堕ちたもの
3層の情報は、思っていたより少なかった。
ギルドの資料室で丸一日を費やして、ミルが集められたのは薄い冊子二冊分だった。2層までの記録が棚を埋め尽くしているのに対し、3層以降は極端に文献が減る。踏み入れた者が少なく、帰還した者がさらに少ない。書かれた記録は断片的で、地図と呼べるものは存在しなかった。
「わかっていることだけ言う」
宿の食堂で、ミルがメモ帳を広げた。朝食のパンが手つかずのまま脇に置かれている。
「3層は岩場の構造が消えて、暗い森のような空間になる。視界が極端に悪く、音が吸収される。聴音器の有効範囲も狭まる可能性が高い」
「森……地上の森とは違うんでしょうけど」
アテネが眉をひそめた。エルフにとって森は故郷だ。けれどミルが語る3層の森は、アテネが知る森とは別物だろう。
「魔物の危険度は4が基準。4以上が常駐していて、5も出る可能性がある。1層のボスが危険度4上位だったから——」
「あれと同格が、そこら中にいるってことか」
アスが言うと、テーブルの空気が重くなった。ガルムに七人がかりで死にかけた記憶は、まだ全員の身体に刻まれている。
「それと」
ミルが視線を落とした。
「通常より悪魔の動きが活発だという報告が複数上がっている。2層の群れと同じ兆候。下の層から何かが押し上げている影響が、3層にも出ている可能性がある」
テーブルの向こうで、ロイドが黙って茶を飲んでいた。
*
入場制限は続いていた。
ギルドのロビーに貼られた告知は更新されず、一般の冒険者は2層以降への立ち入りが禁じられたままだった。掲示板の前を通るたびに、苛立ちと不安を混ぜた顔の冒険者たちとすれ違う。
四人が特例で許可を得られたのは、2層での異変報告の当事者だったからだ。ミルの報告がギルド上層部に評価され、追加調査の名目で深層への入場が認められた。許可証には「第3層までの偵察および情報収集」と書かれていた。
門へ向かう道を、四人で歩いた。
朝の光が石畳を白く照らしている。風がない。空気が止まっているような、静かな朝だった。市場はまばらに開いているが、活気が薄い。異変の噂が街に染み出して、人々の足取りを重くしている。
アスは前を歩いていた。隣にアテネ、半歩後ろにミル。そしてさらに後ろに、ロイド。四人で歩くようになって数日が経ったが、ロイドはいつも少し後ろにいた。距離を詰めないのは性格なのか、それとも——まだ馴染みきれていないのか。
アスは歩調を緩めて、ロイドの横に並んだ。
「ロイドさん」
「ああ」
「2層の異変のこと。何か知ってますか」
直球で聞いた。回りくどいやり方は、この男には通じない気がした。知っていることは知っている、話せることは話す、話せないことは黙る。そういう人間だとわかっていた。
ロイドの足が、一瞬だけ遅くなった。
金色の瞳が前を向いたまま、何かを考えている。顎のあたりの筋肉がわずかに動いた。言葉を選んでいるのか、話すかどうかを判断しているのか。
数歩分の沈黙があった。石畳を踏む四人の足音だけが響いている。
「第4層で、謎の悪魔が発生している」
ロイドが口を開いた。
前を歩いていたアテネとミルの足が止まった。四人が立ち止まる。門まではまだ少し距離があった。通りに人影はなく、石壁に挟まれた狭い路地に、ロイドの低い声だけが落ちた。
「通常の悪魔じゃない。もっと古い存在だ」
「古い……?」
「堕天使」
その言葉が、路地の空気を変えた。
聞いたことのない単語だった。悪魔でもなく、人間でもなく、堕天使。名前の響きだけで、何か禁忌に触れたような感覚があった。
「堕天使って、何ですか」
アテネが聞いた。声が硬い。エルフの直感が、その言葉の持つ重さを本能的に感じ取っているようだった。
「かつて人間の側にいた存在だ」
ロイドの声は静かだった。感情を排した、事実を述べるだけの声。けれどその奥に、微かな熱が潜んでいた。この話題に対する、個人的な何か。
「人間の側……味方だったということですか」
「そう言ってもいい。人間を守る側にいた。天使と呼ばれていたかどうかは知らない。ただ、人に近い力を持ち、人のために戦っていた存在がいた。それが何らかの理由で——堕ちた」
「悪魔になった」
ミルが言った。結論を先に引き出す。ミルらしかった。
「ただの悪魔じゃない。通常の悪魔は魔界で自然発生する。だが堕天使は違う。元が人間の側にいた分、知性がある。戦略がある。そして——人間の弱点を知っている」
背筋が冷えた。
悪魔は脅威だ。だがそれは自然災害に近い脅威だった。意思はあっても、人間社会を理解しているわけではない。結界を突破できないのも、門を通じてしか魔界と行き来できないのも、悪魔が人間の仕組みを理解していないからこそ成り立つ均衡だ。
けれど堕天使は違う。人間を知っている。守る側にいたからこそ、守りの穴を知っている。
「2層の群れは、その堕天使に追われて上に逃げてきた。第4層で目覚めた堕天使の力が、下層の均衡を崩している。その影響が玉突きのように上の層まで押し上がってきている」
ミルのメモ帳が開かれていた。ペンが走っている。ロイドの言葉を一語も逃さず記録している。
「なんでそんなに詳しいんですか」
アスが聞いた。聞かないわけにはいかなかった。
ロイドの歩みが止まった。四人が路地の真ん中で立ち尽くしている。壁の上から差し込む朝日が、ロイドの灰色の髪を白く照らしていた。
「昔、関わったことがある」
それだけだった。声の温度が下がっていた。これ以上は聞くなと、言葉ではなく空気が告げていた。ロイドの金色の瞳が、一瞬だけ遠くを見た。今ここではない、別の時間を見ている目。過去の何かを——おそらくは、失ったものを見ている目。
アスは口を閉じた。聞けなかった。聞いてはいけなかった。ミルの「隠し事をしないこと」という条件を、ロイドは破っていない。嘘はついていない。ただ全部を話していないだけだ。そしてその「全部」の中に、この男の傷がある。それだけはわかった。
アテネが顔を曇らせていた。穏やかな表情が消え、眉間に微かな皺が寄っている。人間の側にいた存在が堕ちた。エルフにとって、それがどれほど重い意味を持つのか——アスには想像しかできなかった。長い時を生きるエルフは、裏切りと堕落の物語を人間より深く知っているのかもしれない。
ミルはメモ帳を閉じた。情報を整理する時間が必要だという顔だった。けれど今は先に進まなければならない。
四人は再び歩き始めた。門が見えてきた。あの鉄の門。古い紋様と結界の光。何度もくぐった門が、今日は違って見えた。門の向こうにあるものの意味が、さっきまでとは変わっている。
*
3層に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
2層までは洞窟だった。岩壁と岩の天井と岩の床。硬質で冷たい世界。3層は違った。
木だった。
足元が柔らかい。岩ではなく、黒い土。湿った感触が靴底から伝わってくる。そして前方に——木が立っていた。幹は黒く、枝は捻じれ、葉はない。枯れた巨木が、通路の両側にそびえている。それが一本ではなかった。奥へ奥へと、闇の中に黒い幹が連なっている。
森だった。ミルが言った通り。けれど聞いていたのと、実際に立つのとでは全く違った。
光がなかった。2層にも光はなかったが、あちらは暗い洞窟だった。3層の闇は質が違う。木々の枝が頭上で絡み合い、天蓋のように空間を覆っている。灯りを掲げても、光が木々に吸い込まれるように減衰する。十歩先がぼやけ、二十歩先は完全な闇だった。
そして——音がなかった。
2層には反響があった。足音が壁に跳ね返り、声が通路を伝った。3層の森は音を呑み込んだ。アスが足を踏み出す音が、地面に吸い込まれて消える。声を出しても、すぐそばにいるはずのアテネに届くまでに力が削がれる。
「聴音器の感度が落ちてる」
ミルが耳元の器具を調整しながら言った。声が近いのに遠く聞こえる。空気が音を殺している。
「索敵範囲が半分以下になった。気配で補うしかない」
ロイドが先頭に立った。大剣を背に負ったまま、木々の間を慎重に進む。獣人の五感が人間より鋭いことは、動きを見ればわかった。耳がわずかに動いている。鼻先が空気を吸っている。人間には拾えない情報を、ロイドは身体で拾っている。
アスはロイドの後ろについた。剣の柄に手を置いたまま、呼吸を整える。空気が重い。肺に入ってくる息が粘つく。2層よりさらに濃い魔力の密度が、身体の内側を圧迫していた。
十分ほど歩いたところで、ロイドの足が止まった。
右手が上がる。全員停止の合図。アスの足が止まる。アテネが息を殺す。ミルの指がメモ帳から離れる。
闇の中で、何かが動いた。
木々の向こう、二十歩ほど先。黒い影が地面を這うように移動している。大きい。ガルムほどではないが、人間の倍以上の体躯。四足。低い唸り声が——音が吸い込まれるはずの森の中で、それだけがはっきりと届いた。
危険度4。
身体がそう判断した。数値で測ったわけではない。皮膚が粟立ち、背筋に冷たいものが走る。あの感覚。ガルムと対峙したときに似た圧。存在そのものが放つ威圧感。
「来る」
ロイドが低く言った。大剣を背から抜く。金属が擦れる重い音。
影が跳んだ。
木の幹を蹴り、空中で身体を捻り、四人の頭上から降ってくる。速い。2層の魔物より速い。そして重い。着地の衝撃で地面が陥没した。
ロイドが前に出た。大剣を横に構え、降ってきた影の爪を受ける。金属と骨がぶつかる轟音。ロイドの足が地面を削りながら後退する。けれど止まった。止めた。あの巨躯が踏ん張り、力で押し返した。
アスが横から斬り込んだ。炎を灯した剣を魔物の側面に叩きつける。硬い。けれどガルムの甲殻ほどではない。刃が食い込み、炎が傷口を焼いた。魔物が咆哮する。音を殺すはずの森が、その叫びだけは通した。
「左足が軸。攻撃後に体重が左に寄る!」
ミルの声が飛んだ。聴音器が機能しない分、目で見ている。たった一回の攻撃で癖を読んだ。不完全な情報から仮説を立てる訓練の成果が、ここに出ている。
魔物が左足を軸に旋回した。ミルの読み通りだった。その回転に合わせてアスが右に回り込み、炎を纏った二撃目を叩き込む。深く入った。
アテネの支援が途切れない。走りながら——いや、木の根を跳び越えながら、魔力をアスとロイドに交互に送っている。視界が悪い森の中で、二人の前衛の位置を正確に把握して、必要な方に必要な分だけ。腕輪が白く光り、闇の中で道標のように輝いていた。
ロイドが大剣を振り上げた。魔物の注意がアスに向いている隙に、頭上から叩き下ろす。重い一撃が背骨を砕いた。魔物の四本の足が同時に折れ、黒い身体が地面に崩れ落ちた。
静寂が戻った。
四人の息遣いだけが、森に吸い込まれていく。
「……1層のボスと同格が、通常エンカウント」
ミルが呟いた。冷静な声だったが、その裏にある緊張は隠せていなかった。
けれど倒せた。四人なら倒せた。ロイドが前線を安定させ、アスが隙を突き、アテネが支援を維持し、ミルが分析する。七人でようやく倒したガルムと同格の敵を、四人で。あのときより確実に強くなっている。
息を整え、さらに奥へ進んだ。
森が深くなっていく。木々の密度が増し、幹が太くなる。足元の土が黒みを増し、踏むたびに微かに沈む。空気が変わり始めていた。魔力の密度が上がっているのではない。別の何かが混じり始めている。説明のつかない違和感。肌の表面がちりちりと粒立つような、けれど物理的な刺激ではない何か。
「……おかしい」
ミルが足を止めた。聴音器を外し、素の耳で周囲を探っている。
「空気が歪んでる。魔力の流れが——通常のパターンと違う。何かに引っ張られてる」
「引っ張られてる?」
「この先の何かに、周囲の魔力が吸い寄せられてる。磁石みたいに」
アスも感じていた。足が重くなったのは疲労だけではない。空気そのものが粘度を持ち始めている。呼吸のたびに、喉の奥に甘い腐臭のようなものが触れる。匂いではない。匂いに似た、魔力の質感。
ロイドの様子が変わった。
それまでの冷静な歩みが止まり、金色の瞳が鋭くなっていた。耳が立っている。獣人の耳が、人間には聞こえない何かを拾っている。大剣の柄を握る手に力が入り、前腕の筋肉が浮き出ていた。
「ロイドさん——」
「静かに」
短い声だった。それだけで四人が止まった。
闇の奥を見ていた。木々の間、灯りが届かない暗がりのさらに先。そこに——何かがいた。
見えたのは輪郭だけだった。人型に近い影。けれど人間ではない。悪魔とも違った。悪魔は闇に溶ける存在だ。闇と同質のものだから、暗がりの中では境界が曖昧になる。
それは違った。闇の中で、闇とは別のものとして存在していた。影なのに輪郭が鮮明だった。闇の中に切り抜かれたように、そこだけが異質な密度を持っていた。人型の影。その背中に——翼のようなものが見えた。折れ曲がった、歪な翼。
空気が軋んだ。比喩ではなかった。影の周囲の空気が目に見えて歪んでいた。木の幹が僅かに撓み、地面の土が浮き上がりかけている。重力すら歪めるほどの何かが、あの影から放射されている。
アスの全身が総毛立った。
恐怖ではなかった。恐怖より深い場所にある、生き物としての拒絶反応。あれに近づいてはいけない。本能がそう叫んでいる。膝が震える。手が冷たくなる。ガルムのときとは質が違う。ガルムは強かった。でもあれは——この世にいてはいけないものだ。
「来るな」
ロイドの声が聞こえた。
静かだった。けれどその声に、初めて感情が乗っていた。怒りでも恐怖でもなかった。もっと複雑な何か。痛みに似た響き。知っている者の声だった。あれが何であるかを——身をもって知っている者の。
四人が立ち止まった。誰も動けなかった。
影が——こちらを見た。
目は見えなかった。距離が遠すぎた。けれど「見られた」という確信があった。あの影の意識がこちらに向いた瞬間、空気の歪みが一段増した。木々が軋み、土が浮き、四人の肌を見えない圧力が撫でた。
一秒か、二秒か。永遠のように長い時間。
影が動いた。背を向け、闇の奥へ歩いていく。歪な翼が揺れた。一歩、二歩。三歩目で、闇に溶けた。溶けたのではなく、闇そのものになった。存在していた場所に、空白だけが残った。
影が消えてから、さらに数秒が経った。空気の歪みが薄れ、木々が元に戻り、地面の土が落ち着いた。四人の耳に、自分たちの心臓の音が戻ってきた。
ロイドの拳が握られていた。
大剣の柄ではない。素手の拳。白くなるほど強く握りしめている。前腕の筋肉が震えていた。怒りか。悔しさか。あるいは——記憶に由来する何かか。
「……厄介なものが目を覚ました」
低い呟きだった。独り言のように。けれど四人全員に聞こえた。音を殺す森が、その言葉だけは運んだ。
ロイドの横顔を見た。金色の瞳が、影が消えた方向を射抜いている。そこにあったのは、戦士の目だった。冷静な分析でも、漠然とした恐怖でもない。あれと戦ったことがある者の目。あれに何かを奪われたことがある者の目。
アスは何も言えなかった。アテネも、ミルも。三人ともが、目の前に立つ獣人の背中に刻まれた何かを、初めて感じ取っていた。
堕天使。かつて人間を守った者。今は悪魔に堕ちた者。その影が、3層の闇の奥に消えていった。
風が吹いた。音のない風。黒い木の枝が揺れ、闇が波打った。
四人の間に、重い沈黙が降りた。帰路につく足取りは、来たときより遥かに重かった。誰も口を開かなかった。開ける言葉を、誰も持っていなかった。
見てしまった。知ってしまった。世界の底で目を覚ましたものの影を。
それがこれから何をもたらすのか、まだ誰にもわからなかった。
了
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