ハルゾラ
俺は春が苦手だった。春といえば、始まりの季節で心が浮かれる人が多いけれど、俺にとっては悲しいことをたくさん思い出す季節であったからだ。そして今、季節はその俺が嫌いな春だ。今日から、大学一年生として、未開の地・京都での生活が始まる。「早河 蒼太郎 19歳」そう記された学生証を片手に俺は校門の前でたたずんでいた。そう、俺は一浪している。その事実が俺の背中にのしかかり、足取りは重かった。周りは聞きなれない方言が飛び交い、関東から一人やってきた俺はアウェイ感がぬぐい切れなかった。
(はあ...。さっさと家に帰りたい。)
入学式当日から悲壮感が漂う男の脇を楽しそうに家族連れが通っていく。どうやら一人で来ているのも珍しいようだった。大学のキャンパスは広く、校門から体育館までは10分くらいかかるそうだ。ここにいつまでもいるわけにはいかない。そう思って歩き出した矢先、誰かが俺にぶつかり、手から学生証が落ち、俺は思わずしりもちをついた。本当に最悪だ。それまで誰も見向きもしてこなかったのが一気に視線が向けられるのを感じた。恥ずかしい。顔が赤くなるのを感じ、急いで立ち上がり、ズボンの砂埃を払った。俺にぶつかってきた当本人はもうどこかへ行ってしまったそうで、どこにもいなかった。
(ほんと、ついてねえな。できるだけ早くこの場から立ち去ろう。)
ようやく歩き出した俺の腕を誰かが引っ張った。今度は何かと振り返ると、俺よりも10cmは大きい体格のいい男性が俺の腕をつかんでいた。
「あの、これ、落ちていました。」
彼の手には俺の学生証が握られていた。
「え、あ、ほんとだ、俺のです。ありがとうございます。」
受け取って、すぐに踵を返した。
(すごい、背が高かったな。あの感じじゃ、陸上選手かなにかかな。)
この大学にはスポーツ専門学科もある。スポーツに力を入れている生徒も少なくないだろう。
(ま、俺はスポーツとは無縁の、生物学科でこの4年間は勉強に励まなくちゃな。医者になれなかったんだから。)
おそらく、気持ちの重さの第一の原因となっている、1ヶ月前の入試結果を思い出しながら、俺は入学式の会場へ入っていったのだった。
入学式とガイダンスは2時間ほどで終わった。周りが連絡先交換をして親交を深め合う中、俺は颯爽と帰宅をしていた。帰り道、家に向かって歩っていると、あの、と声をかけられた。振り返ると、そこにはさっき俺の学生証を拾ってくれた男性が立っていた。
「あ、さっきの。先ほどはありがとうございました。俺、全然気づいてなかったので助かりました。」
俺は条件反射でそう言って頭を軽く下げる。すると向こうは
「やっぱり、、、あなた、早河蒼太郎ですよね、1個上の!3000m障害の関東大会入賞してた!?」
(ああ、やっぱり陸上やってる人だったか、、、しかも普通に今1個上って言いやがったし、、、)
「そうですけど、なにか。」
「なにかって、いや、ずっと憧れてた選手だったんで、会えてめちゃくちゃうれしいっす!あ、握手してもらっていいっすか!?」
勢いに駆られて俺はこいつと握手した。
(てか、マジでなんなんだ、こいつ、、、。なれなれしすぎるだろ。流される俺も俺だけど。)
「あ、俺、林山 理知太っていいます。俺も3000m障害やってます!大学でも続ける予定です。早河先輩は続けますよね!?」
(ああ、このキラキラした目はなんだ、しかもあふれんばかりのこの子犬感。)
「先輩付けはやめてくれ。俺は一浪してるから、君と同級生なんだよ。」
「え、あ、そうなんすか!あ、じゃあ、そ、蒼太郎ってんでいいってことっすか、、、。よ、呼びます!」
「あと、敬語もやめてくれ。」
「わ、わ、分かった。じゃあ、蒼太郎は大学でも陸上、続ける、、よね?」
「続けない。」
「え~、即答。なんで?」
「俺は勉強しにここに来たんだよ。お前、学部は?」
「スポーツ専門学科。」
「そっか、、、頑張れよ。俺はもう走らないが、応援してるから。」
「え、全然心こもってないし、走ろうよ~。」
そういって林山 理知太は俺に後ろからのしかかってきた。
「暑苦しい!さっきから距離近えんだよ。ていうか、どこまでお前ついてくるんだよ。」
俺らはもう下宿先のアパートのエレベーターホールにいた。
「ん?だって俺、ここの2階だもん、部屋。」
(まじかよ、、、。)
「俺は3階だ。」
「やったー!蒼太郎と同じアパートに住める!」
万歳している彼を横目に。はああ、俺は今日何度目かわからないため息をついた。
「林山、俺の部屋探しとかするなよ。」
すると、林山は途端に困り眉になった。
「蒼太郎も、俺のこと下の名前で呼んでよ。」
(めんどくせえな、、、。)
呼ばなかったら、もっとめんどくさそうなので
「理知太、真剣な話、俺はもう走らない。これからは勉強を第一に頑張っていくつもりだ。」
エレベーターが来て、乗り込みながら俺は言った。
「そっか。うん、分かった。だけど、これから仲良くしてね!あ、連絡先交換しよ!」
2階について、理知太を見送ってから、俺はまた深々とため息をついた。
(初めてできた友達はにぎやかなやつだったなあ。)
だが、朝よりも心がこころなしか軽く感じていた。
「そうちゃ~ん、このレポート手伝ってよお。これが終わらないと夏休みがこないんだよお。」
「課題をためてたお前が悪い。というか、なんで当たり前のように俺の部屋にいるんだよ。」
8月上旬。春学期分の授業は終わり、期末レポートを提出すれば夏休みという、大学生にとって待ちに待ったこの季節。たった6畳の狭い俺の部屋においてある小さなちゃぶ台に突っ伏して理知太がこっちを見上げてくる。なんで理知太が俺の部屋にいるのかというと、郵便物の誤送という偶然の産物で俺の部屋がばれたことが原因である。それからたびたび訪ねてくるようになった理知太をどうしても突っ返す気にはなれず、家にあげてしまい、こうして一緒に過ごすことも多くなっていった。なぜだか俺は理知太に非常に甘い。しまいには蒼太郎はながいからといって、理知太はちゃん付けで呼び始めた。この呼び方はこの呼び方で気に入っているのだから、俺は甘すぎるかもしれない。
「そうちゃん、お願い。」
(そんな泣きそうな顔で頼まれたら、断れないだろうが。)
「わかったよ。これの資料さがせばいいか?」
ため息をつきながら、そう返すと目の前の子犬はぱああっと目を輝かせた。
「ありがとう、そうちゃん。俺、こっち頑張って終わらせるから!」
そう言って、パソコンに向かって勢いよく文字を打ち始めた理知太を見ながら、俺は春学期は思ったよりもあっという間だったなと思い出していた。浪人して、それでも大学受験に失敗して、本命の学部ではなかったが、しっかり学ぼうという気持ちはあった。どこかで俺の行きたかった道を進めた奴らを見返したいという気持ちと学費を出してくれる親のためにも頑張りたいというこの2つの気持ちが俺の原動力だった。しかし、その2つの気持ちは時として俺の心に大きくのしかかってきて、俺を苦しめた。どうしようもない息苦しさを感じる時も多々あった。そういう時は、こっそり陸上競技場へと足を運んだ。さすが私立大と言わんばかりの立派な競技場は俺一人が足を踏み入れたところで全く目立たなかった。それをいいことに俺は理知太の走る姿を見に行った。彼の走りを見ていると、苦しかった心が軽くなっていくのを感じた。
(まっすぐな、気持ちのいい走りをするんだよなあ、こいつは。だから、元気をくれるのかもしれないな。)
資料を探す手を止め、理知太の方をちらりと見た。真剣にレポートを書いている理知太は全く気が付かない。ふいに初めて出会った日を思い出して、俺はふっと笑ってしまった。
「どうしたの?そうちゃん?」
さすがにそれには気づいたのか、理知太は顔を上げた。
「いや、なんでもない。それより理知太、何か飲むか?」
「うーん、お茶が欲しいかな?」
「はいよ。」
俺は立ち上がると、麦茶を入れたグラスと理知太が来た時用に買っておいたプロテインバーをもってちゃぶ台に置いた。
「ありがとう、そうちゃん。って、プロテインバーって。おもしろいなあ、そうちゃんは。」
うれしそうに麦茶を飲む理知太の横で俺も麦茶を飲む。自分で水出しでつくったやつだったが、いい感じの濃さで出来上がってる。満足げに飲んでいると理知太がふとグラスを置いた。
「そういえば、そうちゃんって医生物学科だよね。」
「そうだけど。」
「そうちゃん、なんでそうちゃんは高2で陸上引退しちゃったの?」
「お前、話の脈略が全く見えないんだけど。」
「いいから、なんで?」
「なんでって、、、。」
まっすぐな目でこっちを見てくる。
(あんまり高校の時の話はしたくないんだけどな。でも、いつかは聞かれるっておもってたしな。)
「勉強のため。高校3年は勉強にあてたかったの。俺、もともと医学部志望だったから。」
「・・・・・・。」
「でも、まあ、結局行けなかったし、浪人したけど駄目だったし。ただ、親に金と迷惑をかける形になって、この状態だけどな。ここに来たからには、この場所で俺なりの結果を出そうと思ってるけどな。」
最後の方、語尾が震えるのを感じた。
(まだ、引きずっているのか俺。弱すぎるだろ。もう半年だぞ。)
「まあ、そういうことだ。じゃあ、課題の続きやるぞ。」
「そうちゃん、声、震えてる。」
ぎくっとして、理知太の方を見た。ごまかしきれなかったみたいだ。
「言いたくなかったこと、聞いちゃってごめん。でも、そうちゃんは憧れだったから、ずっと気になってて。そっか、医学部志望だったんだね。」
理知太はグラスを手に取り、一口麦茶を飲んでまた口を開いた。
「医生物学科からは医者にはなれないの?」
これはよく聞かれる質問だった。”医”生物学科なんて名前をしているから、そこからでも医者を目指せるのではないかと一般の人たちは思うらしい。しかし、実際は・・・。
「なれない、医者は目指せない、俺の学科からじゃな。つまり、俺は夢をあきらめたってことになるんだ。」
そういって、俺はふっと笑った。夢をあきらめた自分を、入試に失敗した過去を引きずる俺自身をあざ笑うかのように。そして、自分が吐いた、「夢をあきらめた」という言葉はまっすぐに俺の心を刺してきた。
しんと静まり返った部屋には理知太と俺が息をする音しか聞こえなかった。俺はただ黙ってうつむいていた。理知太の顔を見ることができなかった。
「蒼太郎、行くよ。」
その静寂を破ったのは理知太の声だった。理知太は急に俺の手首をつかむと、引っ張った。
「え、行くってどこに?」
「お祭り!今日、ここの近くの神社でお祭りやってるの!行くよ!」
俺は半ば強引に祭りへと連行されることになった。
(理知太、俺に気を使ってくれたんだな、申し訳ないし、情けねえ。)
俺の数歩先を歩く理知太の背中を見ながら、自分のふがいなさと理知太のやさしさに感謝を感じていた。
屋台が見えてきた。焼きそばやたこ焼きなど、祭りならではの美味しそうな匂いも漂ってきた。
「すごい!見てみて、そうちゃん!たくさん屋台あるよ!どこから行く?」
目の前の子犬は目をキラキラさせながら、俺の方を振り向いてきた。
「理知太の好きなところからでいいぞ。」
「うーん、どうしよっかな?あ!俺、肉食いたい!」
そういって、肉の串刺しの屋台へとかけていく理知太の後姿を見て、思わず俺は笑った。
(なんか、楽しくなってきたな。さっきの重い気持ちも、軽くなってきたぞ。)
理知太の方へ向かおうとすると、
「お、早河やん。お前も来てたんや!」
「小石川!」
同じ学科で浪人経験者、つまり同い年ということで仲良くなった、小石川 俊介に声をかけられた。彼は京都出身で、関西になれない俺に色々教えてくれた、恩人的な存在でもある。
「お前、一人か?」
「いや、違う学科の同級生と来てて。」
「なんや、彼女か?」
「違う、そいつ男だし。」
「ほお。てっきり、彼女やと思った。なにせ、あのいつも仏頂面の早河があんな風に笑うの初めて見たからなー。」
「俺、いつもそんな仏頂面か。」
「なんや、自覚あらへんかったんかい。まあ、楽しそうでなによりや。」
小石川と話していると、こっちに向かって肉の串を2本持った理知太が戻ってくるのが見えた。
「ああ、友達が戻ってきたみたいだわ。」
「お、そうか。まだまだ祭りははじまったばかりや。楽しんでき。俺も店の手伝い戻るわ。」
小石川に手を振って別れると、理知太の方へ向かった。
「はい、そうちゃんの分も買ってきたよ。さっきの人、知り合い?」
ありがとう、と肉の串焼きを1本受け取った。
「そうだよ。同じ学科で、あいつも浪人してて同い年なんだ。いろいろ世話になったやつで。」
「そうなんだ。ねえ、20時から花火があがるんだって。一緒に見ていこうね!」
理知太はそういって笑った。ああ、と返事しながら、肉をほおばると、肉汁が口の中に広がり、香ばしい香りが広がった。祭りの味という感じがした。
「ありがとな、次は俺がおごるよ。」
「よし!次はねえ・・・」
その後も射的・輪投げ・金魚すくいを楽しみ、綿あめ・たこ焼き・鈴カステラ・フランクフルトを平らげ、祭りを満喫したころ、20時となった。
「そうちゃん、もう少しだよ!」
「穴場って、どんだけ急な坂道を登るんだよ。」
「ほら、着いた!」
理知太について坂を上っていくと、見晴らしのいい丘にたどり着いた。周りには誰もおらず、まさしく穴場スポットだった。
「すごい、ここからならよく見えそうだな。」
「だよね!もうすぐ上がると思うんだけどな。」
理知太の声と重なるようにドン!と音が鳴り、一発目の花火が打ちあがった。
「うわあ、きれいだね!すっごい、よく見える!」
「ああ、そうだな。」
俺は高2以来に見る花火の美しさに言葉をなくしていた。
(高2の陸上の大会の帰り道に見た以来なんだな。それからはこうして花火を見る余裕もなくしていた。)
打ちあがりはじめてしばらくしてから、理知太と、声をかけた。ん?っと俺の方を理知太は見た。
「今日はありがとうな、気を使ってくれたんだろ。俺はもう大丈夫だよ、ごめんな。」
理知太は、ううん、と首を振った。俺こそ、変なこと聞いてごめんねと言った。そこから、少しうつむいたあと、理知太は顔を上げた。
「そうちゃん、もうこういうこと聞かないから、最後に1個だけ聞いてもいいかな?」
「なんだ?」
こんな素敵な場所につれてきてくれたのだ。断る理由はなかった。
「そうちゃんが医者を目指そうと思ったきっかけって何かあったの?」
これもよく聞かれることだった。いつもなら医療ドラマに憧れたとかどうとか言ってごまかしていた。でも、なぜか理知太になら本当のきっかけを話せそうだった。
はあ、と一度ため息をついてから、俺は語り始めた。
「俺には昔、大好きな人がいたんだ。それは母方の祖父で、つまり俺のじいちゃん。じいちゃんはいつでも俺のことをほめてくれた。テストで100点取ったときとか、習字を上手くかけたときとか。他にも俺が泣いたら、優しく慰めてくれて。本当に大好きだったんだ。きっとまだまだ一緒にいられる。まだまだほめてもらえるって信じていたんだ。」
理知太は黙ってこっちを見て聞いている。俺は花火が打ちあがる空の方を見つめていた。
「だが、それはかなわなかった。ある日急に俺のじいちゃんは急に病院に入院することになった。母さんとばあちゃんと弟の4人で毎日お見舞いに行った。今でも覚えてるよ、ばあちゃんが車の中でじいちゃんはだめかもしれないって泣いてた姿とか、母さんが泣きながら俺らに病状を説明してく入れた姿とか。そしてじいちゃんが入院してから約1か月後、お前も関東出身だから覚えてると思うけど、東日本大震災が起きたんだ。それから、2週間後、震災の混沌とした最中で俺のじいちゃんは息を引き取った。」
俺は思わず両手を握りしめていた。喉の奥がきゅうと閉まるような感じがした。
「最期の方はもう何も食べられなくて、苦しそうだった。でも、俺は何もしてあげられなかった。病院の方も震災でバタバタしていて、十分な対応ができなかったんだと思う。」
俺は両目から涙があふれるのを感じた。
「今でも忘れられない。亡くなる前日にまたなって手を振ってくれたじいちゃんの姿、最期の最後まで生きようとしていたじいちゃんの姿とか。でも、今でも思うんだ。」
空を見上げていた首を下げ、理知太の方に向き直って言った。
「なんで、じいちゃんはあんな苦しまなければいけなかったんだ?どうして、俺はあの時、何もしてあげられなかったんだ?なんでなんでなんで・・・。」
「蒼太郎!」
思わず泣き崩れた俺を理知太は抱き留めてくれた。俺は大声で泣いた。ずっと誰かに聞いてほしかった。今でも最期の姿を夢に見る。その度にごめんね、ごめんねと泣いていた。誰にも気づかれぬように。あの日の悲しみと後悔が俺の中に医者になるという目標を生んだ。だが、それは俺をどうしようもなく苦しめた。夢って、もっときらきらしたものじゃなかったのか?俺はこんな病院に対して復讐めいた気持ちで目標を立てて夢にしてしまったが、それでいいのか?と。でも、目標を変えようとすると、じいちゃんのことが頭をよぎる。そしてその度に思った。俺は医者になるんだ、医者になって人の命を助ける、それがじいちゃんへの恩返しになる。そうとも思っていた。今思えばかなりのエゴだったと思う。でも、そんなことは誰にも言えなかった。じいちゃんの死の話を口にすることがどうしてもできなかったから。だが、今やっと12年越しにこうして口に出すことができた。死とちゃんと向き合うことができた。
「蒼太郎は優しいんだね。だから、ずっと今までおじいちゃんのためにって頑張ってきたんでしょ。」
俺の頭を優しくなでる手を感じた。じいちゃんの優しい手の感触を思い出して目をつむった。
「これからは、蒼太郎のために生きていっていいんだと思うよ。おじいちゃんもきっとその方が喜ぶ。蒼太郎はもう十分頑張ったよ。」
理知太の優しい言葉に俺は頑なだった心がほぐれていくのを感じた。頷きながら俺は理知太を強く抱きしめた。
花火はいつの間にか、終わっていた。
時は流れ、少しずつ肌寒くなってきていた、10月上旬。あの夏の日から、俺と理知太は相変わらず、一緒に過ごすことが多かったが、一つ変わったことといえば以前と比べると理知太が俺の家を訪ねてくる回数が少し減った。理由を聞くと、
「来月、大事な記録会が控えてるから、部活頑張ってんだ!」
とのことだった。
(見に行ってみたいな、あいつの走り・・・。)
理知太の思い切り笑った顔を思い出しながら、ふとそんなことを考えていると、
「お。早河が笑ろうてる!なんかいいことあったん?」
と隣を歩く小石川につつかれた。
「え、今、俺、笑ってた?」
今は次の授業に向けて移動中だ。グランドの横の校舎のため、今いた校舎からは少し遠いので一緒に行かん?と声をかけてくれた小石川とゆっくり向かっていた。その小石川がにやつきながら、俺の顔をのぞいてきた。
「うん、笑ろうてたで。それにしても、春に初めて会った頃の早河じゃ、ありえんことやなあ。どんどん明るくなってきて、楽しそうで、なんか俺もうれしいわあ。」
「お前は俺のおかんか!?俺、そんなに春、暗い顔してたか?」
「しとった、しとった!この世の終わりみたいな顔してはったわあ。やっぱ、あの夏まつりの時に一緒にいたあの子のおかげやなあ。」
その言葉にはっとした。確かに理知太と出会ってから、心の重荷が軽くなったというか、息をするのが昔と比べてだいぶ楽になったような気がする。
「そうかもしれないな。」
思わず、ふっと笑ってうなずいた。
その時だった。グランドの方がなにやら騒がしいことに気づいた。なぜか、嫌な予感がした。俺たちの方向へ走ってきた陸上部のジャージを着ていた女子に声をかけた。
「何かあったんですか?」
「実は、一人けがをしてしまって、動けなくなってしまったんです。それで先生を呼びに行こうとしてて!!」
半泣き状態で事情を説明してくれた。その様子からはかなり深刻な様子が見て取れた。
「誰が、誰がけがしたか、教えてもらえますか?」
「りっちゃん・・・、林山理知太っていう選手なんですけど!」
世界から音が消えたような気がした。足元から、地面が崩れていくような、あの感覚。教えてくれた女子に遠い意識の中、お礼を言うと、俺は震えて冷たくなった指を握りしめた。目に入ってきた自分の靴のロゴがなぜかいつもより鮮明に見えた。
(理知太が、理知太がけがした・・・?しかも動けないって言ってなかったか?あの、理知太が?)
「早河!おい、しっかりしろ、早河!!」
その声にはっとして顔を上げた。半ばパニック状態になっていた俺の意識を戻したのは小石川だった。
「お前ははよ、その子のとこ、行け!その子にはお前が必要なんとちゃう!?」
「でも・・・。」
「でも、やない!今行かなかったら、後悔するで!」
思わず小石川の目を見た。その時にやっと肩を小石川につかまれていたのに気付いた。
「そう、だよな・・・。ちょっと行ってくる!」
荷物を小石川に渡し、グランドの方へ走った。もう二度と後悔したくない、失いたくない、大切な人を。
息を切らしながらグランドにつくと、担架で誰かが運ばれていくとこだった。それは紛れもなく、理知太だった。それを見た瞬間、入院していたころの祖父の姿と一瞬重なり、俺は動けなくなってしまった。声をかけなければいけないのに、近くにいてあげたいのに。俺は担架に乗せられ、救急車で運ばれていく理知太をただ黙って見ていることしかできなかった。
あれから、一週間が経った。あの日、理知太に何もしてやれなかった自己嫌悪感に苛まれ続けていた。携帯にも、理知太からは何も連絡がなく、俺からも何も連絡していない。しかし、さすがに心配になってきた。でも、どうすればよいか分からない。入院しているかもしれないが、病院も分からない。それよりも今の俺には理知太に向ける顔がない。そんなことを考えながら、教室移動をしていたら、声をかけられた。
「すみません、もしかして、”そうちゃん”ですか?」
あ、人違いだったらすみません!と言って両手を小刻みに振っているのは先週、俺が声をかけた陸上部の女子だった。
(”そうちゃん”って、まさか・・・。)
俺のことをそう呼ぶのは一人しかいない。
「はい、俺がその”そうちゃん”です。」
すると、女子はほっとした顔になったが、すぐに真剣な顔でこちらに向き直った・
「実は、頼みがあるんです。りっちゃ・・・、理知太くんのお見舞いに行ってあげてもらえませんか?」
(やっぱり、入院してるのか・・・。)
俺は唇をかんだ。できるだけ平静を装うと努力した。
「入院、しているんですね。でも、俺は部外者になってしまうんじゃないかと思っていたのですがどうして俺が?」
(行けるものなら、行きたい。理知太に会いたい。心配で胸がいっぱいなんだよ、俺は。でも、今、あいつに顔を合わせる資格なんて、今の俺には、ない・・・。)
心の中では葛藤が渦巻いていた。それでつい冷たい言い方になってしまったことを後悔しながら、その女子の答えを待った。
「”そうちゃん”さんじゃなきゃ、だめなんです。理知太くんが憧れて、恩人だっていつも語ってくれてた、”そうちゃん”さんじゃなきゃ。実は、りっちゃん、面会、誰とも会おうとしていないんです。ふさぎ込んでしまったみたいで。あんなりっちゃん、初めてでみんなどうしたらいいかわからなくて。それで頼みに来ました。」
どうか、お願いします。と、頭を下げられた。理知太がそんな状態になっているなんて、知らなかった。いや、知ろうとしなかったのだ。また失うのが怖かったから。混乱した頭の中で一つだけ確信めいたものがあった。それは、
(この機会を逃したら、俺はもう二度と元の理知太に会えない。)
というものだった。
俺はその女子から病院名と入院している科を教えてもらい、病院へと向かった。今は何よりも理知太の声が聞きたかった。
電車とバスを乗り継ぎ、病院についたのは夕暮れ時だった。空は曇りはじめ、今にも雨が降り出しそうだった。
「すみません、林山理知太のお見舞いに来たものですが。」
窓口に声をかけると、中から申し訳なさそうな顔をした看護師さんが出てきた。
「申し訳ありません。林山さん、面会拒絶しておりまして。」
(ここまで徹底しているのか・・・。)
俺は言葉を失った。だが、ここで引くわけにはいかない。
「では、せめてドアの前まででいいので、案内してください。お願いします。」
人生で経験したことがないくらい、低く頭を下げ、ドアの前までなら、ということで通してもらえたのだった。
「林山 理知太」と書かれた札を見つめる。理知太は一人部屋だった。正直、俺は入院病棟があるくらい大きな病院に来ると、今でも胸がざわつく。しかし、そんなことよりも今は理知太が心配だった。
「理知太・・・。」
思わずそうつぶやいた。ふと、理知太の部屋の違和感に気づいた。中に人がいる気配がまるでないのだ。
(トイレか・・・?いや、一人部屋の場合、多くは全部が備え付けられてるはず・・・。じゃあ・・・。)
ドアを開けるとそこにはもぬけの殻のベッドがあるだけだった。
「理知太!?」
部屋中探しまわるが、どこにもいない。
(どこに行ったんだ、理知太のやつ・・・。)
「俺は高い所が好きなんだ!だから、花火の時も最高の穴場を見つけられたんだよ!」
へへっ!、と笑う理知太が脳裏をよぎった。
(屋上か!)
俺は屋上へと急いだ。窓の外を見ると、雨が降り始めていた。
屋上のドアをバン!と音を立てて開くと、見慣れた後姿があった。ただ、病院の服を着て、松葉づえをついていたところはいつもとは違かったが・・・。俺が屋上へ入ってきても、その背中は微動だにしなかった。
「理知太。」
その声にびくっと背中がはねた。近づこうとすると、今までに聞いたことがないくらい低い声が返ってきた。
「来るな!」
激しい拒絶に、俺は思わず立ち止まる。
「頼むから、来ないで。そうちゃんにはこんな姿見せたくない。」
少しいつもの理知太の声に戻ったが、その声は震えていた。
雨が少しずつ激しくなり始めていた。俺は静かに息を吐いた。
「理知太、風邪ひくぞ。部屋に戻ろう。」
「いい。」
「理知太。」
「このままでいい!」
雨が本格的に俺らを打ち付け始めた。
「なんで、なんで、俺ばっか。どうして俺だけ、こんな目に合うんだ・・・?次の記録会で結果を出せば、代表に選ばれて、実力を、俺の本当の実力をやっと試せるところに行けたのに。俺が結果を出すといつも言われる。天才だからとか、元から生まれ持った能力がどうだとか・・・。だけど、陸上が好きで、走ることが好きでここまでやれたのに。なのに、大事なところでけがして、今までが水の泡になって消えて、大好きな走ることもできない。なんで・・・。こんなにつらいんだったら、もう辞めてやる。陸上なんか始めなければよかった。」
俺は理知太の元へ駆け寄った。松葉づえを持ちながら震える理知太の手を握った。うつむきながら泣く理知太の顔を覗くと、その頬には大粒の涙が伝っていた。
「俺も、おんなじこと思ってた。なんで俺だけって、いつも思ってた。自分なりに必死に頑張っても、模試で結果が出なかったり、周りにどんどん成績が抜かれていったりしたとき。そして、第一志望の大学に浪人しても行けなくて、目標をあきらめないといけなかったとき。」
泣きながら話してくれた理知太を見て思った。いつも明るく元気に見えた理知太だったけど、そうか、こいつもずっと一人で戦っていたんだ、と。
「俺は最終的にあきらめて別の道を進んでここにいるけど、お前は今でもあきらめていないだろう。」
「え・・・」
ようやく顔を上げた理知太と目が合った。
「だって、さっき、”大好きな走ること”って言ったよな。本当に辞めたい人間はそんなこと言わない。それに影口たたかれてもずっと今まで辞めずに走り続けた理知太は本当にすごいやつだ。」
そして、理知太の頭をなでながら言った。
「よくここまで頑張ってきたな。」
きょとんとしていた理知太の目に新たな涙が浮かんだ。
「そうちゃあああん!!」
小さな子どものように泣いてる理知太の頭を思わず、くしゃくしゃなでた。
「それに陸上なんか始めなければよかったなんて、悲しいこと言うなよな!」
「なんで?」
「なんでって、そりゃあ・・・、俺とお前をつなげたのは陸上だろ!?」
我ながら、随分恥ずかしいことを言った。思わず、頬を赤らめると、理知太はあははっといつもの調子で笑った。
「そういえば、そうちゃん、どうしてここが分かったの?」
「え、ああ、陸上部の女子が教えてくれてなあ・・・、理知太のとこ、来るの遅くなったな、ごめん。」
「それもそうだけど!じゃなくて!俺が屋上にいるって!」
「ああ、それは、前に花火大会の時に高い所が好きって言ってたの思い出して。」
その発言で俺は花火大会の日のことを思い出して、今度はゆでだこ並みに頬が赤くなるのを感じた。
「そっかあ・・・、俺、そんなこといったっけ・・・?って、なんでそうちゃんがめちゃくちゃ赤くなってんの!?」
「いや、なんでもない!ほら、部屋戻るぞ!体ふかなきゃ、まじで風邪ひく!」
(今回は俺が少しでも力になれてるといいな。)
そんなことを考えながら、急いで屋上の扉に向かった。雨はもう上がっていた。
季節は流れ、4月を迎えた。あれから理知太はリハビリに励み、無事、今日の記録会で復帰できることになった。そして、俺らが出会ってから、もう1年が経とうとしていた。
俺は理知太の復帰戦ということもあって、久しぶりに競技場に足を運んでいた。スタンドから感じる、フィールドの独特の香りに懐かしさで胸がいっぱいになった。
陸上競技は面白い。何時間見ていても全く飽きず、ついに次の競技が3000m障害となった。
(なんだか見ている方もドキドキするな・・・。)
我ながら本当に柄にもなくそわそわしていると、選手が登場した。すぐに理知太はわかる。オレンジ色のユニフォームをまとい、軽やかに数回ジャンプしている。こうしてみると足の調子も良好そうだ。
「オンユアマーク」
審判の声が響き渡る。競技場内が静寂に包まれる。
パンッ!と、ピストルの音が鳴り、レースが始まった。
理知太は先頭集団に食らいついていった。大声で応援する柄でもないので、黙って観戦する。
(いいぞ、そこから離れるなよ・・・。)
心の中ではめちゃくちゃ応援していたが。理知太の走りを見て、あっと思った。この走り、戦法、確かに見覚えがあった。それは俺が高校2年の総体、これで引退だから、最後に見納めに何か見て帰ろうと思い、観戦したのが5000m走だった。その時に、必死に前に食らいつき、最終的に6位に入賞した選手がとても印象的だった。前へ前へと挑戦していく姿にとてつもなく心をつかまれた記憶がよみがえった。それは、もしかしたら・・・。
(俺らはもうとっくに出会ってたんだな。)
思わず微笑んでしまった。
カランカラン!と、ラスト一周の鐘が鳴り響く。理知太は1位争いをしていた。物凄いデッドヒートが繰り広げられる。復帰戦でこれは・・・とても上出来すぎるな、と感心してしまった。相手が少し前に出て、差が開きそうになる。ラスト200m。リハビリに励んだり、たくさん悩んだりしていた理知太の顔が脳裏を駆け巡り、まぶしすぎるくらいの理知太の笑顔が浮かんだ時、俺は叫んでいた。
「理知太!!いけえええええええ!!!」
聞こえてるわけがないが、その瞬間理知太は相手を抜き、1位でフィニッシュした。
「お疲れさん、いい試合だったよ。」
差し入れのスポーツドリンクのペットボトルを理知太に渡しながら、俺は言った。
「ありがと!なんとか復帰できてよかったよ!」
ユニフォームから着替えて、帰る準備をしながら理知太はへへっと笑った。
「そういえば、ラスト200ですごい聞き覚えのある、熱い声援が聞こえた気がしたんだけど、誰の声かなあ?」
ペットボトルのふたを開けながら、いじわるそうな目をこっちに向けながら理知太は言った。
「さあ、誰でしょうね。」
ちょうど飲んでいたコーヒーを噴出さないようにしながら、明後日の方向を向いて答えた。
「そっかあ。」
そういって理知太は立ち上がった。帰る準備ができたらしい。2人で歩きながら、競技場の最寄り駅へと向かう。
「俺ね、元々は5000mの選手だったんだ。」
理知太がいきなりドキリとするようなことを言った。お前のレース中に考えてたことがばれたような気がして少しびっくりした。
「ある大会で6位とったときだったんだけど、それまで聞こえていた影口をさらに露骨に言われるようになってた時期でさすがに俺もしんどくて、これで陸上はおしまいにしようって思ってたんだよね。」
そこまで思い詰めてた時期があるなんて分からなかった。
「うん。」
俺はただ、相槌を打った。
「でもね、その大会で3000m障害を見たとき、まだ続けたい!って思いなおしたんだよね。そのレースに出てた早河蒼太郎って人の走りがきっかけだったんですけど。」
「うん。・・・えっ!?」
えへへと理知太は笑うと続けた。
「その早河蒼太郎って選手は、まっすぐな走りをしてて、めちゃくちゃにかっこよかったんですよ。すごい真摯に陸上に向き合ってるのが感じられて、一目惚れして、この人のように走りたい!って思ったんだよね!そしたら、影口にも負けず、頑張ろう!って思って、憧れの早河蒼太郎と同じ競技に転向したわけっす!」
理知太はふいに立ち止まると、俺の目をまっすぐに見て言った。
「だから、今の俺がいるのはそうちゃんのおかげだよ。ありがとう、蒼太郎。」
「っ・・・!」
(お礼を言いたいのはこっちのほうなのに。まさか、理知太がそんな風に思ってるなんて知らなかった・・・。)
「お礼を言いたいのは俺の方だ!」
「え?」
「お前に出会えたから、今の俺がいるんだよ。また、前を向いて努力して、新しい夢を追いかけられているんだよ!」
「そうちゃん?」
「俺の中でじいちゃんが死んだ病院への憎しみでしかなかった俺の目標をきれいな新しい夢に変えてくれたのはお前だよ、理知太。お前のおかげで、過去をみつめなおして受け入れることができたんだよ。」
理知太の方をみて今度は俺が言った。
「ありがとう、理知太。」
理知太は驚いた顔で俺の方を見ていたが、いつもの笑顔で
「うん!」
と、応えてくれた。
誰でも忘れたいくらいつらいことや、いつまでも癒えることのない傷を抱えている。それと向き合うのは怖いことだけど、何もずっと1人で戦い続けなくてもいいんだ。
「あ、見て!そうちゃん、こんなとこに桜!」
「お、ほんとだ!あと数日で満開だな。」
桜並木を歩っていると、そこにはいくつか桜の花が咲き始めていた。そして、その桜の木の向こうには澄んだような青空が広がっていた。
春はずっと苦手だったけど、なんだか悪くないような気がした。
「あ、電車の時間やばいかも!そうちゃん、走ろ!」
「え、走るのか?お前、せっかくダウンしたのに。」
「いいから、行くよ!」
理知太が俺の手を引いて走り出した。気持ちの良い春空の下、俺もまた一歩を踏みだした。