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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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 ロイドが振り返った。


 堕天使の影が闇に消えた直後だった。金色の瞳がアスたち三人を射抜き、口が開いた。


「逃げる」


 短かった。説明もなく、議論の余地もなく、ただ一語。けれどその声に込められた密度が、全てを語っていた。逃げなければ死ぬ。理由を聞いている暇はない。


 四人が走った。


 来た道を戻る。黒い木の幹が灯りの中に浮かんでは消え、足元の湿った土が靴裏を掴む。音を殺す森の中で、自分たちの足音だけが奇妙に生々しく響いた。


 追われている。


 音はなかった。足音も、唸り声も、何も聞こえない。それなのに背中に圧がある。ゆっくりと近づいてくる重力のような、逃れようのない質量。振り返らなくてもわかった。あの影が、こちらの存在を認識している。追っているのか、見ているだけなのか、それすら判断がつかない。けれど背中が知っている。あれはまだそこにいる。


 アスの肺が悲鳴を上げた。3層の空気は重い。走れば走るほど、粘つく魔力が気管を焼く。隣でアテネの呼吸が荒くなっている。ミルの足がもつれかけた。ロイドが最後尾で、三人の背中を守るように走っている。


 誰も口を開かなかった。開けなかった。言葉に割く余裕がない。ただ走る。木の根を跳び越え、岩を避け、闇の中を灯りだけを頼りに突き進む。


 2層に入った瞬間、空気が変わった。あの粘りが薄れた。けれど足は止めなかった。2層を走り抜け、1層を駆け抜け、門の光が見えた。


 門をくぐった。


 光が弾けた。


 昼の陽射しが四人の全身を包んだ。結界の温かい魔力が肌を撫で、あの圧が——消えた。ぷつりと糸が切れたように、背中にまとわりついていた重さが剥がれ落ちた。


 追ってこない。結界が遮断している。あれが何であれ、結界の力はまだ機能している。


 アスは門の前の石壁に背中をぶつけるように寄りかかった。膝から力が抜け、ずるずると座り込む。石の冷たさが汗で濡れた背中に染みた。心臓が肋骨を叩いている。呼吸が整わない。吸っても吸っても、空気が足りない気がした。


 アテネが隣で膝を折った。壁に両手をつき、額を石に押し当てている。肩が上下している。銀の腕輪がかすかに光り、自分自身に回復をかけようとしているのか、あるいは無意識に魔力が漏れているのか。


 ミルは地面に座り込み、膝を抱えていた。メモ帳を出す余裕もない。目を閉じ、唇を引き結んでいる。分析する頭が、恐怖に追いつこうとしている。理性で処理しようとしている。けれど身体は正直だった。抱えた膝の上で、指先が微かに震えていた。


 ロイドだけが立っていた。


 壁にはもたれていない。門に背を向け、街の方を見ている。大剣を背に負ったまま、両足で地面を踏みしめている。息は上がっている。けれど座らない。座れないのか、座る気がないのか。金色の瞳が遠くを見ていた。ここではないどこかを。


 誰も何も言えなかった。あの影を見た衝撃が、まだ身体の芯に残っている。言葉にする段階ではなかった。ただ生きている。生きて帰ってきた。今はそれだけだった。


        *


 どれくらいそうしていたのか。心臓の鼓動が落ち着き、呼吸がようやく平常に戻ったころ、アスは口を開いた。


「知ってたのか」


 ロイドに向けた言葉だった。声が掠れていた。走った後の枯れた声ではない。問いかけることへの躊躇が、声を細くしていた。


 あの影を見たときのロイドの反応。「来るな」と言った声。感情が乗っていた。初めての感情。あれは初めて見たものへの驚きではなかった。知っているものを再び見たときの反応だった。


 ロイドが振り返った。金色の瞳がアスを見下ろす。数秒の沈黙。門の向こうから差し込む光が、ロイドの顔半分を照らしている。


「知っていた」


 否定しなかった。嘘はつかないと言った。その約束を守っている。


「あれが堕天使か」


「ああ」


「前から追ってたのか。それで2層にいたのか」


 ロイドは答えなかった。すぐには。唇が薄く開き、何かを言いかけて、閉じた。視線が門の方に戻る。あの暗闇の向こうにいるものを、結界越しに見つめている。


「場所を変えよう」


 ロイドが言った。


 四人はギルドから離れた。門の前にはギルド職員がいる。冒険者の出入りがある。人の耳がある場所では話せないことがあるのだろう。


 街の外れ、城壁に近い一角。人通りのない石畳の広場に面した古い倉庫の壁に、四人はもたれかかった。午後の陽射しが斜めに差し込み、壁の影と光の境界線が四人の足元を横切っている。風が吹いて、乾いた草の匂いが鼻先をかすめた。


 静かだった。遠くで子供の声が聞こえる。市場の喧騒が風に乗って届いてくる。日常の音だった。ほんの数時間前、音を殺す森の中で死の気配に追われていたことが嘘のような、穏やかな午後。


 ロイドが壁に背をつけ、腕を組んだ。目を閉じている。話す準備をしている。長い沈黙だった。アスもアテネもミルも、急かさなかった。この男が口を開くのを待った。


「……昔の話だ」


 ロイドが目を開けた。金色の瞳が、壁の向こうの空を見ていた。


「俺は獣人の集落で生まれた。結界の外にある、小さな村だ。百人もいなかった」


 結界の外。アテネの里と同じだ。人間の結界に守られない場所で、自分たちの力で生きていた人々。


「獣人は身体が強い。悪魔が来ても、村の戦士たちが追い返していた。小さな村だったが、それなりに平和だった」


 ロイドの声は平坦だった。ミルが両親のことを話したときと似ていた。感情を排して、事実だけを並べる声。それが逆に、その奥にある痛みの深さを示していた。


「ある日、それが来た」


 それ。名前を言わなかった。けれど何を指しているかはわかった。


「普通の悪魔じゃなかった。見た目は人間に近い。けれど纏っている空気が違う。村の戦士たちが束になっても歯が立たなかった。一人で——村を壊した」


 風が止んだ。子供の声も、市場の音も、一瞬だけ遠のいた。ロイドの声だけが、午後の空気の中に落ちていく。


「父と母が殺された。兄弟も。近所の子供たちも。俺だけが生き残った。たまたま森に出ていた。戻ったときには、もう——」


 言葉が途切れた。ロイドの顎が僅かに動いた。奥歯を噛みしめている。腕を組んだ手の指が、上腕に食い込んでいた。


「残ったのは匂いだけだった。焼けた匂いと、血の匂いと、あいつの——残留した魔力の匂い。獣人の鼻は忘れない。あの匂いだけは、今でも」


 アスは何も言えなかった。


 言葉が出てこなかった。「辛かったですね」とも「大変でしたね」とも言えなかった。そんな薄い言葉では、ロイドが語ったものの輪郭にすら触れられない。家族を。村を。全てを失った。それも、かつて人間の側にいたはずの存在に。


「それ以来、追っている。あの匂いを辿って、大陸中を。堕天使が何者なのか、調べられることは全部調べた。なぜ人間の側にいた存在が堕ちたのか。何がきっかけだったのか。そして——どうすれば殺せるのか」


 ロイドの目が鋭くなった。さっきまでの痛みの色が消え、研ぎ澄まされた刃のような光が宿った。


「2層にいたのは、気配を追っていたからだ。深層から這い上がってくる魔力の残滓に、堕天使の匂いが混じっていた。確認するために単身で潜った。お前たちに出会ったのは——偶然のようで、偶然ではない」


「偶然ではない?」


「お前たちが群れに囲まれていた場所は、俺が追っていた気配の直線上だった。あの群れは堕天使から逃げて上層に流れてきたものだ。気配を追っていれば、遅かれ早かれあの場所に着く」


 点と点が繋がった。ロイドがあのタイミングで現れたのは英雄的な偶然ではなく、同じ原因を追っていた者同士の必然的な合流だった。


「パーティーに入りたいと言ったのも、それが理由か」


 アスが聞いた。


「……それだけじゃない」


 ロイドが間を置いた。


「一人で追い続けて、一人で何度も深層に潜った。そのたびに思い知らされた。一人では届かない。あいつは——あいつらは、一人の力で倒せる存在じゃない」


 その告白は、この男にとって重いものだったはずだ。一人で戦い続けることが、ロイドの生き方そのものだった。家族を失ってから、誰にも頼らず、誰とも組まず、一人で追い続けた。それは強さではなく意地だったのかもしれない。あるいは——誰かを巻き込んで、また失うことへの恐怖。


「お前たちを見て思った。弱い。経験も足りない。でも——止まらない。壁にぶつかっても、足を止めない。そういう人間がいるなら、一緒に行けるかもしれないと」


 ロイドが四人の顔を見た。順番に。アス、アテネ、ミル。そしてもう一度アスに戻って、目を伏せた。


「……身勝手な理由だ。お前たちを利用しようとしていたのかもしれない」


「違う」


 アスが即答した。考える前に口が動いていた。


「利用しようとする人間は、群れの中で俺たちの左翼を引き受けたりしない。言葉なしで連携を取ったりしない。『生きてるか』なんて聞かない」


 ロイドが顔を上げた。金色の瞳が、少しだけ揺れていた。


 けれどアスにはそれ以上言える言葉がなかった。ロイドが失ったものの重さに、自分の言葉は軽すぎる。家族を失い、村を失い、何年も一人で追い続けてきた男の痛みに、何が言えるのか。わからなかった。わからないまま、ただ隣にいた。


 アテネが口を開いた。


「一人でやろうとしないでください」


 静かな声だった。おっとりとした普段の口調とは違う。芯のある、はっきりとした声。エルフが覚悟を持って発する声だった。


「ロイドさんが背負っているものの重さは、私には想像しかできません。でも——一人で背負い続けて壊れてしまったら、その先にあるものにも手が届かなくなります」


 アテネの目がロイドをまっすぐ見ていた。里を離れて、一人で外に出てきたエルフ。自分もまた、一人で背負おうとした経験がある人間だった。だから言える言葉だった。


「私たちは強くありません。ロイドさんと比べたら、まだ全然足りない。でも一緒にいることはできます。それくらいは——させてください」


 ロイドの表情が変わった。


 大きな変化ではなかった。眉が動いたわけでも、口元が緩んだわけでもない。けれど目の奥にあった硬さが、ほんの僅かに溶けた。氷に温い水をかけたときのような、表面だけが薄く変わる、微かな変化。


 ミルは何も言わなかった。


 地面に座ったまま、膝を抱えたまま、ロイドを見ていた。黙っている。それがミルの受け止め方だった。言葉を持たないのではない。言葉にする必要がないのだ。ミルはあのとき条件を出した。「隠し事をしないこと」。ロイドは今、その条件に応えた。過去を話した。痛みを見せた。それで十分だった。ミルの沈黙は、了承だった。


 ロイドの唇が動いた。


「一人でいい」


 言いかけた。声になりかけた。けれど——言い切れなかった。


 口が閉じた。言葉が喉の奥で止まった。ロイドの視線が四人の顔を巡った。アスの目。アテネの目。ミルの目。三人とも、急かしていなかった。答えを求めていなかった。ただそこにいた。ロイドが何を言っても、何も言わなくても、ここにいる。


 それだけのことが——ロイドの言葉を止めた。


 一人でいい、と言えなかった。それは嘘になるから。嘘はつかないと約束した。一人でいいと思っていたのは本当だ。でも今、この場で、この三人の前でそう言い切ることは——嘘になる。


 ロイドは黙った。


 四人の間に沈黙が降りた。重くはなかった。冷たくもなかった。ただ静かだった。午後の風が戻ってきて、乾いた草の匂いを運んでいく。壁にかかった影が少しだけ伸びている。日が傾き始めている。


 誰も急かさなかった。誰も言葉を足さなかった。沈黙のまま、四人がそこにいた。それだけで、何かが変わっていた。言葉にはならない。形にもならない。けれど空気が違った。さっきまでの四人と、今の四人は同じではなかった。


 ロイドが顔を上げた。


 壁の向こうの空を見た。午後の空。薄い雲が流れていく。結界の光が空の端にかすかに映り、穏やかに揺れている。この光が、あの影を遮っている。この光の下で、子供たちが走り、市場が賑わい、人々が日常を送っている。


 ロイドの拳が、ゆっくりと開いた。握りしめていた手が、緩んだ。


「次は逃げない」


 小さな声だった。宣言というには控えめで、呟きというには芯があった。自分に言い聞かせている声でもあり、隣にいる三人に向けた声でもあった。


 次にあの影と対峙したとき。逃げない。背を向けない。今度こそ——向かっていく。


 アスは剣の柄に手を置いた。掌に馴染む感触。アイリスの剣。ガルムの素材で強化された刃。この剣で、もっと先へ行く。ロイドと一緒に。


「俺もだ」


 アスが言った。短い言葉だった。けれどロイドが語った過去の重さに対して、長い言葉を並べることの方が不誠実だと思った。隣にいる。一緒に行く。逃げない。それだけを、同じ言葉で返す。


 アテネが頷いた。静かに、けれどはっきりと。


 ミルは何も言わなかった。けれどメモ帳を取り出した。ペンを手に取り、新しいページを開いた。堕天使に関する情報を書き始めている。ロイドが語ったことを、一語も逃さず記録している。それがミルの答えだった。情報を武器に変える。ロイドの痛みを、戦うための力に変える。そうすることで、一緒に戦う意思を示す。


 四人が同じ方向を向いていた。


 壁の向こうの空ではない。もっと先。門の向こう。3層の闇の向こう。あの影がいる場所。まだ遠い。まだ届かない。でも——四人なら、少しずつ近づける。


 日が傾いていく。四人の影が長く伸びて、石畳の上で重なった。


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