第668話 どうやら魔視脳が働きだしたようだな。
蜂蜜を溶かした湯を口元に運ぶと、シュルツは素直に飲み始めた。初めこそ熱さに戸惑ったが、それに慣れると抵抗なくカップの中身を飲み干した。
ネルソンは取り寄せた毛布をシュルツにまとわせて、血行の助けとした。
「私は心臓と肺の機能を支援する。ステファノは魔視脳の刺激を続けてくれ」
2人がしていることはかかりの悪くなったエンジンを再スタートさせるようなものと言えた。新品のバッテリーをつなぎ、燃料系を清掃する。
ネルソンはようやく動き始めたシュルツのイドが、1つの大きな流れとなるように形を整え、方向を誘導した。
気の流れがよくなったことを確認し、魔核の大きさと回転速度を増やす。その工程をネルソンは何度も、何度も繰り返した。
2時間が過ぎたところでイドの流れはようやく常人の半分ほどに回復した。
「う、ぁぁあ……」
凍えた人間がぬるま湯につかって息を吹き返すように、シュルツの顔色に赤みが差してきた。
「どうやら魔視脳が働きだしたようだな」
「はい。シュルツさん自身でイドを送り出し始めました」
しばらくイドの流れを測っていたネルソンは、わずかに首を傾けた。
「どうやらこれが限界のようだ。これ以上の負荷は彼の魔視脳が受け付けないらしい」
「確かに反応が一定になりましたね」
「生命の危険はないだろうが、健康を維持するにはイドの濃さが足りないな」
悩まし気なネルソンの顔とシュルツのそれを見比べていたステファノは、ふと思いついてポケットに手を入れた。
「これを使ってみましょうか?」
取り出したのはヨシズミに渡しておいたものと同じアミュレットだった。
「それは魔道具か? 護身具というわけではないのだな?」
「このままでは護身具なんですが、術式を追加しようかと」
「どうするつもりだ?」
ステファノはアミュレットをテーブルに置き、その上に右手をかざした。
「足りないイドをこれに補わせます。第二の魔視脳ということですね。流れるイドを複製し、本流に戻してやるイメージで」
術式の複製を成功させた実績のあるステファノにとって、イドそのものを複製することはさほどの難事ではなかった。長時間観察し続けたことでシュルツの魔視脳の特性も把握できている。
「日は昇り、日は沈む。浜辺に満ちた潮はやがて沖に引いていく。営みは繰り返し、尽きることなし。我が魔核はここに留まり、流れるイドを育て、助けよ。送気核!」
アミュレットは白く輝いた。
「シュルツさん、これを首にかけてください」
「う……ん」
シュルツは頼りない手つきでアミュレットを首から下げた。獅子をかたどった飾りがちょうど胸の上に当たる。
「お、おお」
むず痒そうにシュルツは身をよじった。だが、その表情は決して苦しそうではなかった。
やがて刺激が収まったのか、シュルツは静かに体をソファーに委ねた。
「はぁあ……」
深いため息とともにシュルツは眠りについた。
その様子を見てネルソンは再びシュルツを触診する。
「うむ。落ち着いたようだ。気の流れも正常に戻っている」
「この様子なら、目が覚めたら普通に生活できそうですね」
「本当ですか!」
ネルソンたちのやり取りを聞いて、マーズ副隊長が身を乗り出した。
原因不明の病でシュルツはこのまま人形のような状態が続くのではないかと恐れていたのだ。
「気の流れが衰えているので、首にかけた魔道具で補っています。寝る時もこれを外さないように伝えてください」
名だたる名医たちがさじを投げた病変を、この2人はたった2時間で解決して見せた。しかも目の前で魔道具まで作り上げている。
マーズは驚きに言葉を失った。
「言いにくいことを申し上げる。これで生活に支障ないと思うが、後遺症がないとは言えません」
「えっ。後遺症ですか?」
「うむ。イドの大半を失っていた時間が長い。記憶に障害があるかもしれません」
ネルソンの言葉を受けて、その程度で済めば幸いと言うべきだろうとマーズは考えた。既にネルソンたちのことは類まれな名医として受け入れており、自ずと言葉遣いも変わっていた。
「その件は心に留めておきます。正常に生活できるだけでも望外のことです」
喜ぶマーズは心底シュルツ団長に心酔しているのであろう。シュルツの寝顔を見つめる両目に涙があふれていた。
その後シュルツは夕方に目覚め、少々舌がもつれるものの普通に会話ができる状態になっていた。
気がつくまでの20日間についてはほとんど記憶がないと言う。
更にそれ以前に「自分が自分でなかったような日々」があったとシュルツは語った。
「どれだけの期間それが続いたのかはっきりとはわからない。短くとも1年以上はそんな状況だった気がする」
シュルツはネルソン一行にそう語った。
「一体何が起こったのだろうか?」
「我らにも確実なことはわかりません。何者かが団長の意識を乗っ取っていたのではないかと推測していますが」
「むう。人に憑りつくなどということが実際に可能なのか?」
「人間の力では無理かと」
「何っ!」
人ではない存在に憑りつかれていたとしらされて、シュルツの顔色が変わった。
「ネロに起きたことを覚えていますか?」
「うむ。ネロの意識を操っていたのは……わたしだ!」
その当時シュルツには「ジェーン」が憑依していた。シュルツは自分の意思を失い、ジェーンとして行動していたのだ。
その記憶は何の感情も含まない他人事のように、シュルツの中にぼんやりと残っていた。
「その時には既に心を乗っ取られていたはずです」
「うう、わからぬ」
「我らはその者を『まつろわぬもの』と呼んでいます」
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
◆次回「第669話 ふむ。夏場は熱が籠りそうだ。」
旧来の階級社会、一部の人間による能力の独占を「まつろわぬもの」は守ろうとしているらしいこと。それに反対する勢力として「神の如きもの」が存在するとネルソンたちが考えていること。ウニベルシタスは旧秩序を乱す存在として「まつろわぬもの」に敵視されたらしいこと。
それらの推測をネルソンはシュルツに告げた。
「『まつろわぬもの』はシュルツ団長の体を離れて、ネルソン商会の使用人に憑りついておりました。こちらに来る前に、その者から『まつろわぬもの』を払い落としております」
……
◆お楽しみに。




