託されたもの
4層の入口は、門ではなかった。
3層の暗い森を抜けた先に、地面が消えた。足元の黒い土が途切れ、その先に——何もない。闇だけがあった。壁も天井も見えない。灯りを掲げても光が吸い込まれ、数歩先で消滅する。3層の森が音を殺したように、4層は光を殺していた。
八人が、その境界に立っていた。
アスとアテネとミルとロイド。レイとシアとクロとガルド。ガルム戦で共に死にかけた七人に、ロイドが加わった八人。4層に挑むために、再び集まった。
一歩目を踏み出したのは、ロイドだった。
闇の中に足を下ろす。沈まなかった。地面はある。見えないだけだ。柔らかい。岩でも土でもない。何かの苔のような、湿った感触が靴底から伝わる。足音が消えた。靴が地面を踏む音が、出た瞬間に吸い込まれる。
二人目はレイだった。ロイドの後を追うように闇に入り、振り返ってアスを見た。片目を覆う傷跡がガルム戦の名残だった。あれ以来レイの顔には常に傷がある。けれど目は変わっていない。まっすぐな目。
アスが続いた。全員が続いた。八人が闇の中に消えていく。
3層より重かった。
空気が重いのではない。存在が重い。自分がここにいること自体が、何かに圧迫されている感覚。肺が潰されるわけではないのに、呼吸のたびに意識しなければ息が止まりそうになる。魔力の密度が段違いだった。3層の森が水底だとすれば、4層は深海だった。
広大だった。壁がない。天井もない。灯りの範囲だけが世界で、その外側はどこまでも暗い。どの方向を向いても同じ闇。方向感覚が揺らぐ。まっすぐ歩いているつもりでも、足元が柔らかいせいで微妙に進路がずれていく。
「前方、何かいる」
ミルの声が低かった。聴音器はほとんど機能しない。4層の空気が音を殺すせいだ。ミルは器具を外し、素の感覚で気配を探っている。クロも同じだった。二人のサポーターが、五感の全てを使って闇を読んでいる。
影が動いた。
闇の中から、闇より濃い影が這い出てきた。大きい。3層の危険度4より一回り大きい。四足ではなく二足。人型に近い体躯に、不釣り合いに長い腕が垂れ下がっている。目が赤い。三つ。
強化悪魔。再生能力を持つ、底上げされた個体。3層で戦ったものより、さらに上。
八人が同時に動いた。
レイとアスが前に出た。並んで。ガルム戦以来の、二人の前線。あのとき身につけた呼吸が、身体に残っていた。レイが右から切り込み、アスが左から挟む。炎を纏った斬撃と、レイの堅実な連撃が交互に悪魔を削っていく。
後方でシアが詠唱した。氷の槍が三本、悪魔の頭部に突き刺さる。以前は甲殻に弾かれた魔法だ。シアも強くなっている。精度が上がり、出力が上がり、一撃の密度が違う。
アテネの支援がレイとアスに交互に飛んだ。二人の前衛への分配。走りながら、途切れない。腕輪の光が闇の中で道標のように輝く。
ミルとクロが左右に散り、同時に声を出した。
「核は胸部。左寄り」
「再生速度は3層の個体より速い。五秒以内に壊せ」
二人のサポーターの声が重なった。別々の角度から観察し、同じ結論に至っている。情報量が倍になる。それだけで戦闘の精度が跳ね上がる。
ガルドとロイドが要所を固めた。ガルドが後衛の前に立ち、ロイドが側面を守る。悪魔の腕が後方に伸びるたびにガルドの盾が弾き、横から回り込もうとする動きをロイドの大剣が断つ。
アスが核を狙った。炎を最大に絞り、胸部の左寄りに突き入れる。再生が始まる前に。赤い光が見えた。刃が核に触れた瞬間、全力で炎を叩き込む。
核が砕けた。
悪魔が崩れ落ちた。八人の呼吸が重なった。一体。けれど全員が消耗していた。3層の強化悪魔を上回る個体を、八人がかりでようやく仕留めた。
奥へ進んだ。
気配が濃くなっていく。闇の密度が増している。空気に混じる魔力が、皮膚の上で粒になって張りつく感覚。ロイドの歩みが微かに速くなっていた。耳が立ち、鼻先が空気を吸っている。追っているものの気配を嗅ぎ取っている。
アスはロイドの横顔を見た。金色の瞳の色が変わっていた。普段の冷静な光ではない。奥底に押し込めていた何かが、表面に滲み出してきている。怒りか。執念か。あるいは——痛みか。
堕天使の気配だ。
アスにもわかった。3層であの影を見たとき感じた、あの異質な圧。通常の悪魔とは別の次元の存在感。それが闇の奥から、じわりと染み出してきている。
全員が感じていた。言葉にはしなくても、足取りが変わっていた。進むごとに身体が重くなり、呼吸が浅くなり、本能がここから先に行くなと警告している。
そのとき、闇が動いた。
四方向から。同時に。
赤い目が灯った。一つではない。十ではない。闇の中に無数の赤い光点が瞬き、それが近づいてくる。足音は聞こえない。4層は音を殺す。けれど地面が僅かに震えている。大量の足が、柔らかい地面を踏んでいる振動。
「囲まれてる——全方向!」
ミルとクロの声が同時に上がった。
大群だった。2層で遭遇した群れとは比較にならない。一体一体が強化個体。再生能力を持つ、底上げされた悪魔たち。それが四方から押し寄せてくる。
「背中を合わせろ!」
レイが叫んだ。八人が円陣を組む。内側にミルとクロとアテネ。外側にレイ、アス、ロイド、ガルド、シア。
最初の波が来た。
ロイドの大剣が三体を薙ぎ払った。弾き飛ばされた悪魔が闇の中に消え、すぐに再生して戻ってくる。ガルドの盾が二体の突進を受け止め、金属が軋む音が——音のないはずの空間に響いた。それほどの衝撃。
レイが剣を振る。アスが炎で焼く。シアが氷の槍を放つ。三方向の攻撃が同時に展開され、群れの先頭が崩れる。けれど後方から次が来る。
「核を狙う余裕がない——再生が追いつく!」
クロが叫んだ。その通りだった。一体ずつ核を破壊している暇がない。斬っても焼いても、再生して戻ってくる。数で押し切ろうとしている。個の強さではなく、再生する群体としての暴力。
全員が全力で戦った。八人の連携が機能している。レイとアスの前線。シアとアテネの後衛。ミルとクロの分析。ガルドとロイドの固定砲台。それぞれが役割を果たし、円陣を維持している。
けれど消耗が速すぎた。
シアの詠唱が途切れ始めた。魔力が底をつきかけている。アテネの支援が八人に行き渡らなくなり、前衛の動きが鈍る。クロの腕が——以前折れた右腕が痛むのか、動きに翳りが出ている。
先へ進めない。このまま戦い続ければ、全員の体力が尽きる。
ロイドが叫んだ。戦場で声を上げるのは珍しかった。
「奥だ——堕天使の気配がさらに奥にある。今行かなければ見失う」
金色の瞳が切迫していた。追い続けてきたもの。家族を奪ったもの。村を壊したもの。その気配が、この大群の向こう側にある。
けれど大群を突破する力が、今の八人にはない。全員で行くことは不可能だった。
沈黙が落ちた。戦闘の最中の、一瞬の空白。全員が同じことを理解した。
「俺たちが抑える」
レイの声だった。迷いがなかった。考えて出した言葉ではなく、最初からそうすると決めていたような声だった。
アスがレイを見た。レイはまっすぐこちらを見ていた。片目の傷跡。その奥にある、揺るがない目。
「お前たち四人で奥へ行け。こいつらは俺たちで引き受ける」
「レイ——」
「聞け。ロイドが追ってるものが何なのか、俺にはわからない。でもお前の目を見ればわかる。行かなきゃいけないんだろ」
反論できなかった。レイの目がそれを許さなかった。
「行きなさい」
声が横から飛んだ。シアだった。
アスは目を見開いた。シアが、自分に向かってそう言っている。ギルドで初めて会ったとき「経験が浅い、第1層のボスに挑むレベルじゃない」と切り捨てた、あのシアが。
刺々しさは、どこにもなかった。銀色の髪が汗に張りつき、魔力の枯渇で顔色が悪い。それでも目だけは鋭く、こちらを見ている。認めている。対等な戦士として。
「足を止めてる暇はないでしょ」
それだけだった。それだけで、十分だった。
「帰ってこいよ」
クロが笑った。軽い声だった。いつものクロだった。戦場の最中でも変わらない、場の空気を読む男の声。けれど目は笑っていなかった。目だけが真剣だった。その二重性が、この男の本質だった。
ミルが小さく頷いた。クロを見て。クロがミルを見て。二人のサポーターの間で、言葉にならない了解が交わされた。
ガルドが前を向いた。
何も言わなかった。振り返りもしなかった。盾を構え、群れに正対している。その背中が全てを語っていた。行け。ここは任せろ。言葉ではなく、身体で。行動で。最初からずっとそうだった。この男は言葉ではなく背中で話す。
アスの胸が締まった。
ここに残る四人は、死ぬかもしれない。大群を抑え続けることが、どれほど過酷か。全員がわかっている。わかった上で、行けと言っている。
「——必ず帰ってくる」
アスが言った。声が震えなかった。震えなかったことに、自分で驚いた。
レイが笑った。歯を見せて、短く。
「当たり前だ」
四人が走り出した。アス、アテネ、ミル、ロイド。大群の隙間を縫って、奥へ。レイが開けてくれた穴を抜けて、闇の深部へ。
振り返らなかった。
振り返ったら足が止まる。レイたちが群れに飲まれていく姿を見たら、引き返してしまう。だから前だけを見た。ロイドの大きな背中を追いかけて、暗闘の音が遠ざかっていくのを聞きながら、走った。
背後で金属音が響いている。ガルドの盾。レイの剣。シアの詠唱。クロの罠が弾ける音。戦っている。四人が、自分たちのために戦っている。
託された。
この足で、この先にあるものに辿り着け、と。
*
暗闘の音が消えた。
4層の闇が、全ての音を飲み込んだ。四人だけになった。灯りの範囲に、四つの影だけ。その外側は完全な暗黒だった。
走りながら、アスは前を見た。ロイドが先頭を走っている。大剣を背に負ったまま、獣人の脚力で地面を蹴っている。金色の瞳が闇を射抜いている。追っているものの方向を、鼻で嗅ぎ取っている。
気配が濃くなっていた。
3層であの影を見たときの感覚が、何倍にも増幅されて全身に押し寄せてくる。空気が歪んでいる。重力が揺らいでいる。この先にいる。あの存在が。
ロイドの拳が握られていた。走りながら、大剣の柄ではなく素手の拳を。白くなるほど強く。
四人の足音だけが——音のない世界に、微かに響いていた。
了
おもろいよ
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