プロローグ『夜が更ける』
つい先程まで快晴だったにも関わらず、今は酷い土砂降りだった。
そんな土砂降りの中、バイクに乗った男がとある廃屋へと足を踏み入れた。彼は突然の雨に辟易し、ここで雨宿りしようと蝶番の壊れた玄関をくぐる。
濡れて重くなった飛行帽を脱いだ男は、顔に張り付く白に近い金の髪を鬱陶しそうにかきあげる。しかし左目を隠す前髪はそのままに、唯一覗く右目は冬の青空のように真っ青だった。
屋敷の玄関には何もない。目の前には二階へと上がるための階段があり、赤いカーペットが道のように敷かれている。その先の踊場には大きな絵があり、暗いせいか黒く塗りつぶされたように見えた。
とりあえず屋敷を探索することにした男は、十数分後、暖炉のある部屋で火を眺めながら休んでいた。燃やせるものを探すはめにはなったが、随分前に購入したオイルマッチのおかげで無事に暖を取ることに成功。
冷えた体を温めようと、柔らかいタオルに包まる。このタオルは先程、脱衣所で見つけたものだった。何故かアップルパイの匂いがする。
男は温かい紅茶を一口飲んで、ほう…と息をついた。傍らに移動させたサイドテーブルの上には、一切れだけ取り分けられたアップルパイ。
これらの食べ物は、男が用意したものではなかった。
この屋敷は随分と不思議なもので、長年使われていなさそうにも関わらず、ホコリ一つ見当たらない。脱衣所では入った時に無かったタオルが現れ、先程も男が腹の虫を鳴らせば、いつの間にか温かい紅茶とワンホールのアップルパイが現れた。
良くも悪くも順応が早い男は、遠慮なくほぼワンホールを完食。申し訳程度に残した一切れはいつの間にか無くなり、完食された皿は目を離した隙に消えていた。
そうこの男、不気味とも取れるこの屋敷で物を食べ、果てには警戒もなく眠ろうとするほど図太いのである。
火の爆ぜる音や時計の音、窓に当たる雨音のみが聞こえる室内は心地が良かった。疲労も相まって重くなる瞼に逆らわず、男は落ちる意識に身を任せる。
カチリ。長針が12を差した瞬間に響く、ボーン…ボーン…という大きな音。
落ちかけた意識は即座に浮上し、男は思わず立ち上がった。パチパチと火花の音がする。暖炉の火により伸びる自分の影が、やけに濃くハッキリと見えるように感じた。
いや、これは決して気のせいではないのだろう。だって、この程度の火でここまで影が濃くなる訳がないのだから。
こちらを射抜く炎のように真っ赤な眼光が、三日月のように細められ――
――ニヤリ、と影が笑った。
0。絵画の住人は誰も居ない。人形は主を持たず、光がなければ影はない。