予兆
3層の入口に立ったとき、前回とは違うものを感じた。
空気が重い。前回も重かった。けれど今日はそれ以上だ。黒い木々の間を漂う魔力が、肌に張りつくように濃い。呼吸のたびに舌の奥に苦みが残る。森が、前より深く闇を湛えていた。
ロイドが先頭を歩いている。大剣を背に負い、獣人の耳をわずかに動かしながら進む。その背中を見て、アスは前回のことを思い出していた。あの影。歪んだ翼。空気を軋ませる存在。そして走って逃げた記憶。
全員が意識している。口にはしない。けれど足取りが前回より慎重で、呼吸が浅い。あの影がまだこの森のどこかにいるということを、身体が覚えている。
「前回より魔力密度が高い」
ミルが聴音器を耳から外して言った。手元の地図に書き込みを入れながら、足を止めずに歩いている。
「数値じゃなくて体感の話。聴音器の減衰率が前回より大きい。空気そのものが変質してる」
「悪化してる、ってこと?」
「日を追うごとに。たぶん下からの影響が強くなってる」
ルシファー。その名前はまだ誰も口にしていない。けれど全員がわかっていた。第七層の底で何かが力を取り戻しつつある。その波が、層を越えて上まで押し寄せてきている。
三十分ほど進んだところで、ロイドの足が止まった。
右手が上がる。全員停止。
闇の中から、低い唸り声が聞こえた。前回と同じ。危険度4の悪魔。四足の影が木々の間を這うように近づいてくる。
「来る。一体」
ミルの声。アスは剣を抜いた。炎を灯す。細く、鋭く。アリアドネに教わった制御で、必要な分だけ。
影が跳んだ。
ロイドが受けた。大剣を横に構え、突進を止める。金属と骨の衝突音が森に——音を殺すはずの森に響いた。それだけで異常がわかった。前回はこの森が音を呑んだ。今日は音が通っている。空気の質が変わっているのだ。
アスが右から回り込んだ。炎を纏った斬撃を側面に叩きつける。手応えがあった。刃が食い込む。けれど——
硬い。
前回の危険度4より明らかに硬かった。同じ等級。同じ体格。同じ種類。それなのに、一撃の手応えが別物だった。まるで身体の密度そのものが上がっているかのように、刃が深く入らない。
「ミル——!」
「わかってる。前回と同じ種でも出力が違う。能力が底上げされてる」
ミルの分析が飛んだ。底上げ。2層の群れと同じだ。通常の個体より強くなっている。ルシファーの力が、末端の悪魔まで強化している。
ロイドが大剣で押し返した。悪魔がよろめく。その隙にアスがもう一撃。今度は深く入った。黒い体液が飛散し、悪魔が咆哮する。
倒れた。
——はずだった。
地面に崩れ落ちた悪魔の身体が、痙攣した。傷口が——塞がり始めた。黒い体液が逆流するように傷口に戻り、裂けた肉が盛り上がり、切断された筋繊維が繋がっていく。
「再生してる——!」
アテネが声を上げた。
全員が目を疑った。倒れた悪魔がゆっくりと身を起こしていく。さっきまで致命傷だったはずの傷が、見る間に消えていく。完全な再生。通常の悪魔にはあり得ない回復速度だった。
「始まっているな」
ロイドが低く呟いた。感情のない声。けれどその裏にある重さが伝わった。これがロイドが知っていた異変の一端なのだ。深層の力が末端まで行き渡り、悪魔たちの能力を底上げしている。再生力の異常な向上。それは——ルシファーの力が増していることの、直接的な証拠。
再生した悪魔が立ち上がった。四本の足が地面を踏みしめ、赤い目がこちらを睨む。さっきの傷は跡形もなかった。
「核だ」
ミルが即座に切り替えた。
「体表を斬っても再生する。核を直接破壊しないと倒せない。ガルムと同じ理屈——けど、核の位置がわからない」
「見つける。時間を稼いでくれ」
ミルの目が鋭くなった。見えないものを読む訓練。完全な情報がなくても仮説を立てて動く。今がその実践だった。
「ロイド、正面。アス、左。アテネさん、二人に支援を分散して。再生を遅延させる方法がないか試してほしい」
四人が動いた。ロイドが正面から大剣を振るい、悪魔の注意を引く。アスが左から斬り込み、再生する前に連撃を叩き込む。傷はすぐに塞がるが、再生中は動きが鈍る。その数秒を使って、ミルが悪魔の身体を観察していた。
アテネの光がアスの剣に触れた。回復ではない。炎の出力を一時的に底上げする支援。刃が深く入り、悪魔の内部を焼く。再生が——一瞬だけ遅れた。
「熱に弱い。再生機能が高温で阻害される。アス、炎を最大にして左脇腹のあたりを抉って」
ミルの指示。アスは炎を全開にした。細く長くではなく、太く短く。全力の一撃を左脇腹に叩き込む。肉が焼ける音。悪魔が絶叫した。
そこに——赤い光が見えた。体内の奥、焼けた肉の下で脈打つ赤い球体。核だ。
「見えた! ロイド、押さえて!」
ロイドが悪魔の首を大剣で押さえつけた。巨体同士の力比べ。地面が軋む。ロイドの腕の筋肉が膨れ上がり、獣人の身体能力が全力で発揮される。
アスが踏み込んだ。炎を纏った剣を、焼けた傷口から内部に突き入れた。核に届く。刃先が赤い球体に触れた瞬間、炎が核を包み込んだ。
核が砕けた。
悪魔の身体から力が抜け、再生が止まり、崩れ落ちた。今度は起き上がらなかった。
四人が息を吐いた。
一体。たった一体で、これほどの消耗。前回の危険度4を四人で倒したときより、遥かにきつかった。再生能力が加わっただけで、戦闘の質が根本から変わる。核を壊さなければ終わらない。通常の削り合いが通用しない。
「……1層のボスより消耗する」
アスが肩で息をしながら言った。
「当然だよ。ガルムは再生しなかった。こいつらは再生する。一体あたりの戦闘コストが跳ね上がってる」
ミルが淡々と分析する。けれどその声にも疲労が滲んでいた。分析もまた、体力を使う。
*
先へ進むかどうかの判断で、四人の意見が分かれた。
「偵察はここまでにした方がいい。消耗が大きすぎる。もう一体出たら——」
ミルが言いかけたとき、アスが口を開いた。
「もっと行ける」
自分でも、声が硬いのがわかった。喉の奥が乾いている。疲労からではない。焦りだ。胸の底で燻っている、あの焦り。
アイリスの顔が浮かんだ。
門の前で「随分整ったね」と言ったときの声。6層遠征から帰ってきたときの横顔。走ってギルドに消えていった背中。英雄として緊急召集に応じ、世界の最前線に立つ人。自分が好きな人。
好きだった。いつからかはわからない。七歳のあの日、血だらけで自分を守ってくれた少女。「もう大丈夫」と言って、隣にしゃがんで、泣き止むまで待ってくれた少女。あのときから——いや、もしかしたらそれよりもっと前から、ずっと。
守りたいと思った。守る側になりたいと思った。隣に立ちたいと思った。その全部の根っこに、アイリスがいる。アイリスが好きだから強くなりたい。アイリスの隣に立てるくらい強くなりたい。それはアスの中で最も純粋で、最も深い衝動だった。
けれどその想いが、今、別のものに変わりかけていた。
焦り。
6層の中核域を制圧した英雄たちと、3層で一体の悪魔に手こずっている自分。その距離が日を追うごとに重くなっていく。アリアドネは「時間がない」と言った。世界が動いている。ルシファーの力が増している。悪魔たちが強化されている。のんびり成長している猶予はないのだと、頭ではわかっている。
だから早く。もっと早く。もっと先へ。
「アス」
ミルの声が鋭かった。
「消耗率を計算して。今の状態でもう一体来たら——」
「わかってる。でもここで引いたら、次も同じところまでしか行けない。先に進まないと見えないものがある」
正論だった。正論のつもりだった。けれどミルの目が言っていた。それは正論じゃない。焦りだ、と。
ロイドは何も言わなかった。アスとミルのやり取りを聞きながら、闇の奥を見ている。判断を委ねているのか、それとも——アスの焦りに気づいた上で、あえて止めないのか。
アスはミルの視線を振り切るように、前に踏み出した。
「行こう」
ミルが口を閉じた。止めきれなかった。アテネがミルを見て、ミルがわずかに首を振るのを見て、それでもアスの後に続いた。全員が。
黒い森の奥へ。予定より深く。ミルの計算が弾いた安全圏を越えて。
*
音が変わった。
ミルが立ち止まるより先に、アスの足が止まっていた。空気の質が変わっている。前方だけではない。左右。そして——後方。
「囲まれてる」
ロイドの声が低かった。
木々の間から影が滲み出てきた。一体ではなかった。二体。三体。暗がりの奥にさらに赤い目が光っている。四体目。五体目。
強化悪魔。再生能力を持つ、底上げされた個体。それが複数。
ミルの計算が正しかった。この深度は、今の四人には早すぎた。一体で全力を使い切る相手が、五体以上。数字が合わない。合うはずがない。
「陣形——」
ミルの指示が飛ぶ前に、悪魔たちが動いた。
三方向から同時に来た。ロイドが正面を受け、アスが右を捌く。左が空いた。アテネの方向だ。
悪魔がアテネに向かって突進した。
「アテネ——!」
アスが叫んで身を翻した。右の悪魔を振り切って、アテネの前に飛び込む。剣を構える。間に合った。間に合ったが——
背中ががら空きになった。
右から離脱した瞬間、その方向から二体目が来た。背後からの衝撃。爪が肩を掠め、体勢が崩れた。前のめりに倒れかけたアスの頭上を、アテネに向かっていた悪魔の腕が通過する。
アスもアテネも、動けない姿勢になった。
金属音が鳴った。
ロイドだった。正面の悪魔を蹴り飛ばし、信じられない速度で二人の間に割り込んでいた。大剣が横薙ぎに振られ、アテネに迫っていた悪魔を弾き返す。同時に空いた左手でアスの腕を掴み、引き起こした。
「下がれ」
短い声。ロイドが三方向を一人で引き受けている。大剣が唸りを上げ、弧を描くたびに悪魔が弾かれる。けれど再生する。弾いても戻ってくる。核を壊さない限り終わらない。
「撤退する」
ロイドの判断だった。アスではなく、ロイドが下した。
「ロイドが前、アスが殿。ミル、退路を」
ミルが即座に応じた。来た道の方角を指差す。四人が走り始めた。今度は来た道を戻る。闇の中を、悪魔の影を背負いながら。
再生した悪魔たちが追ってくる。けれどロイドが断続的に後方に斬撃を放ち、アスが炎で牽制し、少しずつ距離を開けていく。2層との境界を越えたとき、追跡が緩んだ。3層の悪魔は2層までは来ない。
門をくぐった。
光が戻った。昼の光。街の音。結界の温もり。
四人が門の前に立っていた。全員、息が荒い。アスの肩には爪の傷が残り、アテネの魔力は底に近い。ミルの顔は蒼白で、ロイドの大剣に黒い体液がこびりついていた。
誰も何も言わなかった。
ミルがアスを見た。目が合った。ミルの目には——何もなかった。怒りもなく、呆れもなく、失望もなく。ただ事実を見ている目。「私の計算の方が正しかった」と、口にするまでもない事実を見ている目。
アテネもアスを見ていた。心配そうな目。けれど責める色はなかった。それが余計に痛かった。
ロイドは何も見ていなかった。大剣の刃についた体液を布で拭い、黙って背に負い直した。
誰も責めなかった。
「お前の判断が間違いだった」と、誰も言わなかった。言われた方が楽だった。怒られた方が楽だった。許されることの方が、ずっと重い。
アスはわかっていた。自分の判断ミスだった。ミルの警告を振り切って先に進んだ。焦りが判断を曇らせた。冷静さを欠いた結果、アテネを危険に晒し、全員を撤退に追い込んだ。
アイリスに近づきたかった。あの距離を少しでも縮めたかった。その想いは本物だ。けれどそれが焦りに変わった瞬間、判断が狂った。守りたくて強くなりたいのに、焦りが仲間を危険に晒す。皮肉だった。笑えないほどの。
*
夜。
宿の裏手。いつもの木箱の上に座って、アスは膝の上の剣を見ていた。月明かりが刃紋を照らし、青白い光が揺れている。アイリスの剣。
この剣を握るたびに、あの人のことを考える。
金色の髪。青い瞳。長い手足。迷いのない足取り。「帰ってきたんだね」と言ってくれた声。「気をつけて」と言ってくれた声。何でもないことのように剣を渡してくれた手。
好きだ。
好きだということを、アスは誰にも言ったことがなかった。言えるはずがなかった。英雄と、門を入ったばかりの冒険者。その距離は身分の差ではない。力の差だ。あの人の隣に立てるだけの力が自分にはない。好きだと言う資格すらないと思っていた。
けれど好きだという気持ちは、資格の有無とは関係なく、そこにあった。七歳のあの日からずっと。
守る側になりたい。あの人が血を流さなくていいように。あの人が一人で戦わなくていいように。隣に立って、背中を預け合えるくらいに。
その想いが、今日、自分の足を引っ張った。
早く強くなりたい。早くあの距離を縮めたい。その焦りがミルの警告を押し退け、仲間を危険に晒した。アテネが爪の前に立たされたとき、心臓が止まるかと思った。守りたくて前に出たのに、自分の焦りが原因で守るべき人を危険にさらした。
何をやっているんだ。
剣の柄を握った。力を込めた。爪が掌に食い込む。痛みが、少しだけ頭を冷やしてくれた。
焦りが間違いだったとは思わない。アイリスに近づきたいという気持ちは、消せないし、消す気もない。でも焦りと判断は別物だ。気持ちが先走って頭を追い越したら、足元が崩れる。今日がその証拠だった。
わかっている。
わかっていて——それでも焦りは消えなかった。頭では理解している。冷静でいなければならないと。仲間を危険に晒してはいけないと。でも胸の奥で、あの距離が脈打つように痛む。6層と3層の隔たり。英雄と自分の隔たり。アイリスと自分の隔たり。
まだこんなに遠い。
その自覚が、焦りの火を消すどころか、じわりと煽っていく。
月が雲に隠れた。刃紋の光が消え、手の中の剣がただの鉄の塊に戻った。暗い裏庭に、アスは一人で座っていた。
明日も3層に行く。行くしかない。でもどうすれば——焦りと冷静さを両立できるのか。強くなりたいという気持ちを力に変えながら、その気持ちに飲まれない方法を。
答えは出なかった。
宿の中から、アテネの穏やかな声とミルの短い返事が聞こえてきた。ロイドの低い声も混じっている。三人が何かを話している。自分を待っているのかもしれない。
立ち上がれなかった。まだ。もう少しだけ、一人でいたかった。
月が雲から出た。刃紋が再び青白く光った。アイリスの剣。あの人が何でもないことのように渡してくれた剣。
この剣に恥じない自分になりたい。
その想いだけが、暗い裏庭の中で、微かに光っていた。
了




