答えが出るまで
風が止んでいた。
草が揺れない。木の葉も鳴らない。街の外れの空き地に、音のない時間が降りていた。月明かりだけが地面を白く照らし、二人の影を長く引いている。
アリアドネが立っている。アスの前に。三歩ほどの距離。いつもなら木にもたれたり、草の上に寝転がったり、怠惰な姿勢で距離を曖昧にする人だった。今日は違う。まっすぐ立っている。背筋が通り、両手が身体の横に下りている。道化の構えがどこにもない。
笑っていない。
それだけで、別人のように見えた。
「お前の今を見ていた」
アリアドネが口を開いた。声が低い。いつもの軽薄な抑揚がない。一語ずつに重さがあった。
「3層での戦いも。その前の判断も。全部」
責めてはいなかった。問い詰めてもいなかった。ただ事実を述べている。見ていた、と。それだけなのに、胸の奥が軋んだ。この人に見られていた。あの判断ミスも、アテネが傷つく瞬間も、群れの中で立ち尽くした自分も。全部。
アスは俯いていた。顔を上げられなかった。膝を抱えたまま、地面の草の一本を見つめている。言い訳が浮かんでこなかった。浮かぶはずがなかった。事実は事実だ。ミルが言った通り、自分のせいだ。
沈黙が伸びた。アリアドネは急かさなかった。待っていた。けれどそれは優しさからではなく、言うべきことの前に必要な間を取っているだけだった。
「今のままでは届かない」
静かだった。風のない夜に、その声だけが落ちた。
届かない。何に。誰に。聞かなくてもわかった。全部だ。アイリスにも。仲間を守れる自分にも。英雄にも。何にも届かない。今のままでは。
「強さの話じゃない」
アリアドネが一歩近づいた。月明かりがその顔を照らす。赤い髪が銀色に見える。切れ長の目が、アスをまっすぐ見下ろしていた。
「在り方の話だ。お前は今、焦りで動いている。焦りを燃料にして走っている。それは長く持たない。どこかで必ず壊れる。今日がその最初の壊れ方だ」
言葉が刺さるのではなく、沈んだ。胸の底に、石が落ちるように。
「守りたいという気持ちは本物だろう。嘘じゃないことはわかる。でもその気持ちが空回りしている。守りたいのに焦る。焦るから判断を誤る。誤るから守れない。わかっているだろう。お前自身が一番」
わかっている。わかっていた。第十九話の夜、宿の裏手で剣を見ながら考えたことと同じだ。焦りと冷静さを両立できない。気持ちに飲まれる。飲まれた結果、仲間を傷つける。全部わかっている。わかっていて——止められなかった。
「焦らなかったら追いつけない」
口が動いた。俯いたまま、地面に向かって言った。声が掠れていた。
「世界が動いてる。悪魔が強くなってる。時間がないって——あなたが言ったんだ。急いで強くなれって。だから——」
「俺が言ったことは間違ってない。時間はない。それは事実だ」
アリアドネの声は変わらなかった。否定しなかった。
「でも焦りで強くなることと、速く強くなることは違う。お前がやっているのは前者だ。焦りで走れば速いように見える。だが足元を見ていないから、どこかで転ぶ。転んだときに巻き添えにするのは自分じゃなく、そばにいる人間だ」
アテネの顔が浮かんだ。白い服に赤い線が走る瞬間。吹き飛ばされる軽い身体。
「今日、それが起きた」
アリアドネの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。責めているのではない。事実を突きつけてはいるが、そこに悪意はない。むしろ——心配しているのかもしれない。この人なりの不器用な形で。
沈黙が降りた。長い沈黙。草の匂いがした。夜の冷気が肌を撫でた。遠くで犬が一声鳴いて、また静かになった。
「お前は何のために強くなりたいのか」
アリアドネが問うた。
単純な問いだった。一番最初に答えられるはずの、根本的な問い。なぜ強くなりたいのか。門の前に立ったあの日から、ずっと抱えてきたはずの答え。
口が開いた。閉じた。また開いた。
隣に立ちたい。守りたい。あの人の——アイリスの隣に。
でもその言葉が、今は出てこなかった。隣に立ちたかった。守りたかった。その気持ちは嘘じゃない。けれどその気持ちの延長線上で、今日、仲間を傷つけた。守りたいという想いが仲間を傷つけたのだとしたら、自分は何のために強くなりたいのか。
答えられなかった。
何もかもがぐらついていた。足元の地面が崩れるような感覚。立っている場所がなくなる感覚。これまで自分を支えてきた「守りたい」という柱に罅が入って、体重を預けられなくなっている。
「……わかりません」
絞り出した声だった。情けなかった。門の前に立ったあの日、少なくとも答えは持っていた。守る側になる。それだけは持っていた。今はそれすら揺らいでいる。
アリアドネは黙って聞いていた。問いを投げた後、答えを急かさない。この人はいつもそうだった。最後の一歩は、自分で踏ませる。
「長い時間を生きてきた」
アリアドネが口を開いた。声の質が変わっていた。さっきまでの厳しさが薄れ、代わりに——遠さが混じっていた。遠い記憶を辿る声。
「たくさんの人間を見た。強い者も、弱い者も。才能がある者も、ない者も。剣を握る理由は人それぞれだった」
月を見ていた。アスではなく、空を。
「焦りで強くなった者を何人も見た。全員、折れた。例外はなかった。焦りは瞬発力を生む。短い間は速くなれる。だが長くは持たない。いつか必ず、今日みたいなことが起きる」
全員、折れた。例外はなかった。その言葉の裏に、どれほどの数の人間が含まれているのか。十年や二十年の話ではない。アリアドネの目が見てきた時間の長さが、その短い文に圧縮されていた。
「本当に強い者は、何のために戦うかを知っている。知った上で戦っている。答えを持っている人間は、折れても立ち上がれる。答えがない人間は、折れたら終わりだ」
答え。何のために戦うか。何のために強くなりたいか。
「あなたは」
アスが顔を上げた。初めて、アリアドネの目を見た。
「あなたは何のために戦うんですか」
アリアドネの目が、ほんの一瞬、揺れた。
揺れた、と言えるほどの変化ではなかったかもしれない。瞬きが一回分長くなっただけかもしれない。けれどアスにはわかった。この問いが、アリアドネの中の何かに触れたことが。
間があった。長い間。アリアドネが答えを選んでいるのか、答えるかどうかを決めているのか。夜風がようやく戻ってきて、赤い髪を揺らした。
「約束があるから」
短かった。それだけだった。誰との約束か。何の約束か。説明はなかった。
けれどその二語の中に、途方もない重さがあった。約束。たった一つの約束のために、この人は戦っている。何年——何十年——あるいはそれ以上の時間を。一つの約束のために。
アリアドネの目が遠くを見ていた。空でもなく、地面でもなく、ここにはないどこかを。時間の向こう側を。
千年分の何かがそこにあった。
アスには届かなかった。理解できなかった。それほどの時間の重さを、十七年しか生きていない自分が想像することすらできなかった。けれど——重いということだけはわかった。この人が背負っているものが、想像を超えて重いということだけは。
アリアドネの目が戻ってきた。遠いところから、今ここに。アスを見た。切れ長の目に、さっきまでとは違う色があった。厳しさでもなく、道化の軽さでもなく。温もりに似た何か。ほんの一瞬だけ見えて、すぐに消えた。
「答えが出るまで剣を置け」
声が戻っていた。柔らかくも厳しくもない、中間の声。
「え——」
「剣を握っている限り、お前は焦り続ける。握っているから、振りたくなる。振りたくなるから、先に進もうとする。今のお前にはそれが毒だ」
「でも——時間が——」
「二日か三日だ。死ぬわけじゃない」
アリアドネが片手を上げた。制止。
「それと、仲間のところへ行け」
「……行けない」
「行けないんじゃなくて、行きたくないんだろう。顔を合わせるのが怖い」
図星だった。何も言い返せなかった。
「怖くていい。怖いまま行け。お前が一番最初に学んだことだろう。門の前で、怖いまま踏み出す方法を」
アスの心臓が跳ねた。
門の前。あの日。足が震えていた。膝が笑っていた。それでも踏み出した。怖くなくなるのを待っていたら永遠にそこに立ち続ける。だから怖いまま、一歩を出した。
あのときと同じだ。今もまた、怖くて動けないでいる。仲間の顔を見るのが怖い。傷つけた相手の前に立つのが怖い。でも——怖いまま、行く。
アリアドネが笑った。
突然だった。さっきまでの厳しい顔がふっと崩れて、いつもの——あの道化のような笑みが戻った。けれど今日の笑みには、いつもとは違うものが混じっていた。温もりではない。もっとささやかな何か。信じている、というほど大げさでもない。ただ——こいつなら大丈夫だろう、という、小さな確信のようなもの。
「行っておいで」
その一言が、不思議と身体に力をくれた。
アスは立ち上がった。膝が震えていた。剣は——膝の上に置いたままだった。握れない。まだ握れない。でも置いていく。アリアドネが言った通り、答えが出るまで。
振り返ると、アリアドネはもう空を見ていた。月を見上げる横顔に、さっきの笑みはもうなかった。代わりに——遠い目。約束を思い出している人の目。
アスは歩き出した。空き地を出て、石畳の道に足を乗せた。宿に向かう道。仲間がいる場所への道。
*
治療室の前の廊下は、静かだった。
灯りが一つだけ灯っている。壁の影が長く、天井が低く感じる。自分の足音が大きく聞こえた。一歩ごとに心臓が鳴る。
扉の前で、止まった。
木の扉。向こう側にアテネがいる。自分が傷つけた人がいる。この扉を開けたら、何と言えばいい。何から話せばいい。謝罪か。言い訳か。どちらも違う。でもどちらでもないとしたら、何が正しいのか。
手を上げた。ノックしようとした。指が扉の数センチ手前で止まった。動かない。あと少しの距離が、途方もなく遠い。
扉が開いた。
中から。
アテネが立っていた。
左わき腹に包帯が巻かれている。顔色はまだ蒼白い。それでも自分の足で立っている。おっとりとした瞳がこちらを見ていた。驚いた顔ではなかった。待っていた顔だった。
「来ると思ってました」
穏やかな声だった。責める色がなかった。怒りもなかった。ただ——知っていた、という声。アスが来ることを、わかっていた。
アスの視界が滲んだ。
泣く資格がないと思っていた。泣いてはいけないと思っていた。でもアテネの顔を見た瞬間、堪えていたものが全部崩れた。喉の奥が熱くなり、目頭が痛くなり、視界がぼやけていった。
「ごめん」
それしか出てこなかった。長い言葉は用意していた。頭の中で何度も組み立てた。判断を誤ったこと。焦りに飲まれたこと。陣形を崩したこと。全部言おうと思っていた。でも口から出てきたのは、その一語だけだった。
「わかってます」
アテネが言った。短く。けれど確かに。
わかっている。何がわかっているのか。アスが謝りに来ることか。アスが自分を責めていることか。それとも——アスが焦っていたことも、焦りの理由も、全部。
たぶん、全部だった。アテネはそういう人だった。穏やかな笑顔の奥で、全部を見ている。見ていて、黙っている。言葉にしない優しさで包んでいる。
扉の奥に、人影が見えた。
ミルが椅子に座っていた。膝の上にメモ帳。顔を上げず、メモ帳を見たまま。けれどペンは動いていない。書いていない。ただ開いているだけ。アスが来るのを、メモ帳を開いたまま待っていたのだ。
壁際にロイドが立っていた。腕を組んで、目を閉じている。さっきギルドの廊下にいたときと同じ姿勢。何も言わなかったこの男が、ここにいる。アテネの部屋に。
四人が同じ場所にいた。
アスは扉の前に立ったまま、三人の顔を見た。アテネの穏やかな目。ミルの伏せた顔。ロイドの閉じた瞼。
答えはまだ出ていなかった。何のために強くなりたいのか。何のために剣を握るのか。アリアドネに問われた答えは、まだ見つかっていない。
でも。
一人ではなかった。
間違えて、仲間を傷つけて、折れかけて、泣く資格もないと思って——それでもここに来たら、三人がいた。待っていた。怒っているかもしれない。失望しているかもしれない。それでもここにいてくれた。
アスは一歩踏み出した。扉をくぐった。怖いまま。
部屋の中に入ると、温かかった。小さな灯りが壁にかかっていて、窓から夜風が入ってくる。アテネの寝台の横に椅子が二脚。ミルが座っている椅子と、空いている椅子。
空いている椅子は、アスのために置かれていたのだと思った。
座った。膝の上に手を置いた。剣はない。置いてきた。手が空っぽだった。
誰も何も言わなかった。四人で黙って、同じ部屋にいた。灯りが揺れて、影が壁の上で踊った。窓の外で虫が鳴いている。
答えはまだない。
でも今夜は、これでいい。
了




