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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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受け継ぐ炎


 手紙は短かった。


 ギルドの職員から渡された封筒の中に、紙が一枚。筆圧の強い、太い文字が三語だけ並んでいた。


「会いたい。バッシュ」


 署名すら要らなかった。この字を書く人間を、アスは一人しか知らない。


 五層踏破から二日が経っていた。八人は身体を休めている。六層に挑む前の、束の間の休息。その最中に、手紙が届いた。


 アスは一人で街を出た。


        *


 丘を上る道は、前回と同じだった。


 石畳の坂道が城壁の外へ続き、草原を抜けて丘の上に至る。秋の風が草を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。穏やかな昼だった。


 バッシュの屋敷が見えてきた。宮殿のような石造りの建物。高い天井と大きな窓。前回訪れたときと外観は変わっていない。けれど——空気が違った。


 静かだった。前回も静かだったが、あのときの静けさには力があった。英雄が住む場所の、抑制された力の気配。今日の静けさには——力がない。火の消えた暖炉のような、何かが失われたあとの静けさ。


 扉を叩いた。返事はなかった。把手に手をかけると、鍵はかかっていなかった。重い木の扉がゆっくりと内側に開いた。


 廊下を歩いた。前回バッシュに案内された道を覚えている。石の壁に灯りが並んでいるが、半分が消えていた。薄暗い廊下を進み、書斎の前に着いた。


 扉が開いていた。


 バッシュが椅子に座っていた。


 暖炉の前の、あの大きな椅子。前回もここに座っていた。変わっていない。黒い短髪。浅黒い肌。広い肩幅。巨体が椅子に収まっている。


 変わっていない——はずだった。


 アスが部屋に入って三歩で、違和感に気づいた。バッシュの周囲に、熱がなかった。前回この部屋に入ったとき、暖炉に火が入っていないのにバッシュの存在だけで空気が温かかった。英雄の身体が放つ炎の気配。乾いた温もり。


 それが、なかった。


 部屋が寒い。秋の冷気が窓の隙間から入り込み、石の壁を冷やしている。暖炉には薪が積まれているが、火は入っていない。以前のバッシュなら一瞥で灯した。視線だけで。


 灯っていない。


「来たか」


 バッシュが顔を上げた。茶色い瞳がアスを見た。目は変わっていなかった。あの値踏みするような、けれど敵意のない目。


「座れ」


 向かいの椅子を示した。アスが座る。前回と同じ配置。暖炉を挟んで向かい合う。けれど前回は暖炉の火がバッシュの横顔を照らしていた。今は冷えた灰だけが残っている。


 バッシュが立ち上がろうとした。


 椅子の肘掛けに手をつき、身体を持ち上げる。その動作が——遅かった。以前のバッシュは、椅子から立ち上がるのに肘掛けなど使わなかった。巨体を一瞬で起こし、音もなく立っていた。今は腕に体重を預け、ゆっくりと、膝を伸ばすように立ち上がっている。


 立った。けれどそれだけの動作に、息を吐いた。微かに。ほんの微かに。


 アスは何も言えなかった。見ていた。見ていることしかできなかった。目の前で起きていることの意味を、頭が処理しきれなかった。


 バッシュが暖炉を見た。薪の積まれた暖炉。一瞥すれば火が灯るはずの。


 灯らなかった。


 バッシュの目が暖炉を見て、何も起きなかった。


 数秒の沈黙があった。バッシュが視線を暖炉から外した。アスに戻した。


「もう戦えない」


 静かだった。感情を乗せなかった。ロイドが堕天使のことを語ったときと同じ声。ミルが「お荷物だ」と言ったときと同じ声。事実を述べている。事実だから感情がない。感情を乗せたら、事実が歪んでしまうから。


「ルシファーとの相打ちで、魔力回路が焼き切れた。もう炎は出ない。身体の強化もできない。英雄としての力は——全部、あの一撃に使い切った」


 あの一撃。空に隕石を生み出した、最後の攻撃。バッシュがそれまでの戦闘で生み出した全ての炎——消えずに残り続けていた全ての火を、一点に集約して叩き落とした。あの一撃が、バッシュの英雄としての最後だった。


 アスの口が動いた。何か言おうとした。言葉が出なかった。何を言えばいい。謝罪か。感謝か。慰めか。どれも違う。どれも足りない。


 ルシファーを倒した代償。あの日、自分の前に立って「下がれ」と言ってくれた男が。自分を守るために全てを使い切った——


「違う」


 バッシュが言った。アスの思考を読んだかのように。


「お前のためじゃない」


 短く。けれど強く。


「この街のためだ。この世界のためだ。ルシファーを放置すれば、全てが終わっていた。俺がやるべきことをやった。それだけだ」


 嘘ではなかった。バッシュは嘘をつかない。英雄として、世界を守るために全力を出した。個人のためではない。それは本当だ。


 けれどアスは覚えている。あの瞬間、バッシュが空から降りてきたとき。ルシファーの黒い光がアスに向かって放たれようとしたとき。バッシュの炎が、アスとルシファーの間に割り込んだ。あれは世界のためだけではなかった。


「悔いはない」


 バッシュが椅子に座り直した。立ち上がったのは、自分の状態を見せるためだったのかもしれない。言葉だけでなく、身体で示す。嘘がつけないように。


「やるべきことをやった。守るべきものを守った。代償がこれだったとして——悔いはない」


 その言葉の重さを、アスは全身で受け止めた。二度と戦えない。炎が出ない。暖炉に火も灯せない。英雄だった男が、普通の人間に戻った。戻った、というより——削られた。力を全て持っていかれた。


 それでも悔いはないと言い切る。


 強い人だと思った。剣を振るう強さとは別の強さ。失ったものを前にして、なお前を向ける強さ。


「お前に渡したいものがある」


 バッシュが言った。声の調子が変わった。さっきまでの報告の声ではない。もっと——積極的な声。何かを伝えるための声。


「不撓不屈のエンチャント技術。俺の体からは失われた。けれど技術として伝えることはできる」


 アスが目を見開いた。


「継承……ですか」


「ああ。俺の炎はもう出ない。だがお前の炎がある。お前の中にある炎に、不撓不屈の性質を重ねる方法を教えられる。同じ形にはならない。俺のスキルがそのまま移るわけじゃない。お前の炎と組み合わせた、お前だけの形に昇華させる」


「俺に、使えるんですか」


「わからない。やってみないと。ただ——」


 バッシュが少し間を置いた。


「あの日、お前のナイトブロウが俺のエンチャントと融合した。あの瞬間、お前の身体は俺の技術を一度受け入れている。相性はある。素地がある」


 あの日。ルシファー戦。バッシュのエンチャントがアスの炎に乗り、ナイトブロウと融合した。あの感覚をアスの身体は覚えている。手の中で何かが変わった感覚。炎の質が変わった感覚。


「立て」


 バッシュが言った。自分は座ったまま。立ち上がる体力を惜しんでいるのではない。もう教えるしかできないから、座っている。剣を振って見せることも、炎を灯して示すこともできない。言葉と感覚だけで伝える。


 アスが立ち上がった。剣を抜いた。


「炎を出せ。小さく。蝋燭くらいの」


 アリアドネに最初に教わった練習と同じだった。細く、小さく。刃先に小さな炎が灯った。


「そのまま維持しろ。次に、炎を出している感覚に集中しろ。魔力が体の中を流れて、指先を通って、剣に到達して、炎になる。その流れを意識しろ」


 アスは目を閉じた。感じる。魔力の流れ。胸の奥から腕を通り、手首を抜けて指先に至る。指先から柄を伝い、刃に乗り、炎になる。その道筋が、今ははっきりと見える。アリアドネの訓練と、何百回もの実戦が、この感覚を研ぎ澄ませた。


「その流れの途中に——もう一つ、回路を作る感覚がある。枝分かれだ。炎を作る回路の横に、もう一本。そこに『維持』の概念を流し込む」


「維持……」


「一度出した力を保持するための回路だ。通常、魔法は出した瞬間から消え始める。魔力を注ぎ続けなければ維持できない。けれどこの回路を通すと——出した力がそのまま残る。追加のコストなしで」


 不撓不屈の核心。一度出した魔法の維持に魔力消費がない。それは「維持」という概念を、魔力の流れの中に組み込むことで実現している。


 アスは集中した。目を閉じたまま、自分の魔力の流れを感じている。胸から腕へ。腕から手首へ。手首から指先へ。その途中に——もう一本、枝を作る。


 難しかった。流れを維持しながら新しい道を開くのは、炎を灯しながら別のことをするのに似ていた。アリアドネが「炎を目で見るな、身体で感じろ」と言ったのと同じ原理。炎の制御に意識を取られると、新しい回路に意識が回らない。


 数分間、何も起きなかった。炎が灯っている。けれど変化はない。


「焦るな」


 バッシュの声が聞こえた。穏やかだった。この男の声がこんなに穏やかだったことがあっただろうか。


「炎を変えようとするな。炎はそのままでいい。お前がやるのは、炎の横に新しい道を開くことだ。炎を変えるんじゃない。道を増やす」


 道を増やす。炎を変えるのではなく。


 肩の力を抜いた。炎を意識するのをやめた。炎はそのままでいい。今まで通り燃えていればいい。その横に——もう一つ。


 感じた。


 微かに。本当に微かに。魔力の流れの途中に、分岐が生まれた。小さな枝。針の穴ほどの細い道。そこに——何かが通った。


 炎が変わった。


 目を開けた。剣の上の炎を見た。橙色の火。いつもの炎。見た目は変わっていない。けれど——消えない感覚があった。魔力を注ぐのをやめても、炎が残っている。数秒。ほんの数秒だけ。けれど確かに、魔力の供給が止まった瞬間にも炎が燃え続けていた。


「……残ってる」


「ああ。それだ」


 バッシュの声に、熱が戻っていた。炎の熱ではない。人間の熱。感情の熱。


「筋がいい」


 アスが顔を上げると、バッシュが笑っていた。


 笑っていた。


 口角が上がり、目が細くなり、頬が動いていた。バッシュの笑みを見たのは——二度目だった。一度目はルシファー戦で「消えないだろう」と呟いたとき。あのときは戦闘中の、鋭い笑みだった。


 今日の笑みは違った。温かかった。教え子の成長を見た師の笑み——いや、もっと個人的な何か。自分が失ったものを、別の誰かの中に見つけた者の笑み。


「今のは数秒だった。これを伸ばせ。お前の炎の制御力なら、訓練すれば分単位で維持できるようになる。ナイトブロウと組み合わせれば——」


「ナイトブロウのエンチャントを、他の人にもかけられる……?」


「そこまで行けるかは、お前次第だ。俺のエンチャントは他者に強化をかける形だった。お前の場合は——お前の炎とナイトブロウの性質に合わせた、別の形になるだろう。俺の真似をするな。お前の形を作れ」


 お前の形。バッシュの不撓不屈ではなく、アスの不撓不屈。同じ技術を受け継いで、違う花を咲かせる。


 アスは何度も試した。小さな炎を灯し、維持の回路を開き、魔力を止めても炎を残す。五秒。七秒。十秒。繰り返すたびに少しずつ伸びていく。完璧ではない。安定もしていない。けれど道筋が見えた。


 バッシュが椅子から声を出し続けた。立てない身体で、言葉だけで教え続けた。タイミングの指示。力の配分の助言。回路の感覚を言語化して伝える。剣を振って見せることも、炎を灯して示すこともできない。声だけ。


 ミルの戦いと同じだった。声だけで戦場を動かすサポーターと、声だけで技術を継承する英雄。武器を持たない者の戦い方には、形は違えど同じ芯がある。


 日が傾いた。窓から差し込む光が橙色に変わっていく。


 アスは剣を鞘に戻した。手の中に新しい感覚が残っている。まだ未完成だ。数秒の維持しかできない。けれど種は植わった。あとは育てるだけだ。


「バッシュさん」


「ああ」


「ありがとうございました」


 バッシュが首を振った。感謝を受け取らない仕草ではなかった。感謝は要らない、という意味でもなかった。ただ——当然のことをしただけだ、という首の振り方。


「最後の英雄、という言葉」


 バッシュが言った。目がアスを見ている。


「意味はまだわからないだろう。いつかわかる。そのときまで——」


 少し間を置いた。


「死ぬな」


 短かった。二語。けれどそこにバッシュの全てがあった。英雄としての力を失った男が、次の世代に託す最後の言葉。死ぬな。生きて、先へ行け。俺が行けなかった場所まで。


 アスが頷いた。深く。言葉ではなく、首の動きで返した。バッシュに倣って。この男に対しては、言葉より行動の方が伝わる。


「行きます」


 立ち上がった。書斎の扉に向かって歩いた。


「行け」


 バッシュの声が背中に届いた。振り返らなかった。振り返ったら、何かが溢れてしまいそうだった。暖炉に火が灯らない書斎。椅子から立ち上がるのに時間がかかる英雄。それを見たら——足が止まる。


 廊下を歩いた。灯りが半分消えた廊下。玄関の扉を開けた。外に出た。


 空が広かった。


 秋の空。高く澄んだ青。雲が白く流れている。丘の上から街が見えた。復興中の建物。新しい屋根。結界の光が——北側の修復された箇所も含めて、街全体を包んでいる。


 手を見た。右手。剣を握る手。その手の中に、新しい感覚がある。バッシュの不撓不屈の欠片。維持の回路。まだ数秒しか保てない。けれどここにある。


 バッシュが全てを使い切って守ったもの。この街。この世界。その意志が、アスの手の中に受け継がれた。同じ炎。違う形。けれど同じ方向を向いている。


 六層へ行く。


 バッシュの炎を受け継いで。アリアドネに鍛えられて。仲間と一緒に。この手で守れるものを守りながら。


 丘を下り始めた。街に向かって。仲間が待つ場所に向かって。


 手の中の感覚が、温かかった。


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