道化の師
三日経っても、炎は言うことを聞かなかった。
空き地で剣を振る。意識を集中させ、刃に炎を灯す。灯る。だが片側に偏り、揺らぎ、数秒で消える。もう一度。今度は少し長く持つ。けれど剣を振った瞬間に散ってしまう。静止した状態では維持できても、動きが加わると制御が崩れる。それがアスの炎の現状だった。
百回やって百回、同じ結果。
隣ではアテネが術式の反復を続けていた。掌に光を灯し、形を保ち、対象に送る。その工程のどこかで魔力が漏れている。アテネ自身にはそれがわかっている。わかっていて、直せない。里で学んだ術式の根本に問題があるのだとしたら、独力で組み替えるのは途方もない作業だった。
ミルは地面に座り、膝の上に広げた紙に何かを書いては消している。魔物の行動パターンを体系化しようとしているのだろうが、一体分のデータから全体像を描くことに無理があるのは、ミル自身が一番わかっていた。
三人とも、同じ場所で足踏みをしている。努力はしている。怠けてはいない。それでも、壁は壁のまま動かなかった。
昼を過ぎたころ、アスは剣を鞘に収めた。これ以上振っても、今日は何も変わらない。腕が痛むだけだ。
アテネも手を下ろし、ミルも紙を畳んだ。三人で顔を見合わせたが、誰も何も言わなかった。言うべき言葉がなかった。
*
宿に戻る道すがら、声をかけられた。
「アス」
振り返ると、アイリスがいた。大通りの端、ギルドの裏口に近いあたり。白い外套ではなく、簡素な私服を着ている。珍しい姿だった。英雄が私服で街を歩くことは、あまりない。
「少し時間ある?」
理由の説明はなかった。アイリスはいつもそうだ。必要なことだけを、必要なだけ言う。
アスはアテネとミルに目を向けた。二人は頷いて、先に宿へ戻っていった。アスは小走りでアイリスに追いつく。並んで歩くと、身長差がはっきりわかった。アイリスの方が頭半分ほど高い。子どものころから変わらない。
ギルドの裏手にある小さな広場に着くと、アイリスは石段に腰を下ろした。アスもその隣に——少し距離を空けて座った。
「最近、どう」
何気ない問いかけだった。深刻な相談を持ちかける口調ではない。近所の知り合いに声をかけるような、自然な響き。けれどアイリスの目は、こちらの表情をちゃんと見ていた。
「……壁を感じてます」
正直に言った。格好をつけても仕方がない。アイリスの前では嘘がつけない。つきたくない。
「第1層で戦って、仲間もできて、でもそこから先に進めなくて。自主練してるんですけど、根本的なところが足りないというか——」
言葉が散らかっている自覚はあった。けれどアイリスは黙って聞いていた。途中で遮ったり、助言を挟んだりしない。全部聞いてから考える人だ。
「——自分の力の使い方が、よくわかってないんだと思います」
言い切ると、アイリスが少し間を置いて頷いた。
「紹介したい人がいるんだけど」
唐突だった。相談に対する返答というより、最初からそのつもりで呼び出したような口ぶりだった。もしかしたら、アスが壁にぶつかっていることは、とっくに見抜いていたのかもしれない。
「アリアドネっていう人。変わった人だけど、腕は確か。私も昔、少しだけ見てもらったことがある」
アイリスが。英雄であるアイリスが、訓練を受けたことがある相手。それだけで、ただの人間ではないとわかった。
「今ちょうどこの街に来てるから。会ってみて」
アイリスが視線を広場の奥に向けた。アスもつられてそちらを見る。
木陰に、人が立っていた。
長身だった。アイリスと同じか、それ以上。赤い髪が肩にかかり、切れ長の目がこちらを見ている。青年と呼ぶには落ち着きすぎていて、壮年と呼ぶには若すぎる。年齢の読めない顔だった。纏っている空気がどこか希薄で、そこにいるのに存在感が曖昧だった。
「やあ」
軽い声だった。手を上げて、ひらひらと振る。深刻さのかけらもない。
「アリアドネ。ご覧の通り、しがない旅人だよ」
しがない旅人がアイリスに紹介されるわけがない。嘘とも冗談ともつかない自己紹介に、アスは返す言葉を見失った。
「……アスです。よろしくお願いします」
「アス。いい名前だ。短くて覚えやすい」
にこりと笑う。人懐こい笑みだった。けれどその奥にある目が笑っていなかった。正確には、笑ってはいるのだが、それとは別の何かがこちらを観察している。品定めをされている、という感覚ではない。もっと奇妙な——興味深いものを見つけた子どものような、無邪気で底の知れない視線。
「アイリスから聞いたよ。第1層で頑張ってるんだって?」
「はい。でも、まだ全然——」
「全然、ね。うん。そういう自覚がある子は嫌いじゃないな」
話し方がどこかずれている。間の取り方、言葉の選び方、抑揚。会話をしているのに、一人で芝居をしているようにも見える。道化のような、という表現が浮かんで、そのまま消えなかった。
アイリスがアスに向き直った。
「この人、各地を回って有望な人を探してるの。英雄候補っていうか、伸びそうな人を見つけて育てるのが——趣味?」
最後だけアリアドネに確認するように言った。アリアドネは肩をすくめる。
「趣味って言うと軽いけど、まあ否定はしないよ」
「私も駆け出しのころ、この人に基礎を叩き直してもらった。何者かは——正直よくわからないんだけど」
アイリスが苦笑した。英雄がよくわからないと言い切る相手。それが目の前にいる。信頼しているのは表情でわかった。理解はしていないが、信頼している。そういう複雑な関係があるのだと思った。
アリアドネがゆっくり歩み寄ってきた。アスの前に立ち、見下ろす。身長差があった。切れ長の目が、アスの全身を舐めるように見る。顔、肩、腕、腰、足、そして——手に握られた剣。
「……ふうん」
長い沈黙があった。何を見ているのか、何を考えているのか、まるで読めなかった。
「面白い」
それだけだった。
「何が面白いんですか」
「さあ。何だろうね」
煙に巻かれた。わかっていたけれど、やはり掴みどころがない。この人物を前にすると、質問がすべてすり抜けていく。
アスは警戒していた。得体が知れない。名前も素性もわからない。この街に何をしに来たのかも、なぜ自分に興味を持ったのかも。
けれどアイリスが信じている、という一点だけが、不信を押しとどめていた。あの人が信頼した相手を、自分が疑う理由はない。理由はないが——目の前のこの人物は、やはり何かが普通ではなかった。
*
翌日、アリアドネは三人の前に現れた。
空き地で訓練をしていたら、いつの間にか立っていた。気配がなかった。ミルですら接近に気づかなかったらしく、珍しく目を見開いている。
「やあ。昨日の続き」
軽い挨拶。アテネは一瞬身構えたが、すぐに姿勢を正して礼をした。エルフの礼儀作法は丁寧だった。警戒はしている。それでも初対面の相手に失礼な態度は取らない。
「アイリスさんからの紹介だと聞きました。アテネと申します」
「アテネ。エルフだね。里はどこ? ——ああ、言いたくなければいいよ。エルフの事情は知ってる」
踏み込んだかと思えばすぐに引く。その呼吸の巧さが、ただの変人ではないことを示していた。
ミルは名乗らなかった。アリアドネの方を向いたまま、無言で観察している。目を細め、相手の立ち姿、呼吸、足の置き方、すべてを見ている。数秒の沈黙のあと、ミルがアスの袖を引いた。
「この人、普通じゃない」
小声だった。しかしアリアドネの耳には届いていたらしい。
「はは。いいね、君。目がいい」
笑っていた。ミルに指摘されたことを気にするどころか、楽しんでいる。ミルの表情がわずかに硬くなった。見抜かれたことではなく、聞こえていたことに対する驚きだった。あの距離で、あの音量が聞こえる耳。それだけで、常人の範疇にない。
「それで、あなたは何をしに」
ミルが正面から問うた。回りくどいことを嫌う性分がそのまま出ている。
「君たちの訓練を見てあげようかと思って」
「理由は」
「暇だから」
三人の間に沈黙が落ちた。理由になっていない。暇だからという動機で赤の他人を鍛える人間がどこにいる。
けれどアリアドネは嘘をついている顔ではなかった。嘘をついている顔と本当のことを言っている顔の区別がつかないだけかもしれないが。
アスはアテネとミルを見た。アテネは判断を委ねるように小さく頷いた。ミルは何も言わなかったが、否定もしなかった。
「——お願いします」
断る理由がなかった。正確には、断る余裕がなかった。壁にぶつかっている。自力では越えられない。それがわかっている以上、手が差し伸べられたなら掴むしかない。たとえその手が、何を考えているかわからない人物のものであっても。
「じゃあ、まず見せて。普段の訓練をそのまま」
アリアドネが空き地の端に腰を下ろした。足を投げ出し、片膝を立てて頬杖をつく。道化が芝居を眺める姿勢。
アスは剣を抜いた。いつもの素振り。刃に炎を灯し、振る。炎は片側に偏り、三振り目で散った。
「もう一回」
言われるままに繰り返す。今度は五振り。炎は少し長く持ったが、やはり制御が安定しない。
「もう一回。今度は目を閉じて」
目を閉じて剣を振れと言われたのは初めてだった。戸惑いながら従う。闇の中で腕を振る。炎が灯った感触はあったが、すぐに消えた。
「はい、そこまで」
目を開けると、アリアドネが立ち上がっていた。さっきまでの怠惰な姿勢はどこにもない。こちらに歩み寄ってくるその足取りに、無駄が一切なかった。
「君、炎を目で見てるでしょう」
「……はい」
「それが原因。炎を視覚で捉えようとするから、見えた瞬間に意識が炎に引っ張られる。意識が引っ張られると力のバランスが崩れて、偏る。目で追うな。身体で感じろ。炎は君の一部だ。自分の腕を見ながら腕を動かす人間はいない」
一度聞いただけで、すとんと腑に落ちた。そうだ。自分はずっと炎を外側のものとして扱っていた。剣に纏わせるもの、操作するもの、制御するもの。でもアリアドネは言っている。炎は自分自身だ、と。
「もう一回。目を開けたままでいい。ただし、炎を見るな」
剣を構えた。炎を灯す。灯った瞬間、目がそちらに行きそうになる。堪える。見ない。感じる。腕の延長として、身体の一部として。
五振り。六振り。七振り。
炎は——消えなかった。
刃の全体に均一ではないが、明らかに先ほどよりバランスが良い。偏りが減っている。振っても散らない。完璧ではない。まだぶれる。けれど今まで何百回繰り返しても掴めなかったものの輪郭が、たった一言で見えた。
「アテネさん」
アリアドネの視線が移った。アテネが背筋を伸ばす。
「さっきの術式、見せて」
アテネが掌を前に出し、光を灯した。回復術の基本動作。光が漏れるのはいつも通りだが、アリアドネはそれを二秒見ただけで口を開いた。
「魔力の起点が手首にあるね。里の術式だとそうなる。けど人体の魔力回路は肘の内側が起点の方が効率がいい。手首始動だと指先に届く前に三割漏れてる」
アテネが目を見開いた。三割。その数字に心当たりがあるのだろう。自分が感じていた「無駄」の正体を、この人物は一目で言い当てた。
「試してみて。肘の内側を意識して、そこから指先に流す感覚で」
アテネが言われた通りにした。光が灯る。今までと同じ動作のはずなのに、光の質が違った。散らばらない。輪郭がはっきりしている。アテネ自身がそれに驚いて、手元を凝視していた。
ミルだけが、アリアドネから目を離さなかった。
この人物が三人の訓練を見て、一目で本質を見抜き、的確に修正した。それは単に知識が豊富だというだけでは説明がつかない。魔法と剣術の両方に精通し、初見で他人の癖を言い当てる観察力を持ち、しかもアイリスに信頼されている。
何者なのか。
その問いがアスの中で大きくなっていた。聞いても答えてもらえないとわかっている。それでも気になった。
「あなたは、いったい——」
「はい、今日はここまで」
アリアドネは軽く手を叩いた。質問を遮るタイミングが完璧すぎて、わざとだとわかった。
「続きはまた今度。基礎を見直すだけで、君たちはまだまだ伸びるよ」
笑っている。あの道化のような、底の読めない笑み。
三人が息を整えている間に、アリアドネは空き地の端まで歩いていた。振り返り、片手を上げる。
「また来る」
それだけ言って、木立の影に消えた。足音がなかった。
三人が取り残された。疲弊していた。たった一度の訓練なのに、全身が重い。それでも手応えがあった。何百回自主練をしても届かなかった場所に、ほんの少しだけ手が届いた。
ミルが腕を組んだまま、アリアドネが消えた方向を見ている。
「……あの人、全部わかってた。最初から」
静かな声だった。断定だった。
「私たちが何に詰まっているか、どこを直せば動くか。訓練を見る前から、たぶんわかってた」
アスもアテネも、否定できなかった。
得体が知れない。信用しきれない。けれど——この人についていけば、先に進めるかもしれない。
その予感だけが、三人の中に残った。
*
空き地に誰もいなくなったあと。
アリアドネは木立の向こう側に立っていた。消えたのではなく、見えない場所に移動しただけだった。木の幹に背を預け、腕を組み、空き地の方を見ている。夕陽がその横顔を照らしていた。さっきまでの軽薄な笑みはなく、表情のない目でアスたちがいた場所を眺めている。
「——やっと見つけた」
声は小さかった。独り言にしても小さすぎる。風に混じって消えるほどの。
その声に乗っていた感情が何だったのか、聞いた者はいない。安堵だったのか、期待だったのか、あるいはそのどちらでもない、もっと古く、もっと深い何かだったのか。
アリアドネは空を見上げた。夕焼けが薄れて、最初の星がひとつ見えている。
長い時間を過ごしてきた目だった。
*
同じころ、アスもまた空を見上げていた。
宿へ戻る道の途中で足を止めて、夕暮れの空を見た。色が変わっていく。橙から紫へ、紫から紺へ。星が一つ、瞬いている。
あの人が何者かはわからない。次にいつ来るかもわからない。でも今日、確かに何かが動いた。何百回やっても越えられなかった壁に、初めてひびが入った。
まだ壊せてはいない。でもひびが入った。
アスは深く息を吸い込んで、歩き出した。隣にアテネとミルがいた。二人とも疲れた顔をしているのに、足取りはどこか軽かった。
明日もあの場所に行こう。そう思った。あの人が来ても来なくても、やることは変わらない。
ただ今日は、昨日より少しだけ、前に進めた気がした。
了
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