第五話『Lost:Empty』
ネルはある一家に生まれた少女だ。
決して裕福とは言えない家計であったが、家族仲も仲睦まじく、いつも笑顔で食卓を囲んでいた。
父は冒険者、母は薬師として小さな店を営んでいた。親が共働きのため、ネルは兄であるネラと一緒に過ごす時間が多く、家ではいつも一緒だった。
兄妹揃って炎のように真っ赤な髪。
ルビーのような瞳に活発な性格。幼い頃から顔立ちが良く、村では将来有望だと担ぎ上げられていたほどだ。
ネルの住んでいた村はヴェンチャー山脈の麓に存在していた。大陸北方という場所にも関わらず、そこまで気温が低くないのもあって、ヴェンチャー山脈の入口としてよく冒険者が訪れたのだ。
村の名は『ヴェーレ』。
ヴェーレのすぐ近くにはミディアムダンジョンがあって、村の男のほとんどはダンジョンに出稼ぎに出ていた。
冒険者ギルド、酒場、教会。
ヴェンチャーに挑む者には敬礼を、というキャッチコピーで日々冒険者を見送る村の人々。
北方にしては気温が低くない、というだけで、凍った土壌のせいで作物は育たず、生活に余裕はないはずなのに村人は笑顔だった。
そんな、平和な日々が終わるのはあまりに突然過ぎた。
その日、ネルは誕生日だった。
十五歳の誕生日だ。
そんな記念日に兄であるネラ、母、父は盛大に祝ってやろう、と思い思いにプレゼントを用意していた。その日は珍しく母と父は仕事を休み、四人は談笑しながら窓の外の雪を眺める。いつも見ている光景だというのに、この時はかけがえの無い特別な風景に見えた。
そして迎えた夜七時、ネルが生まれた時間だ。
まずは母と父がプレゼントを渡すから、二人は一旦家の二階で待っているように、と言われてネルとネラは二階で待機。
どうやらプレゼントは大きなナニカだそうで、父と母は一度家の外に出たのだ。
しかし、いつまで経っても二人は帰ってこなかった。ネルとネラは胸を締め付けるような、不穏な気配を感じ、階段を駆け下り、扉を開いた。
刹那、頭を激しく揺さぶるような怪音とともに、一筋の光芒が眼前を通り過ぎた。
距離にして数歩先。
直後衝撃波によって前にいたネルが吹き飛ばされるが、ネラがそれを受け止めた。
「今の……なに?」
「ネル…………行こう。ここは危険かもしれない」
冷や汗を滝のように垂らし、冷静さを保とうと荒く呼吸するネラのただならぬ様子を見て、ネルは一つ返事に従った。
兄妹は弾け飛んだ扉の先の白い煙を掻き分けて進む、そして、地獄を見た。
『星歴1895年12月25日19:27/ゼニス山頂点に位置する未発見ダンジョンロストにて迷宮氾濫が発生した事を確認。同時刻、冒険者協会は警戒段階を最上級まで引き上げ、ロストをクラス悪幻に指定。その影響はロストの半径600kmにも及ぶと予想され、辺境潰し及び周辺の冒険者は即刻周囲の人間を避難させる事』
兄妹は目の前の光景に膝から崩れ落ちた。
何故なら、村の半分が消えて無くなっていたからだ。
賑やかだった酒場も、冒険者ギルドも、教会も、そして父と母の姿も何処にもない。
地面が高熱線に焼かれ、じゅうじゅうという音だけが無情にも耳に残る。叫びも、腐臭も、血すらもそこにはない。
あまりに突然で、静かで、一方的に数多の命が奪われた瞬間であった。
「はぁ……はぁっはあはあはっはあ、はぁはあっ──っ」
「ネル、走るぞ」
ネルがパニックで過呼吸に陥る寸前、ネラはネルを抱き抱えて地面を蹴って駆け出した。いつ先程の光が来るか分からない、そんな恐怖に包まれながらネラは走り続けた。異常なほど静かになった村を後にして、涙を流しながら走り続けた。
ネルはあまりのショックに虚ろな目になっていて生気がない。兄として、命を賭してでもネルを守り抜くと、千切れそうな足をがむしゃらに前へ、前へ伸ばしてネラは走った。
『これは沈静化を命じているのではない。これは撤退戦だ。全ての冒険者に告ぐ。繰り返すが、これは撤退戦だ。限りなく被害を抑え、残った命を余すことなく回収し、半永久結界でゼニスを囲め。プロトタイプだが、正常に動作する事は確認済みである。座標は送った。君たちの武運を祈っている』
『19:37/ランク天光ローレ、ハンナの二名がヴェンチャー山脈入口に到着した事を確認。繰り返す、ランク天光ローレ、ハンナの二名がヴェンチャー山脈入口に到着した事を確認。冒険者はこれに続く事。繰り返す──』
「はあっ。……はあっ……はぁっ」
ネラの足は既に限界だった。
背中に背負う、この世のどれよりも大切な命の重さに歯を食いしばって、ネラは走り続けていたのだ。
しかし、そんな逃走劇はそう長くは続かなかった。
黒雲が天を覆い、辺りの気温は氷点下を更に下回り、視界が悪い。
だというのに、次の刹那には辺りが朝のように明るくなって、気温も和らいだ。
激しい寒気がした。
振り向いたら吐いてしまいそうで、ネラは口から血を垂らしながら走り続けるしかなく。
そして、その時は訪れた。
揺れる視界の背後、広範囲の空気が一気に破裂するような轟音とともに、地面がガタガタと揺れた。
嗚呼、あの光が来たのか。
せめて、せめて、自分が先に喰らおうと。
ネルを背中から下ろし、覆いかぶさるように強く抱きしめた。すぐに轟音は至近距離まで近づいて、兄妹は死を覚悟した。
『19:40/ランク天光のローレが極大転移魔法陣を展開。魔物の放つ高濃度の魔力砲を呼び水に、事前にマークしていた八人の冒険者の召喚に成功。ヴェーレに再び放たれた魔力砲の防御に成功。いずれも『天光』であり──』
「ここは私達に任せて、お嬢さん方は逃げなさい。ヴェーレを出てすぐのポイントに脱出用転移魔法陣を展開済みです。ほら、早く!」
「────っ、行くぞネル!」
「……え?」
ネルは信じられないものを見た。
お兄ちゃんと一緒に死ぬのだと思っていたのに、ネルは生きていて、目の前には銀髪の、金のモノクルを着けた男性が立っていたのだ。
右手にはスラリとした長身のレイピアが握られていて、男性の背後の地面には、遥か彼方まで伸びる亀裂が見えた。
ネルは反射的に理解した。この男の人が私と兄を救ってくれたのだと。
ネラに抱えられ走り出す寸前、ネルはモノクルを着けた男性に向けてこう叫んだ。
「私達を助けてくれてありがとうございます!
どうか、どうか気をつけて!」
声が掠れてしまうほど、力を込めたネルの叫びにモノクルの男性──天光の男ローレはふっと笑ってこう言った。
「ええ、勿論ですとも! 絶対に生きて帰りますよ!」
それを最後に、ローレは目に見えない速度で地を蹴って光が放たれた方角へと走った。よく見ると、その隣には一人の女性が見えたような気がした。
結果的に、ネルとネラは奇跡的に生き延びた。他にも数名ヴェーレから逃げ延びた者がいるが、いずれも心が死んでいた。
村は跡形もなくなり、この事件は後に『ロストエンプティ』と呼ばれるようになった。
『星歴1895年12月26日7:13/ゼニスを囲む半永久結界の安定化を確認。当時刻を以て撤退戦の終了を宣言する。死者数は推定65000人、うち撤退戦の最前線を戦い抜いた『銀光』及び『天光』の九割が殉職した事を確認。補足:天光は一名バイタルが確認されているが、現在行方不明。冒険者協会は緊急事態宣言を発令し──』
そうして、ネルとネラは故郷と両親を失った。
ヴェーレから離れた二人は辺境の地の村に移り住み、冒険者として生き延びていたのだ。
そんな頼れる兄すらも失ったネルの心には、修復の効かない黒い穴がぽっかりと空いてしまっていたのだ。
◇
そんな──ローレの背中におぶさりながら悪夢に唸るネルを見て、ローレは震える唇を開いて小さく呟いた。
「あの……時の──?」
再度頭を割るような激痛がローレの頭を襲うが、そんなのもう、どうだってよかった。
ローレのネルを支える両手の力が、僅かに強まった。
「貴方が……あの時、私達を救ってくれた人だったんだ……」
「────っ!?」
「言うのが遅れて、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとう」
眠っていたはずのネルは、しっかりとローレの呟きを拾っていた。動揺したローレの足が止まる。
「だから……ローレさんも、泣かないで……?」
ローレは声を発する事ができなかった。喋り出してしまえば、いよいよ涙を止めることができなくなってしまうだろうから。
背中をぎゅっと包む少女の熱を感じながら、ローレは熱く、静かに涙を流していた。
「どうして、私は、忘れて──っ」
「ローレさん……」
ローレの顔には、飄々とした仮面は何処にもなくて、代わりにガラスのように脆い素顔があった。
そんな彼を、お互いの傷を舐め合うように、ローレをぎゅっとネルは抱きしめる。
細く見えるのに、がっしりとした筋肉があるのがお兄ちゃんと似ていて、ネルも涙を堪えきれずに泣き出した。
星は巡り、道標は語る。別れは、次なる再会への前奏曲に過ぎない。
停滞した時間の隙間に、カチリと音をたてて二つの歯車が噛み合った。
かくして、時は動き出す。
物語はまだ、始まったばかりだ。
「待っていて下さい、ロストよ。私が必ず──沈静化します」
ローレの誓いは静かに、そして強く天へと昇っていったのだった。




