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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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超えた道


 最初に立ち上がったのは、ガルドだった。


 地面に盾を置いたまま座っていた男が、無言で手を伸ばし、盾を掴み、立ち上がった。足元が揺れた。それでも立った。盾を腕に通し、正面を向いた。その背中が、全員に伝えていた。まだ終わっていない、と。


 ロイドが続いた。大剣を地面から引き抜き、肩に担いだ。左肩が軋んでいるはずだ。それでも担いだ。


 レイが起き上がった。大の字から身体を起こし、片膝をつき、立った。額の汗を拭い、剣を拾った。


 アスが立った。全身が重い。ナイトブロウの反動がまだ残っている。腕が痺れている。それでも剣を握った。握れた。それだけで十分だった。


 シアが壁から身体を離した。クロが仰向けから転がるように起きた。アテネが膝から手を離し、背筋を伸ばした。


 最後に、ミルが立ち上がった。


 時間がかかった。他の七人より。右手の痙攣が止まっていなかった。魔剣を握る指が意思に反して震えている。顔色が蒼白い。唇の色が消えていた。


 アスがミルを見た。


「本当に大丈夫か」


 二度目だった。今日、同じことを聞くのは。


 ミルがアスを見た。前髪の奥の目が——揺らいでいなかった。身体は限界に近い。それは見ればわかる。けれど目だけが、しっかりとここにあった。


「問題ない」


 同じ答え。けれど声が掠れていた。さっきまでの冷静さが、薄い膜一枚で保たれている。その膜の向こう側に、押し殺した苦痛がある。目が語っていた。大丈夫ではない。けれど止まるつもりもない。


 アスは何も言わなかった。言えなかった。ミルの覚悟を疑う言葉は持ち合わせていない。ただ——帰ったら休ませる。絶対に。


 八人が立っていた。全員が。消耗し切って、限界に近くて、それでも。


 撤退という言葉は、誰の口からも出なかった。


        *


 最奥に向かって歩いた。


 5層の闇が、少しずつ変質していた。歪んでいた空間が、奥に進むにつれて整い始めている。矛盾していた。深くなるほど歪みが増すはずだ。これまでの層はそうだった。けれど5層の最深部に近づくと、逆に空間が安定していく。


「歪みが減ってる」


 ミルが呟いた。聴音器なしで、肌の感覚だけで空間の変化を読み取っている。


「5層と6層の境界が近い。層の境界は空間が安定する傾向がある。門の近くと同じ構造」


 6層が近い。5層の終わりが、すぐそこにある。


 けれどその前に——気配があった。


 ロイドが足を止めた。八人全員が止まった。もう言葉はいらなかった。ロイドが止まれば、全員が止まる。獣人の感覚を、全員が信頼している。


 闇の奥から、圧が来た。


 さっきの危険度8より重かった。同じ等級とは思えない密度。上位個体。5層に棲む最強の悪魔。この層の、頂点。


 現れたとき、八人の息が同時に止まった。


 巨大だった。さっきの三足歩行の悪魔より、さらに一回り大きい。二足歩行。人型に近い——が、頭部から角が七本生えていた。角の一本一本が異なる形状で、異なる色の光を帯びている。全身を覆う甲皮は黒曜石のような光沢を持ち、六本の腕がそれぞれ異なる武器を構えていた。剣。槍。斧。鎖。鉤爪。そして——何も持たない一本。


 目が二つ。金色。知性どころではなかった。叡智があった。数千年を生きてきた存在の目。この5層を支配してきた王の目。


 八人を見渡して——笑った。口元が歪んだ。嘲笑ではなかった。歓迎。獲物ではなく、挑戦者を迎える笑み。


 消耗した状態での戦闘。体力も魔力も限界に近い。回復の手段はほぼ尽きている。アテネの魔力は空に近く、ミルのスキルは身体を蝕んでいる。レイの足が重く、ロイドの肩が軋んでいる。シアの魔力も残り少ない。クロの罠は最後の粘着網一つだけ。


 それでも——連携は崩れていなかった。


「最後の一体だ」


 アスが言った。声が出た。掠れてはいたが、震えてはいなかった。


「こいつを倒せば、5層を踏破できる」


 七人が頷いた。言葉は要らなかった。全員が同じことを考えている。ここまで来て、退くわけがない。


 悪魔が動いた。六本の腕が同時に構えられた。


 レイが最初に動いた。


 足が重いと言っていた。踏み込みが浅くなっていると自覚していた。その上で——最初に動いた。前衛の意地だった。弱い自分を認めた上で前に立つ。レイの本質は最初から変わっていない。変わったのは——弱い自分のまま、どこまで戦えるかを知っていること。


 剣が悪魔の胴に向かった。六本の腕のうち剣を持つ一本が迎え撃つ。金属音。レイの身体が弾かれた。吹き飛ぶ——その前に、足を踏ん張った。弾かれる力を身体の回転に変え、逆方向から二撃目を叩き込んだ。


 悪魔の鎖が横から飛んだ。レイの脇腹を狙う。避けられない。足が重い。反応が——


 アスの剣が鎖を弾いた。


 レイの横に立っていた。いつ動いたのかは考えていない。身体が勝手に動いた。仲間が危ない。それだけで足が出る。もう考える必要がない。


「助かった」


「お互い様だ」


 短い会話。けれどそこに、ガルムのときから積み重ねてきた全てがあった。最初にギルドで出会ったとき、二人は張り合った。噛み合わなかった。今は背中を預けられる。言葉よりも深い場所で繋がっている。


 シアの氷が飛んだ。


 七本。今日最多の本数。全てが悪魔の六本の腕を狙っていた。一本目が剣を持つ腕を凍結させ、二本目が槍を止め、三本目が斧を封じた。四本目以降は外れた——が、外したのではなかった。悪魔が避けることを計算して、避けた先にクロの最後の罠が待っていた。


 粘着網が悪魔の右脚に絡みついた。クロの最後の一枚。ここに賭けた。シアの氷が悪魔を動かし、動いた先に罠がある。二人の連携ではない。シアとクロとミルの三人が、声を交わさずに同じ絵を描いていた。


「かっこいい……」


 アテネが呟いた。小さな声だった。シアの全力の魔法を見て。無表情の裏にある熱を見て。戦場で呟くべき言葉ではなかったかもしれない。けれど本心だった。


 シアの耳が——僅かに赤くなった。エルフの耳は感情を隠せない。


 悪魔が罠を引きちぎろうとした。脚に力を込める。粘着網が伸びて——保った。クロの罠は、最後の一つだったからこそ最高の品質だった。全てを使い切る前提で温存していた最後の手札。


 ガルドが動いた。


 盾を構え、悪魔の正面に走った。罠で脚が止まっている隙に、全体重を乗せた突撃。盾がぶつかる瞬間——


「行け」


 声が出た。ガルドの口から。


 全員が息を呑んだ。この男が声を出すのは、数えるほどしかない。侵食編で触手からシアを守ったとき。それ以来の声。短く、低く、それでいて全員の身体を動かす力がある声。


 行け。一語。その一語に込められたものを、八人全員が受け取った。ガルドが盾で押し込む。悪魔の巨体が僅かに傾く。六本の腕のうち三本が凍結し、一本の脚が罠に捕まり、残りの三本の腕でガルドの盾を押し返そうとしている。


 隙があった。


 アスとロイドが同時に踏み込んだ。


 言葉はなかった。視線も交わさなかった。ただ同時に動いた。ガルドが「行け」と言ったから。それだけで二人の足が動いた。


 ロイドの大剣が上段から振り下ろされた。悪魔の甲皮に叩きつけられ、黒曜石のような表面に亀裂が走った。左肩が軋んでいる。痛みがあるはずだ。それでも止まらない。全力の一撃。迷いのない一振り。


 アスの剣に白銀の光が灯った。


 ナイトブロウ。守りたいという意志の形。今、ここにいる七人を。この試練を一緒に越えてきた全員を。レイの堅実さを。シアの冷たい熱を。クロの大胆な知恵を。ガルドの完璧な盾を。アテネの優しい強さを。ロイドの迷いのない刃を。ミルの声と力を。


 全部が手のひらの中にあった。


 白銀の光がロイドの大剣の軌跡と重なった。二つの力が同じ場所に集まり、悪魔の亀裂から内部に流れ込んだ。


 核が砕けた。


 内部から光が溢れた。白銀と金色が混じり合い、悪魔の巨体を内側から照らした。七本の角が一本ずつ折れ、六本の腕が力を失い、金色の目が閉じていく。


 崩れ落ちた。


 黒いガラスの床に、5層最強の悪魔が倒れた。衝撃で床が割れ、罅が放射状に走った。その罅の向こうに——光が見えた。


 静寂が降りた。


 完全な静寂。5層の闇の中で、戦闘の残響が消えていく。八人の呼吸だけが残った。荒い。速い。全員が限界を超えている。


 けれど——全員が立っていた。


 倒れなかった。一人も。膝をつきかけた者はいた。よろめいた者もいた。けれど誰も倒れなかった。八人が、自分の足で立っていた。


 踏破した。


 5層を。アリアドネが課した試練を。七英雄が越えた道を。八人で越えた。


 最初に声を出したのはレイだった。


 笑った。声を上げて。こんなに晴れやかなレイの笑いを聞いたのは初めてだった。いつも堅実で、慎重で、自分の弱さを知っている男が——今だけは、何の留保もなく笑った。


「やった——やったぞ!」


 クロが叫んだ。両腕を上げて。折れかけた右腕が痛むはずだ。構わず上げた。


「五層踏破! 俺たちが! 八人で!」


 声が5層の闇に響いた。音を歪める空間が、この瞬間だけはクロの声をまっすぐ通した。


 アテネの目が潤んでいた。涙をこらえている。こらえきれていない。頬を一筋の雫が伝い、落ちた。けれど笑っていた。泣きながら笑っていた。


「みんな——無事で……よかった」


 声が震えていた。仲間が全員生きている。それだけが、アテネにとっては何よりも大きかった。


 ミルが小さく息を吐いた。長い息だった。張り詰めていた全てを吐き出すような。メモ帳を胸に抱え直した。右手の震えが——止まっていた。いつの間にか。戦闘の中で、スキルを使い続ける中で、身体が馴染んでいたのかもしれない。


 何も言わなかった。ミルらしかった。けれど目を閉じた瞬間、まつ毛が濡れたのを、アスは見逃さなかった。


 ロイドが空を見上げた。5層に空はない。闇だけがある。けれどロイドは空を見ていた。見えない空の向こうに、何を見ているのか。失った家族か。終わらせた因縁か。それとも——ここにいる仲間たちの、これからか。


 ガルドが無言で頷いた。一度だけ。深く。盾を持ち直した。何も言わない。何も変わらない。けれどその頷きの中に、この男なりの全てがあった。


 シアが口角を上げた。笑みと呼ぶにはまだ足りない。けれど確かに、口元が動いた。冷たい表情の奥にある熱が、一瞬だけ表面に出た。


 アスは仲間の顔を見た。一人ずつ。順番に。


 レイの笑顔。クロの叫び。アテネの涙。ミルの息。ロイドの空。ガルドの頷き。シアの口角。


 一人で門の前に立ったあの日から。何もできなかった自分から。ここまで来た。この七人がいたから。


 アスも笑った。自然に。こらえる必要がなかった。嬉しかった。ただ嬉しかった。五層を踏破した。八人で。全員で。


        *


 悪魔が倒れた場所の奥に、光があった。


 5層の闇の中にあって、そこだけが——薄く、ぼんやりと光っていた。門に似た構造。けれど門とは違う。自然にできた裂け目のようなもの。層と層の境界。5層と6層を繋ぐ、世界の継ぎ目。


 八人がその前に立った。


 光の向こうから、重さが来た。5層のどの場所よりも重い圧。けれどそれだけではない。5層の重さとは質が違う。もっと古い。もっと深い。世界の底から這い上がってくるような、根源的な重さ。


 大罪の悪魔の気配だった。


 ルシファーは倒した。けれどあと六体いる。その六体が、この先の層に——6層に、そして7層に潜んでいる。


 光の裂け目が、微かに脈動していた。呼吸するように。こちらを待っているように。


「次はあそこだ」


 アスが言った。


 光の向こうを見ていた。まだ見えない世界。英雄たちが戦い、人類の最前線がある場所。アイリスが立っている場所。


 誰も否定しなかった。


 レイが剣を握り直した。シアが髪を耳にかけた。クロが腰の袋を叩いた——空っぽの音がしたが、笑っていた。ガルドが盾を構え直した。アテネが腕輪に触れた。ロイドが大剣を背に負い直した。ミルが魔剣とメモ帳を持ち直した。


 八人が、6層の入り口を見ていた。


 5層を踏破した。七英雄が越えた試練を、自分たちの足で越えた。その先に——英雄と肩を並べる場所がある。


 まだ遠い。けれど見えている。光の向こうに、確かに見えている。


 英雄編の扉が、静かに開きかけていた。


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