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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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四人目



 朝靄が街を包んでいた。


 宿の扉を開けると、冷たい空気が鼻先を刺した。夜明けからそう経っていない。石畳がうっすらと湿り、遠くで鐘の音が一つ鳴った。通りに人影はまばらで、市場の露店もまだ半分しか開いていない。世界が薄い灰色に覆われた、静かな朝だった。


 ロイドがいた。


 宿の向かいの壁にもたれて立っていた。大剣を背に負い、腕を組み、目を閉じている。朝靄の中に灰色の髪が溶け込んで、壁の一部のように見えた。待っていたのか、偶然通りかかっただけなのか。どちらとも取れる佇まいだった。


 アスが足を止めると、ロイドが目を開けた。金色の瞳に朝の薄い光が映る。


「少し話がある」


 前置きも挨拶もなかった。ロイドらしいと思った。まだ一日しか一緒にいないのに、この男の言葉の密度にはもう慣れ始めていた。少ない語数に、必要なことだけが詰まっている。


「ここで?」


「どこでもいい」


 二人で宿の裏手に回った。木箱が積まれた小さな空間。アスがいつも剣を見る場所だ。朝靄が低くたなびいて、足元が白く煙っている。壁を伝う蔦に朝露が光り、どこかで小鳥が鳴いた。


 ロイドは木箱に腰は下ろさなかった。壁に背をつけたまま、こちらを見ている。アスは向かいに立った。正面から見ると、改めて大きい男だと思った。頭二つ分の身長差。腕の太さが違う。首から覗く筋肉の輪郭が、鎧の下にどれほどの身体があるかを語っていた。


「お前たちのパーティーに入りたい」


 直球だった。


 アスは一瞬、聞き間違えたかと思った。入りたい。この男が。あの群れを単独で薙ぎ払った獣人が、自分たちの——1層を踏破したばかりの三人のパーティーに。


「……俺たちに?」


「ああ」


「なんで——」


「お前たちが必要だからだ」


 理由になっていなかった。必要とはどういう意味だ。戦力として? それならロイド一人の方がよほど強い。数合わせ? それも違う。この男が数を気にする戦い方をしていなかったことは、昨日の群れ戦で見た。


「もう少し詳しく聞いても——」


「今は話せない。ただ、俺には先に行かなければならない場所がある。一人では行けない。お前たちとなら行ける。そう判断した」


 具体的な場所も、理由も、明かさない。けれど嘘は言っていない。ロイドの目はまっすぐだった。隠し事はある。あるけれど、その目の奥にある誠実さまでは隠せていなかった。


 アスは口を開きかけて、止めた。即答できない。自分の判断だけで決めていいことではなかった。


「アテネとミルにも聞かせてください。三人のパーティーなので」


        *


 宿の食堂に四人が集まった。


 朝食の時間帯だったが、客はまばらだった。隅のテーブルを囲んで座る。アスが事情を伝えると、アテネとミルの反応はそれぞれだった。


 アテネはロイドを静かに見ていた。エルフの瞳が、相手の全体を捉えようとしている。警戒はあった。初対面に近い相手が突然パーティーに入りたいと言えば、当然だ。けれどアテネの目には、それとは別のものも混じっていた。


 2層で背中を守ってくれた記憶。自分が魔力切れで崩れかけたとき、ロイドが群れの左翼を一人で引き受けてくれたこと。言葉は一つもなかった。ただ、そこにいた。ガルドが見せたのと同じ種類の行動。エルフにとって、行動は言葉より重い。


「……私は、反対しません」


 アテネが言った。ゆっくりとした声だった。


「2層での戦い方を見ました。ロイドさんは信頼に足る人だと、私は思います」


 柔らかい言い方だったが、判断は明確だった。アテネが「信頼に足る」と言うのは軽い言葉ではない。エルフが他者に信頼を置くまでの距離は、人間のそれよりずっと長い。その距離を、たった一度の共闘で縮めた。それがロイドの行動の重さだった。


 ミルは何も言わなかった。


 テーブルの上に組んだ手の上に顎を乗せ、ロイドを見ていた。分析の目。データを集めている目。けれど情報が足りないことは、ミル自身がわかっている。この男の正体も目的も不明。わかっているのは戦闘力が高いことと、嘘をついていないらしいということだけ。


 沈黙が長かった。テーブルの向こうで、宿の女将が皿を洗う音が聞こえる。朝の光が窓から差し込み、テーブルの上に四角い影を作っていた。


「条件がある」


 ミルが口を開いた。


 ロイドの目がミルに向いた。


「隠し事をしないこと」


 短い。けれどそこに、ミルの全てが詰まっていた。この少女にとって情報は命綱だ。サポーターとしてパーティーの生死を左右する判断を担っている。判断の材料が欠ければ、全員が死ぬ。だからミルは情報を求める。隠されることを、最も嫌う。


 ロイドが沈黙した。


 長い間だった。金色の瞳が下を向き、テーブルの木目を見ている。考えているのか、葛藤しているのか。やがて顔を上げた。


「全部は話せない」


 正直だった。ミルの条件を丸呑みにしなかった。できない約束はしない。その一線を守る姿勢に、かえって信用が生まれる。


「でも嘘はつかない。聞かれたことに嘘で返すことはしない」


 ミルの目がロイドを射抜いた。数秒間、二人の視線が交差していた。ミルが何を読み取ったのか、アスにはわからなかった。けれどミルの肩の力が、ほんの僅かに抜けた。


「……わかった」


 ミルが頷いた。条件の完全な受諾ではない。妥協点を見つけたのだ。全部は話せない、でも嘘はつかない。その範囲内で判断を組み立てる。それならミルの領域内で処理できる。


 四人がテーブルを囲んでいた。


 三人だったところに、一人が加わった。ただそれだけのことなのに、空気が変わっていた。テーブルが少し手狭になった。椅子の配置が変わった。視線の交差が増えた。三つの線で結ばれていた関係に、四つ目の点が加わって、六つの線になった。新しい形。まだ馴染んでいない。ぎこちなさがある。けれど悪くない重さだった。


「よろしくお願いします」


 アテネが微笑んだ。


 ロイドが小さく頷いた。それが彼なりの返礼だと、もうわかっていた。


        *


「増えたな」


 空き地に着くと、アリアドネがいた。


 草の上に寝転がって空を見ていた姿勢から、上体だけを起こしてこちらを見ている。四人が並んで歩いてくるのを見て、口元が緩んだ。驚いた様子はなかった。ロイドが加入することを予期していたかのような、穏やかな笑み。


「知ってたんですか」


「さあ。でもまあ、そうなるだろうとは思ってたよ」


 あやふやな答え。いつものことだった。


 アリアドネが立ち上がった。赤い髪が朝の光を受けて燃えるように輝く。四人を順番に見た。アス、アテネ、ミル、そしてロイド。最後の一人で、視線が少し長く止まった。


「時間がない。ペースを上げる」


 声が変わっていた。昨日ギルドで「急いで強くなれ」と言ったときの、あの芯のある声。道化の仮面が薄くなっている。


「今日からの訓練は今までとは別物だと思え。きつくなる。ついてこれない奴は——まあ、いないと思うけど」


 最後に冗談めかしたが、目は笑っていなかった。四人全員が背筋を伸ばした。空気が張り詰める。空き地を吹き抜ける風が冷たく、草が波打つように揺れた。


 アリアドネの視線がロイドに向いた。


 一瞥だった。全身を上から下まで、一秒にも満たない速さで見る。それだけで何を読み取ったのか。アリアドネの口元がわずかに動いた。


「お前は自分でやれ」


 ロイドに対して、それだけだった。訓練メニューも指示も助言もない。「自分でやれ」。つまり、教えることがないと言っているのか。あるいは——教える必要がないと。


 ロイドは何も言わなかった。小さく顎を引いただけだった。その二人の間に、また何かが通じた。言葉にならないもの。アスには見えない領域で交わされる了解。


 ロイドは空き地の端に移動し、大剣を抜いた。一人で素振りを始める。大きな弧を描く大剣が空を切り裂く音が、低く重く響いた。一振りごとに風が生まれる。その風がアスの前髪を揺らすほどの距離だった。


「さて」


 アリアドネがアスの前に立った。


「ナイトブロウ。本格的にやるぞ」


 その言葉に、胸が跳ねた。これまでも何度か試みた。そのたびに出なかった。意識すると出ない。感情を再現しようとしても、頭で作った感情ではスキルが反応しない。それはもうわかっている。


「前にも言ったけど、感情の再現では出ない。じゃあどうするか」


 アリアドネが人差し指を立てた。


「アプローチを変える。感情を思い出すんじゃなく、感情の根っこに触れろ」


「根っこ……」


「お前がナイトブロウを発動した瞬間、守りたいと思った。それは事実だ。でも『守りたい』は表面に出てきた言葉であって、本当の起点はもっと奥にある」


 アリアドネが一歩近づいた。切れ長の目がアスの目を覗き込む。冗談の色はどこにもなかった。


「お前は誰を守りたかった。名前で答えろ」


「アテネ……と、シアさん」


「違う。そこじゃない。もっと前。もっと奥。お前が『守りたい』と初めて思ったのはいつだ」


 心臓が鳴った。


 もっと前。もっと奥。初めて守りたいと思った瞬間。答えは——一つしかない。


 七歳のあの日。結界の外。地面に倒れて、何もできなくて、少女が血を流しながら戦うのを見ていたあの日。あの瞬間に生まれた感情。守りたい。守る側になりたい。あれが全ての始まりだった。


「……七歳のとき」


「うん。そこだ。その感情が、お前の根っこだ。ナイトブロウはそこから来ている。表面に出てくる『仲間を守りたい』は、全部あの日の延長線上にある」


 アスは息を呑んだ。そう言われると、確かにそうだった。アテネが掴まれたとき、身体が動いた。あのとき感じたのは「アテネを守りたい」だけではなかった。もっと根深い何かが胸の底で弾けた。名前のない感情。幼い日の自分が抱えた、何もできなかった痛み。それが十年の時を超えて噴き出した。


「制御のヒントはそこにある。感情を再現するんじゃなくて、あの日の自分と今の自分を繋げ。過去の感情を思い出すんじゃなく、過去の感情が今も生きていることを実感しろ」


「具体的には——」


「守りたい対象を明確に意識しながら戦え。訓練中でもいい。仲間の顔を、位置を、存在を感じながら剣を振れ。お前の中にある根っこの感情は、一人でいるときには出てこない。誰かがそばにいて初めて——」


 アリアドネがアテネとミルを指差した。


「あの二人の顔を思い浮かべて剣を振ったとき、お前の炎はただの炎じゃなくなるはずだ」


 アスは剣を抜いた。


 構える。目を閉じた。


 アテネの顔が浮かんだ。穏やかな笑み。回復の光。走りながら途切れない術式。里のために外に出た覚悟。あの優しさの奥にある芯の強さ。


 ミルの顔が浮かんだ。無表情の奥にある鋭い知性。メモ帳に走るペン。両親を失った過去を感情なしに語った声。「そうしないと意味がない」と静かに言った横顔。


 ロイドの背中が浮かんだ。群れの中に単身で踏み込んだ巨躯。言葉なく左翼を引き受けた判断。「生きてるか」とだけ聞いた声。


 この人たちを、守りたい。


 守れるくらい、強くなりたい。


 目を開けた。剣を振った。


 炎が灯った。橙色の炎。いつもの炎だ。けれど——


 一瞬。


 刃先に、別の色が混じった。白に近い光が、炎の芯を一瞬だけ貫いた。瞬きよりも短い時間。見落としたら消えてしまうほどの、微かな閃き。


「——そこだ」


 アリアドネの声が飛んだ。鋭い声だった。


「今、出かけた。感じたか」


「わから——いや」


 わかった。わかった気がした。剣を振った瞬間、指先に何かが走った。炎とは違う感触。もっと冷たくて、もっと鋭い。白銀の光。ガルム戦で触手を断ったときの、あの——


「まだ形にはなっていない。でも道は合ってる。その方向で続けろ」


 アリアドネが頷いた。笑みが戻っている。けれど先ほどとは違う、満足の色を含んだ笑み。


 アスの心臓が速く打っていた。指先の感触が残っている。消えてしまいそうな、糸の先を掴んだような感覚。まだ出せない。再現できない。でも触れた。あの力の輪郭に、指先が触れた。


 訓練の後半は、四人での連携を試みた。


 アリアドネが相手役を務めた。四人に対して一人で立ち、攻撃を捌きながら隙を突いてくる。その動きが尋常ではなかった。アスの剣を片手で逸らし、ロイドの大剣を最小限の動きで避け、アテネの支援魔法の範囲外に瞬時に移動する。道化の仮面が完全に外れた姿は、底知れなかった。


 けれど四人には四人の強みがあった。


 ロイドが前線に加わったことで、景色が変わった。アスとロイドの二枚盾。一人が攻められている間にもう一人が角度を変えて切り込む。前線が崩れない。アスが押し込まれてもロイドが支え、ロイドが引けばアスが前に出る。呼吸を合わせているわけではない。お互いの動きを見て、隙を埋め合っている。


 アテネの支援が活きた。二人の前衛に交互に魔力を送る。一人のときは全力で一方向に注げばよかった。二人になって、分配が必要になった。難しい。けれどアテネは動きながらそれをやっていた。腕輪が白く光り、右手でアスに、左手でロイドに、交互に魔力を流す。走りながら。途切れずに。


 ミルの指示が変わった。三人の連携を見ていたときとは、声の質が違う。四人分の位置関係と敵の動きを同時に処理して、的確に声を出す。情報量が増えた分、判断が速くなっていた。ロイドという新しい変数が加わったことで、ミルの頭はフル回転している。けれどそれが楽しそうにすら見えた。解くべき問題が複雑になるほど、ミルの目は輝く。


 アリアドネが片手を上げた。


「はい、終わり」


 四人が止まった。全員、息が上がっている。汗が地面に落ちる音が聞こえるほどの静けさ。空き地を吹き抜ける風が、火照った肌に冷たかった。


 夕陽が差していた。いつの間にか日が傾いている。朝から始めた訓練が、一日を費やしていた。空が橙色に染まり、雲の縁が金色に光っている。四人の影が長く伸びて、空き地の草を横切り、木立の根元まで届いていた。


「悪くない」


 アリアドネが言った。四人を見渡しながら、腕を組んでいる。


「四人の形が見え始めてる。まだ粗いけど、骨格はある。あとは肉をつけるだけだ」


 アスは膝に手をついて呼吸を整えていた。全身が重い。筋肉が悲鳴を上げている。けれど空っぽではなかった。中身のある疲労。前に進んだ分だけの重さ。ナイトブロウの片鱗に触れた感触が、まだ指先に残っている。


 アテネが隣で膝を折り、額の汗を拭いていた。腕輪がまだ微かに光っている。二人分の支援を走りながら維持した代償で、指先が震えていた。けれど表情には充実があった。


 ミルは地面に座り込み、メモ帳を広げていた。訓練中に感じた四人の連携の問題点を、忘れないうちに書き留めている。ペンの動きは速いが手は震えていない。頭だけはまだ回っている。


 ロイドは大剣を地面に突き立て、柄に手を置いて立っていた。息は上がっているが、膝をつくほどではない。体力の底が違う。けれどこの男も、今日の訓練で何かを得たのだろう。金色の瞳がアスたち三人を見ていた。仲間を見る目。まだ慣れていないけれど、拒んでもいない目。


 アリアドネが背を向けた。


「次は2層の制限が解けたら、3層まで行け」


 四人が顔を上げた。


「3層——?」


「2層を踏破して3層に入る。それくらいのペースでやらないと間に合わない」


 間に合わない。何に。その問いはもう、聞いても答えが返ってこないとわかっていた。


「お前たちは思ったより早い。もう少し——もう少しだけ、速ければ」


 最後の言葉は独り言のようだった。アスに向けたものではなく、自分自身に、あるいは目に見えない何かに言い聞かせるような呟き。


 アリアドネが歩き出した。夕陽を背に受けて、赤い髪が燃えるように輝く。長い影が空き地を横切っていく。


 その背中が木立に消える直前、アスには見えた。アリアドネの横顔が一瞬だけこちらを振り向いたこと。その目が、ほんの一刹那だけ——温かかったこと。


 見間違いかもしれない。けれどアスは、それを覚えておこうと思った。


 四人が残された。


 夕焼けの空き地に、四つの影が並んでいた。長い影が重なり合って、一つの大きな影になっている。三人だったときには三本だった線が、今は四本ある。まだまっすぐ並ぶだけの線だけれど、いつか形になる。そんな予感があった。


「3層か」


 アスが呟いた。


「1層のボスで死にかけたのに、もう3層って——」


「そういうペースなんだろう」


 ロイドが短く言った。否定でも肯定でもない。ただ事実を受け止めている声。


「時間がないって、あの人が言うくらいだから」


 ミルが立ち上がり、メモ帳を閉じた。


「私たちが追いつかないといけないのは、たぶん時間の方だね」


 アテネが空を見上げた。夕焼けが紫に変わりかけている。最初の星が一つ、薄い空に瞬いていた。


「……でも、四人になりましたから」


 穏やかな声だった。不安がないわけではない。3層。危険度4以上が常駐する世界。そこに飛び込むことの重さは、全員がわかっている。それでもアテネは笑っていた。小さく、静かに。四人いるということの意味を、この人は信じている。


 アスは剣の柄に触れた。指先に、あの片鱗の感触がまだ残っている。白銀の光。ナイトブロウの欠片。まだ形にならない力。でも確かにそこにある。


 上ではなく、下へ。もっと深くへ。


 光の届かない場所に、答えがある。そんな気がしていた。


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