代償
剣を握る手に、力が入りすぎている。
わかっていた。柄を包む指が白くなるほど力んでいて、肩に余計な力が乗っている。アリアドネなら一目で指摘するだろう。力に頼りすぎている、と。
わかっていて、緩められなかった。
3層の森は今日も暗かった。黒い木々が灯りの範囲をぎりぎりまで削り、足元の湿った土が靴底を掴む。空気が重い。前回より——いや、来るたびに重くなっている。
ロイドが先頭を歩いている。いつもと同じだ。大剣を背に負い、獣人の耳を動かしながら進む。けれど今日は、ロイドの視線が時折こちらに向くのを感じた。直接目が合うわけではない。気配で、こちらを窺っている。アスの状態を確かめている。
前回の失態を。まだ引きずっている自分を。
序盤は安定していた。
危険度3の悪魔が二体現れたが、四人の連携で処理した。ロイドが正面を受け、アスが側面から炎で核を焼き、アテネが支援を切らさず、ミルが指示を出す。手順通りだった。無駄がなかった。
アスは意識して冷静でいようとしていた。前回の反省がある。焦るな。先走るな。ミルの計算を無視するな。頭の中で何度も繰り返した。その甲斐あってか、動きに余裕があった。炎の制御も安定している。一振りごとに必要な分だけの出力を乗せ、消耗を最小限に抑えている。
二体目を倒したあと、少し間が空いた。悪魔の気配がない静かな区間。呼吸を整え、隊列を確認する。全員の状態は良好だった。
そのとき、奥の闇から微かな風が吹いた。3層では珍しいことだった。音を殺す森に風は吹かない。何かが、奥の空気を動かしている。
「ミル、この先は」
「記録にない領域。ここから先のデータは存在しない」
「……行こう」
口にした瞬間、ミルの目がこちらを向いた。前回と同じ目だった。冷静な、事実を見据えた目。
「消耗率を考えると——」
「わかってる。でも今日は余裕がある。さっきの戦闘でも体力の消費は想定内だった。もう少しだけ先を見たい」
正論だった。今度こそ正論だった。前回とは違う。消耗率も確認した。全員の状態も良い。冷静に判断している——つもりだった。
ミルが黙った。反論の余地がなかったのか、それとも——また押し切られたのか。
ロイドが振り返った。金色の瞳がアスを見た。何も言わなかった。ただ見て、前を向いて、歩き出した。
四人が奥へ進んだ。
*
異変に気づいたのは、ミルだった。
「止まって」
聴音器を押さえる手が震えていた。ミルの手が震えるのを見たのは初めてだった。
「多い。前方と——左右。囲まれてる」
「数は」
「わからない。多すぎて読めない」
前回と同じだ。いや、前回より深い。前回はまだ引き返す余地があった。今は奥まで来すぎている。退路までの距離が長い。
木々の間から、赤い目が灯った。一つ、二つ、三つ——数え切れない。前方だけではなかった。左からも。右からも。後方からも。
囲まれた。完全に。
ミルの計算が正しかった。また。
「陣形を——」
ミルの指示が完成する前に、群れが動いた。前回の群れとは違った。小型の大群ではない。一体一体が危険度3から4クラスの個体。それが十体以上、同時に。
ロイドが前に出た。大剣が唸る。正面の三体をまとめて弾き返す。けれど再生する。弾いた悪魔が起き上がり、傷を塞ぎながら戻ってくる。
アスが右を受けた。炎を纏った剣で二体を捌く。核を狙う余裕がない。数が多すぎる。一体に集中すれば、別の一体が横から来る。
——突破口を。
焦りが滲んだ。冷静でいようとした。いようとしたのに、身体が先に動いた。ミルの指示を待たず、右の群れに単独で突っ込んだ。二体を斬り、三体目を蹴って、四体目に炎を叩き込む。
「アス! 戻って! 陣形が——」
ミルの声が聞こえた。聞こえていた。けれど足が止まらなかった。ここで押さなければ崩される。ここで切り開かなければ道がない。理屈は合っている。合っているはずだった。
けれど理屈と連携は別物だった。
アスが前に出たことで、右翼に穴が空いた。ミルが丸裸になった。ロイドが正面を離れられない。穴を埋められるのはアテネだけだったが、アテネは後衛だ。前線に出る装備ではない。
それでもアテネは動いた。
ミルの前に出て、両手を広げた。回復術の構えではない。防御の壁を張ろうとしている。エルフの防壁術。里で学んだ基礎的な防御。戦闘用ではない。間に合わせの、ありあわせの、自分にできる精一杯。
悪魔が来た。
右翼の穴を突いて、三体が同時にアテネに向かった。アテネの防壁が一体目を弾いた。二体目を——弾けなかった。防壁が砕けた。光の破片が散って、アテネの身体が曝された。
三体目の爪がアテネの左わき腹を抉った。
声が聞こえなかった。
アテネが声を上げたのか、上げなかったのか、アスには聞こえなかった。見えただけだった。アテネの身体が横に吹き飛ぶのが。白い服に赤い線が走るのが。地面に叩きつけられて、動かなくなるのが。
ロイドが来た。正面を捨てて飛んできた。大剣がアテネに迫っていた悪魔を叩き斬り、残りを蹴り飛ばした。間に合った。間に合ったが——遅かった。アテネはもう傷を負っていた。
アスの足が止まった。
右翼の群れの中で、足が止まった。剣を握ったまま、動けなかった。視界の端でアテネが地面に横たわっているのが見える。ロイドがその前に立ち、大剣で周囲を薙ぎ払っている。ミルがアテネに駆け寄っている。
自分だけが、群れの中で立ち尽くしている。
——俺のせいだ。
思考が止まった。身体が止まった。剣を握る手からは力が抜けず、足は動かず、ただ立っている。仲間が傷ついた。自分の判断で。自分の焦りで。自分が陣形を崩したから。
「アスっ!」
ロイドの声が響いた。鋭い声だった。戦場の声だった。個人的な感情を排した、生存のための声。
「下がれ。撤退する」
身体が動いた。ロイドの声に引きずられるように。自分の意志ではなかった。剣を握ったまま、群れの中から抜け出した。走った。どこを走っているのかわからなかった。視界がぼやけていた。
ミルがアテネを支えていた。アテネは意識がある。左わき腹を押さえ、歯を食いしばっている。深手ではない。致命傷ではない。けれど動ける状態でもなかった。
アスがアテネの反対側に回り、肩を支えた。アテネの身体が軽かった。こんなに軽い人を、自分は守れなかった。
「ごめん——」
「走って」
アテネが言った。短く。謝罪を受け取る余裕がなかったのか、それとも——今はそれどころではないと判断したのか。
四人が走った。ロイドが殿を務め、大剣で追ってくる悪魔を断続的に弾き返しながら。アスがアテネを支え、ミルが退路を指示する。来た道を戻る。暗い森を抜け、2層を駆け抜け、1層を走り抜けた。
門をくぐった。
光が戻った。
*
ギルドの治療室にアテネが運ばれた。
治療師が傷を確認し、回復術をかけた。左わき腹の裂傷。筋肉を断裂しているが、臓器には達していない。治療には数日かかるが、命に別状はない。
その報告を聞いて、アスの膝から力が抜けた。
治療室の前の廊下に立っていた。壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。石の床が冷たかった。手の中の剣が、やけに重かった。
ミルが治療室から出てきた。
廊下に立ち、アスを見下ろした。小柄な身体。前髪の奥の、冷静な目。いつもと同じ目。感情のない、事実を見据える目。
「あなたのせいです」
声にも感情がなかった。怒りもなく、悲しみもなく、失望もなく。ただ事実を述べた。算数の答えを読み上げるように。ミルにとって、それは計算結果と同じだった。原因と結果。アスが陣形を崩した。穴が空いた。アテネが負傷した。因果関係は明白。
アスは何も言えなかった。言い返す言葉がない。言い訳もない。ミルが正しい。最初から正しかった。前回も今回も。ミルの計算を押し切ったのはアスだった。
ミルはそれ以上何も言わず、廊下を歩いていった。背中が小さかった。怒りをぶつけてくれた方が楽だった。泣いてくれた方が楽だった。感情のない事実の方が、何倍も重い。
ロイドが廊下の奥に立っていた。壁にもたれ、腕を組み、目を閉じている。アスが顔を上げても、ロイドは目を開けなかった。
何も言わなかった。
一言も。
それが一番重かった。ミルの事実より、ロイドの沈黙の方が重かった。この男は嘘をつかない。そして今、何も言わない。言わないということは——言うべき言葉がないということだ。慰めも、叱責も、助言も。どれもこの場には相応しくないと、ロイドは判断した。だから黙っている。
アスは立ち上がった。膝が震えている。剣を鞘に戻し、誰にも何も言わず、廊下を歩いた。どこへ行くのか自分でもわからなかった。ただ、ここにいられなかった。
*
街の外れ。城壁に近い空き地。誰もいない場所を探して歩いた。人の声が聞こえない場所。視線が届かない場所。
草が伸び放題の地面に、座り込んだ。膝を抱えて、頭を埋めた。
泣けなかった。
涙が出なかった。出ないのではない。泣く資格がないと思った。泣いたら、自分が被害者のようになる。傷ついたのはアテネだ。自分ではない。自分は加害者だ。仲間を傷つけた側だ。泣く権利など、どこにもなかった。
目を閉じると、映像が蘇った。
アテネの身体が吹き飛ぶ瞬間。白い服に赤い線が走る瞬間。地面に叩きつけられる音。あの軽い身体が、自分の肩にもたれかかった感触。
重なった。別の記憶と。
七歳の自分が地面に倒れている。何もできなかった。悪魔が迫ってくる。声が出ない。足が動かない。少女が現れて、血を流しながら戦って、自分はただ泣いていた。
あのときと同じだ。
いや、あのときより悪い。あのときは何もできなかった。今回は——できることがあったのに、間違えた。力がなかったのではない。判断を誤った。焦りに飲まれて、仲間を危険にさらした。何もできないよりも、間違えることの方がずっと残酷だった。
守る側になると誓った。
十年前、あの帰り道で決めた。あの少女の背中を見て、何もできなかった自分を恥じて、次は守ると誓った。
守れなかった。
十年かけて、ここまで来て、仲間を得て、力をつけて——それでも守れなかった。守ろうとして、逆に傷つけた。強くなろうとすればするほど、焦りが足を引っ張る。アイリスに近づきたいという気持ちが、判断を曇らせる。
何のために剣を握っているのか。
膝の上に置いた剣が、重かった。アイリスの剣。この剣を握るたびに思い出す。あの人のこと。あの日のこと。守りたいと思った気持ち。
その気持ちが、仲間を傷つけた。
皮肉だった。笑えないほどの、救いのない皮肉だった。
剣の柄を握ろうとした。指が動かなかった。力が入らない。握れない。今まで何千回と握ってきた柄が、指の間からすり抜けていく感覚。
これが——折れるということか。
頭が空白になった。考えることを、心が拒否していた。何も考えたくない。何も感じたくない。ただ膝を抱えて、暗い空き地の中で丸くなっていたかった。
風が吹いた。冷たい風。草が揺れる音だけが、世界に残っていた。
「アス」
声が聞こえた。
顔を上げた。いつの間に来たのかわからなかった。気配がなかった。いつものように、音もなく現れた。
アリアドネが立っていた。
月明かりの中に、赤い髪が揺れている。長身の影が、アスの前に落ちている。いつもの飄々とした笑みはなかった。表情がない顔だった。いや——表情を消している顔だった。何かを伝えるために、わざと仮面を外している。
「話がある」
声が低かった。軽さがなかった。冗談の気配がどこにもなかった。道化の仮面が完全に剥がれた、アリアドネの素の声。アスがこの人と出会ってから、こんな声を聞いたのは初めてだった。
アスは答えなかった。答える力がなかった。ただ見上げていた。月に照らされたアリアドネの顔を。笑っていない、その顔を。
アリアドネが、一歩近づいた。
了




