第六話『ポエマーはスープを作る』
「──沈静化します」
それは生半可な覚悟で言える事ではない。
事実、ロストが及ぼした影響を見ればこれがどれだけ無謀な事か分かるだろう。
死んだのだ。
沢山の命が。
だが、そんな願いを口にしたのは奇しくも地獄を生き抜いた敗戦兵。あまりの精神汚染に体が防衛反応を起こし、大切な人の顔すら思い出せなくなってしまった滑稽な負け犬。
道化として浪費してきた三年間。もう戻る事は二度とない。
──それでもローレには、命よりも捨て難いものがあった。
腰に差した仕込み杖からシルクハットに視線が動き、そしてこちらを心配そうに見るネルの顔が映った。
ネルの髪は燃えるような赤髪で、何処か幼さが残る綺麗な顔立ちだ。ヴェーレで出会った頃から、よくぞ美しく育ったものだ。
ネルに「歩けますか?」とローレが優しく言うと、ネルは少し顔を紅くしてローレの背中から地面に降り立った。
「……ここからが出発点です。高貴な私を相手にした事を、必ず後悔させてあげましょう」
ローレは己の拳を握りしめてそう言った。
なにもこの三年間、失ったものばかりだったわけではない。大陸中、時には別の大陸までも出向いてダンジョンを攻略してきた経験がこの身体にはあるのだ。
全盛期に比べたら技も劣る?
いやいやまさか。記憶はなかろうとも、絶望と屈辱が刻まれたローレの身体は、無意識に技を磨いていた。
そんな彼の誓いを聞いていたネルは、意を決した表情でローレにこう言った。
「──私も連れていって下さい!」
「それは」
「無理なお願いだという事は分かってます! それでも私は、故郷と、友達と、パパとママを失ったあの日が忘れられないんです」
「────」
そうだ。ネルは十五歳という年で愛する両親と故郷を失ったのだ。それが彼女の心にどれだけの傷を与えたのか、想像に容易い。
「私、お兄ちゃんに才能があるって言われてて! えっと、それで……」
必死に自分の良さをアピールしようと身ぶり手ぶりで背を伸ばすネルを見て、ローレはふっと笑った。
そんなネルの様子が、誰かの面影に重なるようで──
「いえ、ネルはネルです」
「え?」
「ああいえ、気にしないでください!」
くるくると杖を回し、シルクハットを片手で持ち上げてウィンクする。ここ三年間でかなり板についた動作であったが、これは現実から逃げるための『殻』だ、『仮面』だ、『嘘』だ。
だが、こんな自分も全てひっくるめて──ローレなのだ。そこに嘘偽りはない。
何処か憑き物が落ちたような顔で、ネルの手を自然に引いてローレは歩く。
「良いですよ。これで貴方も高貴の仲間入りというわけです」
「────っ、ありがとうございます!」
わざわざ立ち止まって勢いよく頭を下げるネル。そういう律儀なところがとても愛おしく見えた。
顔を上げた彼女のルビーのような瞳が熱く煌めく。そこには確かな『熱』があった。
日もそろそろ傾き、空が茜色に移り変わり始めた頃。昼の皮膚を焼くような気温が嘘だったかのように下がり、今のローレは黒い外套を身に纏っていた。ネルも長くこの地に住む者、防寒の上着の用意は万端だった。
「それで何処に向かってるの?」
ネルの声が後ろから聞こえてくる。
歩いている中で決めた事だが、ネルには敬語を止めさせた。そのため、先程よりも数音高い声が耳を通り抜ける。
ローレが返した。
「スープですよ、ギルドを出る前に行ったでしょう? 私の美しいな奢りだとねぇ」
「あ、そうだった……!」
若干ショックを受けたローレだったが、気を取り直して草原を歩きながら説明を続ける。
「私の故郷はこの付近でして、よくスープを作ったものです」
「そうなんだ……!」
ローレが場の空気を明るくしようとしているのが伝わったのか、ネルもそれに続いて少々大げさに頷く。
そしてローレとネルが足を止めた頃、太陽は既に地平線の下へ落ちていた。昼と比べ物にもならない程寒く乾燥した夜。
そんな環境の中、わざわざギルドから遠く離れてまでローレが行きたかった場所とは──
「お待たせしました、ネル。ここが私の調理場ですよ!」
「ここが──調理場?」
両手をバッと広げたローレにネルは首を傾げる。それも当然、辿り着いた場所は最初よりも少々高い位置にある丘と、せせらぎが耳に入る小川。ホタルが水辺を舞っていて、心が落ち着いていくのをネルは感じていた。
だが、肝心のスープは何処にあるのか?
「ここですよ」
疑問符を頭の上に浮かばせるネルを見て、ローレが答え合わせする。ローレが指を指したのはなんと小川。何処から取り出したのか、しなりのある長い釣り竿を握っていて、餌がぷかぷかと川の流れに舞う。
呆気にとられたネルは一瞬目を見開いたあと、弾けるように笑った。
「奢るって言って……現地調達って……! あはは! あはははっ!」
「むう、ふざけてませんよ? 私の脳はいつだって最適な思考を導くのです。それに──」
「──ひゃっ!?」
「ほら見てください、空に煌めく数多の星々を。ここらは密かに秘境とも呼ばれる場所なのですよぉ?」
ローレが急に立って、後ろから声がかかってネルが声を出す。が、ローレの人差し指の先を見てネルは息を呑んだ。
天に広がるは雲一つない紺色の帷。そのキャンバスに幾つもの眩い星々があって、ネルはそれをまじまじと見つめていた。
そんなネルの様子を見てローレがふふっと笑い、釣り竿を引く。魚が餌を口に含んだ瞬間、超人的な反射速度で二本の釣り竿を引き上げたのだ。
底まで見えるような透明度の高い川。外敵も少なく、魚達はぶくぶくと太っていたためか、たった二匹でも、ローレの両手にずっしりとその重さを誇示していた。
手際良く、道中集めた薪と手頃な石を囲んで焚き火を作る。ローレが息をフッと吹きかけると、ボウっという音とともに炎が立ち昇った。芸者顔負けのローレの技にネルが拍手をすると、まんざらでもない顔でローレが魚の処理を進めていく。
「失礼します」
ローレがそう言った後、ナイフを二匹の脳天に突き刺すと、大きな魚が口を大きく開いて動きを止めた。そこからはするすると作業が進んでいき、ネルと一緒に川で魚を洗い終えるとローレが口を開いた。
「私、実は冒険者ランクが天光だったんですよ」
魔法で作り出した氷の板の上で魚を捌きながらローレが続ける。
「ですが、私自ら天光を返上してしまいまして。その後、ダンジョン総括機構からの必死の頼みの後、しがない辺境潰しをやっていたわけです」
「────」
ネルは静かに頷きながらローレの話を聞いていた。ネルは知っていた、あの日、冒険者の中でもトップクラスに強い人達の九割が命を失った事を。
そして、それを生き残ったローレが何故天光の位を返上したのかも理解できてしまった。
『ロスト撤退戦』以後、冒険者ランクから天光の座が消えた。あの日、ロスト撤退戦には全ての天光が参加したとされ、同時に全員が殉職したと冒険者協会が声明を出したのだ。
「本当は、ローレが自ら天光を辞退するように言ってたんだ……」
ネルはその知らせを聞いた時、兄とともに涙を流した過去がある。だが、同時に疑問でもあったのだ。何故、冒険者協会は『全員が殉職した』と言っていたのに、範囲消失直後の声明では『銀光、【天光】の九割が殉職した』と言っていたのか。
その答えが、ネルの目の前にいた。
「冒険者協会はローレが生きてた事を知っていた……という事?」
「……高貴、鋭いですねぇ。魔導通信により、私のバイタルはあちらから把握できていたのですよ」
魚から食べられる全ての部位が完璧に除かれ、残りは出汁をとるために沸騰した鍋へと投下された。そこにローレが喋りながら調味料を加えていく。
「私は死んだものとされているので、私がローレと名乗っても、今の格好や……言動と性格のイメージとの乖離から人々は何も疑問に思いませんでした。まぁ、私の知人なんかからは即座に看破されましたがね!」
平気な顔で語られる、裏で起きていた事にネルは言葉を失う。
「まあ、そんな顔をしないで下さい。貴方のビューティーな顔に影がかかってしまっているではありませんか?」
「……もう、こっちは真剣なのに」
頬を膨らませて顔を赤くするネルを見て、ローレは目を伏せる。
ネルは気に入らなかったのだ、まるで何処か自分を俯瞰するような、苦しさを明るい声で塗りつぶしてしまうようなローレの話し方が。
「はは……私はどうやらレディの扱いはまだまだのようですねぇ」
「ローレ!」
へらへらとするローレをネルが走って追いかけて、小川のせせらぎと鍋がぐつぐつと沸騰する音色、炎がパチパチと弾ける音をバックグラウンドに二人は丘を駆けていた。
満点の星々の下で、三年ぶりの再会を果たした男と少女は、今だけは笑い合っていた。
互いの理解者を得た二人は、背負う苦しみを二人で分け合い、共に進むことを決めたのだ。
「いただきます」
「いただきまーす!」
湯気に包まれたローレとネルの姿を、巨大な空は静かに、見守っていた。
涼やかな夜は、未だ続く。




