万年筆
明るい校舎の中、同じ服を着た集団がはしゃいでいた。
教室でプロレスリングの真似事を行なう男子生徒たちに目を向けて、同じ制服を着た少年は一度ため息をついて万年筆を扱っていた。書かれているもの、きっと叶わない恋のお話。それを想うだけで重たくのしかかってくるものがあった。
「かずはる君ため息ばかりついてたら幸せ逃げてくよ?」
和春、そう呼ばれた少年とその名を呼ぶ少女。和春の座る椅子の背もたれに手を置いて微笑む少女に目を向けることもなくただ話を繋ぐ。
「いいんだ、最初から大して幸せになれるわけでもねえしな」
和春の開いた口からより一層大きなため息が出てきて少女の顔をますます曇らせた。
「もうっ! また。あんまり酷かったら私も逃げるよ?」
「いいっての。別に孤独なんて怖くもないし」
孤独を恐れない少年、その勇気を讃える者などいるものだろうか。いつまでもそばにいる少女に対して冷たい心を言葉にしてぶつける。
「さとよも俺にかまってる暇があったらあいつらとプロレスごっこでもやってろ」
山野 里予、それが少女に与えられた名前。里予は暴れ回る男たちに目を向けて首を横に振った。
「ダメ、あんな獰猛な人たちとは関われないよ。それより昔みたいに一緒に遊び行こ!」
眩しい笑顔、それは和春の心に沁みて痛かった。
――俺、何言ってんだろうな
そこまで気が付いていながらもおかしな言葉は止められない。
「それなら俺に一億寄越してみろよ、何年遊んで暮らせるだろうな」
里予は怪訝そうな顔で変わり果てた少年を見つめて、訊ねた。
「どうして変わっちゃったの?」
ここで見捨ててしまったら広げられるはずの関係性はもうお仕舞い。そうはいかなくて、納得がいかなくて、里予は言葉を紡ぎ続けていた。
「おかしいよ、かずはる君はもっといい子だったのに……ねえ、元に戻っていっぱい思い出作ろ!」
今の彼に言葉という音はあまりにも薄っぺらで力などなにひとつ感じられはしなかった。
☆
チャイム、行列、落ちかけの太陽。なにもかもが騒がしくて、加えて里予の存在があまりにも眩しくて目も当てられない。
――昔みたいに、無理だろ
手を繋ごうとした里予だったが、和春の手はそれを弾いてしまった。
「ええ!? ダメ?」
困惑した顔すら愛嬌があって、闇に住まい続けているような感情の和春の何もかもが焼き消えてしまいそうだった。
「ダメだ、俺は孤独を愛する男、愛だとかそんなものなくなっても痛くもかゆくもないな」
里予には、和春のことが分からなくなっていた。今も、心の奥は煙に閉ざされたまま。
「ひとりなんて、私はいやだよ」
「俺はかまわない」
「どうしてそんなこと言うの」
あまりにも酷い態度に、里予は既に別の世界の人間なのだと思い始めていた。
「放さないよ。寂しくなってからじゃ遅いから」
違い過ぎる、だからこそ離れてしまっては完全にいなくなってしまうように感じていた。
「もとのかずはる君が帰ってくるまで、ずっとそばにいるから」
いられるだろうか、不安しかなくて、息が苦しくて。しかしそうした暗い感情など全て総て何もかも無邪気な笑顔で塗りつぶす。
「元の? 俺は変わったんだ。ガキになんか戻んねえよ」
――そういうことじゃないんだよ
しかし、そんな言葉も口から出て来ることもなくて心に仕舞われたまま。負の感情に押しつぶされそうな身体を自分で抱いて、どうにか堪えていた。
「まあいいや、俺は帰る」
「うん、またね。あーした元気になあれ!」
「俺は元気だが?」
「なんでもないよ」
変なやつ、そう吐き捨てて立ち去る。
元気ではない、それは私
分かり切ったことだった。あまりにも簡単な自身のこと。みんなみんな遠くへ行ってしまって里予だけが置いてけぼりを食らってしまう。
――変わらないことっていけないこと?
なにも分からなくなって残る想いはただひとつ。
――私も変わりたいよ
変わる必要なんてない、大切なことに気が付いていたはずの少女は正解を見失って霧に飲まれるように消えゆく。近くにあったたぬき地蔵に見つめられ、身体は景色に透けて、声も風にすら乗らなくて、動かない、動けない。
――変わらなくていいんだ
聞こえてくる声は里予の身を地面に打ち付ける。
――本当は知ってたくせに
笑いながら語りかけてくる声に答えるための言葉も吐くことができないでいた。
――ずっとここにいろよ、変わる必要もないんだ、気づくべき人間が気づくこと、それができるかどうか
永遠にも思える刹那、そこにずっといて、閉じ込められて、動けない。言葉のひとつも外には伝えられずに普通の空気に溺れて苦しくて。
そんな里予の心が叫んで必死に助けを呼ぶ。救いを求めた先、彼女にとっての光はあの少年に他ならなかった。
☆
どうして素直になれないのだろう、どうして純粋な想いが伝えられないのだろう。強気の裏に隠された本音は里予とは相容れないもののように思えていた。明るくて無邪気、光と影の差はどれだけ追いかけたところで埋まらない。
里予のことを考えることなどやめて、思考を万年筆に移す。祖母からもらったもの、亡くなってしまった今となっては大切な形見だった。茶色の体をしたその筆は今ではあまり見かけない物らしい。積み重なった年数の有難みなど理解しがたいものではあったがそれでもこの筆は好きでたまらなかった。
素直になれない少年の頭を撫でて慰めてくれるような温かみ、それを感じていた。




