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走る人

 夕日は見えず、気が付けば夜が来る。絵画や映画のような美しいだいだい色などそう簡単に拝むことのできるものでもなかった。

 薄暗い空を背景にして走るふたりの女。普段は和服を着ている茶髪の女はジャージを着ていた。隣りにいる少女はジャージを着て走る女を見つめる。和服を着ている時には目立たない身体に着いただらしない肉の存在を知った。

「天音もまだまだ痩せられないね」

 天音、27歳になったこの女は息を深く吸って晴香に目を向け言った。

「アンタは少しずつ痩せてきたみたいで羨ましい限りだね」

 夕方のランニングという習慣は天音の口から始められたものだった。恐らくは受験勉強に追い回される晴香への息抜きと何より天音が晴香に会いたいという最大の本音からの提案なのだろう。

 晴香はお腹に手を当てて表情に陰を纏わせる。

「もともと太りすぎだから」

「そうかねえ、アタシみたいなだらしない肉の着き方じゃあるまいし、あんまし気にしなくてもいいと思うのだけど」

 天音はひとり言で言葉を繋ぐ。

「少ないくせにだらしなくたるんで……どうにかなりゃしないものかな」

 晴香の前では出来る限り美人でいたい、ランニング四日目に天音はそう言った。お化けネコの依頼の時の行動や日中寝転がっている態度を見ている限りは本気というものを感じ取ることが出来ないでいたが、確実に酒瓶の入れ替わりの頻度が落ちているということを知ってようやく本気なのだと悟っていた。

 宇歌は元気だとか世話してみれば案外かわいいものだとか、妖の類いを祓うはずの天音の口から出てくる言葉に対して大した違和感を抱きつつも微笑ましく思えていた。

 息を吸って吐いて、走って進んで景色は流れて。空を吸い込む勢いで息を肺へと流し込んだ。運動というものは勉強に追われる晴香の心に新鮮な嬉しさを、活きのいい安らぎを与えてくれた。いつも決まった時間にいつもふたりで走る習慣、ふたりでならばどこまでも走って行けそうな、どこまで大きな夢でも追いかけられそうな気がしていた。

「なんだいそんなにニヤついて。アタシの走る姿にでも惚れてしまったかい?」

 天音の声は心地よく響いてきた。薄暗い空によく似合う昏めの声は一日の時間が過ぎ去るほどに愛おしい彩りとなって晴香の身体を震わせるのだ。

「何でもない。天音は今日も元気だねって思っただけだよ」

 弱々しい鈴のような声で答える晴香の貌を窺って大きなため息をついた。

「アンタの言葉じゃあ世の中の歩き方の若葉マークは外せないようだね、まだまだ未来のお話かねえ」

 そうした言葉のやり取りの中にも愛おしさや優しさが隠されていて、それが晴香にとって美味な気持ちをもたらす。

 天音の表情はどこか懐かしいものを見つめるようなもので包み込むような大きな感情を持っていた。

 走って走って、向こうからも少年が走ってきていた。まだまだ新しさを隠しきれていない長袖のカッターシャツ、学校指定の制服の胸ポケットには若々しい雰囲気には見合わぬ高そうな古びた万年筆が差さっていた。

 晴香は確かに目にした。万年筆から漂うこの世の物ならざる靄のようななにかを、晴香の髪を纏めて留まる蝶のように結んでいる紫のリボンがかつて発揮していた効力に似たなにかを。

「制服は真新しくあれども、晴香よりも年上に見えてしまうね」

 高校の制服、しかし顔は晴香よりも大人びていた、というよりは晴香の顔が少しばかり幼く見える。それだけのことだった。

「男の子はいいよね、ちょっと暗い顔するだけですぐ成長したように見えて」

 言葉は隣りの女までしっかりと伝わったのだろうか、伝わった上で今の表情なのだろうか。天音は笑っていた。

「そう見えるかい? ありゃあ子供だましってやつさ」

 男のことなど嫌いなのだろうか。そう疑いたくなるような口調で続けられた。

「成長したつもりになんかなられてねえ。浮かれて酔って、知らず知らずのうちに騙されていらっしゃるものさ。自分自身にね」

 棘のある言葉は初めから見下したようでもあり、晴香の中に陰りと不安を与えていた。

「昔なにかあったの?」

 晴香の問いはどこまでも真っ直ぐで眩しい光のよう。直に浴びるにはあまりにも影に飲まれ過ぎていた。

「アンタは知らなくていい世界のことさ。目を逸らして後ろさ向いてなかったと言っておきゃいいってだけのこと」

 天音の声は強張っていて硬さを感じさせる。その手は震えて正気か狂気か判断も付かせない。瞳は空を向いていて空を見ていない。何を見ているのか、予想は既に付いていた。

 晴香はそんな天音を置いて後ろへと駆け出した。

 その様子を振り返って目に捉えながら大きなため息をついた。

「全く、アタシは関わりたくないってのに……『遺サレシ者』だなんて厄介にも程があるっていうのに」

 語られる言葉に偽りは見受けられず、天音の姿は闇に溶けて行くように見えた。



  ☆



 走る少女は軽い走りでは少年に追いつけず、普段からのランニングで培ってきた走りでも追いつける自信はなく、身体も心も乱した動きで全力で脚を動かす。重い身体で息を切らしてどうにか走ってなんとか追いついて。

「あの」

 ひねり出した声は濁っていて、普段のかわいらしさの欠片も残っていなかった。

 振り返った少年は肩で息をする晴香に対して見下した目を向けた。

「なんだ、里予じゃねえなら用ねえよ」

「さと……よ?」

 訊ねる晴香に言ってのける。

「そうだ俺の大事な人だ」

 この少年にとっては里予が全てなのだろうか。気が付けば晴香はそのことについて言及していた。

 少年から返ってきた声が示したもの、それは後悔だった。

「里予はずっと俺のことを想って声をかけてくれた。でも俺はそれをずっと撥ね退けて、気が付いたら里予がいなくなって、ようやく大事なものを知ったんだ」

 続けて紡ぎ出された言葉には闇が宿っていた。

「でももう手遅れかも知れない」

 そう語る男の姿の情けなさはいかに大きなものか、普段の態度など最早飾りでしかないこと。それを自ら証明してしまったものだった。

 そんな少年をこの世の物とは思えないほどに鋭い視線で睨みつける晴香がそこにいた。滾る怒りは心配をも塗りつぶして、棘のある声は感情そのもの、全てがむき出しだった。

「手遅れ? ちゃんと見てあげないからそうなったんでしょ! 話しかけて後悔した」

 そう言いつつ少年の手を取る。

「あなたの名前は?」

 先ほどより柔らかに思えたがそれでもまだ投げやりにも思える声に手を引きつつもそっぽを向いた態度、少年には何がしたいのか全くもって理解できないでいた。

「浜ヶ谷 和春」

「はいはい和春くんね、里予ちゃん探すよ。見つかったら絶対謝ってね」

 晴香は途中で崩された日課のランニングを共にこなすパートナーである天音の元へと向かっていった。

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