第0話 ある日、ある場所で
がやがやと騒がしい場所だった。
真っ青な空の下、少女の視界に広がるのは人の群れ。まるで檻のような視線に囲まれていた。
「十!」
「十二!」
飛び交う数字は金額だ。少女の値段。かたわらで聞く老けた顔の商人は、満足げな笑みを浮かべている。
少女は立ちすくみ、その痩せこけた身体は震えていた。寒さのせいではなく、怖かった。だけど、他の子たちとは違って、泣き叫んだりはしなかった。祈ることもしなかった。
今日は十二歳の誕生日。神様はいない。
少女は神様に愛されなかった。誰にも愛されなかった。だから、ここにいるのだとわかっている。
「三百だ」
どよめきが走った。
「俺が三百で買う」
人ごみから出てきたのは、ひときわ綺麗な身なりをした青年だった。表情はどこか不機嫌そうで、鋭い目で少女をにらんだ後、威圧するように周囲を見回した。
他に数字を言う人はいない。少女は買われた。最後の商品がなくなって、人々は散らばるように離れていった。静かになっても少女の震えは止まらない。この先のことが怖かった。
青年が不機嫌な顔のまま見下ろしてくる。少女よりもずっと背が大きい。
「言葉はわかるのか?」
怯える少女はうまく声を出せなくて、ただ小さく頷いた。
青年が何も言わずに歩き始める。それに少女はついて行った。青年はずっと黙っている。一度だけ振り向いたけど、それだけだった。
色とりどりの民家が並ぶ場所まで来て、立派な教会を通り過ぎて、それから人であふれた市場に入った。視線だらけ。笑い声ですら少女をびくっとさせる。だけど、露店からはいい匂いもしてお腹が鳴った。
「これを持て」
少女の頭ほどに膨れた袋を持たされた。ずっしりと重い。果物やパンなどを入れていたのは見たけれど、手をつけてはいけないと思った。
青年がまた歩き始める。少女も慌てて続いた。
何も話してくれない。どこへ行くのかもわからない。少女の不安が大きくなっていく。
大通りに出る。またしばらく歩いたところで、ようやく青年が立ち止まって振り向いた。
「おまえ、さっきから何のつもりだ」
青年の声はいらだっていた。だけど、少女には怒られた理由がわからなくて、何も答えることができない。
「どうしてついて来るのかときいているんだ。食料と金はそこに入っているだろ」
「……買われたから」
大きなため息が返される。それに少女がおどおどしていると、トントンと額を指で叩かれた。
「頭、あるんだろ? だったら逃げればいい。行き先なら教会を頼れ。世話くらいしてくれる」
「でも……」
教会は――神様は助けてくれない。それを声にできずにまごついていると、そんな少女を見かねたのか、また青年が不機嫌そうに話し始めた。
「俺がいいと言っている。あいにくこっちはさっさと忘れたいんだ。わかったら、もうその顔を見せないでくれ。……ああ、そうか。捕まるのが心配か。だったら、こいつを見せるといい。使いとでも言っておけ。しばらくは大丈夫だ」
少女は銀貨みたいなものを渡された。それは指に乗るほど小さくて、よく見ると鳥の羽ばたく絵が刻まれている。青年の上着の胸ポケットにも同じ絵があった。
「これ……?」
「見せればいい」
説明するのも面倒だといった感じでにらまれた。思わず少女は目をそらして肩をすくめるが、また恐る恐る青年を見上げる。
「……あの」
「まだあるのか?」
「どうして、逃げていいの?」
少女にとっては、捨てられるのと変わらなかった。たった一人、生きていいのかもわからない。不安で、不安で、少女はすがるように銀貨を握りしめる。
「知るか。ただの気まぐれだ。そんな気分になる日だってある」
はたくような口調に、少女は顔を落とし、唇をかみしめる。神様に愛されない子。いらない子。虐げられてきた日々が頭の中を回り、いっそう強く銀貨を握った。
「……神の導きかもな」
ぽつりとしたその言葉が少女の耳に入る。
(神様の……?)
それは少女にとって驚きだった。神様のいない日に生まれた少女にとって――。
少女はまた顔を上げる。唇がかすかに震え、無意識に小さく「ありがとう」とつぶやいていた。
「感謝は神にだ。俺じゃない。……どうして泣くんだ」
あきれたように言われて、少女は自分の頬を伝う涙に気づいた。青年がそっと布で拭ってくれる。
「幸せになってみな。今日のことを忘れられるくらいにな」
怖かったはずの目が、優しくなって見えた。さびしそうにも見えた。
青年はすぐに反対を向いてしまい、突き放すような速足で遠ざかっていく。その後ろ姿が見えなくなってから、ようやく少女は檻の外に立っているのだと理解した。
――そんな、ある日、ある場所で、ある少女に起きた出来事。