Prologue -white sleeper-
“……白い”
目の前にある景色をぼんやりと見つめながら、少女はそう思った。
横たえた身体を僅かに動かし、虚空に手を伸ばす。
“白い……”
吐く息も、手の平も。視界も、頭の中さえも。
光もなく、影もなく、ただ白いばかりの無音に少女はひっそりと微笑んだ。
正しくないと知っている。自分は責められるだろうと、分かっている。
それでも胸は躍る。軽やかな音楽さえ聴こえてきそうな、この気持ちは何だろうか。とても浮かれている。
少女は白い闇の中で目を閉じ、夢想した。
やがて来るだろう、春を。
“柔らかな陽射し、風に舞う花びら……新しい出会い”
やがて来るだろう、夏を。
“うだるような暑さ。私の中で生まれる炎”
やがて来るだろう、秋を。
“穏やかに色づいていく木々。長い夜、たくさんの語らい”
やがて来るだろう……冬を。
“たとえ一寸先も分からない雪の中でも、歩けるようになる”
今はこうして立ち止まることしか出来ない自分だけれど。
閉じた瞳から一筋の涙が流れていった。少女は思う。
“私はなんて弱いのだろう”
しかし笑えることに、強くなりたいとも思えないのだった。
……ここでは。
いつも何かに怯えていた。恐れることが日常だった。どんな言葉も、どんな温もりも、少女に勇気を与えなかった。
少女は自分のちっぽけな心をただぎゅっと握り締めて、日々の過ぎゆくままに任せていた。そしてそれさえも怖くて仕方がなかった。
今、少しずつその怖さが遠のいていくのを感じる。
躍る心も落ち着きを取り戻し、今聴こえるのはどこまでも優しい歌。
“……貴方達のうちの誰かが、歌っているの?”
嬉しいよ、と声に出して呟き、少女は涙を拭おうとした。しかし手を動かすことがすでに億劫だったのでやめた。優しい歌と白い闇に身を任せているのが幸せすぎた。
少女の傍らには鮮やかな青色の表紙を持つ一冊の本が置かれている。白に染め上げられた世界の中で本の青だけはいつまでもくっきりと輝いており、少女はそれに気付いて満足を覚えている。
その青こそが“しるべ”なのだ。白い闇の中で少女の歩く道を照らす、青い灯。
“嬉しいよ”
と、少女はもう一度、今度は心の中だけで呟いた。声に出すことは出来なかった。少女はほとんど白い闇に紛れていた。
どれくらいの時が経っただろう。
少女は独り白い闇の中で、その瞬間が訪れるのをただじっと待ち続けた。一つの祈りを、胸に繰り返しながら。
“私は貴方達の隣に立ちたいだけ。それだけが、私の願い―――――”
やがて少女の姿はどこにも見えなくなり、残された本の青い表紙がひとりでにめくれたかと思うと全ての頁が勢いよく闇に舞い上がった。
それらも白に紛れて、消えた。
2007年執筆