03
僕について語ることは少ない。
中肉中背。さほど変わった趣味はない。
運動部でないことに危機感を覚え黙々と筋トレをしたりするが、肉体を誇れるほどストイックにはしていない。
ボトルシップを作るのに興味はあるがどこで部品を手に入れるのか分からず実行していない。
さほど変わった嗜好もない。
同年代くらいのおしとやかな女の子が好きだ。
髪は黒くて、出来たら長くて、りんごのようなシャンプーのにおいがするといい。
勉強も運動もある程度まではできるがずば抜けてもいない。
全く努力しないで生きてきたわけでも無いけれど、鉢巻きを巻いて一夜漬けに挑むほど試験に情熱は燃やしていない。
ほとんど全てにおいて平均的で、あるいは中庸とも言えるのかもしれないが、実際のところ僕は、町並みの背景に同化しているような人間だ。
強いてあげられる個性は和良比湖という名前によって確実に出席番号が最後であることくらいだが、それだって親に与えられた苗字であり、僕自身のアイデンティティーがこれによってどうこうはしない。
自分でつまらない男だと思うけれど、今更何も変えられないし、変えたくない。
現状維持。いい言葉だ。
「僕の人生は、正三角錐を二つ三つと積んでいくみたいにして成り立っているんだよ。だから崩してしまったらもう積み上げる気力がなくなってしまうんじゃないかとたまに怖くなる」
「和良比湖くんは怖がりのくせにいやに器用ね。私は不器用だから直方体の積み木を選ぶわよ」
「そりゃあ安定感があっていいな。羨ましいぜ」
僕はある場所にいた。
そこにはたくさんのエスカレーターがあり、人間を登らせたり下らせたりと動かしている。僕は上の階から聞こえてくる声と会話を交わしていた。
床や壁や天井というものは存在せず、僕は空中に向かってエスカレーターに乗っている。
機械が動く鈍い音が響いている。
声の方を向くと、階層ごとにエスカレーターが続いているのが見えた。
合わせ鏡の中にいるみたいに上にも下にも寸分違わず同じ機械が回っている。
僕は達観してそこから動かなかった。
この動く階段を下りきっても上りきっても更には転落しても、そこに床がないのだから仕方ないし、動くだけ面倒だ。
それにエスカレーターの階段部分が終わるのはずっと先に見える。
「変な場所よね」
普段天井に隠されているエスカレーターの裏側は剥き出しになっていた。
天地逆さに、ゆっくりと階段が下っている。
可愛らしい雑貨のマグネットにでもなったみたいに、女の子は床にぴったりくっついて重力を感じさせないままぐるぐると回る。
「ここは夢だと思う?現実だと思う?」
夢だ。また夢を見ていた。
視野はぼんやりとしているのに、立っている場所の建物や町並みが変に鮮明な夢。
僕の脳内が作る幻は、いつも問題を提起して終わる。
きっと僕自身、見つけきれていない何かに不安があるのだろう。
夢の中で、現実を見ている。
雁屋まとり目撃から二日経った木曜日四限。
僕は睡魔を振りきってごわごわしたカーディガンの袖で顔を擦った。
ごうんごうんと音を立てる古い暖房の音とチョークが黒板を打つ音が聞こえる。
紐が切れるように意識が戻ると、脈絡なく板書が進み手元には折れたレジュメが重なっている。
僕のノートには膝が笑っているみたいな姿勢の文字が並び、ぐにゃぐにゃと曲がって最後には左から右への一本の線になっている。
ほとんど授業は終わりだ。
そろそろ化学の成績が危ういのに全くノートが取れなかった。
期末テストは終わったばかりだけれど、油断は禁物だ。
聞いていない授業はすぐに溜まってしまう。
あとで誰かのを写さないとな。
僕の数日の睡眠不足は元をたどれば二日前の委員会活動に起因しているから、そこは責任者の飛鳥文鼓にお願いしよう。
世渡り上手の彼女はどの教科も偏差値68程度をまっすぐにキープしている。
曰く、「高過ぎると学校からヘンに期待をされるでしょ。低すぎると私が困るし。だから今はまだ勉強をほどほどにしてるの」。
その余裕、つらにくいぜ。
昨日は、心配がだんだん過剰になってきた飛鳥にまだ明るい時間に家に返された。僕はいつも通り一人で電車に乗った。
つり革に掴まって、揺れる車内で立ったまま眠った。
それから、駅につき、ホームを歩き、少しバスを待ち、考えなおして昨日と同じ道順で歩いた。
警戒しながら例の道を通ってみたが、ゴミ袋一枚なかった。
もっと遥か上の夕暮れ空に飛行機が飛んでいたくらいだ。
僕の中には恐怖のほかに、自分がこの世の理を覗き見てしまったという興奮があったのも事実だったから、多少拍子抜けした。
空中遊泳をしていた彼女サイドも二十四時間同じ道で待機しているほど暇ではないらしい。
購買で菓子パンとぶどうジュースを買った帰りに隣のクラスに顔を出すと、飛鳥が移動教室から帰ってきていた。
おはようという挨拶に、男を誤解させる魔力が秘められている。
化学のノートの件を快諾してもらったのちに、話は例のことに移る。
「昨日は大丈夫だった?」
「平気。考えすぎだったかも。疲れとか、諸々で」
安心させようと適当を言った僕に、飛鳥は驚くほど表情を輝かせた。
「本当?よかったね!今日は一緒にお仕事頑張れるね!」
飛鳥文鼓に対し勘違いをした男性諸君は是非図書委員会まで。変わってください。
楽そうだから入部したのにこのざまである。
そもそもの動機が不純だし、入っているからには少しのボランティア活動くらいはしないといけないけれど。
しかし。
万単位の本を出して並べてシールを貼って督促状を書いてと駆けまわっていると精神的にも疲労がつのってくるんだな、これが。
飛鳥は、件の自分の名前が文庫っぽいからという理由で委員会に入ったと言ってはいるが、基本的には本が好きらしい。
他の委員ともども本を読んでいる姿をよく見かける。
一日の中で活字と触れ合っている時間は相当のものだろう。
彼女は委員長特権を濫用し、図書カードを三枚所持してハードカバー本を大量に借り入れている。
「僕にはお前ほどの本への情熱はないな」
「全く、ロドンだなあ。本への情熱だけじゃないよ」
魯鈍。
僕はウルトラ怪獣じみた煩わしい単語をゆっくり変換した。
こいつ、いちいちセレクトする単語がいちいち面倒くさい。
「だけじゃないって?」
「嘘でしょ。気づかないのかな。この朴念仁め。ボケ老人め。」
飛鳥は殊勝顔で僕を罵倒した。
え?
あ。
そういう?
二人きりの蔵書整理ってそういう。
本への情熱だけじゃないよ和良比湖くん、私は君への情熱を燃やしながら本を整理しているんだよ。お気に入りの恋愛小説のページを捲ってはめくるめく恋の予感に胸踊らせているんだよ。私には届かない上の本棚に軽々と手を伸ばす和良比湖くんのムキムキな上腕二頭筋に飛鳥文鼓の首ったけはご執心なんだよ。それに気づかないなんて君は本当にニブいんだから、もう!みたいな。
僕は誤解をしていた。
飛鳥の傍若無人さは彼女の性格ではなかったのだ。
照れ屋さんな彼女は僕への好意をストレートに表現することが出来ず、暴力に訴えたりなんていう暴挙に出ていたのだ。
男として最低だ。そう、僕は飛鳥の言うとおり、魯鈍で朴念仁で最低なクールガイだった。
水面下でのアピールの間に気付いてやれず、女の子に改めて告白させてしまうとは。
くう、魅力的すぎるとこういうのがつらいぜ。
僕が平均的な体型の平凡な人間だと思っている人は数知れないだろうが、しかしそれは僕の非凡な頭脳と非凡な文才と奥ゆかしい謙遜に騙されているのだ。
所謂叙述トリック。
まあね。
惚れてしまうというのも分からないでもないよ。
仕方ない。女性だったら仕方ない。
僕は犬どころか中庭の鯉にまで好かれるし。恋だけに。
僕を好きになってしまう、これは君たちが悪いんじゃない。
僕が悪いんだ。
女の子を虜にしてしまう僕の魅力が悪い。
さあ、飛鳥に謝らなくては。
飛鳥の想いに長い間気付かなかったことへの謝罪と、美しすぎる僕に恋させてしまったことへの謝罪、ダブルミーニングゴメン。
「飛鳥、ごめん、悪かったよ。本への情熱なんて言って。お前が、僕との蔵書整理でめくるめく恋の予感にゴリゴリに焦がれていたなんて気付かなかったんだ」
飛鳥は甲高い声で言った。「は?」
「私の動力源は、本からの愛情だよ。私が本に情熱を注ぐと本が愛情を返してくれる。相互に作用しあう永久機関だよ。インクから滲み出る愛も分かんないなんて、ホンット、ニブビコくん!」
……あ、今日もう帰りてえ。