01
雁屋まとりは広義には空を飛んでいたけれど、全く鳥のようではなかった。
そもそも人間には翼はないし、その代わりの二本の腕を無様にばたつかせてもいなかった。
彼女は長い脚をめいいっぱいに伸ばして、一房ずつ内巻きにカールした髪とスカートを揺らして、人目も憚らず、そこに私専用のレールが敷かれているから仕方なくここを歩いているのよ、みたいな顔をして、のんびりと宙を歩いていた。
事の起こりから遡って三十分。
僕が駅の改札から走りだした時には、まだバスは停まっていたはずだった。
「くっそー……」
太腿が意思と無関係に震えている。
この身を切るような寒さの中、歩いて家まで帰らなければならない。
考えるだけで鞄の中の教科書が重くなった気がする。これを肩に食い込ませたまま更に歩くとは。
一年は終わりに近づいているが一週間は始まったばかりの火曜日だ。ああ。
二十三時十六分。終バス時刻の一分後。並んでいたはずの人たちは影も残っていない。
電車が遅れさえしなければ暖かい車内で居眠りができたのに。
身体の疲労と倦怠感はそのまま眠気に変わっていて、僕はふらふら歩く。
夜も更けて全ての店の電飾が落ちている。 ファストフード店すら看板に明かりがないのを初めて知った。
駅前なのにこの暗さ。灯っているのはタクシーの「迎車」くらいだ。
僕は腹の底から溜息をついた。
バイト無しの高校一年生。
割り勘もせずタクシー帰宅できるほどセレブでもリッチでも裕福でもない僕は、マフラーに首を埋めながら歩を進める。霜焼けになりそうなので手はポケットに入れた。
カイロくらい持ってくればよかったぜ。
駅から少し歩き、四車線の太い通りに出る。
歩道の端には排気ガスで煤けた雪が寄せられている。
「冬の夜はこんなに寒いなんて知らなんだ」
独り言はトラックが走る音に掻き消されてほとんど響かなかった。
高速道路のインターが近くにあるためか、どうやら夜間は大型トラックの交通量が増えるらしい。知ることの多い二十三時十九分。
普段この道を歩くのは十九時前だ。
僕が通う安曇原高校は、受験に興味を持ち始めた中学生なら知っているくらいの進学校である。
文武両道と掲げたもののあまり部活動には力が入っていない。
音楽系と体育会系は昼休みに嗜む程度。学問に直接的に関わる部活動をこれまた少々。
部活に入っていても授業が終わるとさっさと帰宅する生徒も多いから、放課後になると学校はしんとして人気がない。
僕もさっさと帰る。
いつもなら。
「またお前の日かよ……」
いつも、ではない日に必ず現れるこの食わせ者。
閑散とした放課後、十七時。
下駄箱の前でしゃがみこんで本を読んでいる。
「大好きな私の日じゃないよ、大好きな図書委員会お当番の日だよ、和良比湖くん」
顔を上げ、大きな目を優しげに細めながら彼女は言った。
図書委員長、飛鳥文鼓。
座り込みながら僕の靴ロッカーにもたれかかって、背中で僕の逃亡を防いでいる。
ワラビコのワ、どうしてもロッカーの場所が下段の端になってしまう苗字による弊害だ。
「昨日から一週間は年に一度の蔵書整理だよ。なのになんで昨日和良比湖くんは逃げちゃったのかな。逃げ帰っちゃったのかな」
「蔵書整理なんて誰もやりたくないだろ。長いし、本多いし、重いし」
僕は飛鳥の開いた右脇からロッカーの取っ手に指を引っ掛けるが、相手は長いこと鍛えられた脚の筋肉を使い応戦する。
「図書委員長のクラスのホームルームが終わった頃には当番どころか図書委員20人、誰もいなかった。委員長、すごく怒ったよ。一人じゃ高いところの本が取れないから永遠に蔵書整理が終わらないよ。今だって、和良比湖くんだけでも道連れにしたいと思うくらい怒ってるよ!」
飛鳥は革靴を履いた踵ででタイル貼りの床をバタバタ叩き鳴らしながら暴れた。
すごい力で脇を閉め二の腕で手を挟んでくる。
僕はどきまぎしながら手を引っ込めた。
当たってる。
右の手の甲にお前の向かって左胸のサイドがめちゃくちゃ当たってるんだって。
お前のあんまりない胸が。
僕の様子を諦念と悟ったのか、飛鳥は立ち上がって地団駄を踏みながら僕の袖を引いた。
怒りを表現しているつもりなのだろうが、コミカルな動作だ。
習って三日目のタップダンスのように、茶色い革靴を地面に叩きつけている。
靴が傷むぞ。
「今日は、和良比湖くんを離さないよ!昨日は私も怒って帰っちゃったから二人で2日分の仕事をするんだからね!」
ロッカー前が罠かと思うほどガラ空きだ。
チャンスである。
「委員は委員長に絶対服従なんだよ!従えー!」
「へいへい分かりましたよ、観念するよ」
自然な動作で上履きを脱ぎ、革靴と取り換え、足を滑り込ませ、走る。
いける。
いくら水中での運動神経がよくたって健康体の男子の脚力には追いつけまい。
ハハハハ、ぬかったな、飛鳥文鼓よ。
自分は策士であると奢っていると泣きを見るとあれほど言っただろう。
少なくとも僕に対しては常に油断大敵だと肝に銘じておくのだな!
「本当?二日分の仕事する?私の条件を飲むの?オールゴックン?」
「オールゴックン」
「やった~!今夜は離さないよ覚悟しなさい和良比湖くん!」
飛び跳ねて喜ぶ飛鳥を尻目に僕はいそいそと靴箱に向き直った。
上履きはもう脱いだ。
音が出ないようにロッカーを開く。
顔だけ振り返って様子を伺い、薄く開いた扉に腕だけを突っ込み靴を探る。
探る。
宙を掴む。
探る。
「……あれ?」
僕の革靴が無かった。ロッカーには何もなかった。
空。
「男に二言はないよね!一言で二日ぶんの仕事するって言ったものね!」
僕は飛鳥の足を見た。
革靴があった。
彼女の足からすると大幅にぶかぶかで、よれよれの革靴が。
「あした天気にな~あれ!あっ晴れ!晴れだよ!晴れがましいね!限りなくアッパレに近い晴れだよ!神様からの祝福だと思わない?」
ぶかぶかの革靴はどこか見えない方に飛んでいった。飛鳥はけたたましく高笑いをした。
もう片方の革靴も蹴り飛ばされて、美しくスピンしながら僕の頭上を越えていった。
それから飛鳥は女とは思えない力強さでガッシリ僕の腕を取ってブンブン振り回した。
悠々と上履きを履くその姿には勝者の余裕があった。
僕は戦意を喪失していた。
ていうかその上履きも僕のだって。
「だからって終電ギリギリに返されるなんて聞いてないんだけどな」
主に飛鳥文鼓の足として山と積まれた本をあっちからこっちへ運ぶ作業は、普段動かしていない筋肉にこたえるものだった。
腕や腿に鉛を入れたような沈み込む重さがある。
通りをそれて、住宅街に入る。
海の浅瀬の浮きみたいに、ぽつりぽつりと丸い街灯が夜道を照らしている。
昔はコンクリート剥き出しで荒々しく生えていた電柱がいつの間にか消えている。
信号機も気付いたら薄っぺらになっていた。
普段スマートフォンを握る手がポケットの中にあるだけで、変化した街の隅々が僕の視覚を攫ってゆく。
冬は寒いが空が澄んでいる。
チカチカ光る飛行機が突然UFOみたいにジグザグに動いたりしないだろうか。
それか、流れ星がすーっと通ったり。
とにかく、わくわくするようなことが起こって欲しい。
歩を進めるたびに少しずつ童心が僕の中に戻ってくる。
そんな気分の僕の前に、それは唐突に現れた。
女の子が深夜に外を出歩いている。
誰の目も気にせず、自由に歩いている。
大股で、飛び石から飛び石へ飛び移るみたいに跳ねまわっている。気分良さ気に。
走るわけではなく、ただ空気から空気に跳んでいる。
その姿は、背景から浮き上がったCGじみている。
僕は手を開いたり閉じたりした。下駄箱の中身みたいに、当然何も掴まなかった。
でも彼女は歩いて行く。前を見て、頭上を通りすぎて、進んでいく。
僕の足は止まっていた。
上下三メートルほどでのすれ違いなんていう常軌を逸した光景に頭がぼんやりとした。
目をこする。
頬をつねる。
夢を見ているのかもしれない。僕は今とてつもなく眠いから。
その女の子は僕の知り合いに似すぎている。
「雁屋?」
僕の口から漏れた言葉に、少女はぴたりと足を止めた。
声の主を探して、きょろきょろと左、右、左上の順で見回し、夜道を振り返った。
「おい、雁屋」
少女は最後に下を見た。梅雨の夜の側溝を覗くみたいにこわごわと下を見て、血相を変えた。
それはもう、暗い中でも分かるほどに。
黒目がちな目を見開いて、唇を震わせて。
「キャーーーーーーッッ」
スカートを抑えて、雁屋まとりは叫んだ。