『ざまぁの素』を売ってください
ご覧いただき、ありがとうございます。
「『ざまぁの素』をわたくしに売ってくださいませ」
目の前の薬師は「はて?」とばかりに首をかしげた。
だけど私には、もうこの薬師しかすがる相手がいないのだ。
「ウッドヴィル家のマリーナ様、スタンリー家のヒルダ様……」
「まてまて、まてまて」
薬師は、私を制した。
「お前は、そうやって人の名を羅列することの意味や影響を考えたことはないのか?」
「え?」
「そもそも、お前、自分は名乗っておらぬ。他のものも同様とは思わぬか?」
「あっ……」
私は気まずさが胸に広がるのを感じる。
間違って苦いものを口にしたような、なんとも言えない嫌な気分だ。
「ここは薬屋だ。薬を買いに来る者が、わざわざ名乗らぬだろう?お前のように」
正論だ。正論の暴力で頬を殴られた気分だ。痛い。
もう、ここに来るまでに十分すぎるほどに心が痛く傷ついているのに。
「では売ってくださいませ。『ざまぁの素』」
「だから、その『ざまぁの素』とはなんだ?」
「幸せになるためのお薬ですわっ」
そう。マリーゼ様も、ヒルダ様も仰っていた。
大変なこともあったけれど、こんなに今が幸せなのは、あの薬師のお陰なのではないか。薬師のおかげで『ざまぁ』出来たのではないか、と。
「そんな酔狂なもの、誰かに売ったことはないよ」
薬師はため息をつきながら、被っているフードの縁を引っ張って更に深く被り直した。
カウンターの向こう側、椅子に座っている薬師の背格好はわからない。
性別は、声からして男だろう。それも、想像していたよりもずっとずっと若い。
体の線はローブで隠れているが、顎のラインはスッキリしている。首元もゆったりとしたショールが巻かれており、とにかく姿からわかることが少ない。
「まぁ、とりあえず話は聞いてやる。そこに座れ」
「ありがとうございます」
私は遠慮なくカウンターのそばに置かれた丸い木の椅子に腰かけた。
「ところで『ざまぁ』ってなんだ?それがわからないから、素がなにかもわからない」
「あら、薬師さま!『ざまぁ』をご存じないのですか?まさか?まさかでございますわよね?薬師さまともあろうお方が?そんなまさか?」
あまりのことに驚いて、私は自分で思った以上に大きな声を出してしまった。
そのことに気づくと、恥ずかしくて思わずうつむいてしまう。
「…………。遠い異国の古語の……暑い季節を表す言葉だったかな?」
「それは『さまぁ』ですわね。先だって学園の授業で習いましたわ」
「なるほど」
私の返事が気まずかったのか、薬師様はフードの縁を再びぎゅっと引っ張った。
「…………。遠い異国の、なんかもちっとしてるんだか粉っぽいんだか、甘さがさびしいお菓子のことかな?」
「え?ちょっと待ってくださいませ。…………あぁ、それは『すあま』ですわね。わたくしも一度しかいただいたことがございませんから、思い出すのに時間がかかってしまいましたわ」
「そ、そうか。詳しいな」
「家業で菓子屋を営んでおりますので」
妙な緊張感が薬師と私の間に流れる。
かちり、かちりと、店の壁にかけられた時計の歯車が噛み合う音が妙に大きく響く。
「降参だ、わからん」
「でしょうね。『さまぁ』はともかく『すあま』はかなり無理がございましたから」
私とて、そこまで自分が間抜けとは思っておりません。
「『ざまぁ』というのは、一種のカタルシスと申しましょうか、解放感と爽快感をあわせ持つスッキリスカッとするものです」
「……ラムネか何かか?」
「ラムネ…………。屋台で売っているアレでございますわね。わたくしはどんなものか存じませんが、先だってのお祭りでは、わたくしの婚約者がわたくしの異母妹とお忍びで楽しんだとか……」
ずどーーーーん。と、音がするほどに重たいものが両肩に落ちる心地になり、わたしは項垂れた。
気まずい沈黙が小さな部屋一杯に流れる。
時計の歯車の音が先程よりも大きく響く。
わたしの場合はお相手がお相手だから『ざまぁ』は無理かもしれませんしね。
「と、ともかく。もう少しわかるように話せ」
「なんか。どうでもよくなってきました」
「そんなことはない。その『ざまぁ』がわからねば、その素とやらも見つけられぬ」
「はぁ。まぁ、そうですよね」
でも、ざまぁって……
「一般的には、負け戦な盤上遊戯の面をひっくり返して圧勝するような感じ、でしょうか。調子に乗ってる相手を再起不能なほどに打ちのめす感じなんですけど」
「再起不能」
「そうですね。今のところは廃嫡、流刑、懲罰。その辺りが定番ですね」
「廃嫡」
「後継者から外される、というやつですわ」
「いや、意味はわかる……」
そう。わたしの場合はそこが難しいところだ。
わたしの婚約者は、第二王子。
『血のスペア』としてよほどのことがなければ廃籍されることもないだろう。
少なくとも王太子殿下に男児が生まれるまでは。まだ気配もない。
それに異母妹とて、母の血が下級貴族であろうと、父の血を引いているのだから、立ち位置としては王子の相手として問題はない。
彼らに穏便に事を進められたら、私には否やを言うことはできないだろう。
だから、せめて。
せめてマリーナ様やヒルダ様のように「今がこんなに幸せなのは……」と思いたくて。
最良は『ざまぁ』で正義(私)が勝つことなんだけど。
だから『ざまぁの素』が欲しかった。
やはり、ないのだろうか。
彼女たちが薬師さまから頂いたのは、『ざまぁの素』ではなかったのか。はっきり聞いておけばよかった。
「やはりもう結構でございます。わたくしが泥を被れば、それで済むのでしょう。きっと、そういう星の元に生まれたんです、わたくし」
「そんな。そんなはずはなかろう?」
薬師はどこか慌てるように私の言葉を否定する。
「薬師さまに何がわかりましょう?婚約者は異母妹の嘘を信じ、わたくしが希代の悪女か何かだと思っているご様子。どうせ流行りのお芝居よろしく婚約破棄を宣言されて、婚約者が異母妹に代わり、お終いですわ」
「婚約破棄……そんな……それでよいのか?」
「よいもなにも」
私は「はっ!」と淑女らしからぬ、吐き出すように、ため息とも苦笑いともつかぬ『音』を鳴らした。
だから『ざまぁの素』が欲しかったのに。
「異母妹の下らぬ嘘にコロッと騙されて、わたくしの事をきちんと見ようともしない相手に何を望めと?『ざまぁ』まではいかずとも『ぎゃふん』と言わせるくらいはしたかったのですが。本当に忌々しいこと」
「この世の中、なかなか『ぎゃふん』とは言わぬだろ……」
「慣用句ですわ。実際に『ぎゃふん』なんて言ったら、それまた笑い者でしてよ」
見知らぬ相手に、八つ当たりのように無遠慮に言い放つ自分に嫌気がする。
私はここにきて「もはや、これまで」と、諦めの境地に至っていた。
相手が悪かった。
父に溺愛されている異母妹と、疎まれている私とでは勝負にならないのだ。
異母妹が泣いて望めば、それはいつだって正しいことで、なんだって手にはいる。
それが私たちの力関係だ。
ドレスやアクセサリーだったものが、婚約者になっただけだ。
そもそも、その婚約者とだって上手く交流できていない私にも責任があると言われればそれまで。
会えばムスッとした顔で「ああ」「うん」「そうか」の三択しかない返事をされるだけ。
「その……その婚約者のことは……」
「ああうんそうか殿下のことですか?」
「……なんだ?それは」
「あ、失礼しました。お気になさらず」
頭で考えていたせいで、つい口をついて出てしまった。
「いや、気になる。なんだ?その……ああうん?」
「ああうんそうか殿下、ですわね。わたくしとの会話ではその三語しかお話にならないので」
「…………。婚約者だよな?」
「だから、婚約破棄されますでしょうから『ざまぁの素』が欲しかったのですわ」
「その……それでよいのか?お前は……好きではないのか?」
何を言い始めたのだろうか、この薬師。
私は自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
無意識に嫌悪感を顔に出してしまったようだ。
「誰が、誰をです?」
「その……その方が、相手のことを」
「まぁ、薬師さま。少しご想像いただけますか?わたくしと会うときにはいつも不機嫌そうにしていて、ああ、うん、そうか、しか言わないお方が。そのお方が、異母妹にベタベタされるのをされるがままに受け止めて、デレデレニヤニヤされて。二人でベンチに寄り添って座るわ、肩寄せあって過ごすわ、お忍びデートで城下町を散策。そんな人を好きになれますか?」
うっわ、思い出しても気持ち悪いし、傷つくわぁ。
今度こそ、眉間に力が入り、ギュギュッと縦皺が深まった。
「…………傷ついたのか」
「ええ、ええ傷つきましたわ。わたくしの矜持が」
「矜持……」
「不機嫌で無愛想な男との政略結婚とて、受け入れておりました。自由時間など取り上げられて、王子妃教育と公務のお手伝いをして参りましたわ。他のものの手本となるよう、自らを律しても参りました。だってそれは義務ですから。だというのに、当の本人は別の女と好き勝手に遊んでいるわけですから、愛情の有無とは関係なく傷つきましょう?」
「義務……愛情の有無とは関係なし……」
「どうせ親とて庇ってはくれませんでしょうから、噂に聞く薬師さまに一縷の望みを賭けて頼ってみたわけですが。どうやら無駄足でしたわね」
『ざまぁの素』は手に入らないし、ムカつく婚約者のことをわざわざ考えさせられるし、気分の悪い記憶を掘り起こされるしで、散々だ。
だけど。
なんでしょう。好き勝手話したからなのか、ほんの、ほんの少しだけスッキリしたような、気がしないことも、ないような。
薬師は何かを考え込むように、ブツブツと呟いているが『ざまぁの素』が出てくる気配はない。
これまでか。
これ以上の長居は無用だ。
私は椅子から腰をあげ、一歩、カウンターから後ろに下がった。
暇の挨拶をしようかと思ったのだが、ふと、心によぎった事を伝えたいな、と思った。
「……わたくし、少々気になったのですが」
「お、おう」
「薬師さまと言うのは、随分と……なんと言いますか……偉そうな話し方をなさるのですね」
「…………。すまない」
「いえ。わたくし、これでも親にそこそこの権力があるせいか、対外的には遠巻きに遠慮される事が多くて。このようにくだけた雰囲気で話されるのは初めてですの」
「申し訳なかった」
「構いません。新鮮ですし、なんだか少し楽しかったですわ」
「楽しかったか」
「ええ、婚約者との五年間よりも、薬師さまとのこの時間の方が、お話を聞いてもらった感じがしますわ」
そう。
私は楽しかったのだ。
この、役立たずの薬師との会話が。
この先、私の身にはあまり良いことは起きないだろう。
だけど、今日、ここで過ごせて良かった。
この楽しかった記憶は、きっとこれからの私の支えになってくれる。
店を訪れた時に抱いていた切羽詰まった苦しさは消え、代わりに何ともいえないほんわかとしたあたたかさが心に生まれていた。
「また来ますわ」
私は、何かを買うこともなく、その店をあとにした。
* * * *
客が、その供とともに店から出ていくと、店の奥から年上の侍従が出てきた。
「まずは施錠、しておきますね」
「……こういうの、何て言うんだ?」
「そうですねぇ……」
扉に鍵をかけた侍従は、いい笑顔を見せた。
「まさにこれこそ『ぎゃふん』ってとこでしょうね」
「……実際に言えば笑い者にされるぞ」
「なかなか有意義な時間でしたね、ああうんそうか殿下?」
頭を抱えるしかなかった。
「どうやら俺は好かれてないらしい」
「そりゃそうでしょうね」
「遠慮ないな」
親より長い時間一緒に過ごして来た相手だ。
遠慮もなければ、苦言も呈してくる。
「ろくすっぽ話さない相手に好意を持つのは難しいでしょうね。よほど見た目がドンピシャ好みでも。人形を愛でるのとは違いますから」
「無口で穏やかなのが好みだって言うから」
婚約が決まった頃に彼女がそう言ってた。
「十二才の少女の言うことですよ。乱暴じゃない、とか、粗野じゃない、くらいの意味でしょ。そもそも無口って、三語しか話さないことじゃないですから」
「緊張するんだよ!アンドレア、かわいいだろ?」
「婚約してもう五年も経つのに?気持ち悪いって言われませんか?」
「お前にいつも言われてる」
そう言って、またしても脳内反省会だ。
どうやら俺は好かれてないらしい。(二回目。大事なことなので)
好かれている(許されるだろう)前提で計画を進めてきたが、ちょっとこれ、ヤバいかも。
「俺『ざまぁ』されるのかな?」
「今現在の凹みっぷり、既に相応に『ざまぁ』感ありますけど……まぁ、アンドレア様はご覧になってませんし、ご覧になったところでカタルシスは感じないでしょうねぇ」
「じゃ、誰に対しての『ざまぁ』感だよ!」
「うーん……私、ですねぇ、きっと。今、わりとすっきりしてますから」
「マジでか!」
うちの侍従がなかなかヒドイ。
「元々、私は反対でしたからね、あの計画は」
「でも実際、あの女が魅了魔法を垂れ流しているのはわかったわけだし」
「アンドレア嬢のお気持ちをないがしろにした計画だ、と、申し上げましたよね。事実、その通りで、傷ついておられましたしね」
「愛情の有無とは関係ない、矜持がな」
「貴族令嬢にとっては何よりも大切なものでしょう」
侍従の苦言が続く。
「なぁ。アンドレアを逃がしてやるのが正解なのか?」
「正解は、ご本人と話して決めなければ」
「お前はいつも正しいが難しすぎる道ばかり示すな」
「それが私の仕事ですから」
こいつの言うことを、聞き入れたり、反発したり。
それでも聞くべきことは、聞かなければ。
特に、どうやらアンドレアに対しての俺はポンコツにも程があるようだから。
* * * *
家に帰っても私の心はどこかふわふわと落ち着かなかった。
あんなふうに、ゆっくりと私の話を聞いてくれる人、今までいたかしら。
おべっかやごますりでもなく、ただ、寄り添うように私の話を聞いてくれた、見ず知らずの薬師さま。
「もう一度、お会いしたいわ」
明日、放課後にもう一度お店に行ってみよう。
私は浮わつく心を静めるために、明日も薬剤店へ行くことを決め、床につくことにした。
翌日、店に行ってみたが、狭い店内はもぬけの殻だった。
念のため、奥のスペースまで覗いてみたが、薬包紙の一枚すら、何一つ残されていなかった。
「間違いなくここだったのに」
私の呟きは、誰もいない、何もない店内に溶けて消えていった。
薬師さまにもう一度会いたかった。
会って、話をしたかった。
一緒にラムネを飲んでみたかった。
そうすれば『ざまぁの素』がなくても、何かスッキリする気がしたの。
そんなふうに思ったのは、初めてのことで、だけどそれは叶うことなく。
私の気持ちは何かの名前がつくこともなく、宙ぶらりんのまま、それでも心の見えるところにいつも横たわっていた。
フードを引っ張る指が、長くすらりときれいだったことと、指先が荒れていたことが忘れられなかった。
* * * *
「アンドレア・ボークラーク!前へ!」
食堂の真ん中、皆の目を引くように始まった。
殿下の側近と目される伯爵令息が大きな声で私の名前を呼ぶ。
そこには殿下にしがみつくようにびったりはりついた異母妹のエミリアもいた。
こんなとこで婚約破棄か。
中途半端にも程があるが、呼ばれたものは仕方ない。
私は仕方なく殿下とエミリアの正面へと進み出た。
「お姉さま、本当に残念だわ」
エミリアは随分と愉快そうな顔をしている。
しおらしい表情すら繕えないのだろう。
「エミリア、これを。プレゼントだ」
殿下が濃紺のシルクが張られた小箱を胸ポケットから取り出す。
アクセサリーが入っている箱だ。
婚約者の目の前で、他の女にアクセサリーを渡すなんて。
屈辱のあまり目眩で倒れそうなのを、奥歯で頬を噛みながら耐える。
じわりと鉄くさい味が口内に広がる。
きっと冴えない顔色をしてるだろう。
私を見て、エミリアは満足そうだ。
殿下が箱から出したものは、繊細さの欠ける、武骨な金属のバングルだった。
「え?これ?」
さすがにエミリアも戸惑いを隠せないようだったが、殿下にしがみついていたためか、殿下は素早くエミリアの左手首にバングルをはめた。
金具がパチンと音をたてる。
それと同時だった。
『キィーーーーン』
耳鳴りのような高くて不快な音が頭に響いたかと思うと、パリン、と何かが割れるような音がした。それとともに、えもいわれぬ爽快感。
「あれ?」「え、なにこれ」「なに?」
あたりが、いや、食堂中かざわめきに包まれている。
「静かに!衛兵!」
殿下の声が響くと、さすがにそこは貴族社会。一瞬でざわめきは収まり、代わりに食堂の外から衛兵が足音をたてて入ってきた。
彼らはいつのまにか床にへたりこんで「うそでしょ」と呟きつづけ、壊れたマリオネットのように力なく手足を投げ出していたエミリアを引き立て、そのまま食堂の外へと連れ出していった。
「エミリア・ボークラークは禁忌とされている魅了魔法の使用が確認された。たった今、魔法制御装置をとりつけたため、これ以上の被害は避けられる。しかし、これまでの影響も考えられる。吐き気、頭痛、めまいの症状がある者は衛兵に申し出るように」
殿下の指示に従い、多くの男子生徒と一部の女子生徒が衛兵に連れられて食堂を後にした。
魅了魔法。エミリアが。
いったい、いつから?
父親も?家の従業員もなの?
殿下は?
あまりのことに、私はボーッと立ち尽くしていた。
「アンドレア……」
殿下が私の名前を呼ぶ。初めてではなかろうか。
「殿下……」
「弁解したいことも、伝えたいこともたくさんある」
ああ、うん、そうか。以外も話せましたのね。というか、長い。こんなに長く話されるのは初では?
「だが、どうか許してほしい。まずはそこからだ」
「何を許せと……」
期待していない相手の、何を許すと言うのだ。
「ぎゃふん」
「え?」
「だから、ぎゃふん、だ。笑い者にしてくれて構わない」
そんな会話を、つい最近、誰かとどこかでしたような……
「薬師さま!」
「ぎゃふん」
「と、お知り合いなんですか?わたくし、もう一度お会いしたくて。その、ご紹介くださいませ!」
「ぎゃ……ぎゃふん?」
「あのあと、お店はなくなるし、誰も行方をご存じないしで困っておりましたの」
「あー……その、アンドレア」
「殿下には申し訳ありませんが……わたくし、婚約破棄されると思っておりましたもので……その……薬師さまのこと」
「わーーーーわーーわーーアンドレア、あっち行こう、少し話そう、な、な、わーーわーーわーーーー」
殿下は、なぜか突然あたふたと大騒ぎされ、そのまま、食堂の外のテラスへとエスコートされた。
夜会以外でこうしてエスコートされるのは初めてかもしれない。
テラスに置かれたベンチに私を座らせると、殿下は私の正面に跪き、私の右手を取ると、そっと自分の額に当てた。
「アンドレア」
殿下がもう一度私の名を呼んだ。今日だけで何度目だろうか。今まで一度も呼んだことないのに。
「俺は未だに『ざまぁ』がよくわからんし、だから『ざまぁの素』も用意してやれん。精神的には完膚なきまでに叩きのめされてはいるが、それは君には見えないだろう?だから、君が望むなら……」
待って。
何で『ざまぁの素』を求めたことをご存じなの?
薬師は!あの薬師はそんなことまで告げ口したの?
私は殿下の額から手を離そうと、ぐいっと力をいれて引っ張ったが、びくともしない。
殿下は跪いたまま、私の手を額に当てたまま、石像にでもなるつもりなのか、動こうとしない。
「あの。薬師さまになにをどこまでお聞きになられましたの?」
「…………。全て。あそこは俺の研修室だったから」
「研究室?」
「家業が菓子屋ではなく、君が個人的に経営してるスイーツショップがあるんだろ?」
そ、その会話は……
殿下の指先が私の指に触れている。
その指先が、かさついて荒れているのが、触れているところから伝わってくる。
「『すあま』は、東端の国の大使が三年前に持ってきた。変な味だった。あれより君の店の小さい丸いやつのがずっと美味い」
「たまごぼうろ、ですか?」
「そう、それ。あれも甘さが寂しいが、なんか癖になる」
そうなんですね。初めて聞きました。一度だけお会いする際に持っていきましたわね、確かに。
それよりも。
「『さまぁ』と『すあま』の展開は、なかなか厳しかったですわ」
「うん、あれはさすがに、我ながら苦しいな、と思ったよ」
「マリーナ様とヒルダ様の件は?」
「話を聞いて、それぞれに相応しい相手を王家から紹介したのと、元の相手にちょっと釘刺しただけだ」
なるほど。良縁に恵まれたからこそ、でしたか。
「皆さま、ひょっとしてご存じでした?」
「さあ?君は気づかなかったね」
「こんなにお喋りとは存じませんでしたもの」
「今も必死だよ。緊張して、君の顔が見れない。逃げられないように手を掴んでる。ごめん」
私はどうしたのもかと、大きくため息をついた。
殿下のビクッとした震えが、右手から伝わってくる。
「私はこれからどうなりますの?」
「公爵は魅了の影響下にあったろうから、しばらくは王家からの監察官が入るだろうな。君は……影響無さそうだな」
「殿下は?」
「俺はこれでも王族だから、普段から魔法よけを身に着けてるから。ごめん、今までのは演技だ」
「こうやって、解決するために?」
「策を講じるばかりで、アンドレアのことを傷つけた。ごめん」
「ラムネ……羨ましかったわ」
「ごめん。ごめんね」
「わたくし、薬師さまに、一緒にラムネを飲みにいきませんか?って言おうと思ってたの」
「俺が一緒ではダメ?」
そこなのよねぇ……。
薬師さまが一緒、というのがよかったのであって。
「殿下はなんか、違う気がしますわ」
「『ぎゃふん』以外のなにものでもない!」
殿下がうつむいたまま吐き捨てるように言うのが、なんだか可笑しくて。
私は思わず声をあげて笑ってしまった。
そんな私の事を、殿下が真っ赤な顔で見つめていることに気づくのは、少し先で。
そんな殿下の顔を見て、私が自然に微笑んでしまうのは更にもう少し先で。
それからの、殿下の頑張りと、私の歩みよりについては、更にまた、先のお話。
お読みいただき、ありがとうございました。
よき2025年になりますように。
今年もよろしくお願いします。