1st. -a gust of wind- <前>
一枚の紙が春風に舞った。
「おっと、マズい」
紙束と本とを抱えた少年が手を伸ばし、逃げようとする紙を掴む。しかしその際に、抱えた紙束からまた数枚が風に飛ばされた。
「あぁ、もう!」
荷物が重すぎて素早く動くことが出来ない。宙に舞った紙はやがてひらりひらりと落ちていく。少年の手は、届かない。
「ああッ!!」
紙の落ちていく先は未だ融けきらずに残っている雪の上。
濡れてしまう。
そう思った瞬間、どこからか伸びた手が間一髪、紙を拾い上げた。
少年はハッと手の主を見る。相手もまた少年だった。
鮮やかな青色の短い髪に、強い光を宿す黄緑の瞳。色合いもさることながら切れ上がった目元とやはりきつい眉、やや不機嫌そうな口元と、尖った雰囲気ではあるものの非常に整っていて、その印象は鋭い剣を思わせる。剣のような少年は仏頂面で口を開いた。
「ジロジロ見るなよ」
言われて初めて自分が彼を凝視していたことに気付き、紙束を抱えた少年は慌てて視線を彼の手元へと移した。そこには先程の紙がつままれたままである。
「拾ってくれてありがとう。頼まれものの、大事な資料なんだ」
「……ふぅん」
彼はつまんだ紙を一瞥すると、つまらなそうにして少年に返して寄越した。その態度に、少年は苦笑する。笑われて癇に障ったのか、彼は少年を睨んだ。
「……笑いすぎ」
「悪い悪い。……ちょっと、嬉しくてな」
「はぁ?」
「俺はキオン=グリス。覚えておいてくれよ、な」
それじゃあ、と少年……キオンは紙束と本を抱えて歩き去る。残された剣のような少年は顔をしかめながら呟いた。
「変な奴……」
* * *
トルム王立学院。世界三大大陸の1つ、月の大陸のほぼ中央に位置するトルム王国の王都トルモアにあり、武道部・魔導部という2つの学部を有する大きな学校である。そのレベルの高さは大陸中に知られ、学院の卒業生となれば各国の軍隊や国立の研究施設に引っ張りだことなる。しかしその分卒業に必要な資格を取得するのは難しく、中途半端な者なら辞め、志ある者でも学院の定めた年数のうちに卒業することが出来ずに退学していくことが多い。
入学者への門戸は割合広く開かれているものの毎年の新入生が爆発的に増えたりしないのは、その辺りの厳しさも原因なのだろう。入る前から尻込みするものも少なくないということだ。
キオンは一昨年、12歳の時に学院の魔導部元素魔導科に入学した。
元素魔導とは、自然界の四元とも呼ばれる火・水・風・土の四元素を基本として行使する魔導であり、異世界の精霊や魔獣を喚び出す召喚魔導と区別してそう呼ばれる。
学院での修学の段階はグレードによって分けられ、Dから始まりAまである。
今年度初めの昇級試験に合格し、キオンは晴れてグレードCとなった。しかしあと5年のうちにBに昇級出来なければ退学となってしまうので安心はしていられない。5年は長いが、長いと思っているといつの間にか過ぎ去ってしまうのが時というものだ。
そんなわけで、少年は勉学に励むのである。
キオン=グリス、14歳。最近切っていない焦茶色の髪にやや灰色がかった薄い青の瞳を持ち、特に目立つところのない風貌をしている。服装も、この辺りの少年としてはごくありきたりなものだ。
ただ、1人で運ぶには大変な量の資料を抱えて魔導部から武道部へと訪ねてくる生徒となるとまず彼以外にはいないだろう。廊下ですれ違う武道部生が首を傾げたり、後ろ姿を目で追ったりする。しかしキオンとしてはこれが初めてではなく、本来無関係なはずの武道部の校舎を勝手知ったるふうに歩き、やがて一枚の扉の前で足を止めた。
両手の荷物を一度片手に移し、空いた手で扉を叩く。ずり落ちそうになる紙束を慌てておさえる。部屋の中から応えがあった。
「入ってきていいよ」
正直な所、扉を開けてもらいたい。しかしそういうことに気の回る相手ではないと分かっているキオンは、苦労しながらも自力で扉を開けて中に入った。
途端、薬品の匂いが鼻をつく。
部屋の奥では白い服を着た男が1人、こちらに背を向けて何やら熱心に手元を動かしていた。やがて一段落したのか、キオンの方へ振り返る。
男の長い紫紺色の前髪の下には、銅板に丸い穴を開けてレンズをはめこんだ奇妙な格好のゴーグルが装着されている。彼がそれをはずしたところを見たことがない。つまるところ……変わり者だった。
「やぁキオン。資料を揃えてきてくれたようだな」
上機嫌な声は若く、落ち着いた響きを持ってはいるもののまだ10代だろう。キオンの記憶が確かなら、17歳だったはずだ。名前はヌダル=サリィ。東国の出身で背が高く、武道部では槍術を専門に学んでいる。
魔導部とは異なり不定期に行われる昇級試験を半年前にパスし、現在のグレードは最高位のA。学部に関わらず、グレードAの生徒にはこのような個室が与えられるのであるが、ヌダルはそれを自分専用の実験、開発室として活用していた。武道部の中ではやはり珍しい人種と言える。
そしてそんな風変わりな先輩と何故か接点があるキオンは、時折こうして頼まれては魔導部の図書室から資料を運ぶ羽目になっている。
「ここに置いていいですか?」
雑然とした部屋の中で何とか物を置くことの出来そうな空間を見付けてキオンが尋ねると、そうしてくれと返ってきた。ようやくキオンは荷物から解放される。赤く痕のついた腕を軽く振っていると、ヌダルが言う。
「いつもすまないね。助かるよ」
あまりすまなそうな口調でないのが彼らしい。キオンは苦笑して。
「いえ、こっちこそ勉強になりますし。ついでに筋力トレーニングにもなりますし」
「ふむ……魔導士でも体力をつけておいて損はない。お前はまだ成長期だしな」
「そういう先輩もまた身長伸びたって聞きましたよ」
「あぁ、カータから聞いたのかい?」
「はい。“あんなに背が高くて、その上長槍を使われたら近付けねーじゃーんッ!”って言っていましたよ」
「あいつらしいね」
ヌダルがそう頷いて笑ったところに、またノックの音がした。ただし、今度は窓だ。2人は同時に窓へと視線を向け、キオンがあ、と声を上げる。
「カータ先輩」
「噂をすれば何とやら、か」
言いながら、部屋の主であるヌダルが窓を開ける。地上4階であるにも関わらず窓の外にへばりついていた小さな人影が音もなく部屋に身を滑り込ませ、そこにキオンもいることに気付いてにかりと笑ってみせた。
「なーんだ、キオンここにいたんだ」
能天気な声に人懐こい笑顔。大きな帽子の下の髪は淡いピンク色をしていて柔らかく、後ろで1つに結わえられている。大きな瞳は淡いグリーンだ。先程外で会った少年に負けず劣らずの珍しい色だが、こちらはまるでやんちゃな小動物といった雰囲気を持っている。
カータ=ガタキ。そうは見えないが18歳。そうは見えないが武道部銃火器専攻のグレードA。雨樋や窓の桟を伝って楽々と4階に上がってくる身軽さも有名だが、学院の情報通としてもまた有名である。些細な噂話からテスト結果まで、頼めばすぐに調べてくれる。頼まなくても教えてくれる。
そんな彼がヌダルの部屋に来るのは、大抵何か面白い情報を掴んだ時なのだった。
「何かあったのかい? その口ぶりからすると、魔導部にも寄ってきたようだが」
窓を閉めながらヌダルが言い、カータはそうそう、大きな手袋に包まれた右手の人差し指をピッと立てた。
「大ニュース! 魔導部が特例入試やるんだって!」
「……ほう」
ヌダルのゴーグルの上の眉がピクリと動いた。キオンもこの報せには目を丸くする。
学院の入学試験は両学部ともに冬の終わり頃行われるが、武道部はさらに試験官の都合さえつけばいつでも希望者のために試験を行う。対して魔導部は創立以来決してそうした特例措置をとったことがなかった。どれだけ才能のある者でも時期を逃せば次の冬の終わりまで待たねばならず、その厳格さが知識の砦たる魔導部として相応しいとも、才能ある者をないがしろにする狭量とも言われていた。
その良くも悪くも続いてきた伝統が断ち切られようというのだ。驚かないはずがない。
「カータ、その話はどこで?」
「学部長室―。これから城に出向いて国王の許可もらって、試験そのものは明日って話。もー、絶対観に行かねーとッ!」
1人盛り上がるカータをよそに、キオンとヌダルは顔を見合わせる。
「王様の許可、おりますかね?」
「そうだな……反対する大きな理由はないと思うが。学部長に特例入試を決意させた入学希望者というのが一体どんな人物なのか、その辺りも気になるところだね」
「……そうですね」
頷きながら、キオンはふとある可能性に思い当たり、それをそのまま口にする。
「カータ先輩。その入学希望者って、青い髪に黄緑の目の男の子じゃないですか?」
カータは首を傾げる。
「さぁ、オレは学部長と元魔主任の話を天井裏で聞いただけで、顔は知らねーしなぁ。名前は“ユヴェニス”って言ってたぜ。上か下か知らねーけどー」
「ユヴェニス……聞かない響きだな」
ヌダルが腕組みをして言い、カータはキオンを見て尋ねる。
「なー、その青髪黄緑眼って、何?」
「さっき外でそんな奴に会ったんです。目立つのに見たことない奴だったから、ひょっとしたら、と思ったんですけど」
「青髪、黄緑眼……ねぇ?」
むーん、と唸りながら首をひねるカータに、どうかしたのかとヌダルが尋ねた。カータは首をひねった姿勢のまま答える。
「う――……なーんか、どっかで何か聞いた気がするんだよなぁ、その色。なんだったか思い出せないー!」
「……俺も思い当たらないな。ただ、普通人間にはありえない配色には違いない。染めているのでないとすれば、何か精霊界に関係していると考えられなくもないか」
ヌダルの言葉に、キオンはちょっと顔を上げた。
精霊界……魔導士の間ではエリプソイドとも呼ばれるそこは、四元の力を司る4人の王によって統治される、精霊・魔獣の住む世界である。召喚魔導では主にそこから召喚魔を喚び出して使役する。つまり、この世界とも割と関わりの深い世界と言える。そもそも魔導というものは精霊界で生まれた術なのだ。人間は行き来こそ出来ないものの、何らかの形で関わっていることも考えられた。
「そういうことなら召喚科の人に聞いてみればいいんじゃないですか?」
キオンの提案に、カータはうんと頷く。
「そーだね、今からゼルスんとこ行くつもりだったし。多分ティアもいるだろーしな。これでキオンの想像当たってたらまたまた大ニュースになっちゃうぜー? そんじゃッ!!」
そう言ってまた窓に向かうカータ。いつものことなのでヌダルも特に反応しない。
「まぁ、また何か分かったら教えてくれよ」
「任せとけってー!」
楽しそうに手を振って、カータは窓の外に消えた。彼らの友人であるもう1人のグレードA学生、ゼルスのところに行くのだろう。そこにはよく召喚魔導科の友人ティアも訪れるのである。カータはここに来る前に魔導部に寄ってきて不在を確認しているらしいので、向こうで出会う可能性は高い。
カータのいなくなった部屋は急に静かになった。開け放たれた窓を閉め、ヌダルは軽く溜め息をついてから口元に笑みを浮かべる。
「毎度のことながら、賑やかだったな」
「今回は本当に大ニュースでしたからね。カータ先輩もいつも以上に気合い入ってるみたいでした。ゼルス先輩の苦い顔が目に浮かぶようです」
「まったくだ」
話題のゼルスは学院内ではカータ同様有名人だ。ただしその理由は全く異なり、当人の性格は極めて真面目。加えて無口で無愛想。ヌダルと同年ながら彼以上に落ち着いていて、ただし声を掛けても返事のない時は立っていても眠っていたりするので侮れない。
いずれにしても静かな男なので、常に賑やかなカータとの相性は決して良いとは言い難いのだった。
「それでもあいつだってカータのことを嫌っているわけじゃない。あいつは嫌いな人間に対しては非常に冷淡だからな」
「そうなんですか……。でも、よく知らない人から見てもあんまり分からなそうですね」
「そうだな」
「……先輩達、仲良いですよね。俺、うらやましいです」
本気でうらやましそうに言ったキオンに、ヌダルはちょっと考えてから答える。
「共に戦えば、信頼も生まれる。逆に言えば、信頼なくして共に戦うことは出来ない。“仲間”とは、そういうものだよ」
「“仲間”ですか。いいですね」
「勤勉な後輩もいいものだよ。これでも俺はけっこうお前を頼りにしているんだ」
「そんなこと言って、次は何ですか?」
肩をすくめてキオンが問えば、ヌダルはニヤリとして机の上に散らばる数十枚の紙を示す。
「察しがいいな。元素に関するちょっとした計算なんだが、やはり俺は専門外なんでね。魔導士であるお前に確かめてもらいたいんだよ」
「分かりました。これ、お借りしていいんですか?」
「ああ、頼む。どれくらいで出来そうだ?」
「そうですね……ちょっと見せてください。……ああ、これなら一晩で何とかなりそうです」
「……無理はしなくていいぞ?」
「多少はしますよ。それも自分を伸ばすことにつながりますから」
キオンは笑って、机の上の紙をまとめて小脇に抱える。
「それじゃ、俺も今日の最終講義がありますんで、これで失礼します」
「ああ」
ヌダルに見送られて彼の部屋を後にすると、キオンは自分の通う魔導部へと足を進めた。勿論、きちんと扉から出て廊下を歩く。2つの学部の校舎は少し離れているため、途中で外に出なければならない。まだ雪の残るところもある芝生を横目に、煉瓦舗装の小道を歩く。
先程青髪の少年に出会った場所も通ったが、当然ながら彼の姿はない。代わりに、一陣の風がキオンの髪を揺らした。
「……」
立ち止まり、春風を受け止めるキオンの顔には心地良さそうな微笑。背伸びと緊張に火照り気味の頬を撫でる風は優しく、自分をいつまでも見守っていてくれるような気がした。そう感じる程に安らいでいた。
やがてキオンは細めていた目を見開く。
青灰色の双眸に宿る意志の光は、決して弱いものではない。彼の中にはすでに確信にも似た予感があったのだ。
――風のざわめきにも似た、変動の予感が。
2007年執筆