塵が足掻く
世界が、黙った。
それは音が消えたのとは違った。音はある。風が吹いている。遠くで瓦礫が崩れる音がする。けれど全てが遠のいた。空気そのものが息を止めたように、街全体が一拍の間を置いた。
悪魔たちが動きを止めていた。
さっきまで通りを走り、建物を壊し、人々を追っていた強化悪魔たちが——一斉に静止した。赤い目が全て同じ方向を向いている。北ではない。上だ。空を見ている。
アスも空を見た。
裂けていた。
結界の裂け目が——広がっていた。北側だけだったはずの亀裂が、空を横断するように走っている。光の膜が割れ、その向こうから闇が流れ込んでいる。闇の中に——影が見えた。
一つではなかった。
四つ。
四つの影が、裂け目から同時に降りてきた。
*
街の東に、一体が降りた。
巨躯だった。人の三倍はある背丈。十二枚の翼が背中から扇状に広がっている。翼は黒と深紅が混じり合い、一枚一枚が刃のように鋭い。顔は美しかった。残酷なほどに。端正な造形の中に、慈悲の欠片もない目が嵌まっている。手に持っているのは——毒のように黒い光を帯びた長槍。
サマエル。毒の天使。死を司ると語り継がれた堕落者。
街の西に、一体が降りた。
山羊の角を持っていた。人の形をしているが、膝から下が獣の脚になっている。全身を覆う黒い毛皮の隙間から赤い肌が覗き、額から伸びた二本の角が天を突いている。背中の翼は片方だけ。もう片方は根元から折れ、断面が焼け爛れたまま再生していなかった。手には鎖が握られている。鎖の先端に、燃える鉄球。
アザゼル。荒野の贖罪。天から追放され、人に禁じられた知識を与えたとされる者。
街の南に、一体が降りた。
鷲の翼を持つ人影。全身が鎧のような甲殻に覆われ、頭部には公爵の冠に似た骨の突起がある。騎乗しているのは——朽ちた翼を持つ獅子だった。地に着いた瞬間、獅子が咆哮した。音を殺すはずのない地上で、その声だけが空気を震わせた。街の窓という窓が割れた。
ムルムル。地獄の公爵。死者の声を操るとされた者。
三か所に同時に。街を囲むように。東と西と南。
そして——中央に。
アスが立っている大通りの、百歩ほど先に。
それは、降りてきたのではなかった。
在った。
気がついたときには、そこに在った。いつからいたのかわからない。さっきまで何もなかった場所に、存在だけが唐突に現れた。空間を歩いてきたのではなく、空間そのものが裂けて、その内側から出てきたような。
人の形をしていた。
美しかった。
堕天使は全て美しい。かつて天に在った者の残滓が、その造形に刻まれている。けれどこれは別格だった。白い肌。長い金の髪。整いすぎた顔立ち。男とも女ともつかない、完成された造形。身にまとうのは黒い衣——いや、衣ではない。闇そのものが身体に巻きついている。
翼が六枚あった。三対。背中から左右に広がり、一対は顔を覆うように前に、一対は足を隠すように下に、一対だけが大きく広がっている。全ての翼が黒く染まっていた。かつては白かったのだろう。その白が一片も残っていない完全な黒。
そして——目が六つあった。
額に二つ。頬に二つ。通常の位置に二つ。六つの瞳が全て異なる色をしていた。金と銀と赤と青と紫と——最後の一つは、色がなかった。虚空。何もない目。光を反射しない穴。
ルシファー。
明けの明星。かつて最も美しく、最も高い場所にいた者。全ての堕天使の親。大罪の悪魔。第七層の底から這い上がってきた、世界の終わりそのもの。
圧が、別格だった。
堕天使を3層で見たとき、空気が歪んだ。ルシファーは空気を歪めていない。空気ごと塗り替えていた。半径百歩以内の空間が、ルシファーを中心に書き換えられている。重力が変わった。光が変わった。音が変わった。その存在があるだけで、世界の法則が局所的に崩壊している。
*
英雄たちが動いた。
東でサマエルと対峙したのは、リーファとナーバスだった。風と闇。二人の英雄が同時に攻撃を仕掛け、十二枚の翼が応戦する轟音が街に響いた。
西でアザゼルに向かったのは、クールだった。凍気が街の西側を白く染め、アザゼルの鎖と激突した。氷と炎が交差し、蒸気が立ち上る。
南のムルムルには、アイリスが向かった。光の英雄が放った一閃が、公爵の獅子を貫いた。ムルムルが冠の骨を軋ませ、死者の声で反撃する。
四か所で同時に戦闘が始まった。街が震えた。英雄たちの力と堕天使たちの力がぶつかり合い、その余波だけで建物が揺れ、石畳が割れ、空が軋んだ。
けれど英雄たちは全力を出し切れなかった。
街の中だ。背後に人がいる。全力の一撃は街ごと吹き飛ばす。堕天使を倒すための力と、街を守るための制御を同時にかけなければならない。それが英雄たちの足枷だった。堕天使たちにはその制約がない。壊せるだけ壊せばいい。その非対称が、じわりと戦況を傾けていく。
そして——ルシファーには、誰も向かえなかった。
四人の英雄が三体の堕天使に対応している。アーサーとロキは結界の維持に回っている。残る一人——バッシュは、まだ姿を見せていなかった。
ルシファーが歩き始めた。
歩いた。ゆっくりと。急ぐ必要がなかった。街の中心を、散歩するように歩いている。六つの目が周囲を見渡し、崩れた建物と逃げ惑う人々を眺めている。
それだけで、周囲の悪魔たちが活性化した。
静止していた強化悪魔たちが再び動き始めた。ルシファーの歩みに引きずられるように。主の足音に呼応するように。さっきまでの波とは違う。統率されている。群れではなく軍勢のように、方向を持って動いている。
英雄たちが堕天使に手を取られている隙間を縫って、強化悪魔の軍勢が街に散った。逃げ遅れた人々に牙が向く。
アスたちが動いた。八人が散開し、それぞれの場所で悪魔を迎え撃つ。けれど数が多すぎた。統率された動きは、これまでの無秩序な群れとは質が違う。一体を斬っている間に三体が別の通りに流れ込む。追いつけない。
悲鳴が聞こえた。東の通りから。次に西から。南からも。
守り切れなかった場所で、人が倒れた。
アスは走りながら見た。瓦礫の下敷きになった老人。動かない。さっきまで路地の角で茶を飲んでいたかもしれない老人が。
別の通りでは、逃げ遅れた家族が悪魔に追い詰められているのが見えた。レイとガルドが間に合った。間に合ったが、隣の路地では間に合わなかった。
犠牲者が出ている。一人。二人。三人。数えたくなかった。けれど目が拾ってしまう。崩れた壁の下。割れた窓の奥。石畳の上に横たわる影。この街に暮らしていた人たちが。名前も知らない人たちが。
アスの視界が滲んだ。悔しさが来た。怒りが来た。無力感が来た。全部が同時に胸を叩いた。
泣いている余裕はなかった。足を止めている暇はなかった。目の前で悪魔が子供のいる家に向かっている。走った。斬った。炎で焼いた。核を砕いた。次。また次。守れる命を守る。手が届くものだけを。今この瞬間に。
ルシファーが近づいてきた。
気づいたのはミルだった。
「アス——後ろ」
振り返った。
通りの向こうに、六つの目が見えた。金と銀と赤と青と紫と虚空。それが、こちらを見ていた。
偶然ではなかった。
ルシファーの歩みに方向があった。街の中心から、アスがいる場所に向かって。まっすぐに。散歩のような足取りで。けれど意図的に。この場所に来ている。
アスの後ろには、逃げ遅れた人々がいた。建物の中に身を隠している十数人。老人と子供が多い。走れない人たちだ。この通りを守っていたのはアスだった。
ルシファーが立ち止まった。五十歩の距離。
空気が変わった。
今まで感じたどの悪魔とも違った。ガルムの圧とも違う。堕天使の圧とも違う。比較の対象がなかった。あの存在の前に立つと、自分がどれほどの存在であるかが——痛いほどわかった。塵だ。粒子だ。吹けば消える蝋燭の火だ。
足が止まった。
膝が笑っている。手が冷たい。心臓が速すぎる。本能が逃げろと叫んでいる。身体の全てが、あれに近づくなと拒否している。
七歳のあの日と同じだった。結界の外で悪魔に襲われたとき。地面に倒れて、動けなくて、声が出なくて。あのときと同じ恐怖が、十年の時を超えて全身を縛りつけている。
後ろで、子供の泣き声が聞こえた。
小さな声だった。建物の中から漏れてくる、怯えた子供の声。あの日の自分と同じだ。怖くて、何が起きているかわからなくて、ただ泣いている。
足が動いた。
考える前に。判断する前に。身体が前に出ていた。震えたまま。膝が笑ったまま。それでも一歩。また一歩。ルシファーとの距離が縮まっていく。
剣を構えた。炎を灯した。橙色の光が闇の中に揺れた。ルシファーの存在が書き換えた空間の中で、アスの炎だけがまだ自分の色を保っていた。
六つの目がアスを見下ろした。
興味はなかった。脅威と認識されてすらいない。道端の虫が足元にいることに気づいた程度の目。
アスが踏み込んだ。全力で。炎を纏った斬撃をルシファーの胴に叩きつけた。
手応えがなかった。
刃が触れた。触れたはずだった。けれど何も斬れなかった。ルシファーの身体に当たった炎が、吸い込まれるように消えた。防壁ですらない。存在の密度が違いすぎて、攻撃が攻撃として成立しない。
ルシファーの手が動いた。
人差し指一本だった。弾くような動作。それがアスの胸に触れた。
吹き飛んだ。
身体が宙を舞い、石畳の上を転がり、建物の壁にぶつかって止まった。全身に激痛が走った。肋骨が軋んだ。視界が明滅した。口の中に血の味が広がった。
立ち上がった。
どうやって立ったのかわからない。身体が動くはずがなかった。それでも立った。剣を握っている。まだ握っている。
白銀の光を灯した。ナイトブロウ。守りたいという意志の形。後ろに人がいる。逃げられない人たちがいる。この場所を退くわけにはいかない。
踏み込んだ。ナイトブロウを纏った一撃を、ルシファーに向かって放った。
白銀の光がルシファーの身体に——触れた。さっきの炎とは違った。一瞬だけ、ルシファーの表面が揺れた。刺さりはしなかった。傷にもならなかった。けれど触れた。存在に触れた。
ルシファーの六つの目のうち、一つ——虚空の色をした目が、僅かに動いた。アスを見た。さっきとは違う目だった。虫ではなく、何かを認識した目。
ルシファーの手が上がった。今度は指一本ではなかった。掌が開き、アスに向けられた。さっきの何十倍もの力が——
「塵が足掻く」
声が聞こえた。低く、透明で、何の感情もない声。事実を述べている。塵が足掻いている。それだけの事実を。
掌から光が放たれようとした。黒い光。あれに当たれば、終わる。身体が知っていた。あれを受けたら、自分は消える。
それでも足は前を向いていた。退かなかった。後ろに人がいるから。退いたら、あの子供の泣き声が止まるから。止まるということは——
空から、炎が降ってきた。
轟音。
アスとルシファーの間に、赤い柱が突き立った。炎の柱。天から地まで貫く巨大な火柱が、地面を溶かしながら降り注いだ。ルシファーの掌から放たれかけた黒い光が、炎に遮られて散った。
ルシファーが——初めて動きを止めた。
六つの目が炎の柱を見ている。興味ではなかった。認識だった。これは無視できないと、あの存在が判断した。
炎の柱が裂けた。その中から人が降りてきた。
バッシュだった。
黒髪。浅黒い肌。巨体。大きな背中。地面に着地した瞬間、足元の石畳が蜘蛛の巣状に割れた。纏っている炎の量が桁違いだった。身体の周囲に渦巻く炎が、アスの炎とは全く別の存在に見えた。同じ炎のはずなのに。密度が。温度が。格が。
バッシュがアスの前に立った。ルシファーに向き直ったまま、背中越しに一言だけ。
「下がれ」
短かった。バッシュらしかった。それだけで全てが伝わった。ここから先は俺がやる。お前はここにいるな。
アスは見上げた。大きな背中を。アイリスの背中を七歳のときに見上げたのと同じように。けれど今は違う。あのとき何もできなかった自分は、今日ルシファーの前に立った。歯が立たなかった。塵と呼ばれた。それでも——立った。退かなかった。
アスは三歩下がった。剣を握ったまま。
バッシュとルシファーが向かい合っている。炎の英雄と、大罪の悪魔。六つの目が、バッシュの炎を見つめていた。
了




