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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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誓いの剣


 門は、思っていたより大きかった。


 街の中央に据えられた鉄の門は、見上げれば首が痛くなるほどの高さがあった。十メートルでは利かないかもしれない。表面に刻まれた紋様は古く、読める者がいるのかも怪しい文字が幾重にも重なっている。結界の魔力が紋様の溝を伝って淡く光り、門の輪郭だけが浮かび上がっていた。その向こう側は暗い。昼だった。空は青く、陽は高い。それなのに門の先だけが夜を閉じ込めたように黒く沈んでいて、光が一定の線で断ち切られている。


 アスは門の前に立っていた。


 周囲では冒険者たちが動いている。書類を捌くギルド職員の声、武器を鳴らす金属音、仲間と最終確認を交わす低い囁き。誰もが手慣れていた。装備の点検も、門をくぐる手順も、身体に染みついた日常として処理している。


 その中で、アスだけが止まっていた。


 足が動かない。動かそうとするたびに、膝の裏がじわりと湿って、踏み出す前に力が逃げる。握った剣の柄に汗が滲み、切っ先がかすかに揺れている。赤い前髪が風にかかったが、払う気にもなれなかった。


 ——でかい。


 感想はそれだけだった。それ以上のことを考えると、足がもっと動かなくなる気がした。


 自分が弱いことは、誰に言われなくても知っている。魔力は平均を下回り、剣の腕は及第に届かず、同期の中で誰より鈍く、誰より臆病だった。訓練のたびに教官の溜め息を聞いた。顔が可愛いとはよく言われたが、それで魔物が怯むわけでもない。


 それでも、ここに立っている。


 なぜ自分がここにいるのか。その理由を確かめるように、意識が遠くへ引き戻されていった。


        *


 七歳の記憶は、妙に鮮明だった。


 街の外縁は子供の遊び場だった。結界の境界線ぎりぎりまで寄って、どれだけ近づけるかを競う。光の薄い膜に指先を触れると、ぴりぴりと痺れるような感触が走る。それが少し怖くて、少しだけ面白かった。


 その日、アスは一人だった。友人たちはとうに帰っていた。日が傾いていることに気づかず、結界の際にしゃがみ込んで虫を見ていた。立ち上がった拍子に足元の石を踏み、バランスを崩した。


 転がった先が、結界の外だった。


 最初は何も起きなかった。鳥の声が聞こえた。風が頬を撫でた。ただそれだけだった。


 だから、遅れた。


 影が落ちたのは、身体を起こした直後だった。


 振り返ると、それがいた。人の形をしていなかった。黒い靄を固めたような体躯に、関節のない腕が垂れ下がっている。目と呼べるものに光はなく、けれどこちらを見ていることだけはわかった。


 声が出なかった。悪魔だと理解するより先に足が動いた。走った。どこへ向かっているかもわからず、ただ全力で走った。


 足りなかった。


 腕を掴まれ、地面に叩きつけられた。肺の中の空気が一瞬で消え、視界がぐにゃりと歪んだ。土の味がした。起き上がれない。首だけを捻って後ろを見ると、黒い影がゆっくりと近づいてくる。


 死ぬ。


 それだけが、頭の中を埋め尽くしていた。


 光が横から来た。


 橙色の閃光が視界を灼き、悪魔の身体を弾き飛ばした。黒い塊が地面を転がっていく。アスは頬を土につけたまま、光の残像を呆然と見つめていた。


 少女が立っていた。


 同じくらいの年だった。金色の髪が、傾きかけた夕陽を受けて燃えるように光っている。白い肌に夕焼けの朱が映り、手足は同い年とは思えないほど長かった。小さな手に握られた剣は身体に対して大きすぎたが、それを持つ腕は震えていない。


 悪魔が起き上がる。


 少女は動じなかった。正面から踏み込んでいった。


 戦いと呼べるものではなかった。少女の剣が悪魔を斬った。悪魔の爪が少女の肩を裂いた。赤い線が白い肌を走り、少女が膝をついた。——立った。また斬られた。また立った。


 アスは見ていた。見ていることしかできなかった。立て、と思った。行け、と思った。助けに行かなければと、頭ではわかっていた。それでも足が動かない。声を出そうとするたびに喉がつかえて、何の音にもならなかった。地面に座り込んだまま、少女が血を流す姿を見ていた。


 少女は退かなかった。


 最後の一撃は目の前で放たれた。少女の掌から溢れた光が悪魔の胸を貫き、黒い身体が霧のように散った。音はなかった。静寂だけが残った。


 少女は肩で息をしながら、ゆっくりとこちらを振り返った。服はぼろぼろだった。腕にも頬にも傷があった。それなのに、目だけがどこか静かだった。怒りも恐れもなく、ただ終わったことを確認するような、凪いだ目。


「もう大丈夫」


 それだけだった。


 泣いていた。気づいたら涙が流れていた。嗚咽が止まらなかった。恐怖なのか情けなさなのか、その区別すらつかない。ただ涙が出て、止め方がわからなかった。


 少女は泣かなかった。隣にしゃがんで、何も言わなかった。慰めるでもなく、急かすでもなく、ただ隣にいた。


 どれくらいそうしていたのかわからない。アスの呼吸がようやく落ち着いたころ、少女は立ち上がった。


「帰ろ」


 それだけだった。命懸けで戦ったことも、身体中に傷を負ったことも、特別なこととして扱わなかった。当たり前のことをしただけ、とでも言うように。


 帰り道を、二人で歩いた。


 少女は何も聞かなかった。なぜ結界の外にいたのかも、怪我は痛くないかとも。長い足で一定の歩幅を保ちながら、遠くを見ていた。金色の髪が風に揺れるのを、アスは半歩後ろから見つめていた。


 頭の中には、ひとつのことだけがあった。


 ——なんで俺は、何もできなかったんだ。


 少女は強くなかった。少なくとも、大人の冒険者のように圧倒的ではなかった。同じ年で、同じくらいの体で、傷だらけになりながら戦った。アスは戦えなかった。それだけの違いだった。たったそれだけの違いが、どうしようもなく大きかった。


 ——次は、俺が守る側になる。


 声には出さなかった。誰に宣言するでもない。ただ自分の中で、小さな芯のようなものが固まった。誓いと呼ぶには幼すぎる。けれど決意ではあった。あの背中を見て、あの静かな目を見て、何もできなかった自分を知って。


 それだけが、残った。


        *


 右手が震えている。


 アスは自分の手を見た。剣の柄を握る指が、細かく揺れている。


 この剣はアイリスから貰った。ある日、前触れもなく差し出された。「ちゃんとした剣持ってないと危ないでしょ」。それだけ言って、それ以上の説明はなかった。アイリスにとってはその程度のことだったのだろう。


 アスにとっては違った。この柄を握るたびに、あの日が蘇る。地面に座り込んで、何もできなくて、泣くことしかできなかった自分が。


 また同じだ。足がすくんでいる。門の向こうに何がいるのか、想像するだけで胃の底が冷たくなる。周りの冒険者たちの中で、自分だけが別の場所に立っているような心地がした。


 恐怖は消えなかった。


 消えないまま、アスは一歩踏み出した。


 怖くなくなるのを待っていたら、ここで一生立ち尽くすことになる。それだけがわかった。足は震えている。膝は笑っている。それでも踏み出すことはできた。震える足でも、一歩は一歩だった。


 守る側になる。


 七歳の自分が胸に灯した小さな火を、十七歳の自分はまだ抱えている。それが今の自分にある、唯一のものだった。強くはない。上手くもない。けれどあの日から十年、この火だけは消えなかった。


 門が動いた。重い金属音が腹の底に響き、鉄の扉がゆっくりと内側へ開いていく。向こう側は暗かった。光が一切届かない、深い闇。


 アスはその闇の中に足を踏み入れた。


 ここから始まる。


 誰にも聞こえない声で、そう呟いた。


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