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飯屋のせがれ、魔術師になる。  作者: 藍染 迅
第2章 魔術都市陰謀編

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第65話 いつか来るその日のために。

「ギルモア侯爵家とネルソン商会はジュリアーノ殿下の後見のような立場となった。私にしてみればレイチェル様への罪滅ぼしでもあった」


 一介の平民に過ぎないネルソンが王子を屋敷に招き、側近のごとく振舞えるのは王室並びに王子母子に対する陰の貢献を買われてのことであった。


「マルチェルは元々私についていた護衛騎士だった。30年前私と共にギルモア家を離れ、商会の番頭役として私に尽くしてくれている」

「護衛騎士から番頭ですか? それはまた難儀な……」

「うむ。貴族の次男に商売ができるはずもない。商会とは名ばかり、私は薬学の研究に没頭していた」


 王立アカデミーから王立病院へと転身し、ネルソンはそこでも研究漬けの日々を過ごしていた。その間、マルチェルは平民社会で商売の勉強をしていたのだ。武士の商法どころの話ではない。


 ステファノはこれまで衛兵くらいしか武張(ぶば)った相手とつき合ったことはないが、彼らに商人(あきんど)が務まるとは思えない。プライドも生活習慣も、これまでの全てを捨てなければできないことであった。マルチェルは筆舌に尽くせぬ苦労をしたことであろう。


「商会を立ち上げた功績はマルチェルのものだ。私はいくつか新薬の製法を持っていたに過ぎない」

「とんでもございません。わたくしなどただの足手纏いでございました」


 マルチェルは柔らかく否定した。


「運も手伝った。私が抗菌剤の製法を確立した頃、南方で戦があった。うちの抗菌剤は味方の将兵を多数救い、王国軍の正式装備となった」


 いつの世でも戦争は商売の契機となる。軍需産業は戦の度に焼け太るのだ。


 ネルソンの中に忸怩(じくじ)たる思いがないわけではなかった。しかし、いつの日か抗菌剤やネルソン商会が開発した新薬は人々の暮らしを安全で豊かなものにするはずであった。その日のために、ネルソンは脇目も振らず商会の基礎固めに腐心した。


「疫病や栄養不良で死んで行く者が1人でも減るようにと、旦那様は自らの人生を(なげう)って新薬を生み出しておいでです」


 今はまだ軍事機密であるが、やがて平和な社会が来れば新薬は万人の物となるであろう。その時こそ100万の命が救われるのだ。


「それ程御大層なことではない。私の妄執であり、自己満足に過ぎぬのだ」


 ステファノには言葉がなかった。ネルソンが、そしてマルチェルが過ごして来たであろう凄絶な人生。

 飯屋の暮らしに希望が持てないと家を出た自分が、どうしようもなくちっぽけな存在に思えてならない。


「動機などどうでも良いのだ。人として大切なことは、何を思うかではなく何を為すかだ」

「はい」

 

 いつか、ネルソンの前に胸を張って立ち、自分の生き様を誇れる日。その日が来るように生きなければと、ステファノは心に思った。


「話が長くなったな。ソフィアの動きとは別に、私は軍の中枢を通じてこれまでのことを陛下に報告してもらう」


 王妃に縁組促進の相談が届く前に、陰謀の疑いを国王の耳に入れて置かなければまずかろう。


「旦那様、でしたら口入屋界隈への聞き込みはわたくしが致しましょう」

「うむ。それが良さそうだな、マルチェル。そうすれば明後日の月曜日までには、情報を集めながら体制を整えることができるだろう」


 その後ステファノはネルソンの書斎に案内され、監視用の遠眼鏡を与えられた。


「それは自分の物として使いなさい。借り物では使い方に遠慮が出てしまう」


 遠眼鏡のレンズはガラス板から職人が手作業で磨き上げたものである。ガラス自体が透明度の高い貴重品である上に、むらなくレンズ表面を磨き上げるには熟練職人が多くの手間を掛ける必要があった。


「こんな高価な物を……」


 さすがにステファノも気が引ける。


「気にする必要はない。道具は使ってこそ活きる。お前の働きにはそれだけの価値がある」


 窓に立って通用門に遠眼鏡を向けてみた。

 立木の枝はおろか、葉の1枚1枚までくっきりと見わけることができた。

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