七英雄
第二十七話「七つの名前」
知らない天井だった。
白い漆喰に、細い金の装飾が走っている。陽の光を受けて、その線が微かに輝いていた。光。光がある。4層の闇ではない。窓がある。窓から光が差している。
アスは瞬きを繰り返した。視界がゆっくりと定まっていく。天井。壁。壁にかかった織物。模様が細かい。布の質感が宿の薄い毛布とは別物だった。絹に近い光沢。
身体を起こした。柔らかい寝台だった。身体が沈み込むほどの厚い敷布。枕は羽毛で、こんなものの上で寝たのは生まれて初めてだった。
部屋が広かった。宿の部屋の四倍はある。天井が高く、壁に窓が三つ並んでいる。窓の外に青い空が見えた。調度品が部屋の隅に置かれている。木の質が違う。暗い艶のある木材で作られた棚と机。普通の冒険者が一生かけても手が届かない代物だと、見ただけでわかった。
宮殿のようだった。
身体を確認した。4層での傷が——消えている。背中に刺さった骨片の痛みがない。手で触れてみると、肌の上に薄い膜のような感触があった。回復術をかけられた痕跡。それも、かなり高度なもの。アテネの回復術とは系統が違う。力任せに治した、という感触。
魔力が少し戻っていた。枯渇寸前だったはずが、最低限動ける程度まで回復している。自然回復にしては速い。この部屋の空気自体に、回復を促す魔力が含まれているのかもしれない。
誰かに手当てされた。ここに運ばれ、治療を受けた。4層で光が来て、悪魔が吹き飛んで、人影が立って——「生きてるか」と声がして。
そこから先の記憶がなかった。意識が落ちたのだろう。限界を超えた身体が、安全を確認した瞬間に崩れたのだ。
扉が開いた。
ノックはなかった。重い木の扉がゆっくりと内側に開き、男が入ってきた。
大きかった。ロイドと同じか、それ以上の体格。広い肩幅。厚い胸板。腕が太い。年齢は読めなかったが、壮年と呼ぶにはまだ若い顔をしていた。短く刈り込んだ黒髪に、深い茶色の瞳。肌は日に焼けて浅黒く、顎に無精髭がある。
威圧感があった。部屋に入ってきただけで空気が変わる。アリアドネのように気配を消す存在感ではない。むしろ逆だった。隠しようのない圧。そこにいるだけで、この人間が何者かを身体が理解する類の。
けれど敵意はなかった。こちらを見る目に害意がない。値踏みしている。静かに。アスという人間を測っている。
男の周囲に、微かな熱があった。暖炉の前に立ったときのような、乾いた温もり。炎の気配。この男は炎を持っている。アスと同じ——いや、桁の違う熱が、身体の内側に収められている。
「起きたか」
低い声だった。シンプルな言葉。余計なものが何もない。
「……あなたが、助けてくれたんですか」
「4層で拾った」
拾った。助けた、ではなく。言い方がどこかロイドに似ていた。事実だけを述べる。感情を乗せない。
「俺はバッシュ」
名乗った。それだけだった。肩書きも所属も言わない。名前だけ。
「アスです。あの——仲間が、一緒にいたんですけど」
「生きてる。別の部屋にいる」
「全員?」
「全員」
胸の中で何かが解けた。全員生きている。アテネも。ミルも。ロイドも。立ち上がった。足元がふらついたが、歩けた。
「会いたい」
「来い」
バッシュが背を向け、廊下に出た。アスがその後を追う。廊下もまた広かった。石の壁に灯りが並び、天井にはアーチ状の梁が渡されている。窓から差し込む光が床に模様を作っていた。宿とは次元の違う空間だった。ここは——家なのか。一人の人間の家が、こんな宮殿のような造りをしているのか。
三つ目の扉をバッシュが開けた。
中に三人がいた。
アテネが椅子に座っていた。顔色が戻っている。腕輪は光っていなかったが、手元に茶碗を持っている。温かいものを飲んでいた。アスを見て、目が大きくなった。
「アスさん——」
ミルが窓辺のテーブルにいた。メモ帳を広げている。もう書き始めている。この状況でも分析を止めない。けれどアスが入ってきた瞬間、ペンが止まった。顔を上げた。
ロイドは壁際に立っていた。腕を組んで、目を閉じている。いつもの姿勢。けれどアスが入ってきた気配で目を開けた。金色の瞳がこちらを見た。
四人が揃った。
誰も大げさなことは言わなかった。抱き合うこともなかった。ただ——四つの目が合って、全員が息を吐いた。小さく。同時に。その一呼吸の中に、安堵の全部が詰まっていた。
「レイたちは」
ロイドが口を開いた。バッシュに向けた問いだった。
「別ルートで帰還した。全員生存」
短い。けれどそれだけで十分だった。八人全員が生きている。レイが。シアが。クロが。ガルドが。大群を抑え続けてくれた四人が、生きて帰った。
アスの目が熱くなった。堪えた。今ここで泣いたら、何かが違う気がした。ただ——良かった、と思った。心の底から。
*
バッシュに案内されて、四人は屋敷の中を歩いた。
屋敷、という言葉では足りなかった。廊下が何本もあり、部屋が何十もあり、階段が上にも下にも続いている。壁には絵が飾られ、棚には古い書物が並んでいる。どれも年代物だった。この建物自体が、何百年もの時間を重ねてきたように見えた。
アテネが周囲をきょろきょろと見回している。エルフの美的感覚に触れるものがあるのか、壁の装飾や窓の形に目を留めていた。ミルは建物の構造をメモしていた。間取りを記録しているのか、それとも単なる癖か。
ロイドだけが驚いていなかった。
この場所を知っている歩き方だった。迷いなく角を曲がり、段差を踏み外さず、バッシュの半歩後ろを正確についていく。
「ロイド。ここに来たことあるのか」
アスが小声で聞いた。
「何度か」
それだけだった。けれどその一言で、ロイドとバッシュの間に何かがあることが確認された。
バッシュが立ち止まった。広い部屋——書斎のような空間の前で。扉を開け、四人を促した。中に入ると、壁一面の書棚と、大きな机と、暖炉があった。暖炉には火が入っていなかったが、バッシュが一瞥しただけで炎が灯った。指も動かしていない。視線だけで。
その何気ない動作に、四人の背筋が伸びた。視線で炎を点ける。それがどれほどの制御力を意味するか、炎を扱うアスには痛いほどわかった。
バッシュが暖炉の前の椅子に座った。四人は向かいの長椅子に並んだ。
「ロイド」
バッシュが名前を呼んだ。
「堕天使を倒したと聞いた」
「ああ」
「一人でか」
「四人でだ」
バッシュの目がアスたちを見た。値踏みの目。けれどさっきより温度がある。堕天使を四人で倒した。その事実が、バッシュの中でアスたちの評価を変えている。
短い沈黙のあと、ロイドが口を開いた。
「三人に、話しておくべきことがある」
アス、アテネ、ミルを見た。
「7英雄のこと。そろそろ知っておいた方がいい」
アスは頷いた。7英雄。名前は何度も聞いてきた。アイリスがその一人であることも知っている。けれどそれ以上のことは知らなかった。七人が誰で、何ができて、世界の中でどんな役割を担っているのか。
「7英雄は、結界を維持し、悪魔に対する人類の最終防壁となる七人の戦士だ。一人一人が一つの軍に匹敵する力を持ち、それぞれが固有の属性を持っている」
ロイドの声は淡々としていた。講義のような口調。この男がこれほど長く話すのは珍しかった。
「バッシュは炎を操る」
暖炉の火がちらりと揺れた。バッシュは腕を組んだまま、何も言わなかった。
「アイリスは光」
アスの心臓が跳ねた。知っていた。あの日、結界の外で橙色の光が悪魔を吹き飛ばしたのを覚えている。あれはアイリスの光だった。
「リーファは風を操る。ナーバスは闇。クールは凍を操る」
五人の名前と属性が、短い言葉で並べられた。炎、光、風、闇、凍。それぞれが一つの力の頂点に立っている。
「そしてもう二人。一人は——アーサー」
ロイドの声が、ほんの僅かだけ変わった。
「最強の英雄だ」
最強。七人の中で、さらにその上。
「何を操るのかは俺もよく知らない。ただ——あらゆる面で他の六人を上回ると言われている。戦場で見た者は皆、同じことを言う。次元が違う、と」
バッシュが僅かに顎を引いた。否定しなかった。7英雄の一人であるバッシュが、別の英雄を「最強」と呼ぶことを否定しない。それだけで、アーサーという存在の格がわかった。
「最後の一人は——ロキ。消息不明だ。何年も前から行方がわからない。英雄の座は空席のまま」
消息不明の英雄。七人のうちの一人が、欠けたまま。ミルが何か聞きかけたが、ロイドの表情を見て口を閉じた。
アスは何も言わなかった。ただ、その事実を頭の隅に留めた。
「バッシュさん」
アスが声をかけた。暖炉の前に座る大きな男がこちらを見た。
「なぜ俺たちを助けてくれたんですか」
4層の深部まで来て、四人を拾って、この屋敷まで運んだ。英雄がそこまでする理由が、わからなかった。
バッシュが少し間を置いた。
暖炉の炎が揺れた。バッシュの表情は変わらなかった。大きな身体を椅子に預けたまま、アスを見ている。
「頼まれた」
短かった。
「誰にですか」
バッシュは答えなかった。茶色の瞳がアスを見ている。答える気がないのか、答えられないのか。口元が僅かに動いたが、言葉にはならなかった。
それ以上は聞けなかった。聞いても返ってこないとわかった。
四人が顔を見合わせた。全員が生きている。堕天使を倒した。7英雄に助けられた。そしてこれから——
次へ向かう。その準備が、もう始まっている。四人の目が、そう言っていた。
了
おもろいよ
感想、レビュー ブクマ 評価待ってます‼️




