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作者: 太川るい

「おおい、お嬢さん」


 道ばたで、牛をつれた老人が人に声をかけた。


「そっちは行き止まりだよ」


 声をかけられた女性は振り返り、老人の方を見た。口には穏やかな微笑が浮かんでいる。


「ええ、おじいさん」


 女性はどこか楽しげな雰囲気で答えた。


「大丈夫です、分かっています」


 その様子はいかにも自然だった。


「そうかね。ならいいが」


 老人はそう言って、会釈をしながら女性を見送った。女性は質素だが、身綺麗な格好をしていた。




 老人が家に帰る。家には老人のものしかない。


 いや、よく目を()らせば、老人には似つかわしくない品も所々に置いてあった。しかしそれらはどれも古びていたので、老人が過去のある時点においてともに過ごすことを決めた思い出の品なのかもしれなかった。


 老人の生活はいたって静かに進行していった。体を動かす時の衣ずれの音、物を上げ下げする時のかすかな物音、それらは老人の家においては通常の家屋よりもより響いて聞えてくるようであった。それは老人に、彼の孤独をいっそう強調させた。


 それだけに、老人は昼間見かけたあの女性のことが気にかかった。若い女性だった。名は知らない。ただ二言三言かわした言葉のうちに、老人は彼女が育ちの良い娘であることを何とはなしに感じ取ったのだった。




「あそこの道は」


 老人は自分のコップにあたためた湯を注ぎながらこう思った。


「たしかに行き止まりだったはずだ」


 老人はこのあたりで、農作業をしながら生計を立てていた。近所の山菜も彼にとっては生活の糧になるので、彼はよく周囲を散歩していた。


 女性が進んだあの道は、もうずいぶん前に行き止まりになっており、どこにもつながっていないはずだった。老人自身も、数回の散策のあとに見るべきところがないので、しばらく足を運ばずにいた場所だった。




 数日、老人はいつものように過ごした。こんなへんぴなところにも、たまには観光客が訪れることがある。最初は気になったものの、そういったもの好きな人々の一人だろうという思いが、老人をさほど深い考えに向かわせなかったとしても不思議ではない。老人はこれまでと変わらない日々を過ごしていた。




 ある日老人は、農作業の帰りに道を歩いていた。それは丁度、老人が以前あの女性とすれ違ったところだった。老人は何の気なしに、あの日言葉をかわした若い女性のことを思い出した。




――――あの女性は、もうここへ来ることはないだろう。



 

 老人は彼女の穏やかなほほ笑みを思い浮かべながら、そう思った。


 いく人もの人が、老人の人生の前を通り過ぎていった。老人は様々な言葉を交わして生きてきた。しかし最終的には、老人はいつも一人のままだった。彼はそのことに、ある種の納得と覚悟を持って生きてきた。そうでなければ、どうしてこの老人は長い孤独の時間を一人で堪えることができただろう。




 老人は短い邂逅(かいこう)を思いながら、牛の縄を引き、一歩一歩と歩いていた。


 ふと老人の目に、道ばたに光る何かがうつったかのように思えた。変化のない道のこととて、なおさらそれは老人には目立って見えたのかもしれない。


 老人は、その光って見えたものの近くへ歩みを進めてみた。何の気なしの思いが彼を動かしていた。




 道ばたに落ちていたのは、小さな鏡だった。少し汚れてしまっていたが、そう雨風にさらされた形跡もない。老人は直感的に、その鏡の落とし主に思い当たった。


「これは、以前通ったあの人のものなのではないか」


 彼女は簡素な身なりではあったが、持ち物を入れる小さな鞄は持っていた。この小さな鏡は、あの女性が持っているのがいかにも似つかわしいように老人には感じられた。




 老人はその鏡の汚れを丁寧に払い、家に持って帰ることにした。


 家に帰り、その日の用事を済ませ、椅子に腰かけながら、老人は一人考えていた。


 あの女性は、もうここに来ることはないだろう。鏡は小さなものであるし、あの道の先は行き止まりだったのだから。だが――――


 老人は机の上に置いた鏡に目をやった。


 もし彼女が再びここを訪れる時があったら。私はこの鏡を彼女に渡すことができるだろう。そしてその時こそ、私は人生を全うできるに違いない。…………




 とりとめのない考えではあった。老人はそんなことを思いながら、いつの間にかうとうとと眠ってしまっていた。


 ゆっくりと、夜は音もなくふけていく。


 時々老人のかすかな寝息が、他に誰もいない部屋の中で穏やかに聞こえてきた。

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