1 レナータ
「"普通"って、何?」
唐突に疑問を口にすれば、目の前の、"普通"とは程遠い男が顔を上げた。
「ありふれていて面白味がないこと、かな」
アーレンはレナータを真っ直ぐに見て、そう言った。
レナータは視線を逸らせた。
アーレンの瞳は苦手だ。
彼はいつもレナータの表情や仕草を目で追う。それには慣れている。ただ、アーレンと目を合わせると、なぜか落ち着かない気持ちになるのだ。たぶん――そう、たぶん、彼の瞳が底知れぬ深い海のような色だから。
「そうよね。なのに、どうしてあんなに嬉しそうなのかしら? 私が遅れているだけ? 今は"普通"が流行っているの?」
レナータは、装飾過多なドレスで浮きまくっている自分を想像して頭を抱えた。
一見平凡に見えるシンプルなドレス。ダメだ。流行だとしても、あれは着れない。身体のラインが分かってしまう。主に胸とか、胸とか、胸の。
「悪い。話が見えないのだが――おーい、レナ?」
「えっ? あ、うん」
「"普通"がどうしたって?」
「侍女のルイーザが結婚するの。婚約者がどんな人なのか訊いたらね、『普通の人です』って言うの。でもね、すっごく嬉しそうなのよ。恋人がいる、もう一人の侍女もそう。彼は"普通"なんですって」
アーレンはフッと笑った。
「ルイーザの婚約者なら知ってるよ。近衛副隊長のマリウスだ」
はっ? えっ? マリウスっ?
「なんですってぇぇぇぇ! "白銀の大天使"マリウス様が、どうして、どうやったら、普通になるのよ――――――っ!」
レナータがゼイゼイと息を切らせてアーレンを見ると、彼はレナータが絶叫すると悟っていたかのように耳を塞いでいた。
「マリウスだって、ただの男だよ。見目もよいし、腕も立つが、欠点もある人間だ。"白銀の大天使"の二つ名に恥じないように常に自分を律していても、ルイーザの前では気を許してありふれた男の顔を見せるのだろうね」
気を許す……
レナータの頭の中では、あの常日頃キリッとしたマリウス副隊長が、同じくき然とした雰囲気のルイーザに、甘えるように抱きついていた。
いい。"普通"って、すごく、いい。
「レナ? おーい、戻っておいで」
「えっ? ああ、ごめんなさい」
レナータは二、三度瞬きをしてから、アーレンを見た。
「今日はもうやめるかい?」
「いいえ。大丈夫よ。続けて」
アーレンが木炭を持ち直してデッサンを再開したので、レナータも肩の力を抜いて座り直した。
フェデル公爵、アーレン・デル・フェデリス。
フェデリス家は、このレオニア王国屈指の名門貴族である。母方の祖父の爵位を受け継いだアーレンは、二十五歳。即位する国王の人選さえできるとまで言われた一族にいながら、彼自身は政治には無関心だ。
アーレンの興味は専ら芸術へと向けられている。
特に絵の才能は、目を見張るものがあった。どうせ趣味の延長だろう――そう思っていた宮廷の人々の前でアーレンが披露した絵画で、彼の名声は不動のものとなった。
その絵ことを思うと、レナータは複雑な気持ちになる。
夜の庭園。白い薔薇と夜に集う動物たちに囲まれて、月の映る水面に手を伸ばす少女。光と影が織り成す幻想的な絵だった。
素晴らしい絵画だと思う。
モデルが自分でなければ。画家に切り取られたその一瞬の後に池に落ちたという苦い記憶がなければ。そして、それがアーレンと婚約した原因でなければ。
池に落ちた時、レナータはまだ十歳だった。
今、考えると、自分がなぜ夜の庭園にいたのかレナータには分からない。
アーレンによると、王宮で夜会がある時は侍女達の数が少なくなるので、よく部屋を抜け出すのだとレナータ自身が得意気に説明していたそうだ。
レナータが覚えているのは、月の下で出会ったアーレンを妖精の貴公子だと思い込んだことと、池に落ちたことだけだ。
その後、アーレンに水から引き上げられ、母に大目玉をくらい、風邪をこじらせて肺炎になった。五日間、高熱にうなされたらしい。
熱が下がってレナータが目覚めた時、アーレンはレナータの婚約者になっていた。
見舞いに来たアーレンを、母は『未来の花婿様ですよ』とレナータに紹介した。レナータはただ単純に『そうか』と思った。アーレンはレナータより十歳年上だったが、綺麗で優しかったし、特に不満はなかった。
しかし、レナータも馬鹿ではない。
一年、また一年と成長するに従い、レナータは、アーレンが婚約者に『させられた』のだと気づいた。
レナータの父である国王は、娘の病気を利用して、フェデリス家の筆頭であるアーレンを取り込んだのだ。
「フェデル公もお気の毒に。美女が列をなしているのに、王女とはいえ、あんな子供をあてがわれて」
どんなに周囲の者が気をつけていても、噂話はレナータの耳にも届く。
「いやいや。恋愛と結婚は別物。案外、密かに恋人を囲っているのでは?」
たとえアーレンに十人の愛人がいても、レナータは不満を言うつもりはない。王族である以上、個人の感情より国の安定を優先するのが当たり前――当たり前って言ったら当たり前なのだ。
でも、このもやっとした苛立ちは何だろう?
レナータはぼんやりと、デッサンに没頭するアーレンを見つめた。
さらりと額にかかる黒髪を、綺麗だと思った。
「アーレン?」
「何?」
「他の人は描かないの?」
アーレンが顔を上げる。
「人物画はレナしか描かない」
「そう……なの……?」
レナータが首を傾げると、アーレンはクスクスと笑った。
「分かっていないね。私はレナの声を聞きながら、レナを見つめていたいんだ。ずっと。誰にも邪魔されずに。君の絵を描いていればそれが叶う」
レオーネ王国第四王女付きの侍女、ルイーザはぼんやりと窓の向こうを眺めている主人に声をかけた。
「レナータ様?」
確かにレナータ姫は、空想の世界に遊ぶことが多い、夢見がちの少女だ。が、それにしても今日の様子はいつもと違う。こんなに長い時間、一言もしゃべらないなんて。
「あ、ああ、ルイーザ?」
レナータ姫が振り返った。
夕陽を弾いて、金色の巻き毛がキラキラと光る。
「お加減でも?」
あの顔だけ男、うちの姫様に変な真似していないでしょうね。
フェデル公爵は、気が散るからと、絵を描く時に人払いをするのが常だ。
ルイーザは、『婚約者とはいえ、未婚の男女が二人きりでいるなど、感心いたしません』と何度か苦言を呈したが、冷たい目で見返されて無視された。
「元気よ。ちょっと考え事をしてただけ」
レナータ姫は両頬を手で包み込むようにして、ほおっとため息をついた。
「ルイーザ」
「はい」
「アーレンって、案外普通なの」
「はっ?」
ルイーザは自分の耳を疑った。
アレのどこが"普通"だ? 規格外の美貌と規格外の権力の持主じゃないか。
「ずっと一緒にいたくて、私の絵を描いてるんだって」
いえ、姫様。
それ、普通じゃありません。
十五、六の少年ならともかく、相手は二十五にもなる男です。政治には関心がないと公言しているけれど、その心中に何を隠し持っていることやら。
半年後には結婚して、王宮を辞する予定のルイーザだったが、この若い主人を見ていると、大丈夫だろうかと一抹の不安を覚える。
後任の人選はしっかりしなければ。
けれど、ルイーザもまた知らなかった。
自分と婚約者の出会いさえもアーレンに仕組まれていたことを。
アーレン・デル・フェデリス――人は彼を"黒玉の大天使"と呼ぶ。