんな大層な名前を付けられても困っちゃうわ。
「……今思えば、この眼があったからこそ不浄の澱みを払いきれたんだと思うけどね」
「嘘を吐くな。あの時のお前はその眼を使ってはいなかったはずだ」
ノータイムで私の言葉を否定するエル。
使ってなかったつもりではあるけど、影響が無かったとは思えないじゃない?
私のこの眼は鏡のように、この身に受けた澱みを返してしまうのだから。
「もしシル以外の人が私の眼を見ていたら、きっとあの2人はもっと壮絶な不幸に見舞われていたでしょうねぇ」
「他人事のように言っているが、それを成すのはお前だろう? いったい何処から何処までがチロルの思惑なのか、俺には到底分からないが」
……どうなんだろう? いったい何処から何処までが私の思惑だったのかな?
シルの想いを受け取って、その感情に寄り添って行動し、そして望み通りの物を手に入れた。
だけどこれって本当に全部私の意志だったのかな? 私の意志がこの眼に引っ張られてしまった部分って、本当に少しも無いのかな?
人の領分を超えたこの眼は、私の人生にどれくらい関わってきたんだろう?
――――ううん。きっと、あまり関係ない。
きっとこの眼があっても無くても私は私で、いつかエルと巡り会っていたに違いない。
「私は私を否定しないわ。私の眼がちょっとだけ変わっていても、私は上手く付き合っていきたい。この眼は私の一部。なら私は受け入れて生きていくわ」
たとえこの眼に影響された部分があったとしても、最終的な意思の決定はいつだって私だったはず。
知らずこの眼に操られていたとしても、それが私なんだと受け入れよう。
「生涯この眼と付き合っていかなきゃいけないなら、誰を選ぶかは私が決めるの。たとえ私の体の一部だろうと、私を振り回すのは許さない。絶対に私が振り回す側であってみせるわ」
「……そんな眼を持ちながら、お前のような人間が生まれるというのが信じられん。チロルの家族は、本当に心からお前の事を愛していたのだろうな」
「ええ。自慢の家族達よ。ちょっとだけ愛しすぎちゃってるところもあるけどね?」
私の眼の中に大切な人たちが収まっている限り、私はきっと間違えない。
ううん。たとえ間違えてしまったとしても、大切なみんなが笑っていてくれるなら後悔しない。
「この眼も家族も私の一部よ。もしもどれか1つでも欠けていたら、貴方に出会うまでもうちょっと時間がかかっちゃったかもしれないわね?」
「良い話風にまとめようとしても騙されんぞ? 結局は人の世の澱みに塗れて生きていくということだろう? 俺と同じようにな」
「ふふ。そうね。エルと一緒ね」
汚く澱んだこの世界で、醜く這いずり回って生きていくのだとしても。
隣りに貴方が居てくれるなら、きっと地獄の底でも嗤っていられる。
「だけど澱みに塗れて生きるなんて、多くの人にとっては当たり前のことよ? シルのように綺麗なままでいる方が難しいわ」
人の悪意になんて触れないほうがいい。
綺麗なままで穢れなど知らず、ただ善性だけを感じて生きていられたらどれ程幸福なんだろう。
……だけどその人生の先にはきっと、澱みに沈んだ不浄の神の姿は無いのだ。
「自分で選べるのなら、私は何度でも澱みに塗れて戦う人生を選ぶわ。貴方と一緒にね?」
「くくく。意外と面白いものが見つかるとか言っていたな? お前より面白いものが見つかるかどうか不安だよ。チロル・クラート」
最後に不敵に笑って、エルはいいずなの姿に戻った。
月光を浴びて気持ちよさそうにしているエルを抱き上げ、そのふわふわの毛並みを撫でる。
大丈夫。私より面白いものなんていくらでも見つかるわよ。
だってこの世界って、神々の想像すら超えるほどに広いんだから。
※ひと口メモ?
本投稿のエピソードゼロ的な位置付けの、チロル・クラート編はこれにて終了です。
チロルは不浄の澱みに1度身を浸したからこそ、澱みに蝕まれ続けていながら聖女の身を案じることが出来た不浄の神の在り方に美しさを見出しました。
きっとチロルはこう思ったのでしょう。
『こんなに美しい存在を、こんな醜いモノで汚すなんて許さない』と。




