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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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静かな炎


 剣がない朝は、奇妙に軽かった。


 目を覚ましたとき、最初に感じたのはそれだった。手が空っぽだ。いつも寝台の横に立てかけてある剣がない。昨夜、空き地に置いてきた。アリアドネに言われた通りに。


 答えが出るまで剣を置け。


 その言葉が、寝起きの頭にゆっくり染みていく。何のために強くなりたいのか。昨夜は答えられなかった。今朝も、まだ答えはない。


 寝台から起きた。アテネの寝台は空だった。治療室に戻ったのだろう。ミルの寝台も空で、ロイドの姿もない。三人がどこにいるのかわからないが、探す気力はまだなかった。


 服を着替え、宿を出た。手ぶらだった。剣を持たずに外を歩くのは、この街に来てから初めてかもしれない。腰の横に重さがないだけで、身体のバランスが違う。歩き方が変わる。


 あてもなく歩いた。ギルドの方向には足が向かなかった。門にも向かわなかった。自然と、街の中心部に歩いていた。


        *


 朝の市場は賑やかだった。


 露店が通りの両側に並び、果物や野菜や干し肉が積まれている。魚屋が大声で値段を叫び、布屋が色とりどりの反物を広げている。人が行き交い、声が飛び交い、笑いが起きている。


 アスは立ち止まった。


 この景色を、ちゃんと見たのはいつぶりだろう。


 街に来てからずっと、アスの目はギルドと門と魔界だけを見ていた。市場の前を通っても、素通りしていた。冒険者としての日々が始まってから、街の景色は通過点でしかなかった。目的地と帰る場所をつなぐ道。それだけだった。


 今日は、剣がない。魔界に行く予定もない。手ぶらの自分は、ただの十七歳の少年だった。


 子供たちが走っていた。


 市場の通りを、三人の子供が駆け抜けていく。一人が転んで、もう一人が笑い、三人目が手を引いて起こした。何でもないことだった。どこにでもある光景だった。母親が後ろから叫んでいる。走るなと。子供たちは聞いていない。追いかけっこの続きに夢中だ。


 老人が路地の角に座っていた。木の椅子を出して、日向で茶を飲んでいる。隣にもう一人。二人で何かを話している。声は聞こえないが、片方が笑って、もう片方が手を振った。何十年も続けてきたであろう、穏やかな朝の習慣。


 パン屋の前に行列ができている。焼きたてのパンの匂いが通りに流れ、並んでいる人たちが小さく会話している。天気の話。昨日の出来事。子供の成績。取るに足らない、どこにでもある話題。


 結界の光が、空の端で薄く揺れていた。


 この街は、あの光に守られている。結界が悪魔を遮り、門がギルドに管理され、英雄たちが魔界で戦っている。そのおかげで、子供が走り、老人が茶を飲み、パン屋に行列ができている。


 アスは通りの端に立ったまま、その景色を見ていた。


 今まで見ていなかった。いや、見えていなかった。自分の目はアイリスの背中だけを追っていた。あの人に追いつくことだけを考えていた。英雄になること。隣に立つこと。それだけが視界を占めていて、足元にある景色が見えていなかった。


 子供が転んで、友達が起こす。それだけのことが成り立つために、どれほどのものが必要か。結界が維持され、悪魔が封じられ、街が守られ、日常が続いている。その全部が噛み合って、初めてあの子供たちは走れる。


 ——守りたい。


 思った。考えたのではなく、思った。頭ではなく、胸の奥から。


 アイリスの隣に立ちたい。それは嘘じゃない。今でも変わらない。でもそれだけじゃなかった。この通りを走る子供を。日向で茶を飲む老人を。パンの匂いの中で笑っている人たちを。この街にある全部を。


 守りたい。


 足が止まった。立ち尽くしていた。市場の喧騒が、急に遠くなった気がした。自分の中で何かが静かに動いている。組み替わっている。今までぐらぐらしていた足元が、少しだけ固まりかけている。


 アイリスのことを思い出した。


 七歳のあの日。結界の外で悪魔に襲われた自分を、血だらけになって守ってくれた少女。あのとき——アイリスが守ったのは、アスだけだったのだろうか。


 違う。


 今ならわかる。アイリスは英雄だ。七英雄の一人として、街を守り、結界を守り、人類を守っている。あの日、結界の外でアスを救ったのは、その原点だったのかもしれない。目の前の一人を守ること。それが巡り巡って、街全部を守ることに繋がっている。


 アイリスが守っていたのは、アスだけじゃない。この街全部だ。子供たちが走れる日常を。老人が茶を飲める朝を。パンの匂いが漂う通りを。そのために第6層まで行き、命を賭けて戦っている。


 隣に立ちたい。


 その気持ちの意味が、初めてわかった気がした。アイリスの隣に立つということは、アイリスと同じものを守るということだ。同じ景色を見て、同じものを背負って、同じ方向を向くということだ。


 答えが出た。


 守りたいから強くなる。


 それだけだった。シンプルだった。門の前に立ったあの日と同じ言葉。けれど意味が変わっていた。あの日は漠然とした誓いだった。誰を守るのか、何を守るのか、具体的には見えていなかった。今は見える。この通りの全部が見える。


 焦りのためではない。アイリスに追いつくためだけでもない。この景色を守りたい。それが消えないように。壊されないように。


 簡単な答えだった。最初から持っていたはずのもの。けれどそれを失いかけて、もう一度見つけ直したからこそ、今度は手の中で確かに光っている。


        *


 アテネの治療室に向かった。


 扉をノックした。今度は、自分の手で。


「どうぞ」


 穏やかな声が返ってきた。


 扉を開けると、アテネが寝台に座っていた。窓から朝の光が差し込み、茶色い髪を柔らかく照らしている。顔色はまだ完全ではないが、昨夜より良い。左わき腹の包帯が見えたが、姿勢はまっすぐだった。


「調子は」


「昨日より楽です。回復術も自分でかけられるようになりましたから、あと二日もすれば」


 笑っていた。おっとりとした、いつもの笑み。怒っていない。責めていない。許している——のとも少し違う。最初から許すも何もなかったのだ、というような顔。


「……ごめん。昨日も言ったけど、もう一度」


「わかってますよ、アスさん」


 同じ言葉だった。昨夜と同じ。けれど昨夜よりほんの少しだけ声が温かかった。


「また一緒に行けますよ」


 それだけだった。あなたのせいで怪我をした、とは言わない。二度とやらないで、とも言わない。ただ——また一緒に行ける。それだけ。


 その一言が、胸の奥に沁みた。責められるより、ずっと。


        *


 宿の食堂にミルがいた。


 隅のテーブルで、メモ帳を広げている。いつもの場所。いつもの姿勢。けれどメモ帳は開いたまま、ペンは動いていない。ぼんやりと紙面を見つめていた。


 アスが向かいに座ると、ミルが顔を上げた。


「少し、聞いてくれますか」


 ミルの目が動いた。昨日の感情のない目ではなかった。待っていた目だった。


「答えが出た。——と思う」


「……何」


「何のために強くなりたいのか。守りたいから。仲間を。街を。この景色全部を」


 言葉にすると、驚くほど短かった。長い言い訳も、複雑な理論もない。たった一文。けれどそこに至るまでに、門をくぐり、仲間と出会い、壁にぶつかり、折れかけて、アリアドネに問われて、街を歩いた。その全部がこの一文に込もっている。


 ミルは黙って聞いていた。表情は動かなかった。しばらくの間、アスの言葉を頭の中で処理しているようだった。


「……それでいい」


 短かった。ミルらしかった。長い評価も、感動的な同意も要らない。「それでいい」。ミルにとっての合格は、いつもこの形だった。過不足ない一言。


 ロイドは宿の入口に立っていた。壁にもたれ、腕を組み、外を見ている。アスが近づくと、金色の瞳がこちらに移った。


 何も言わなかった。


 ただ頷いた。顎を一度だけ引いて、また外を向いた。


 それだけで十分だった。ロイドの沈黙は、昨日とは重さが違った。昨日の沈黙は「言うべき言葉がない」だった。今日の沈黙は「言う必要がない」だった。伝わっている。アスが何かを見つけて戻ってきたことが、この男にはもう見えている。


        *


 アリアドネは空き地にいた。


 草の上に寝転がっていた。いつもの姿勢。腕を頭の下に敷き、空を見上げている。昨夜の厳しい顔はどこにもなく、穏やかな午後の光の中に溶け込んでいた。


「早かったな」


 アスが近づくと、寝転がったまま言った。目は空を見ている。


「二、三日かかると思ってた」


「一晩で十分でした」


「ほう」


 アリアドネが身体を起こした。草が服についている。払いもせずに、あぐらをかいてこちらを見た。


「聞こうか」


「守りたいから強くなる」


 短く言った。飾らなかった。飾る必要がなかった。


 アリアドネは黙っていた。数秒。アスの顔を見ていた。切れ長の目が、何かを確かめるように動いている。言葉の裏にあるものを読んでいるのか、目の奥にある変化を見ているのか。


 そして——笑った。


 道化の笑いではなかった。


 からかうような、飄々とした、底の見えない笑みではなかった。もっと素朴な、もっと温かい笑みだった。目が笑っていた。口元だけではなく、目の奥が笑っていた。アスがこの人の笑顔を何度も見てきた中で、これは初めてだった。


 本物の笑みだった。


「うん」


 一語。それだけだった。評価も解説もない。ただ「うん」と。その一語に含まれていたものの量を、アスは正確には測れなかった。けれど温かいものが胸に広がった。認められた。この人に、ようやく。


「剣」


 アリアドネが空き地の端を指差した。


 そこに、アスの剣があった。昨夜置いていったはずの場所に、そのまま。雨に濡れていなかった。夜露もついていない。誰かが布をかけていたのか——あるいは最初から、ここにあることを知っていた誰かが。


 アスは歩いて行き、剣を手に取った。


 柄を握った瞬間、違った。


 何が違うのか、最初はわからなかった。剣は同じだ。重さも、長さも、刃紋の光も。変わったのは剣ではなく、握る手だった。力が入りすぎていない。力が足りなくもない。ちょうどいい場所に、指が収まっている。


 焦りがなかった。


 消えたのではない。焦りは今も胸の奥にある。アイリスとの距離も、時間がないという事実も、変わっていない。けれどそれが手に伝わらなくなっていた。胸にはある。でも手にはない。頭にはある。でも剣にはない。


 代わりに——静かな熱があった。炎とは違う。もっと深い場所で燃えている何か。焦りの火ではなく、覚悟の火。


「振ってみろ」


 アリアドネの声が飛んだ。


 アスは構えた。剣を正眼に。炎を灯す。細く、鋭く。——そこから少しだけ広げる。必要な分だけ。刃を振った。


 空気が裂けた。いつもと同じ素振り。何百回と繰り返した動作。


 けれど十振り目で、それは起きた。


 意識していなかった。炎の制御に集中していた。一振りごとに出力を微調整し、持続時間を伸ばし、消耗を抑える。いつもの訓練。いつもの手順。頭の中にはアテネの笑顔があった。ミルの「それでいい」があった。ロイドの頷きがあった。街を走る子供たちがいた。


 守りたい。


 その想いが、思い出すのではなく、今この瞬間に在った。過去の記憶ではなく、現在の感情として。


 刃先に、白銀の光が灯った。


 炎の奥から滲み出すように、別の質の光が生まれた。橙色の炎が芯から白に変わり、静かに、鋭く、刃全体に広がっていく。


 アスは気づいていなかった。目で追っていなかった。炎を視覚で捉えるな、とアリアドネに最初に教わった通り、身体で感じていた。そして身体が教えてくれた。今、自分の手の中にあるものが、いつもの炎ではないことを。


「——それだ」


 アリアドネの声が聞こえた。静かな声だった。叫びではない。確認の声。ずっと待っていたものが、ようやく現れたことを確認する声。


 アスは足を止めた。剣を見た。


 白銀の光が、刃の上で静かに揺れていた。ガルム戦で触手を断ったあの光。あのときは無意識だった。何が起きたかもわからなかった。今は——わかる。自分の中から出ている。自分の一部として、そこにある。


「出た……」


「出そうとして出したんじゃない。お前の中にあるものが自然に表に出てきた。それが正しい形だ」


 アリアドネが立ち上がり、近づいてきた。白銀の光を見つめている。その目に、道化の仮面はなかった。師が弟子の成長を見る目——いや、もっと個人的な何か。安堵に似た、温かい光。


「感情を再現するのではなく、感情が今ここにある状態で戦う。守りたいという気持ちが過去の記憶ではなく現在の意志になったとき、ナイトブロウは自然に出る。お前は今——その境目を越えた」


 光がゆっくりと消えていった。持続時間はまだ短い。制御もできていない。けれど出た。意識せずに。自然に。


 それだけで、世界が違って見えた。


 訓練の後半は四人で行った。アテネは寝台の上からだったが、回復術の精度を上げる自主練をしていると言って参加を希望した。ミルが許可を出し、アテネは窓から訓練を見ながら、声で参加した。


 ロイドが前線に立ち、アスが横で連携する。ミルが指示を出し、アテネが窓越しに声をかける。完全な形ではない。四人のうち一人が欠けた状態。けれどその欠けた場所を、残りの三人が自然に埋めていた。ロイドがいつもより広く守り、アスがアテネの分まで動き、ミルの指示が三人分と四人分を切り替えながら飛ぶ。


 日が傾いた。


 四人が並んでいた。空き地の端で、夕陽を浴びて。アスとロイドが立ち、ミルが座り、アテネが窓から身を乗り出している。前より自然な空気だった。折れる前よりも。傷つく前よりも。壊れかけて、修復されたものは、壊れる前より少しだけ強くなる。


 アスは剣を鞘に戻した。柄を手のひらで撫でた。


 焦りはまだある。消えてはいない。アイリスとの距離も変わっていない。世界が動いている事実も変わらない。


 でも手の中にあるのは、焦りではなく覚悟だった。


 守るために強くなる。


 それだけを握って、この先に行く。


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