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普通の定義  作者: 中原 誓


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5 エリザベータ

 末娘のレナータが池に落ちたとの報せが入ったのは、他国の使者を歓迎する夜会の席だった。


「池? あの子は寝ている時間でしょう? 何があったのです?」


 レオニア国王妃エリザベータは、耳打ちしてきた侍女を小声で問い詰めたけれど、伝言だとかで詳細は分からない。


「何かあったか、王妃?」


 夫に声をかけられて、エリザベータは穏やかな微笑みを顔に張り付けた。


「いえ。末姫がぐずっているらしくて。後で様子を見て参ります」


 公式の場では、いついかなる時も本当の感情を表に出さない――王女として生まれたエリザベータはそう躾けられてきた。たとえ戦が起きても、冷静に指示を飛ばし、国民を守るのが王家の者の務めだからだ。


 ようやく頃合いを見計らって席を外す。


 レナータの部屋の側までたどり着くと、女官達が真っ青な顔で廊下に跪いた。『申し訳ございません。私共が目を離した隙に』と、額を床に擦り付けて。

 聞けば、レナータは一人で部屋を抜け出し、夜の庭園で遊んでいたところ、池に落ちたらしい。たまたま近くにいた人が池からレナータを引き上げてくれて、女官達はやっと事態を知ったのだ。


「その恩人は誰?」

「フェデル公爵様です」

「フェデル公?」

「お祖父様の爵位を継いだばかりの」

「――ああ」


 アーレン・デル・フェデリスならば、夜の庭園にいても不思議ではない。

 彼は夜会嫌いで、義理で顔を出した後はふらりとどこかに消えるのが常だ。


「レナータのところに行きます」

「はい――あ、王妃様、フェデル公がまだお部屋にいらっしゃいますが、見えないふりをしていただきたいとのことです」


 なんだ、それは?


 首を傾げながらドアを開けさせると、レナータはベッドの端に座り、カップで何かを飲んでいた。

 その横でベッドに浅く腰掛けているのは、確かにアーレン・デル・フェデリスだ。彼も濡れて着替えたのだろう。夜会で挨拶を受けた時とは違う服装だ。長めの黒髪を後で一つに結んでいるが、そのいくつかは解れて端正な横顔にこぼれかかっていた。彼は少しうつむき加減でレナータに何かを言っている。


 見えないふりなどできるものか。


 貴婦人達にため息をつかせ、"黒玉の大天使"などと呼ばれるアーレンの美貌と長身は、ピンクと白のレースやリボンで溢れたレナータの部屋から完全に浮いていた。


「あ、お母様!」


 母に気づいたレナータが嬉しそうに笑った。

 エリザベータの中で、何かが切れた。


「レナータ、あなたは何をやっているのです! 夜に部屋を抜け出すなど、王女としてあるまじき行為です!」


 いつも穏やかな笑顔しか見せない母親の思いがけない叱責に、レナータは涙目で首を縮めた。


「皆に余計な手間をかけさせているのは言うまでもないことですが、あなたの軽率な行動で周りの者が責任を取らなければならないこともあるのですよ!」


 すると、アーレンがレナータの耳元にささやいた。


「君のことをよく見ていなかったと、女官達や警備兵がお叱りを受けたり、仕事をやめさせらせたりするかもしれない」


 レナータは、はっとしたように目を見開いた。


「お母様、ごめんなさい。みんなは悪くないの」

「そんなことは分かっています!」


 ああ、どうして(わたくし)はこんなに感情的になっているのだろう? かわいそうに。レナータはボロボロ泣いている。


「お母上は、君を心配したんだよ。とても心配で、とてもとても怖かったんだ」


 アーレンの言葉に、エリザベータの涙が堰を切ったように溢れ出した。


 怖かった? ……ええそう。(わたくし)は怖かったのだ。


 王妃として感情を表に出さないようにしているエリザベータだったが、その仮面の下は一人の、普通の母親にすぎない。


「お母様、ごめんなさい!」


 レナータがベッドを飛び下りてエリザベータの胸元に飛び込んできた。抱き締めると、小さな体から石鹸と飲んでいたミルクの甘い匂いがした。少し体が熱いのは気のせいだろうか? 子供は体温が高いものだし……


 アーレン・デル・フェデリスが立ち上がり、足音を忍ばせてエリザベータの横に立った。


「失礼ながら、ここでお(いとま)いたします」

 アーレンは、小声でエリザベータに言った。

「私のことは見なかったことに。今宵は妖精国の王子らしいので」


 エリザベータは悟った。

 この若者は、レナータのとりとめもない空想にずっと付き合っていて、夢を壊さないように去ろうとしているのだ。


「感謝します」


 エリザベータは、レナータを抱き締めたまま独り言のように呟いた。


 それはアーレンに向けたものであり、神に向けたものでもあった。






 アーレンならば、レナータを守ってくれるだろう。


 今、エリザベータはそう考えながら、私的な茶会の席でレナータの竪琴を聞いている。

 夢見がちで、気持ちがそのまま顔にでるレナータは、他国の王家で暮らしていけないのは分かり切っている。


「まあ、そう。アーレンが練習を見てくれたの」


 微笑んでレナータのお喋りを聞いたエリザベータは、結婚の準備を急がなくてはと心に決めた。



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