駆け抜ける
街の人々が、通りに出ていた。
朝の光がまだ弱い。夜明け直後の、空が白と紫の間にある時刻。その薄い光の中に、人影が並んでいた。市場の露店はまだ開いていない。けれど通りに人がいた。老人が。子供が。パン屋の主人が。壁を直している大工が。復興中の街の住人たちが、門に向かう行列を見送るために出てきていた。
五十人を超える精鋭が、通りを歩いている。武装した人間の列が石畳を踏む音が、朝の静けさに響いていた。誰も話さない。足音だけが連なって、門に向かっていく。
アスは列の中にいた。八人の仲間と共に。レイが右にいて、ロイドが左にいて、後ろにアテネとミルがいる。シアとクロとガルドがその周囲を固めている。
通りの端で、子供がこちらを見ていた。母親の手を握りながら、大きな目で武装した人間の列を見上げている。あの日、侵食編で取り残されていた子供を思い出した。あのときアスが守った子供と、同じくらいの年。
アスは剣の柄に触れた。この街を守るために行く。この子供が明日も走れるように。
門が見えてきた。
*
列の先頭に、英雄たちが立っていた。アーサーが中央。アイリスが右。リーファが左。クール、ナーバスがその後ろ。ロキの姿はまだない。
アスは歩きながら、胸の中の疑問を噛んでいた。
なぜ自分がここにいるのか。
五層を踏破した。バッシュのエンチャントを継承した。ナイトブロウがある。ミルのスキルがある。八人の連携がある。それでも——周囲にいるのは五層以上の常連たちだ。何年もの経験を持つ精鋭。その中に、まだ一年にも満たない冒険者が混じっている。
視線が気になった。精鋭たちの中に、アスたちを見る目がいくつかある。好意的なものもあれば、疑問を持つものもある。あいつらは何者だ。なぜここにいる。英雄のパーティーでもないのに。
「アス」
声がかかった。アーサーだった。列の先頭から少し下がって、アスの横に並んだ。歩きながら。
「一つ伝えておく」
アーサーの声は低く、周囲には聞こえない音量だった。
「お前たちがここにいるのは、バッシュとロキが推薦したからだ」
二つの名前。バッシュと——ロキ。
「バッシュはお前に技を継承した。その判断自体が推薦だ。バッシュが認めなければ、あの技術は渡されなかった」
バッシュの言葉が蘇った。「本物だった」。あの寡黙な男が、最後の力で伝えた言葉。
「ロキからも推薦があった。あいつは表に出ないが、裏で動く人間だ。お前たちの成長を最初から見ていたらしい」
ロキ。消息不明の英雄。姿を見せない七人目。けれどアーサーは「推薦があった」と言う。つまりロキは——どこかにいる。どこかでアスたちを見ていて、アーサーに推薦を出した。
アリアドネの顔が浮かんだ。「やっと見つけた」と呟いた、あの声。
まだ確信はない。けれど胸の中で、点が少しずつ近づいている。
「二人が認めた人間を、俺は信じる」
アーサーが言った。それだけだった。それだけで——アスの中の疑問が、静かに溶けた。
なぜ自分がここにいるのか。バッシュが認めた。ロキが認めた。アーサーがそれを信じた。だから、ここにいる。
背筋が伸びた。周囲の視線が気にならなくなった。
アーサーが前に戻っていった。その背中を見ながら、アスは門に向かって歩いた。
*
六層は、異質だった。
五層までの層には、それぞれ特徴があった。岩場。洞窟。森。闇。歪み。六層にはそのどれもなかった。
何もなかった。
足元に地面がある。硬い。金属のような感触。それ以外は——何もない。壁がない。天井がない。地面があるだけで、その上は無限の暗黒が広がっている。星のない夜空を裏返したような空間。どこまでも続く平坦な地面と、どこまでも続く暗闇。
五十人の足音が、金属の床を叩く音に変わった。規則的な連打。それ以外の音がない。風もない。匂いもない。温度すらない。暑くも寒くもない。何の情報もない空間。
「気持ち悪いな」とクロが小声で言った。的確だった。人間の感覚は、何かがあることを前提に作られている。何もないことが、それだけで不快だった。
悪魔の気配は濃密だった。空間が空っぽであるにもかかわらず、空気に溶け込んだ魔力の密度が五層の比ではない。呼吸するたびに、喉の奥が焼けるように痛い。
そして——遠くに、何かが漂っていた。
見えない。感じるだけ。大罪の悪魔の残滓。ルシファーを倒したときに感じたものと同じ質の圧が、この空間の底に沈殿している。六体分。七層に向かって、重力のように引っ張られている。
「止まるな。駆け抜ける」
アーサーの声が列全体に通った。
全員の足が速まった。歩きから走りに変わった。五十人が金属の床を蹴り、暗闇の中を駆ける。灯りの範囲だけが世界で、その外側は完全な闇。
最初の遭遇は、走り始めて五分後だった。
前方の闇から、赤い光点が溢れ出した。一つや二つではない。数十。数百。闇の中に赤い星座が浮かび上がるように、光点が広がっていく。
危険度八の悪魔。それが——大群で来た。
「散開!」
アーサーの号令が飛んだ。各パーティーが即座に散った。訓練された動きだった。アイリスのパーティーが先頭に飛び出し、リーファのパーティーが左右に展開し、クールとナーバスが後方を固める。
アーサーが走った。
走りながら——腰のエクスカリバーを抜いた。
世界が変わった。
鞘から解き放たれた瞬間、エクスカリバーが光を放った。六層の暗闇を切り裂く金色の光。剣そのものが光源になっている。百歩先まで照らす光が、押し寄せる悪魔の群れを暴いた。
アーサーが振った。一閃。
光の弧が水平に走った。前方の悪魔——数えきれないほどの群れの先頭部分が、一振りで消し飛んだ。斬ったのではない。光が触れたものを消滅させた。十体以上が一瞬で。
「最強」の意味を、アスは初めて理解した。
横でリーファが走っていた。黒髪が風に靡き——いや、風を自分で生んでいた。リーファの周囲で空気が渦巻き、その渦が刃になっている。
真空刃。
リーファが片手を振ると、空気の刃が扇状に飛んだ。見えない刃が悪魔の群れを切り裂き、前方を一掃する。走りながら。足を止めずに。風の英雄は、移動と攻撃を同時にこなしていた。
クールが後方で手を翳した。白銀の髪が逆立つ。氷結。足元から氷が走り、追ってくる悪魔の脚を凍結させていく。走り抜けた後ろ側を、氷の壁が塞いでいく。追撃を封じている。
六層を駆け抜ける。立ち止まらない。留まらない。前へ。前へ。
アスたち八人は本隊の中央を走っていた。アーサーが前方を切り開き、英雄たちが左右と後方を守っている。その庇護の中を——けれど自分たちも戦いながら走っている。
横合いから飛び出してきた危険度九の悪魔に、ロイドの大剣が唸った。一撃で弾き飛ばす。かつて危険度四に苦戦していた男が、九を一撃で退ける。成長の証明が、一振りごとに刻まれていく。
ソラが近くにいた。
アイリスのパーティーは先頭だが、ソラだけが本隊の近くに残っていた。風魔法で周囲の悪魔を吹き飛ばしながら走っている。その動きは軽く、正確で——強かった。認めたくないが、認めないわけにはいかない。この男は強い。
悪魔が左から来た。アスとソラの間に。
二人が同時に動いた。
アスが炎を放ち、ソラが風を放った。炎と風がぶつかるかと思った——が、ぶつからなかった。ソラの風がアスの炎を巻き込み、火炎旋風のようなものが悪魔を包んだ。二つの属性が偶然噛み合って、予想以上の威力を生んだ。
悪魔が消し飛んだ。
ソラがアスを見た。アスがソラを見た。一瞬だけ視線が交差した。
ソラの目に、さっきまでの棘がなかった。代わりに——驚きがあった。こいつ、やるな。そういう目。歪み合っている相手の実力を、否定できない瞬間。
アスも同じだった。ソラの風が自分の炎と噛み合った。この男と組めば、もっと強い攻撃ができる。認めたくなくても、身体が知っている。
二人とも何も言わなかった。再び前を向き、走り続けた。
6層のボスの気配が、近づいていた。
闇の奥から。金属の床を通じて振動が伝わってくる。巨大な何かが、前方にいる。一体ではない。複数。六層を支配する存在。七層への道を塞ぐ番人。
全員が感じていた。呼吸が浅くなっている。足が重くなっている。五層のボスを超える圧。けれど今は一人じゃない。五十人がいる。英雄たちがいる。
ロキが現れたのは、そのときだった。
気づいたら列の中にいた。赤い髪。長身。切れ長の目。アリアドネの——いや、ロキの姿。見た目は同じだ。背格好も顔も声も。けれど纏っている空気が違った。道化の仮面がどこにもない。英雄としての、剥き出しの存在感。
アスの目がロキを捉えた瞬間、胸の中で何かが揺れた。
同じ人だ。同じ顔。同じ声。同じ赤い髪。訓練場で怠惰に寝転がっていた人と、今走っている人が、同じ存在に見えた。けれど確信が持てない。アリアドネは旅人で、ロキは英雄だ。同一人物だと断言する根拠がない。
考えている暇はなかった。
前方の闇が——裂けた。
*
六層の最奥部。七層との境界に近い場所。金属の床が途切れ、その先に——虚空があった。
虚空の中に、影が立っていた。
二体。
六層のボス。七層への道を守る番人。大罪の悪魔ではない。けれど——それに次ぐ格を持つ存在。五層のボスを遥かに超える密度の、層の支配者。
一体目は巨大だった。ルシファーより大きい。四本の腕が地面に着くほど長く、全身を覆う赤い甲殻が脈動している。角が一本。額から天を突く、歪んだ黒い角。目が——一つ。額の角の根元に、巨大な一つ目が開いている。
二体目は細長かった。蛇のような体躯。上半身だけが人型で、下半身は何十メートルもの尾になっている。顔は美しかった。堕天使と同じ、残酷な美。けれど口が耳まで裂けていて、中に三列の歯が並んでいた。
二体の圧が、五十人を叩いた。
全員の足が止まった。ルシファーのときと同じ。六層のボスの存在圧。身体が拒否する。本能が逃げろと叫ぶ。
英雄たちが前に出た。
「各自持ち場につけ。パーティーメンバーは英雄の支援に回れ。アスたちの八人は周囲の悪魔を抑えろ」
アーサーの声が通った。冷静だった。六層のボスを前にして、一切の動揺がない。
英雄たちが散開した。アイリスとリーファが一体目に。クールとナーバスが二体目に。アーサーが全体を見渡しながら、状況に応じて動く遊撃に。ロキが——影のように、戦場の端に消えた。
ボスたちの周囲に、護衛のように強化悪魔が湧いてきた。金属の床から染み出すように。危険度八、九クラスが次々と。英雄たちがボスと戦う間に、護衛がその邪魔をしようとしている。
それを止めるのが、アスたちの仕事だった。
「行くぞ」
アスが言った。八人が散開した。
周囲の悪魔を、片っ端から。英雄たちの戦いの場を守る。護衛を近づけない。それが今の自分たちの役割だ。
戦場が二重構造になった。中心で英雄とボスが激突し、その外縁で精鋭たちと護衛が戦う。
アイリスの聖光が放たれた。白い光が一体目のボスを貫いた。赤い甲殻が焼け、表面が罅割れた。再生が始まる。始まった瞬間に——聖光がその再生を封じた。光が傷口に残り、塞がろうとする肉を焼き続けている。
再生封じ。アイリスの光は、ボスの再生力を無効化できる。
リーファが跳んだ。空中で身体を回転させ、四方向に風を放った。四つの竜巻が生まれた。ボスを取り囲むように渦巻き、その中で空気が刃になって悪魔の体表を削っていく。捩じ切る。四つの竜巻が同時に内側へ収束し、悪魔の身体を圧縮するように締め上げた。
二体目に、ナーバスの闇が伸びた。影縫い。ボスの影を地面に縫い止め、動きを封じる。蛇のような体躯が暴れ、影を引きちぎろうとする。ナーバスの顔に汗が浮いた。ボスの力は、影縫い程度では止めきれない。けれど数秒の拘束ができれば十分だった。
クールが手を翳した。凍結領域。ナーバスが止めている間に、ボスの周囲の空間が白く染まっていく。空気中の水分が凍結し、氷の結晶が悪魔の体表に張りつき、内部に浸透していく。
ベルがクールの横に立っていた。手を翳し、魔力をクールに送り込んでいる。凍結領域の維持には莫大な魔力がかかる。一人では打てない。ベルの補助があって初めて成立する。
氷が悪魔を覆い尽くしていく。蛇の体躯が白く凍りついていく。
——絶対零度。
クールの瞳が白く輝いた。凍結が限界を超えた。温度がゼロを下回り、さらに下がり、物質が存在を維持できない領域に達した。ボスの身体が——凍結を超えて、砕け始めた。氷になったのではない。存在が凍結した。再生すらできない。凍りついた肉が塵になって散っていく。
一体が崩壊した。
もう一体にアーサーが向かった。
エクスカリバーを構えた。剣の周囲に光の円環が浮かんだ。十二の光点が円を描き、回転を始める。
円卓の輪環。
十二の光点が一つずつ輝きを増していく。騎士の数だけ光がある。その光がエクスカリバーに集束していく。剣が輝く。金色ではなくなっていた。白。純粋な白い光。全ての色を含んだ白。
アーサーが踏み込んだ。
ランスロット。
一閃。それだけだった。振り抜いた。刃がボスに触れた瞬間——通った。甲殻を。肉を。骨を。核を。全てを。
絶対に通す一撃。防御を無視する。再生を無視する。存在の密度すら無視して、ただ通る。ランスロットとは、そういうスキルだった。
ボスの身体が、縦に裂けた。左右に分かれて崩れ落ちた。核が割れ、内部から光が溢れ、塵になって散っていった。
二体が消えた。
護衛の悪魔たちが動揺した。主を失った手駒が統制を失い、散り散りに逃げ始める。八人が——いや、五十人全員が、逃げる護衛を追い散らした。
六層が静まった。
アスは戦場の端で膝をついていた。護衛の悪魔を何体も倒した消耗で、息が上がっている。けれど目は前を向いていた。
英雄たちの戦いを見た。圧倒的だった。六層のボスを——五層のそれを遥かに凌ぐ存在を、五人の英雄とそのパーティーが叩き潰した。これが英雄の力。これが七つの柱。
あそこにアイリスがいた。聖光で再生を封じ、六層のボスと正面から戦った。あの場所に——いつか立ちたいと思った人が。
まだ遠い。けれど同じ戦場にいる。同じ空間で戦った。護衛を抑えることが、英雄たちがボスと戦うための条件だった。自分たちがいなければ、英雄たちは護衛に妨害されていた。
役割を果たした。英雄と同じ場所で、違う形で。
ナイトブロウとバッシュのエンチャントを組み合わせた一撃を、護衛の悪魔に何度か放った。威力が以前より上がっている。エンチャントの維持時間が十秒を超えた。まだ足りない。けれど確実に前に進んでいる。
全パーティーが集まった。消耗している。けれど全員が立っていた。死者はいない。六層のボスを二体倒し、六層を駆け抜け、全員が生きている。
その奥に——七層への入り口が見えた。
五層から六層への境界とは違っていた。光の裂け目ではない。闇の裂け目だった。暗闇の中に、さらに暗い場所がある。光を完全に拒絶する闇。その向こうから、残りの大罪の悪魔の圧が——四体分の重さが、這い上がってきていた。
アスは見上げた。七層への闇の裂け目を。
あそこに行く。あの先に、全ての始まりがある。大罪の悪魔。封印の底。世界の終わりか、世界の救いか。答えはあの闇の向こうにある。
「次があそこだ」
声には出さなかった。胸の中で呟いた。
隣でロイドが前を見ていた。レイが剣を握り直していた。アテネが息を整えていた。ミルがメモ帳を閉じていた。八人が——五十人が——同じ方向を見ていた。
七層への闇が、静かに口を開けていた。
了




